3. 各地域の動向

(1) ア ジ ア

(イ) 朝鮮半島

南北関係は朴大統領の対話提案を契機として,2月から3月にかけて3回の南北接触が行われたが,双方の立場の隔たりが大きく,実質的成果を挙げぬまま中断した。その後6月のカーター大統領の訪韓時の米韓両国による三者会談の提案などの動きがあつたが,進展は見られなかつた。また,在韓米地上軍の撤退は北朝鮮の兵力規模について再評価の結果,81年まで凍結されることとなつた。北朝鮮は中ソとのバランス保持に留意しつつ,非同盟諸国との関係強化を目指し,9月非同盟諸国首脳会議で調整ビューロー国のメンバーに選出された。内政面について見ると,韓国では10月26日朴大統領が殺害され,その後崔圭夏総理が第10代大統領に就任し,国民融和に向けての政治発展が課題とされるに至り国内政情は大きな変動要因をはらむこととなつた。北朝鮮では金日成主席の指導体制のもと,「主体思想」を基本理念とする路線に変化は見られなかつた。

(ロ) 東南アジア

(a) ASEAN諸国とビルマ

ASEAN諸国の内政面では,タイで経済問題の悪化を背景にクリアンサック政権からプレム政権(80年3月発足)への交代があつたものの各国ともほぼ平穏に推移した。

一方,外交面ではASEAN諸国は活発な訪問外交を展開し,ASEAN外相会議や国連総会などの場で,カンボディアからの外国軍隊の即時撤退や越からの難民流出抑制を求めるなどインドシナ問題の平和的解決を目指し一体となつて積極的なイニシアティヴをとつたことが注目された。

ビルマは,現在の非同盟運動がその名に値しないとして非同盟会議から脱退した。

(b) インドシナ

カンボディアでは,越の全面的支援を受けたカンボディア救国民族統一戦線の攻勢下に1月プノンペンが陥落し,「カンボディア人民共和国」(ヘン・サムリン政権)の樹立が宣言され,民主カンボディア政府側はゲリラ戦に移行した。同政府側は,主として,カンボディア西部・北部においてゲリラ戦による抵抗を続けており,また,ポル・ポット首相の交代を含む政府改革を行い,反越統一戦線の結成を呼びかけるなど反越抵抗の基盤拡大を図るかたわら,国際的支持の確保に努めており,引き続き国連において代表権を認められている。他方,ヘン・サムリン政権側は,越と平和友好協力条約を締結し,大量の越軍の駐留下で越に全面的に依存しつつ都市部を中心とする支配地域の基盤固めを図つているが,国連総会などでの代表権を得ることはできなかつた。

一方,78年以来悪化の一途を辿つていた中越関係は,中国が対越軍事行動に踏み切るという事態を迎え,撤兵後開かれた次官級会談も進展しなかつた。かかる中越関係の悪化を背景にソ連の対越軍事・経済援助が強化され,ソ連軍艦船・航空機による越軍事施設の使用が開始された。

こうした中で,インドシナ難民問題が大きな政治,社会問題となり国連を中心に各国の救援活動の努力が続けられた。

(ハ) 南西アジア

インドはデサイ内閣,チャランシン連立内閣の総辞職が相次ぎ,その結果議会が解散されるなど国内政情が混迷した。外交面ではヴァジパイ外相の訪中,コスイギンソ連首相の訪印などが見られたものの,国内政情不安のため,非同盟諸国首脳会議での活動も含め概して積極的な外交活動は見られなかつた。パキスタンでは4月にブットー前首相が処刑され,総選挙の無期延期,戒厳体制の強化など軍政が強化された。外交面では李先念中国副総理の訪パ,アガ・シャーヒ外務担当大統領顧問の訪中など中国との関係が緊密に維持された反面,米国の対パ経済援助の停止など対米関係は冷却化した状態で年末を迎えた。

