-アフリカ地域-
第8節 ア フ リ カ 地 域
77年は,南ローデシア,ナミビアの独立及び多数支配の実現への動きが具体化するとともに南ア問題が一挙に国際的注目を浴び,南部アフリカ問題が大きな転換期を迎えた年であつた。
アフリカ大陸における非自治地域の独立の動きとしてジブティ共和国が6月独立を達成したが,一方,「アフリカの角」地域及びアンゴラ,ザイールなどにおいて不安定な動きがみられた。特に「アフリカの角」地域における紛争はアフリカ統一機構(OAU)の調停努力にもかかわらず,ソ連・キューバのエティオピア支援,一部アラブ諸国のソマリア支持といつた紛争の拡大をみた。
(イ) エティオピア
エティオピアでは,メンギスツ中佐が2月臨時軍事行政評議会(PMAC)議長に就任以来,同政権は反政府勢力に対して強硬な弾圧政策を敷いている。
外交面ではソ連を中心とした共産圏諸国との関係が一段と強化され,これまで緊密な関係をもつていた米国はじめ西側諸国との関係は急激に冷却化した。オガデン地区においては6月初め,ソマリアの支援する西ソマリア解放戦線がエティオピア軍に対する攻撃を開始し,9月ごろまでにはオガデン地区の主要地域を占領したが,その後エティオピアはソ連,キューバなどより大量の軍事援助を受け,78年2月初めより総反攻を開始し,戦況はエティオピアに有利に展開しはじめた。
(ロ) ソマリア
ソマリアは,ソ連の対エティオピア接近と反比例してソ連離れの傾向を示し,11月ソ連との友好協力条約の破棄,ソ連軍事顧問の追放,ベルベラ港などのソ連軍事施設の撤廃を行うとともにアラブ諸国並びに欧米諸国に対し援助要請を行つた。
サウディ・アラビアなど穏健アラブ諸国,イランはソマリアに対し武器及び資金援助を行つた模様であるが,欧米諸国は武器供与は行わないとの立場に立ち,OAUの和平調停を支持する態度をとつている。
(ハ) ケニア
ケニアではケニヤッタ大統領の強力な指導の下で経済の順調な発展をみた。対外的には欧米との関係が一層緊密化されたのに対し,近隣諸国特に社会主義路線を歩むタンザニア,ソマリアとの関係が冷却化した。
(ニ) タンザニア
タンザニアでは,国造りの基本方針を定めたアルーシャ宣言10周年を迎え,ウジャマー村建設,タンザニアナイゼーションなどの社会主義政策が引き続き推進された。2月には懸案のTANU党とザンジバルAfro-shirazi党との合併が実現し,新党CCM(革命党)が発足したほか大幅な内閣改造が行われ,また4月には新憲法が制定され,ニエレレ大統領の指導力は一層強化された。
(ホ) ウガンダ
ウガンダではアミン政権がコーヒー輸出による国際収支の大幅な改善を背景に経済再建計画を打ち出すなど長期政権への基礎固めを行つた。
しかし対外的には2月のウガンダ英国国教会大主教などの死亡事件が人権問題として欧米諸国において大きな反響非難を呼びウガンダを取りまく国際環境はいつそう厳しくなつた。
(ヘ) 東アフリカ共同体
東アフリカ共同体は東アフリカ3国間の政治経済体制の相違からその存続が危ぶまれていたところ,1月の東アフリカ航空の全面的運航停止に始まり,タンザニアによるケニアとの国境閉鎖(2月),同共同体からの自国職員の相互引揚げに発展し,更には,ケニアの分担金支払い拒否(6月)に及び,事実上崩壊した。
(ト) セイシェル
セイシェルでは6月クーデターが発生し,マンカム大統領が失脚し,ルネ首相が新大統領に就任した。
(チ) ザンビア
ザンビアでは,カウンダ大統領の下で政治情勢は安定しているが,対外的には隣接する南ローデシアとの間の緊張が一層高まつた。また経済面では引き続く銅価の低迷によつて経済悪化が回復せず,第3次国家開発計画も更に1年間延期され79年から実施されることとなつた。
(リ) マダガスカル
マダガスカルでは6月に行われた人民議会議員総選挙で圧倒的勝利を収めたラチラカ大統領は直ちに最高革命評議会及び内閣の改造を行い政権の安定化をはかつた。右内閣改造によつて,ラコトニアイナ首相に代わつて,最高革命評議会メンバーのラコトアリジャウナ憲兵中佐が新首相に任命された。
(ヌ) ジブティ
ジブティ(旧仏領アファール・イッサ)は,6月27日独立宣言を行いジブティ共和国となり,ハッサン・グーレッドが初代大統領に就任した。
(ル) モーリシャス
モーリシャスでは,少数与党政権のラングーラム首相が政権安定化の努力を行い,一応の成功をみている。
