-中近東地域-

第7節 中近東地域

1. 中近東地域の内外情勢

(1) 中東和平をめぐる動き

(イ) キャンプ・デーヴィッド合意に至る動き

77年11月のサダト エジプト大統領のイスラエル訪問を契機として,エジプト・イスラエル間の直接交渉が始まり,12月のベギン イスラエル首相のエジプト訪問,1978年1月の両国間政治・軍事委員会の開催などを通じ,両国間で和平交渉が進められた。しかしながら中東問題の核心たるパレスチナ問題,占領地からのイスラエルの撤退問題などにつき双方の立場に歩み寄りがみられず,同年1月交渉は中断された。その後交渉再開のため米国による調停工作が継続されたが,上記の意見の相違は調整されなかつた。その後,米国の提唱により7月に米・イスラエル・エジプト3国外相会議が開催され,続いて9月にキャンプ・デーヴィッドで行われた3国首脳会談で「中東和平の枠組」及び「エジプト・イスラエル間の平和条約締結のための枠組」の2文書が採択された。この会談においては,カーター大統領の積極的努力及び13日間にわたる首脳会談としては異例の長さの折衝の結果,(イ)3ヵ月以内にエジプト・イスラエル間平和条約締結をめざすこと,また,(ロ)西岸・ガザ両地区の取扱い及びパレスチナ問題に関する交渉の枠組みにつき合意が成立するに至つた。

他方,11月2日より5日までエジプトを除くアラブ20カ国及びPLOの参加の下にバグダッドで開催されたアラブ首脳会議では,キャンプ・デーヴィッド合意を包括的な和平達成の基礎とみなしえないとして,これに反対する旨の宣言を採択するとともに,対エジプト制裁措置などにつき討議を行つた。

(ロ) キャンプ・デーヴィッド合意以後の動き

キャンプ・デーヴィッド合意に基づくエジプト・イスラエル間平和条約交渉は,(a)平和条約と包括的和平との関連付け,(b)平和条約による義務とエジプトが他のアラブ諸国との条約により負つている義務との優先順位,(c)シナイ半島からのイスラエル撤退後の安全保障取極の再検討,などの諸点をめぐる両国間の対立のため,同条約の締結期限の78年12月17日までに妥結に至らなかつた。その後,ブラッセルでの3国閣僚レベル会談の開催(12月),アサトン米国特使の往復外交(79年1月),ワシントンでの3国閣僚レベル交渉(2月)など米国を中心とする交渉妥結への動きが活発化したが,目にみえた成果はもたらされなかつた。

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(2) 湾岸情勢

中東湾岸各国は,78年も引き続き,国内体制の整備,国内経済社会開発の推進に努めたが,78年4月のアフガニスタンのクーデター,同6月の北イエメン大統領暗殺事件と南イエメンにおける政変,さらにはイランの情勢変化もあり,各国とも同地域における事態の変化に対する対応に真剣に取組んだ。すなわち対内的には,国内の治安を維持するため各国において程度の相違はあるもイスラム教の戒律適用を厳しくするとともに,外国人出入国規制を強化するなどの措置がとられた。さらに経済面においても,インフレなど急速な開発計画が及ぼす弊害を避けるとともに,一般的にはインフラストラクチャーの充実,民生安定を重視した経済政策が遂行された。

また対外的には,域内各国の関係緊密化の動きがみられ,特にクウェイトのサアド首相は,12月にサウディ・アラビア,バハレーン,カタル,アラブ首長国連邦及びオマーンを訪問し,イラン情勢を踏まえた湾岸諸国間の協力強化について話し合つたといわれる。さらにイラクは隣国シリアとの統合への話し合いを積極的に推進するとともに,サウディ・アラビアなど周辺諸国との関係修復に努めた。こうした中で79年2月下旬に起こった南北イエメン紛争では湾岸諸国は共同歩調をとり,特にクウェイトをはじめイラク,シリアなどが積極的な仲介努力を行つた結果,両イエメン間の停戦と兵力引離しが実現するに至つた。

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(3) 各国の情勢

(イ) エジプト

(a) 78年のエジプトの内外政策は,サダト大統領の歴史的なイスラエル訪問(77年11月)に端を発した中東和平交渉及びこれと密接に関連した臨戦態勢から平和態勢への移行をめざす国内再編成を如何に円滑に実現していくかを最大の課題として推し進められた。

(b) 国内経済面では,オープン・ドア・ポリシーがもたらした弊害の是正に努めるとともに,政治面では,サダト大統領は7月に与党エジプト社会党を解散し,国民民主党を発足させるとともに,キャンプ・デービッド首脳会談後の10月には,ハリール首相を中核とする新内閣を発足させた。

