-1978年の世界の主要な動き-
第1部
総 説
第1章 1978年の世界の主要な動き
78年においては,日中平和友好条約締結,米中国交正常化合意達成,米・エジプト・イスラエル3カ国間での中東和平の基本的枠組及びエジプト・イスラエル間の平和条約の枠組に関する合意,さらに米ソ間の戦略兵器制限交渉(SALT)の進展など注目すべき動きがみられた。
しかし,他方では中ソ対立を背景とする越・カンボディア間及び中越間の対立の激化,宗教勢力による反政府運動の高まりの中でのイラン国内情勢の急速な不安定化など国際情勢の不安定化をもたらすような動きもみられた。
国際経済関係では,主要先進国間の協調体制は維持され,全体として,かなりの明るさを取り戻したが,国によつては高水準の失業,根強いインフレ圧力など解決すべき問題を残している。またイラン情勢を背景として表面化してきた石油事情の悪化による影響が懸念されるに至つた。
米,西欧,日本を中心とする先進諸国間の関係は,概して協調協力関係が維持され,着実な進展がみられた。米ソ間では,「競争と協調」の基本的関係が維持されたが,SALT-IIの妥結は79年に持ち越された。米中間では,人的交流や経済・技術分野での交流が活発化し,12月には国交正常化の合意が成立した。中ソ間では,中国の活発な「反覇権主義」外交や,中越,越・カンボディア関係の険悪化,ソ越友好協力条約の締結などにより国際舞台での対立関係は従来より激しくなったが,2国間関係については,従来以上に険悪化することもなく,他方,大きく改善される兆候もみられなかつた。
2年目を迎えたカーター政権は,パナマ運河新条約批准にみられるような対議会関係で1年目と比較してその立場の改善がみられた。内政面では,行政改革,エネルギー法,財政の均衡化努力,減税などにおいて実績を挙げた。他方米国経済は根強い拡大基調を続け失業率も好転したが,インフレは年率10%にも達し,カーター政権はその克服のため総合的インフレ対策を発表し,またドルの信認回復のための基礎的条件改善の努力を行うとともに,総合的なドル防衛策を打ち出した。なお,11月の中間選挙では,民主党の圧倒的優位は揺るがなかつたが,米国民の「保守化」傾向が示され,80年大統領選挙との関連で注目された。
(a) ソ 連
党指導部におけるブレジネフ書記長色が更に強まつたほか,77年の新憲法制定に伴う国内法整備が図られた。また社会面ではオルロフなどの有力な反体制活動家の裁判が行われた。経済は,穀物が史上最高の豊作だつたほかは,労働生産性が計画未達成に終るなど77年同様概ね不調に終つた。
(b) 東 欧
各国とも引き続き深刻な経済不振に悩みながらも,各国政権は安定を保ち,また社会情勢も概ね平穏裡に推移した。
華国鋒・トウ小平指導体制は次第に「安定団結」の基礎を強化し,2月の第5期全国人民代表大会では,意欲的な「4つの現代化」政策を推進するための諸般の具体的措置を講じた。その後,「実践こそが真理を検証する唯一の基準である」とのキャンペーンの推進,実務派復活幹部を活用する人事面の調整,天安門事件を「革命的である」と再評価するなどの動きがみられ,また経済はその後の経済調整の必要性を内包しつつも回復要因も手伝つて概して好調に推移し,内政各方面における文革の混乱に基づく後退の回復にかなりの成果がみられた。かかる経緯をふまえて,78年から施策の重点を,近代化を目指す建設に移すことを決定するとともに,民主化の推進,法律制度の整備,経済計画などの諸施策を強化する方針が打ち出された。
全般的に経済活動に著しい回復がみられず,多くの国が低成長と高い失業率に'悩んだ。一部の国においては,かかる経済状況に与野党の伯仲状況があいまつて政治・社会面で不安定な動き(イタリアにおける極左テロ・グループによるモーロキリスト教民主党総裁の誘拐殺害事件等)がみられた。この間にあつて,より安定した政権,経済の安定,雇用の促進を求める国民の願望が強まり,仏国民議会選挙(3月)において,与党派が過半数議席を得て左翼連合を抑えた例にみられるように,政党支持傾向が右に振れ戻り,従来の左翼勢力上昇傾向に歯止めをかける現象が現われた。