(2) 大 洋 州

豪州ではフレイザー政権がインフレ抑制,財政赤字縮小を主眼とする政策を継続した。ニュー・ジーランドでは,マルドゥーン政権が輸出主導による景気回復,インフレ抑制政策を継続した。豪州とニュー・ジーランドは,対米協調を基軸としてわが国やASEANに対する積極的な外交を展開した。

南太平洋地域では,ギルバート諸島が独立した(79年7月,新国名「キリバス」)。

(3) 中 東

79年から80年にかけての中東情勢は激動のうちに推移した。

まず,イランでは,79年2月パハラヴィ体制が崩壊,権力はイスラム革命を標榜するホメイニ師及びその指名したバザルガン暫定政府に移行した。しかしながら,パハラヴィ前皇帝の米国入国(10月)後,前皇帝の引渡しを要求する学生の米国大使館占拠・人質事件が発生した(11月)のを契機として,バザルガン内閣は総辞職し,国務は革命評議会に引き継がれた。米国は11月及び80年4月,独自にイランに対しいわゆる制裁措置をとる一方,西側の同盟,友好諸国にも同調を要請し各国もそれぞれこれに応えたが,イランは人質問題については追つて発足する国民議会の決定に委ねるとの態度を固持し,人質の早期解放は遠のき,米・イラン関係は一層悪化した。

アフガニスタンでは,79年9月タラキ議長が失脚,アミン首相が実権を掌握したが,12月ソ連の軍事介入によりアミン政権が崩壊(アミンは死亡),カルマル元副首相が革命評議会議長に就任した。新政権はイスラム勢力など国民各層に対する一連の融和策を打ち出したが,叛徒側の抵抗は根強く,アフガニスタン軍の再建の遅れなどもあり,国際的な非難にもかかわらず,ソ連軍の駐留は長期化の様相を呈している。

中東和平問題では,78年9月のキャンプ・デーヴィッド合意を基礎に,米国の調停工作が効を奏し,79年3月エジプト・イスラエル間平和条約が締結された。アラブ諸国は包括的中東和平につながらないとしてこの条約に反対し,対エジプト制裁措置をとつたが,エジプト・イスラエル2国間関係は順調に正常化に向かつた。しかし,ジョルダン川西岸及びガザ地区に関するパレスチナ自治問題については,エジプト・イスラエル・米国間で79年5月に交渉が開始されたが,80年5月の交渉終了目標期限を過ぎても実質的問題について進展がみられなかつた。

このほか,79年には南北イエメン紛争,イラクにおけるクーデター未遂事件,メッカ騒擾事件などが相次ぎ,北アフリカにおいても西サハラ紛争の激化,リビア・チュニジア関係の悪化など情勢の不安定化がみられた。

また,ソ連は南イエメンとも友好協力条約を締結した。

(4) アフリカ

南部アフリカ問題のうちローデシア問題は,英連邦首脳会議での平和的解決案を基礎に英国の主導により開催された制憲会議において,12月平和的解決につき全当事者間で合意が成立した。また,国連安保理は対南ローデシア経済制裁措置の解除決議を採択した。他方,ナミビア問題は国連監視下の自由選挙実施のため当事者間の話合いが続けられ,新たに非武装地帯構想につき一応原則的な合意が成立したものの,依然として最終的な解決の目途は立たなかつた。

(5) 中 南 米

アンデス諸国(ヴェネズエラ,コロンビア,エクアドル,ペルー,ボリヴィア)が民主勢力として政治的結束を強めたことが注目され,また,エクアドル,ボリヴィアでは民政移管が行われた。ブラジルではフィゲイレード新政権が発足した。中米・カリブ地域では,ニカラグァ及びエル・サルヴァドルで民主化を目指しての政変があり,グレナダなどでも政変があつた。米国・パナマ間の新条約の発効に伴い,パナマ運河が返還された(10月1日)。

キューバはソ連との緊密な関係を維持しつつ,非同盟諸国首脳会議の開催,カストロ首相の国連総会出席,訪墨など,積極的な外交を展開した。

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