2. 米中ソ3国及び西欧諸国の動向
(1) 対外関係
(イ) 米 国
最近の米国外交は,79年11月のイランにおける人質問題及びソ連のアフガニスタンヘの軍事介入を契機に,主としてこれらの問題への対応を通じ対中東・湾岸及び対ソ政策の見直し,同盟国,友邦との連帯強化に特徴づけられることになつた。79年を振り返るに,アジアにおいては,引き続きわが国との関係をそのアジア政策の中心に据えるとともに,年初には中国との国交正常化を果たし実務関係を進展させており,対韓政策については,朴大統領死去後も対韓防衛政策に変更のないことを確認している。
中東和平問題については,3月にカーター大統領自らエジプト,イスラエルを歴訪するなど,キャンプ・デーヴィッド合意以来の和平実現のための努力を続けている。また,在イラン米国大使館占拠・人質事件は,米国・イラン間の国交断絶をも招くに至つており,ソ連によるアフガニスタンヘの軍事介入も,湾岸地域の情勢を一層緊迫化させ,カーター大統領は湾岸地域を力で支配しようとする勢力はこれをいかなる手段によつてでも排除するとの強い姿勢を打ち出した。
対ソ関係では,米ソ首脳会談(6月)で懸案のSALTII条約の署名が行われ,夏に表面化したソ連地上戦闘部隊のキューバ駐留問題も話合いにより現実的な解決が図られたが,上記ソ連のアフガニスタンヘの軍事介入が起きたことから,米国はかかる侵略が続く限りソ連と通常の関係を継続できないとの強い態度を示し,上院のSALTII批准のための審議も延期され,ソ連との関係は大きな後退を余儀なくされた。また,これと同時に,同盟国及び友邦との連帯をより一層重視する姿勢を強く打ち出している。なお,主要国首脳会議に先立つてカーター大統領はわが国を訪問した。
(ロ) ソ連・東欧
78年来ソ連をとりまく国際環境は特に米・中・西欧との関係においてソ連が守勢に立たされる局面がみられていた。79年に入りソ連はSALTII条約署名(6月),東独駐留ソ連軍一部撤収表明(10月)など引き続き「緊張緩和路線」にそつた対応を示した。他方,中越関係の一層の悪化を背景に,ソ連はヴィエトナムを全面的に支援し,インドシナにおけるプレゼンスを強化した。その後,NATOの戦域核近代化計画決定や米・イラン関係が深刻化を増す中で,ソ連は年末アフガニスタンヘの軍事介入を行つた。この介入は西側諸国に強い不信感を与え,緊張緩和を基調とする東西関係を破壊するものとして強い国際非難と対抗措置を招くに至つた。
かかる情勢展開の中で,東欧諸国は特にアフガニスタンのカルマル政権成立に関する対応に微妙な差異をみせ,また,主としてソ連にエネルギー面で依存しているだけに,石油危機のインパクトもこれら諸国にとつては深刻である。しかし,ソ連との結束はルーマニアを別として基本的には維持されており,ポーランドなども,欧州軍縮会議,あるいは欧州共産党会議の実現に努力するなど,ソ連の「平和攻勢」に協力している。
(ハ) 中 国
中国は「覇権主義反対」,「平和5原則」を外交基本方針としつつ,「現代化建設」実現のため米国,西欧,日本など西側諸国との関係強化に努力を傾注し,1月米中国交正常化を実現したほか,10月には華総理が仏,西独,英,伊を公式訪問するなど活発な対外活動を展開した。ソ連との関係では,4月中ソ同盟条約不延長の対ソ通告を行う一方,両国関係改善交渉を提案した。また,2月かねて関係が悪化していた越に対して「限定的な自衛反撃」を加えるとして軍事行動に踏み切つた。
(ニ) 西 欧
欧州議会直接選挙,欧州通貨制度の発足,ギリシャのEC加盟調印など欧州統合運動の進展のほか,年初のグアドループ4カ国首脳会議など米国との立場の調整・協力も推進された。他方,欧州の安全保障の面では,NATOの戦域核近代化をめぐる動きが中心となつた。これらの動きに対し,ソ連は中距離ミサイルの数量抑制を含むブレジネフ書記長の軍備削減提案などによつて対応したが,NATO諸国はソ連の攻勢を冷静に受けとめ,12月には同近代化計画を決定するとともに,長距離戦域核制限交渉を米ソ間で行うとの方針を確認した。
(2) 国内情勢
(イ) 米 国
インフレの高進(79年消費者物価上昇率13%),イラン革命など内外の困難な諸情勢を背景に,国民の不満と焦燥感が高まり,大統領の指導力が繰り返し問われた。このような状況の中でカーター大統領の再選が疑問視されたが,在イラン米国大使館占拠・人質事件,ソ連のアフガニスタンヘの軍事介入問題をめぐつて,世論は大統領のもとに結集し,これはカーター大統領が80年大統領選挙の序盤戦で圧倒的優位に立つ原動力となつた。他方,経済困難については,カーター政権は緊縮財政,金融引締めを行い,また短・長期のエネルギー対策を発表して鎮静化に努めた。
(ロ) ソ連・東欧
ブレジネフ書記長の度重なる病気・休養,コスイギン首相の急病など,党指導部の老齢化が一層進んだ。経済面では,穀物生産の不調をはじめ,経済計画目標もほとんど未達成で経済不振が明らかとなつた。しかし,政治局内においては更にブレジネフ色が強まり,同政権が動揺していることを示す表立つた動きはみられなかつた。
他方,東欧諸国については,数年来の経済停滞の傾向は本年もみられたが,各国情勢は比較的平穏に推移した。
(ハ) 中 国
中国内政は79年を通じ,「安定団結」を図りつつ「現代化建設」を推進するとの基本路線を中心に推移し,6月の第5期全国人民代表大会第2回会議ではかかる路線を具体的政策として定着させる努力が払われた。また,大衆の「自由化」,「民主化」を求める動きも顕著に見られたが,中国指導部は行過ぎを引き締める一連の政策を打ち出し,思想教育を強化した。経済面では79年は経済調整の第1年目であつたが,農業,工業ともに一応の成果を収めた模様である。80年2月,中国共産党は「五中全会」を開催し,長らくの懸案であつた劉少奇の名誉回復に決着をつけ,高級人事の再編成などを行い,「現代化」建設に向け新たな指導体制を確立した。
(ニ) 西 欧
全体として平穏に推移し,初の欧州議会直接選挙(6月)が行われたほか,11カ国で総選挙が行われ,英国などでは政権が交代した。ユーロコミュニズムの動きも低調であつた。緩慢な景気回復をみせていた経済は年央より回復傾向がにぶり,西独と英,伊とのインフレ格差が顕著となつた。