カーター政権は引き続き広範な外交努力を積極的に展開するとの外交姿勢を維持し,パナマ運河新条約批准,対中東武器供与,対トルコ武器禁輸解除を実現し,エジプト・イスラエル間の和平実現のための調停活動を続けた。対ソ関係では,戦略兵器制限交渉(SALT)など軍縮分野で実務的な交渉努力を続け,対中関係では,懸案の国交正常化の合意を達成した。また,カーター大統領の欧州訪問,北大西洋条約機構(NATO)首脳会議開催などにみられるように主要同盟国を重視する外交が強調され,他方モンデール副大統領の東南アジア諸国連合(ASEAN)3カ国訪問,米・ASEAN閣僚協議などで示されたようにアジア重視の姿勢にも変化のないことが示された。
(a) ソ 連
中国の主に西側諸国に対する外交活動の積極化,米国主導の中東和平工作の進展などによつてソ連としては守勢に立たされた局面もみられた。しかし,ソ連は中国,西側諸国の動きを警戒,牽制しつつ,ヴィエトナム,アフガニスタンなどへの影響力の強化,ASEAN諸国への働きかけの活発化などの動きをみせた。
(b) 東 欧
ルーマニア,ユーゴースラヴィアの自主独立外交の展開が注目されたほか,アルバニアの対中国関係は決定的に冷却化した。
中国は「平和5原則」に基づき幅広く各国との関係強化に努めるとともに覇権主義に反対するとの立場を堅持した。また,77年来進められてきた内政の安定化,外交機能の整備などを背景として「4つの現代化」実現のため,特に,米国,日本など西側諸国との関係強化をはかつたほか,華首相,トウ副首相はじめ中国首脳による外国訪問が建国以来の規模で行われるなどその活発な対外活動が注目された。
米国と北大西洋条約機構(NATO)諸国との間では中性子爆弾の生産配備問題や経済,通貨政策をめぐり見解の調整を要する局面がみられた。これらの問題は2国間ならびに,5月のNATO首脳会議,7月のボンにおける主要国首脳会議などのマルティの場においても調整がはかられた。
ソ連との関係では,ブレジネフ ソ連共産党書記長の西独訪問(5月)があり,ソ連が西独との関係及び西欧との緊張緩和を重視しているものとして注目された。
南北関係は膠着状態のまま推移し,対話再開への動きはみられなかつた。
米韓関係では,米議会工作事件の影響で,両国間の関係は円滑を欠く気味があつたが,双方の外交努力もあつて年末頃には徐々に落ち着きを取りもどすに至つた。また,在韓米地上軍の撤退は計画の一部を修正して実施が開始され,撤退に伴う補完措置法案も米議会で承認された。
北朝鮮については,華国鋒主席(5月)及びトウ小平副主席(9月)の訪問など,中国の積極的な働きかけが注目された。
内政面についてみると,韓国では,5月の統一主体国民会議代議員選挙,7月の大統領選挙,12月の国会議員選挙など,国内政情は選挙絡みで展開し,年末の大統領就任式をもつて第2期維新体制がスタートした。また,GNP成長率12.5%,輸出総額目標125億ドルを達成する成果を収めた。他方,北朝鮮では,金日成主席の指導体制の下での基本路線には変化が窺われず,経済の建て直しについては,78年より第2次7カ年計画が開始された。
(a) ASEAN諸国とビルマ
内政面では,フィリピンの暫定立法議会議員選挙,マレイシアの総選挙で現政権の大勝,インドネシアで現職大統領が再選されるなど体制強化の動きがみられた。また,ASEAN諸国は,引き続き域内協力を推進する一方,対外面では,わが国をはじめ,米国,EC,豪州などとの関係を強化した。更に,中国,ソ連,ヴィエトナム及びカンボディアの活発な働きかけに対しては,いずれの立場にもくみしないとの基本姿勢を堅持した。
ビルマでは,ネ・ウィン大統領が再選され,ネ・ウィン体制が継続されることになった。
(b) インドシナ