(イ) ザイール
ザイールでは,3月にシャバ州で内紛が起き10月の総選挙並びに12月の大統領選挙により現モブツ政権の基盤の強化が図られた。
経済面では,経済情勢の悪化が継続し,主要先進国及びIMFなどの国際機関からの援助を受けるとともに,11月にはモブツ・プランと呼ばれる経済再建計画を打ち出した。
(ロ) 中央アフリカ
中央アフリカでは,76年12月,ボカサ大統領は立憲君主制を宣言するとともに,国名を中央アフリカ共和国から中央アフリカ帝国と改め,また自ら皇帝ボカサ一世と称し,77年12月戴冠式を挙行した。
(ハ)コンゴー
コンゴーについては,3月ングアビ大統領が暗殺され,4月オパンゴ大佐が大統領に就任した。なお,同国は65年以降断絶していた米国との外交関係の再開に6月合意した。
(イ) ナイジェリア
77年のナイジェリアの内政は,79年10月に予定されている民政移管に備えての基盤造りに集中し,比較的平穏裡に推移した年といえよう。
対外面では,南部アフリカ問題を含めアフリカ各地域での紛争問題の解決に積極的に介入しそのリーダーシップを発揮した。オバサンジョ国家主席の訪米により,米英との関係を改善する一方,東側諸国要人との人的交流を進めるなど,現実的な非同盟主義の政策を堅持した。
経済面では,前年に引き続きインフレ抑制,国際収支の改善が主要課題であつたが,同国の外貨収入源である石油の生産輸出の減少もあり,進行中の第3次開発計画の資金源の一部を外国借款に仰ぐこととなつた。
(ロ) ガーナ
ガーナでは,アチャンポン軍事政権は2年後をめどとする民政移管計画を発表した。経済面では天候不順による農業生産の低迷及び,外国品輸入制限により国内産業は引き続き低調であつた。対外関係では伝統的な非同盟中立政策を維持しつつ,ソ連との関係を深める一方で,韓国と外交関係を樹立するなど,柔軟な外交姿勢をみせた。
(ハ) リベリア
リベリアでは,グリーン副大統領の死去に伴い,77年10月第25代副大統領としてワーナー僧正が選出された。
(ニ) ガンビア
ガンビアでは,4月に行われた総選挙において与党人民進歩党が引き続き勝利を収めた。
(ホ) モーリタニア
モーリタニアでは,ポリサリオ・ゲリラに対抗すべく5月モロッコとの間に軍事協定を締結し,右に基づき7月にはモロッコ軍がズエラートに進駐した。
(ヘ) セネガル
セネガルでは,サンゴール大統領の強力な指導のもと,7月第5次4カ年経済社会開発計画を開始した。また同大統領は積極的な外遊を行うとともに現実的な外交を展開した。
(ト) マ リ
マリは,79年6月の民政移管にむけて種々の国内体制の整備に努めた。対外的には2月ジスカール・デスタン大統領の訪問がありフランスとの関係が緊密化されたとみられる。
(チ) ニジェール
ニジェールでは,現クンチェ政権の積極的な経済開発努力が実を結びつつあり内政も安定している。同国のウラン開発は順調な進展をみせ,ウラン収入の大部分は開発投資に向けられている。
(リ) 上ヴォルタ
上ヴォルタについては,10月ラミザナ大統領の率いる軍事政権が,74年5月以降規制されていた政治活動の自由を認め,11月新憲法を制定した。
(ヌ) ベ ナ ン
ベナンでは,1月発生した外国人傭兵によるケレク政権の打倒を目指すクーデターが発生したが,失敗に終わつた。
(ル) 象牙海岸
象牙海岸では,ウフェボワニ大統領72歳の誕生日に際し,10月石油の発見と80年からの石油生産開始について政府発表が行われた。
(ヲ) チャード
チャードにおいては,4月,首都ンジャメナにおいてクーデター未遂事件が発生したほか,6,7月の北部トゥブ族の攻勢,東北部のFROLINAT(チャード解放戦線)の活動にみられる如く国内情勢は不穏な動きを示した。
(イ) 南アフリカ
77年は南アフリカ共和国のアパルトヘイト政策に対する国際的非難が高まりをみせた年であつた。フォルスター首相のウフェボワニ象牙海岸大統領との会談(5月),モンデール米副大統領との会談(5月)といつた外交努力にもかかわらず,国連主催の反アパルトヘイト国際会議(5月のマプト会議,8月のラゴス会議)において南アの孤立は顕在化した。
