-中近東地域-

 

第7節 中 近 東 地 域

1. 中近東地域の内外情勢

(1) 中東和平をめぐる動き

(イ) 米国を中心とする和平への動き

76年後半以降,アラブ側紛争当事諸国において,ジュネーヴ和平会議の早期再開による中東紛争の包括的解決を目指す気運が高まつた。米国のカーター政権は,77年初頭に発足して以来,中東和平問題を重要外交課題の一つとして取り上げ,ヴァソス国務長官の中東諸国歴訪(2月及び8月),イスラエル及びアラブ側関係諸国首脳らの訪米などを通じて,ジュネーヴ和平会議の年内開催のための関係諸国の同意取付けに努め,また,ソ連も中東問題の解決のための提案を行う(3月)など,ジュネーヴ会議の年内開催に積極的な姿勢を示した。

しかしながら,和平問題については,アラブ側内部でも見解の相違があり,またイスラエルでは5月の総選挙によりベギン政権が成立し,米国の調停努力によつても,和平問題(特にパレスチナ問題,PLOのジュネーヴ会議参加問題)について,アラブ・イスラエル間の意見の調整をみるに至らなかつた。

(ロ) エジプト・イスラエル間交渉の開始

このような状況下で,11月,サダト・エジプト大統領が,イスラエルを訪問することにより,アラブ・イスラエルの直接対話の道が開かれ,その後12月に,同大統領の招請によつて,ジュネーヴ会議準備のためのカイロ会議が,エジプト,イスラエル,米,国連の参加を得て開催された。

イスラエル側も,サダト大統領の和平努力にこたえ,ベギン首相が,12月下旬にエジプトを訪問し,同大統領との会談を行つた。この会談では,両国が包括的解決に向けての努力を続けることで意見の一致をみ,また,イスラエルの占領地からの撤退についてはある程度話合いに進展がみられたが,パレスチナ問題については,イスラエル側がジョルダン川西岸及びガザ地域の住民自治を認めるとしたのに対し,エジプト側は同地域でのパレスチナ国家樹立を主張し,双方の立場の相違が確認されるにとどまり,両国間の交渉は,カイロ会議の枠内での政治・軍事両委員会において継続されることとなつた。

このようなエジプト・イスラエル両国の和平交渉の開始について,米国はこれを支援するとの立場をとつたが,ソ連はこれに批判的であり,また,アラブ内では,リビア,アルジェリア,イラク,シリア,南イエメン,PLOがサダト大統領の和平イニシアティヴに反対して,12月上旬にトリポリで首脳会議を開催し,対エジプト外交関係凍結などに関する決議を行つたが,これに対しエジプトは,同首脳会議参加諸国との外交関係断絶を決定した。

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(2) 湾岸情勢

77年は,中東湾岸各国とも引き続き,国内体制の整備,経済社会開発の推進に努め,インフラストラクチャーの不備,技術労働者不足などの隘路が依然見られたものの,各国内政は総じて安定的に推移した。

湾岸の安全保障を当事国だけで検討しようという動きが活発になるなかで,湾岸諸国間の要人往訪が相次ぎそのための模索が行われた。

12月のOPEC総会においては,石油価格の引上げは当分見おくられることになつたものの,今後の推移が注目される。

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(3) 各国の情勢

(イ) エジプト

(a) 77年1月の生活必需品価格引上げを契機とする暴動は,エジプト経済のかかえる問題を浮き彫りにしたが,サダト大統領は引き続き門戸開放政策を推進して,経済再建に取り組むとともに,湾岸諸国及び西側諸国よりの資金援助を取り付け,国際収支困難の打開を図つた。また,サダト大統領は,6月には複数政党制を認める政党法を成立させ,政治面においてもその自由化路線を推進した。

(b) 外交面では,サダト大統領はジュネーヴ会議の年内再開を目指したカーター米政権の和平努力に同調したが,11月には局面打開のため自らイスラエルを訪問し,イスラエルとの直接対話の道を開いた。この間,隣国リビアとの関係が悪化し,7月には同国との間に武力衝突が発生したほか,12月には,サダト大統領の和平路線に反対してトリポリ首脳会議に参加したアラブ諸国と外交関係を断絶した。

(ロ) シ リ ア

(a) 77年も産油国よりの援助受取額の減少やインフレなどの経済問題は続いたが,内政面では,8月に人民議会選挙が実施され,与党バース党がその優位を維持し,また,綱紀粛正運動が推進された。

(b) 外交面ではサダト・エジプト大統領のイスラエル訪問以降の和平イニシアティブに反対し,12月のトリポリにおけるサダト路線反対派のアラブ諸国首脳会議に参加した。一方,隣国イラクとの関係は依然改善されないまま推移した。レバノン問題については76年10月のアラブ首脳会議の決定により,シリア軍は平和維持軍の主力として引き続きレバノンの治安維持にあたつている。