ヴィエトナムでは,南部の資本主義的商業廃止,南北通貨統一,南部都市住民の新経済区送り込みなど南北の社会主義的一体化が推進されたが,この過程で在越華僑大量帰国,難民流出などの社会的混乱がみられた。特に,インドシナ諸国からの大量かつ急激な難民流出は,大きな人道的問題であるばかりでなく,アジア太平洋地域の不安定要因となつた。
在越華僑問題を契機に顕在化した中越の対立については,中国が在中国越総領事館閉鎖,対越援助停止などの措置をとる一方,越がコメコン加盟,越ソ友好協力条約締結など親ソ姿勢を強め,両国関係は悪化の一途をたどつた。他方,カンボディアについては,越との紛争が激化し,12月には越が全面的に支援する「カ」救国民族統一戦線が樹立された。その後,越軍の深い関与のもと大攻勢が行われ,79年1月プノンペンは陥落し,「カ」人民共和国の樹立が宣言され,その結果民主カンボディア政府側はゲリラ戦に移行した。
各国とも不安定要因をかかえているものの,総じて大きな変動はみられず,各国の政情も77年と比較して安定のうちに推移した。インドのデサイ政権は内政上の問題を抱えつつも78年を通じ,比較的安定を示した。パキスタンではブットー裁判や農業不振など不安な要因がみられたが,ハック戒厳司令官自らが大統領に就任して体制強化に努めた。対外関係では各国とも諸大国との従来からの関係を基本的に維持しつつ大半の諸国が非同盟・中立路線を歩んだ。南西アジア地域では,善隣友好関係の着実な進展がみられた。
ニュー・ジーランドでは,総選挙の結果,マルドゥーン首相が引き続き政権を担当することとなつた。対外関係については,豪州及びニュー・ジーランドとも,対米協調を基軸とし,ASEAN諸国やわが国に対する積極的外交を展開した。南太平洋地域では近年独立の気運が高まつているが,78年はソロモン諸島(7月7日)及びトゥヴァル(10月1日)が独立し,また南太平洋フォーラム(SPF),南太平洋委員会(SPC)などを通ずる域内協力の動きが活発化してきたことが注目された。
エジプト・イスラエル間の直接交渉による和平の動きは1月以来行き詰まつていたが,カーター大統領の提唱による9月のキャンプ・デーヴィッド3国首脳会談において,「中東和平の枠組」及び「両国間平和条約締結のための枠組」の2文書が採択された。しかし,10月から11月にかけての平和条約締結交渉は,西岸及びガザ地区の取扱いを含む包括的和平交渉との関連付けなどをめぐり行き詰まつた。この中で米側は再び局面打開の調停工作を開始し,12月ブラッセルで3国閣僚級会談が開催された。その後交渉再開へのモメンタムは一応維持されたが,年内再開には至らなかつた。
イランでは78年に入つて,急激な工業化に伴う社会のひずみに不満を強めた民衆が宗教界指導のもとに反政府デモを各地で展開し,これに社会の自由化を求める民主勢力も加わつて反政府運動が力を強めていつた。こうした中で,8月成立のシャリフ・エマミ内閣は事態の収拾に成功せず,それに続く11月のアズハリ政権も国民戦線などの反政府勢力との政治的妥協に失敗,反皇帝デモの活発化及びストによる石油生産の激減など事態悪化の中で,79年1月国民戦線指導者のバクティヤール首相に政権が引き継がれた。同首相は,パハラヴィ皇帝の出国と革命勢力の象徴的存在となつたホメイニ師の帰国を平穏裡に実現し,権力の平和的移行を図ろうとしたが,2月,民衆の武装蜂起に対し,軍,警察が有効な手だてを打てぬままに崩壊したのを機に,権力はホメイニ師及びその指名したバザルガン暫定政府に移行した。
アフガニスタンでは,78年4月クーデターが発生しダウド政権にかわりタラキ・アミン政権が成立した。新政権はソ連と緊密な関係を維持しつつ土地改革などの政策を実施しているが,地方においてはイスラム伝統勢力を中心とする反政府の動きがみられている。
エティオピア・ソマリア紛争の沈静化やザイール・アンゴラ関係の改善など情勢の局地的好転の動きもみられたが,南部アフリカ問題は解決の見通しを得るまでには至らなかつた。また,アフリカにおけるソ連,キューバの活動をめぐり,アフリカ統一機構(OAU)内の穏建派諸国と急進派諸国との対立が伝えられた。経済面では,多くの国が依然として経済諸困難を抱え安定的な発展を達成するには至らなかつた。