(c) エジプトは77年12月,イスラエルとの直接交渉に反対するリビア,アルジェリア,シリア,イラク,南イエメンのいわゆるアラブ急進派諸国との外交関係を断絶したが,これら諸国との関係は改善をみていない。他方,イスラエルとの和平交渉はキャンプ・デーヴィット首脳会談を契機に,平和条約締結に向けて更に努力が続けられた。

(ロ) シ リ ア

(a) アサド大統領は2月に再選され,国民の信任を得ているものの,綱紀粛正問題やインフレによる国内経済の悪化など困難をかかえている。

(b) シリアは,9月のキャンプ・デーヴィッド合意に反対するため,11月のバグダッド・アラブ首脳会議に参加し,反サダト陣営形成のため,引き続き中心的役割を演じた。かかる状況の中で,シリア,イラク関係は改善の兆しをみせ,10月末アサド・シリア大統領はイラクを訪問し,その際両国は,民族行動憲章に調印し,両国間関係の調整及び統合を図ることに合意をみた。ついで79年1月末サダム・フセイン イラク革命評議会副議長はシリアを訪問し,両国間の石油パイプ・ラインの再開,イラクのシリアに対する石油供給などにつき合意をみるとともに,両国家及び両国バアス党の統合を実現するための方策につき更に検討を重ねた。レバノン問題については,10月のアラブ関係外相会議の決定により,シリア軍のレバノン駐留継続がエンドースされたものの,同軍とキリスト教徒右派民兵との不和は依然として解決していない。

(ハ) ジョルダン

(a) 内政面では,74年以来停止されていた議会活動が再開し,懸案であったインフレも鎮静化に向かうなど,比較的安定した年であつた。

(b) 中東問題については,米国及びエジプトからの和平交渉への参加招請にもかかわらず,これに応えず,キャンプ・デーヴィッド合意に対し支持表明を行わなかつた。同国のこのような態度は,むしろアラブ世界におけるその立場を強化し,11月のバグダッド・アラブ首脳会談において湾岸諸国による15億ドルの財政援助の約束,シリア,イラク,PLOなどとの関係強化をもたらした。

(ニ) レバノン

(a) 内政面では前年と同様,治安問題,国民和解問題,正規軍の再建,南レバノン問題などの解決がほとんどみられず,(i)3月のイスラエル軍の南レバノン侵攻とその後の国連暫定軍の駐留,(ii)7月以降のシリア軍とキリスト教徒右派民兵間の武力衝突の頻発,(iii)10月のアラブ関係諸国外相会議の開催を経て,一応事態の収拾をみたものの,依然として国内情勢の不安定が続いた。

(b) 上記の政情不安の続行,更には7月以降のベイルート港の閉鎖により,経済復興もはかばかしい進展をみせていない。

(ホ) リ ビ ア

(a) 内政面では,「賃金労働の廃止・パートナーシップによる経営」のスローガンを掲げ,いわゆる直接民主主義の基盤強化をめざし,また国民所得は約11%の伸びを示し,76年から進めてきた開発5カ年計画も順調に推移した。

(b) 外交面では,中東問題に関し,従来どおり強硬路線を維持したほか,8月には中国と国交を樹立した。

(c) わが国との関係は,貿易及び技術協力面で順調に進展してきており,8月には全国人民議会事務局メンバーが非公式に来日した。

(ヘ) スーダン

(a) ニメイリ政権は,77年に引き続き反対勢力との和解(政治犯に対する恩赦令など)を図り,国内体制の強化に努力した。77年7月から実施中の新6ヵ年経済開発計画は資金不足のためはかばかしい進捗がみられなかつた。

(b) 外交面では,リビアを含む周辺諸国との関係改善,第15回OAU首脳会議の開催,チャド紛争の調停など,積極的な外交活動を展開し,一応の成果をあげた。

(ト) アルジェリア

(a) 内政面では,12月末ブーメディエヌ大統領が死去し,79年2月,シャドリ大佐(国防大臣代行)が新大統領に選出された。

(b) 外交面では1月末からアルジェで強硬派諸国による首脳会議を開催したほか,9月下旬からのダマスカス首脳会議,11月上旬からのバグダッド首脳会議に参加し,一貫してエジプト・イスラエル間平和条約交渉に反対の態度を示した。他方,ソ連との関係は一層強化され,ブーメディエンヌ大統領は1月及び10月と2度ソ連を訪問した。

(c) 経済面では,農業生産性の伸びが停滞し,食糧輸入が増加したこと,失業問題が更に深刻化したこと,対仏貿易収支が悪化したため,年頭にフランス製品の全面的輸入禁止令を出したことなどが注目される。