(ハ) ジョルダン

国内面では,高率のインフレに対処するため,生活必需品の安定供給,軍人及び公務員の給与引上げなどの措置が講じられた。中東問題については,ジョルダンは,サダト大統領の和平イニシアティヴに対し中立の立場を保持し,同大統領の招請したカイロ準備会議にも出席を見合わせていたが,78年1月の政府声明においてサダト支持の立場を明らかにするに至つた。

(ニ) レバノン

76年10月のアラブ平和維持軍のレバノン進駐により,内戦が一応収拾されたことに伴い,サルキス大統領は,緊急課題である治安の回復,国民的和解,政治・社会改革,国軍の再建,経済の再建などの諸問題と取り組んだが,南レバノン及びベイルートにおいて断続的に武力衝突が続き,国民的和解や政治・社会改革についても大きな成果は得られず,また,経済の再建についても,ベイルート海空港の機能回復,通信の復旧など部分的成果をあげるにとどまつた。また,国軍の再建も十分には進んでおらず,国内の治安維持については,引き続きシリア軍を主体とするアラブ平和維持軍に依存している。

(ホ) リ ビ ア

(a) 国内政治面では3月の全国人民大会で直接民主主義を目指す人民統治機構の改革に関する決議が行われた。

(b) 外交面では,7月にエジプトとの軍事衡突が発生したほか,12月には,トリポリにおいて,サダト・エジプト大統領の和平イニシアティヴに反対するアラブ諸国の首脳会談を開催した。ソ連・東欧諸国との関係も引き続き密接であつたが,米国などの西欧諸国との関係も経済面を中心に順調に推移した。

(ヘ) スーダン

(a) 4月に国民の圧倒的支持を得て再選されたニメイリ大統領は,9月には内閣改造を行つて首相及び蔵相を自ら兼任し,また旧政敵のマハ一ディ元首相とも和解するなど,国内体制の強化に努力するとともに,7月より長期経済社会開発18カ年計画の第1段階としての新6カ年計画を実施に移した。

(b) 外交面では,ソ連との関係が冷却化した反面,欧米諸国やエジプト,サウディ・アラビア,中国などとの関係が緊密化し,また隣国リビアとの関係改善が見られた。

(ト) アルジェリア

(a) 内政面では,2月に国家人民議会選挙が行われ,4月には大幅な内閣改造及び政府機構改革が実施された。

(b) 外交面では10月の西サハラ解放戦線(ポリサリオ)による仏人拉致事件をめぐり,フランスとの関係が悪化し,また,サダト・エジプト大統領の和平イニシアティヴに反対し,12月には,エジプトとの外交関係が断絶された。

(c) 77年は第2次経済社会開発計画の最終年であつたが,石油・天然ガス部門以外の目標達成が実現しなかつたため,同計画は78年まで延長されることとなつた。

(チ) モロッコ

(a) 内政面では,6月に7年ぶりに国会議員選挙が実施されたほか,10月には第3次オスマン内閣が成立し,従来入閣を拒否していた野党から10名が入閣した。

なお,西サハラ問題解決のためのOAU特別元首会議は,10月にザンビアで開催される予定であつたが延期された。

(b) 経済面では,77年は第3次経済・社会開発計画の最終年にあたり,工業・インフラ部門の発展がみられた。

(リ) テュニジア

(a) 77年には,複数政党の公認など政治の自由化への動きがみられた。

1月に,政府及び労使間に適正賃上げなどに関する「社会契約」が署名されたが,秋以降労働争議が頻発し,この対策について政府内部で意見の対立があり,12月に内閣の一部改造が行われた。

(b) 外交面では,大陸棚問題をめぐり一時緊張の高まつたリビアとの関係が6月の両国外相会談以後改善されたことが特に注目される。

(c) 経済面では,77年は第5次経済社会開発計画の初年度であつたが,農業生産が振わず,国内総生産の伸びは4.1%であつた。

(ヌ) ト ル コ

(a) 内政面では6月の総選挙の結果,共和人民党が第1党となつたものの過半数には達せず,同党単独のエジエビット少数内閣はわずか12日間で退陣し,代わつて公正党,国家救済党,国民行動党の3党からなるデミレル連立内閣が成立した。同内閣も,最大与党たる公正党より脱党議員が相次ぎ,12月末には少数内閣となり,不信任決議の可決により総辞職した。

(b) 外交面では,特に際立つた動きは見られず,サイプラス問題,対米関係の改善などの外交懸案は78年に引き継がれることとなつた。

(c) 経済面では,工業化促進のための輸入急増による国際収支の赤字拡大及び外貨事情悪化のため,輸入代金の支払い遅延問題が発生しており,このためIMFからの援助につき交渉が続けられたが合意には至らなかつた。