ブラジル,ヴェネズエラなど9カ国において,大統領・国会議員選挙が平穏裡に実施され,その多くで新政権が発足する運びとなつた。また,エクアドル,ペルーなど幾つかの軍事政権国家では民政移管のための準備が着実に進められた。
域内諸国間関係としては,77年域内の摩擦要因となつた人権問題が若干影をひそめたものの,ニカラグァ情勢及び右をめぐる周辺諸国の動き,ビーグル海峡問題をめぐるチリ・アルゼンティン間の対立などが潜在的不安定要因として注目された。域外諸国との関係としては,カーター米国大統領のメキシコ,ブラジル訪問,ジスカール・デスタンフラソス大統領のブラジル訪問などに窮われるように欧米諸国による首脳外交の活発化が注目された。
先進民主主義諸国の経済は,78年においても77年につづいて比較的緩慢な景気回復にとどまつた。
米国経済は引き続き拡大基調を維持し,日本及び西欧経済も次第に回復傾向を強めるなど明るさがみられたが,全体としてその回復テンポは依然不十分なものにとどまり,経済協力開発機構(OECD)加盟国全体の実質経済成長率は3.7%程度の伸びとなつた。
この間,先進主要諸国の国際収支の不均衡を主たる背景として,国際通貨情勢は不安定であつたが,11月の米国の総合的ドル防衛策を契機にようやく安定に向かつた。なお,このような通貨情勢の中で79年3月には新欧州通貨制度(EMS)が創設された。
物価面では,全体として鎮静化の傾向がみられたものの,米国その他一部の国では騰勢の強まりがみられ,さらに12月の石油輸出国機構(OPEC)による石油価格の値上げ決定もあり,インフレ抑制は再び重要な政策課題となつた。
雇用面では,米国で改善がみられたものの西欧諸国では依然高水準の失業が持続し,特定産業部門での困難も加わつて,保護主義的圧力のみられた国もある。
このような情勢の中で,先進各国は国際通貨基金(IMF)暫定委員会,OECD閣僚理事会,主要国首脳会議などの場において各国がそれぞれの状況に応じて成長の促進,インフレ抑制,国際収支不均衡の是正などの政策的努力を行い,各国のこのような協調的努力による相互補強的効果を通じ世界経済の着実なインフレなき成長を確保するとの協調的な戦略に意見の一致をみた。その後,このような戦略に従つて各国によつてとられた協調的努力は,成長及び対外不均衡の改善などの面で成果を挙げてきた。
また,貿易面で関税・非関税障壁の軽減・撤廃,国際貿易の枠組の改善などを交渉してきた東京ラウンドは,引き続き各国による精力的な交渉が続けられた結果,大きな進捗をみ,いくつかの主要国間では年内にかなりの分野について実質合意が達成された。
他方,78年における開発途上国経済については,非産油国の場合,地域別にみてかなりの相違がみられるものの,78年中総じて堅調に推移したが,後述のエネルギー情勢によりこれらの国の経済にもたらされる影響が懸念されており,また産油国の場合,原油輸出の伸び悩みなどを反映して成長率がかなり鈍化した。
南北問題については,第33回国連総会において80年代の開発戦略の準備作業が進められる一方,第4回国連貿易開発会議(UNCTAD)総会の最大のフォロー・アップ案件である共通基金問題については,78年11月交渉会議第2回会期が1年ぶりに開催され,具体的スキームの合意に向け先進国,開発途上国の間で相当な歩み寄りがみられた。
エネルギーに関しては,世界経済の回復の遅れと非OPEC地域の増産による供給過剰傾向を背景に,石油価格は年内据え置かれた。しかし,10月末以降イラン情勢の混乱により,同国の石油生産が大幅に低下し,また12月のOPEC総会で79年については,四半期ごとに段階的に値上げし,年末14.5%,年間平均10%の増加が決定されるなどエネルギー情勢は予断を許さぬ状況となつた。特に,イランの石油輸出が年末には全面停止されるに至り,79年のエネルギー情勢ひいては世界経済に対する深刻な影響が懸念されるに至つた。