(チ) モロッコ

(a) 内政面では,77年再開された国会の活動の円滑化が注目されるほかは特に際立つた動きはなかつた。

(b) 経済面では,財政難のため5ヵ年開発計画が変更され,3ヵ年開発計画に縮小された。

(c) 西サハラ問題では,特に進展はみられず,同問題をめぐり外交関係を断絶している隣国アルジェリアとの関係は改善をみていない。他方,米国との間では11月,ハッサン国王の訪米が実現し,両国間関係の強化が図られた。

(リ) テュニジア

(a) 内政面では,1月テュニスにおける政府の経済政策などに抗議したゼネストが暴動化し,多数の死傷者を出した。政府はのちにこのゼネストの直接の責任者であるUGTT(労働総同盟)アシュール書記長の処罰,国家公務員などの賃金引上げなど一連の施策を実行し,ヌイラ内閣はこの危機を乗り切つた。

(b) 外交面では,キャンプ・デーヴィッド合意に関し,アラブ穏健派及び急進派の対立緩和に努力した。

(c) 経済面では,不完全雇用,国内の経済格差などの問題は依然あるものの,比較的順調に経済成長を遂げている。

(ヌ) ト ル コ

(a) 1月に発足したエジェビット内閣は,国内治安の回復と経済再建のため努力を重ねたが,かかる努力にもかかわらず国内治安は悪化の一途を辿り,12月末には100名以上の死者を出したカフラマンマラシュ(トルコ東南部の都市)事件を契機としてアンカラ,イスタンブルなど13県に戒厳令が布告された。また経済再建のため,一連の経済安定政策を発表して国民の理解と協力を訴えるとともに,OECD諸国や国際機関などに対して債務救済または新規援助の要請を行つたが,十分な成果をあげるには至らなかつた。

(b) 外交面では,エジェビット首相自ら活発に諸外国を訪問して積極的な外交活動を展開した結果,米国の対トルコ武器禁輸措置が3年7ヵ月ぶりに解除されるなど懸案の対米関係が改善されたほか,対ギリシャ関係でもトルコの主唱で両国首脳会談が開催され,更に両国間で外務次官会談を継続的に行うことで合意に達するなど,かなりの成果をあげた。

(ル) イスラエル

(a) 78年,独立30周年を迎えたイスラエルの内政は殆んど目立つた動きがなかつた。9月のキャンプ・デービッド合意後,シナイ半島からの撤退問題をめぐつて与野党内に入植地撤去反対派が台頭したものの,ベギン首相の強力な指導力の前に少数派にとどまつた。

(b) 外交面では,1月にジェルサレムで開催された政治委員会が失敗に終つた後,エジプト・イスラエル間の平和条約交渉は紆余曲折を経たが,キャンプ・デーヴィッド合意を契機に条約締結への努力が続けられた。また,軍事面では3月にイスラエル国防軍がレバノン南部を侵攻した。

(c) 経済面では,インフレが昂進するとともに経常収支の悪化が深刻化し,国民生活を圧迫した。

(ヲ) アフガニスタン

(a) 78年4月,クーデターが発生しダウド政権に変り,タラキ首相兼革命評議会議長を首班とする新政権が成立した。新政権は内政面において封建制の打破,土地改革の実施,民主主義の確立などの基本政策を公にし,また,外交の基本政策として非同盟中立,近隣諸国との友好関係の維持を明らかにした。その後,同政権は一連の人事面での施策を通じて党内の基盤固めを一応完了したとみられる。しかし,地方においてはイスラム伝統勢力を中心とする反政府の動きがみられ,今後の動きが注目される。

(b) 外交面においては,12月に,タラキ首相がソ連を公式訪問し,その際両国間に友好,善隣,協力条約が締結され,ソ連との関係の一層の緊密化が見られた。また,近隣諸国とは大方従来どおりの関係を維持してきた。

(c) 経済・社会面においては11月に土地改革に関する布告が出され,その一部が実施に移された。

(ワ) イ ラ ン

(a) 78年のイランの国内情勢は,激動の中で推移した。

年初頃より始まつた宗教界に指導されたイスラム教徒の反政府運動は,時とともに各地にひろがりをみせ,また政治・社会の民主化を求める勢力,左翼勢力をも巻き込み,しだいに反皇帝運動に発展していつた。この間,アムゼガール内閣は8月に退陣し,シャリーフ・エマーミー上院議長,次いで11月にはアズハリ軍総参謀長を首班とする内閣が成立したが,いずれも短命に終わつた。79年1月には,バクティヤール内閣が成立し,皇帝の出国と反対勢力の象徴であり,パリに亡命中であつたホメイニ師の帰国が実現した。しかし2月に発生した武力衝突を契機に同内閣は崩壊し,ホメイニ師に指名されたバザルガン政権が権力を掌握した。