(ル) イスラエル

(a) 内政面では5月の総選挙の結果,48年建国以来初めて労働党が敗退し,右派連合リクードによるベギン政権が誕生した。更に10月ベギン内閣は,DMCの連立参加を得て,国内支持基盤を拡大・強化するに至つた。

(b) 外交面では,中東和平問題について,11月のサダト・エジプト大統領のイスラエル訪問と12月のベギン首相のエジプト訪問によつて,エジプト・イスラエル間の直接交渉の道が開かれた。

(c) 経済面では,10月末に為替管理のほぼ全面的撤廃を柱とした新経済政策が実施された。

(ヲ) アフガニスタン

(a) 73年7月共和制に移行して以来空白となつていた共和国憲法は,77年2月制定され,モハマッド・ダウドがこれに基づき正式に初代大統領となり,3月には新内閣が組織された。

(b) 4月,同大統領は,緊密な関係にあるソ連を公式訪問し,対外関係の順調な発展を図り,またパキスタンとは正常関係が維持されている。

(c) 経済面においては,早魃により食糧不足に見舞われたが,外国政府援助などにより国際収支は引き続き堅調を維持している。

(ワ) イ ラ ン

(a) 77年のイランの国内情勢は,経済関係を中心として多難な年であつたといえよう。65年1月以来,12年半の長期にわたり政権を維持して来たホヴェイダ内閣に代わり,OPECイラン代表として国際的知名度もあるアムゼガールを首班とする新内閣が誕生した。

イランは膨大な石油収入を背景にして,意欲的な経済開発計画を進めているが,インフラストラクチャーを中心とした経済的隘路が顕在化したため,イラン政府は,78年3月より始まる第6次5カ年計画では,バランスのとれた経済発展を目指している。

(b) 外交面では,11月,イラン皇帝が米国を公式訪問し,米・イラン関係の緊密化を図り,これに応える形で,カーター米大統領も12月末,イランを訪問し,両国の緊密な関係を確認した。また,12月のOPEC総会では,サウディ・アラビアとともに価格凍結を支持し,更に中東問題ではサダト大統領による和平工作を積極的に支持している。

(カ) イ ラ ク

(a) 77年には,内政面において政治・経済体制の再編強化が行われ,民生重視の政策とともに政権の安定度を高める措置がとられた。具体的には,バース党の地域及び民族指導部,これと並行して国家の最高機関である革命評議会の陣容を大幅に拡大するとともに,相互の組織関係を緊密化し,数度にわたつて重要な内閣改造が行われた。またクルド自治地区の行政組織法が制定された。経済の関連では76年から80年までの5カ年国家開発計画が公布された。また今後の計画樹立のための基礎として大規模,かつ徹底した一斉国勢調査が実施された。

(b) 対外関係では湾岸諸国との関係修復にかなりの成果を上げた。中東問題では依然として強硬路線を取つているが,対ソ及び対西側関係では多面的現実外交を一段と推進した。

(ヨ) サウディ・アラビア

(a) 内政面では2月と4月の2回にわたりロンドンで手術を受けたハーリド国王の健康に一時不安があつたことと,ファイサル前国王の王子モハンマド殿下が7月淡水化公団総裁の地位を辞任したことを除けば,安定的に推移した。

(b) 外交面ではカーター米国政権の登場後も,ヴァンス国務長官が3度来訪し,ファハド皇太子兼第一副首相が5月に訪米するなど,対米協調の基本路線が一層推進された。中東問題については,11月のサダト大統領によるイスラエル訪問に対し,当初驚きを表明し,アラブ連帯の必要を強調しつつも,和平工作の成り行きを慎重に見守る態度をとつた。

(c) 経済面では,石油の二重価格導入以来の増産政策が5月のアブ・カイク火災事故などによつて阻害され,価格統一後1日あたり850万バーレルの上限を再び設定する意向が表明された。またインフレ対策などのため財政引締め措置及び抑制的かつ選別的な開発政策がとられた。

(タ) クウェイト

(a) 76年8月の政変以来保守的傾向を強め,77年の政局は,総じて平穏りに終始した。こうした中で77年末サバーハ首長が急逝し,ジャービル皇太子兼首相が新首長に就任したが,78年2月には,サアード新皇太子を首相とする新内閣が任命された。

(b) 外交面では,当国の中心的課題である対イラク国境問題に進展がみられたが,最終的解決には至らなかつた。

(c) 経済面では,「ポスト・オイル時代」を目指す余剰オイル・マネーの有効利用と資産蓄積という金融商業立国としての基本路線には何らの変更もなかつたが,景気面では74年以来初めての不況の年となつた。また,石油分野では,9月当国は米系アミノイル社の国有化を断行したが,石油生産量は最近の世界需要低迷の影響を受け76年量を大きく下回つた。