これに対し南ア政府は国際的孤立も辞さないとの立場にたつて,治安強化,黒人諸団体の弾圧,分離発展政策の維持という政策をとつた。すなわちフォルスター政権は,黒人自覚運動指導者S・ビコの獄中死(9月)を契機として再燃した黒人地区での騒擾を弾圧すべく黒人系新聞及び黒人団体などの禁止措置を強化(10月)する一方,白人間の団結を図る目的で総選挙(11月)を断行し与党国民党の地盤を強化した。また,76年のトランスカイに続き12月にはボプタツワナに独立宣言を行わせた。
これに対し対南ア非難の国際世論は盛り上り,国連において,国連加盟国に対しては初めての憲章第7章に基づく対南ア強制武器禁輸決議が安保理において11月採択された。また,南ア政府の白人,カラード,インド人による3つの議会設立を内容とする改革案に対してカラード,インド人は拒否する態度を明らかにし,78年1月には黒人(ズル族),カラード,インド人グループの政治連合が成立した。
(ロ) ローデシア
ローデシア問題に関し,9月1日英政府は,米政府との協議に基づき平和的解決に関する英米提案を公表した。
国連ではチャンド将軍がローデシア駐在国連代表に任命された。英米提案は,(a)非合法政権による権力放棄と合法性への復帰,(b)英政府による駐在弁務官の任命,(c)6ヵ月以内に総選挙を実施,(d)国連ジンバブウェ軍隊の創設,(e)ジンバブウェ開発基金の設置,を骨子としている。この提案に対する少数白人政権のスミス首相や過激派の愛国戦線の態度は厳しく,英国の関係各方面に対する働きかけにもかかわらずスミス首相と愛国戦線側との意見の隔りは依然として大きかつた。
スミス首相は12月初め穏健派民族団体指導者などとの話し合いを開始し,「内部解決」を図つているが,この話し合いにはフロントライン諸国が支援している愛国戦線が除外されているので,愛国戦線,フロントライン諸国はこのスミス首相の動きを激しく非難している。
他方78年1月下旬マルタにおいて英,米代表と愛国戦線側指導者との会議が開催されたが,双方の意見の対立は解消しておらず,ローデシアの多数支配実現までにはなお多くの困難が予想される。
(ハ) ナミビア
ナミビアについては4月,西側5カ国(米,英,西独,フランス及びカナダ)が南アフリカに対し国連安保理決議385(国連監視下における自由選挙,南ア軍のナミビアよりの撤兵,政治犯の解放などを骨子とするもの)の履行を申し入れ,その後西側5カ国は南アとの会談を続ける一方,SWAPO及びブラック・アフリカ諸国などの関係者との話し合いを通じ,ナミビア問題の早期解決のため努力を続けているが,南ア軍の撤兵問題などをめぐり,双方の意見の隔りは大きく,ナミビア問題解決までには前途になお多くの困難が横たわつている。
(ニ) モザンビーク
75年6月独立したモザンビークにおいては,2月,第3回モザンビーク解放戦線大会を開催し,これをマルクス・レーニン主義に基づく政党に改組するとともに,国内政治体制の整備に努めた。
対外的には,南ローデシア解放団体である愛国戦線に対し,積極的支援を行い,このため南ローデシアとの間の対立を深めている。
(ホ) アンゴラ
アンゴラでは,ネト大統領の率いるアンゴラ解放人民運動(MPLA)政権内で5月,クーデター未遂事件が起こり,一方,MPLA政権に対するキューバなどの多面的援助にもかかわらず,南部におけるアンゴラ完全独立民族同盟(UNITA),北部におけるアンゴラ解放民族戦線(FNLA)などの反政府勢力の拡大強化がみられ,MPLA政権の目指す国内統合実現にはかなりの時間を要するものとみられる。
わが国は,6月27日独立宣言を行つたジブティ共和国を同日付で承認した。
また1月にはモザンビークと,11月にはコモロと,12月にはカーボ・ヴエルデと外交関係を設立した。
(イ) わが国は,3月WFP(世界食糧計画)を通じモザンピークに対し緊急に食糧援助を行うこととした(3億1千余万円)。また国連安全保障理事会における援助要請決議に基づき,レソトに対し,78年1月日本赤十字を通じて1億円の緊急援助を行うこととした。
(ロ) わが国はまた,南部アフリカにおける人種差別,植民地支配の犠牲者の救済及び教育及び訓練を目的とする国連南部アフリカ関係基金に対し,76年に引き続き77年は総額22万ドルの拠出を行つた。
わが国の動力炉・核燃料開発事業団は,75年7月締結されたマリにおけるウラン鉱探査のための協定に基づき本格的調査活動を77年秋から開始した。またセネガルとの貿易取極が8月に発効した。
このほかわが国はアフリカ諸国の国家建設の努力に対し側面から協力するとの立場から,アフリカ諸国に対し別表のように経済・技術協力を行つた。