(b) 外交面では78年前半は皇帝による各国訪問及び各国首脳の来訪が相次いだが,反政府運動が高まりをみせた78年秋以降活発な外交を展開する余裕を失い,焦点は内政に移つた。

(c) 経済面では,78年3月にスタートを予定されていた第6次5ヵ年計画は政情不安による政権交替が相次いだため,その基本方針を確定しえず,ついに最終決定をみることがなかつた。

イラン経済の中心である石油輸出は,反政府運動の有効な手段として石油産業労働者によるストライキが行われたため,10月末から減少に向かい一時回復を示したものの12月末に至り完全にストップした。

(カ) イ ラ ク

(a) 内政面では,5月に相当数の共産党員が軍内部において政治活動を行つたことを理由に処刑されたもののソ連との関係を損うこともなく,バース党体制は安定的に推移した。また,クルド族に対しては宥和政策をもつて臨んでおり,他方,文盲撲滅など人的資源の開発・質的向上にも取り組んでいる。

(b) 外交面では,2月に独自にアラブ強硬解放戦線憲章草案を発表し,中東和平問題に関する立場を改めて明らかにしたが,10月にはキャンプ・デーヴィッド会談合意に反対してアラブ首脳会議などを提唱する決議を発表した。その後,右会議開催のため重要閣僚をアラブ各国に派遣するなど積極的な根回しを展開し,その結果アラブ首脳会議は11月にバグダッドにおいて開催された。イラクは,このようなイニシアティヴのほか,サウディ・アラビアなど湾岸諸国との関係修復にも努めており,アラブ世界において積極的な外交活動を展開している。

(c) 経済面ではインフラ拡充,民生安定に重点を置き地道な運営がなされた。

(ヨ) サウディ・アラビア

(a) 内政面では前年に引き続き安定的に推移した。なお,ハーリド国王は10月に米国で心臓手術を行つたが,順調な回復により11月末には平常どおり国事に当つている。

(b) 外交面では1月のカーター米国大統領の来訪を皮切りに外国首脳ほか要人が頻繁に同国を訪問した。他方,5月にはハーリド国王がフランス及びベルギーを,またファハド皇太子が西独をそれぞれ公式訪問するなど活発な外交を展開した。中東和平問題では,キャンプ・デーヴィッド会談の結果については中東和平の受諾し得るフォーミュラとは看做し得ないとの立場を表明した。

(c) 経済面ではインフレ抑制,インフラ部門の整備などを図つており一般国民生活は改善,安定の方向に向かつている。石油生産は国際的供給過剰と需要の伸び悩みから78年平均では830万B/D程度に低迷したが,10月以降イランの大幅減産を補うため1,000万B/Dを超える生産を行つた。

(タ) クウェイト

(a) 78年を通じジャービル新首長の下における新体制が確立されたが,その基本路線は77年末急逝したサバーハ前首長のそれを踏襲したもので,内外の基本政策において特に変化は認められなかつた。しかし,78年後半のイラン情勢の影響を受けて一連の国内治安強化策が実施されるとともに,義務兵役制の実施及び行政改革委員会の設置など注目すべき動きも見られた。

(b) イランの政情不安にも関連して,12月サアド首相が湾岸諸国を歴訪し湾岸諸国の結束・協力につき話し合つたが,その後,湾岸外交がクウェイト外交の重要な柱となりつつある。

(c) 経済面では,不況の77年に比し景気は若干持ち直したものの,78/79年予算が新規プロジェクト皆無という抑制型であつたこともあり,大きく上向きに転ずることもなく,78年は経済活動を調整する年となつた。

(レ) アラブ首長国連邦

(a) 1月の連邦軍総司令官任命をめぐってアブダビとドバイの対立が表面化したこともあり,78年においても連邦体制強化面において大きな成果はなかつた。しかし,10月の閣議による義務兵役法案の承認は,注目すべき出来事であつた。

(b) ラッセルハイマ沖合をめぐるオマーンとの国境問題に関連して,78年初,同沖合へのオマーン海軍警備艇の出没なども伝えられたが,事態はそれ以上発展することなく平穏に推移した。

(c) 77年5月の銀行危機以来実施されている,一種の金融引締め政策が78年においても引き続き実施されるとともに,連邦予算も前年比20%減の緊縮財政となつたこともあり,景気は引き続き停滞したがインフレ率は減少した。また,石油生産は前年比8%減の185万B/Dとなり,石油生産以来初めての減産となつた。