(レ) アラブ首長国連邦

(a) 76年末の大統領及び副大統領の再選,並びに77年年頭の連邦内閣改造を経て新たな一歩を踏み出した77年の内政は,概ね安定的に推移した。しかし,連邦結成以来の主要課題である連邦体制強化は,難航する連邦軍再編成問題にも見られるとおり,大きな進展をみなかつた。

(b) 外交面では,3月ザーイド大統領の南イエメン訪問及び4月フランスとの軍事協力協定締結が注目された。

(c) 経済面では,5月の通貨局による2銀行の営業停止命令により金融・経済問題が表面化し,77年の経済活動は全般的に沈滞気味であつた。このため,中央銀行新設の検討を含め金融・経済政策の建直しを強いられた。また,これに関連して,急増しつつある外国人労働者の入国を制限するとともに,10月のグバシュ外務担当相殺害事件を契機に社会・治安対策の強化を図つている。

(ソ) オマーン

(a) 内政面では長年の懸案であつたドファール地域の反乱がほぼ鎮静化し,駐留していたイラン軍も1月大部分が撤退するなど安定化に向かつて推移した。

(b) 外交面では,6月スルタン国王がイランを訪問し,12月にはイラン皇帝が来訪するなどイランとの関係が一層緊密化した。

(c) 経済面では,産油量の現在以上の増大が望めないため,5カ年計画を中心に国内産業の基盤作りを積極的に進めている。

(ツ) カ タ ル

(a) 内政面では,5月31日カリーファ首長が長子ハマド殿下を皇太子に親任し,これにより懸案であつた後継者問題に一応終止符が打たれた。

(b) 経済面では,最大の工業地帯であるウンム・サイドにて4月液化石油ガス・プラントの大爆発事故が発生し大きな被害を被つたが,カタルの石油・ガス関連産業を中心とした工業化政策は小規模ながらおおむね順調に進展した。また,2月にはカタル・シェル社の国有化を完了した。

(ネ) バハレーン

(a) 77年の内政は極めて安定的に推移した。

(b) 外交面では当国の基本路線に変更はみられなかつたが,タイとの外交関係樹立,ニュー・ジーランドとの関係強化,米国との軍事施設使用協定の終了などの動きが注目された。

(c) 経済面においては国際金融センターへの発展をめざし,75年に施行されたオフショア・バンキング・ユニット法が順調な発展を示したこと,並びに商業部門での外国企業優遇措置が検討されるなどの動きがみられた。

(ナ) イエメン(イエメン・アラブ共和国)

(a) 77年の内政は,10月にハムディ指導評議会議長の暗殺という事件が生じたものの,ガシュミ新議長は,故ハムディ議長の政策を踏襲することを表明し,大きな混乱なく推移した。

(b) 外交面では,隣国サウディ・アラビアとの緊密な関係が維持され,また7月にはハムディ議長がフランスを公式訪問するなど,西側諸国との関係強化の動きが見られたものの,基本的には東西両陣営のバランスを図るとの政策が維持された。

(c) 経済面では,6月に総投資額36億ドル強にのぼる開発5カ年計画を発表し,更に11月に各国政府,国際機関などの代表を首都サナアに招き同計画を検討するための国際会議を開催した。

(ラ) 南イエメン(イエメン民主人民共和国)

南イエメンは,3月のルバイヤ・アリ大統領評議会議長の紅海沿岸アラブ4首脳会議への出席,7月の同議長のサウディ・アラビア訪問など引き続き周辺アラブ諸国との関係強化の動きが見られたが,中東和平問題に関してはサダト・エジプト大統領のイスラエル訪問以降,他の急進派諸国とともに12月トリポリ会議に参加するなど強硬姿勢をとつており,エジプトとの関係は国交断絶の状態にある。

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2. わが国と中近東諸国との関係

園田外務大臣は78年1月13日より20日までイラン,クウェイト,アラブ首長国連邦,サウディ・アラビアを訪問し,各国からわが国が中東外交により積極的に取り組もうとの姿勢を示すものとして非常な歓迎を受けた。各国指導者との会談内容は多岐にわたつたが,中東問題については各国から深い関心が示された。また各国が進めている国造りに対する協力要請に対してはわが国として経済技術協力を通じ積極的に貢献していく方針を示し,各国から高く評価された。さらに石油問題についても話し合いを行つたほか園田大臣は特に中東との関係については,従来のように石油の売買の関係のみによつてつながれるのではなく,一歩進んで文化,スポーツなど多面的な連携を深めることにより心と心を通じる関係を作ることを希望し,これに対し各国から強い賛同が得られた。

<要人往来>

<貿 易>

<民間投資>

<経済協力(政府開発援助)>

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