(ソ) オマーン

(a) 内政面では,6月南部でドファール解放戦線によるとみられる英人技師殺害事件が発生したが,その後の情勢は平穏に推移した。また,6月に内閣の一部改造が行われた。

(b) 外交面では,5月に中国と外交関係を樹立し注目された。

(c) 経済面では,インフレを回避すべく,公共投資の削減を中心にした財政規模の縮小が行われた。原油生産は引き続き減少傾向を見せている。現在進行中の大型プロジェクトとして南部石油開発,北部銅製錬がある。

(ツ) カ タ ル

(a) 内政面では,外務担当国務相及び文部相の任命,並びに各省の次官制度導入など行政機構の近代化と拡充計画が実施に移された。

(b) 経済面では,73年のオイル・ショック以降カタルが実施してきた工業化計画の具体的成果があらわれ,78年中に製鉄,化学肥料,セメントなどの生産が軌道に乗り,カタル経済の将来に明るい希望を与えた。また,78年中に実施されたインフレ抑制策も効果を示し,国内経済も安定化の方向に向かつている。

(ネ) バハレーン

(a) 78年の内政は概ね平穏に推移した。

(b) 外交面では,湾岸諸国との善隣友好の維持という基本路線に変更はみられなかつた。6月のシンガポール首相来訪が注目された。

(c) 経済面では,中東のビジネスセンターたる地位確立を目ざして,国際展示場の建設,国際通信施設の整備拡張が行われ,一方,オフショア資金市場にも順調な発展がみられた。また,ガス田開発計画が推進されている。

(ナ) 北イエメン(イエメン・アラブ共和国)

(a) 内政面では6月にガシュミ大統領が暗殺され,7月にサーレハ新大統領が就任した。新政権は,部族勢力との協調により体制固めを図るとともに反政府運動に対しては武力をもつて対処した。

(b) 外交面では,サウディ・アラビアとの緊密な関係が維持され,西側諸国との関係も強化しつつあるが,中立主義の立場から東側諸国との友好関係も維持している。対南イエメン関係ではガシュミ大統領暗殺に際して同国との外交関係を断絶した。

(c) 経済面では第1次5ヵ年計画に基づき意欲的な社会経済開発を進めているが,大統領暗殺事件などによる混乱を反映し国内経済は沈滞化の傾向を示し始めたので,政府は全国に協同組合組織を敷き,これを単位とした開発にも努めている。

(ラ) 南イエメン(イエメン民主人民共和国)

(a) 南イエメンでは6月にルバイ・アリ大統領が追放,処刑され,イスマイル書記長が実権を握つた。12月には第1回最高人民議会選挙が行われ,同議会開催に続き新たに設置された最高人民議会常任幹部会議長にイスマイル書記長が就任し,名実ともに同国の第1人者となり,政情は安定に向いつつある。

(b) 外交面では,ソ連はじめ東欧諸国との関係が深く,6月の政変以降アラブ穏健派産油国との関係が冷却化したが,その後,79年1月から2月にかけてイスマイル議長がアラブ諸国を訪問するなど関係改善が図られた。

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2. わが国と中近東諸国との関係

78年1月13日より20日まで園田外務大臣はイラン,クウェイト,アラブ首長国連邦及びサウディ・アラビアを訪問した。これに続き9月5日より12日まで福田総理大臣(当時)はイラン,カタル,アラブ首長国連邦及びサウディ・アラビアを訪問した。これはわが国総理として初めての中東訪問であり,いずれの訪問先においても,わが国の中近東に対する友好の表われとして熱意をもつて歓迎された。総理とこれら諸国の首脳との会談の内容は多岐にわたつたが,2国間の問題にとどまらず,中東問題を含む国際政治情勢,石油問題を含む国際経済情勢などについても意見を交換し,更に経済技術協力などを通じ,これら諸国の経済社会開発にわが国が一層積極的に協力するとともに,相互理解を促進するために,文化,学術,科学などの分野における交流を強化,拡大することで意見の一致をみた。またいずれの国も近年わが国との関係が多岐の分野にわたり一層緊密化していることに満足の意を表明し,福田総理大臣(当時)の訪問が首脳間の個人的接触を通じ,相互理解及び友好協力を増進する上で極めて有意義であつたとして,これを評価した。

 <要人往来>

 <貿 易>

 <民間投資>

 (単位:百万ドル)

(日銀許可額ベース)

(注) サウディ・アラビア・クウェイ中立地帯に対する投資は1/2ずつサウディ・アラビア,クウェイトに加算した。

 <経済協力(政府開発援助)>

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