-ソ連・東欧地域-
第6節 ソ 連 ・ 東 欧 地 域
(イ) 内 政
77年は,ソ連にとつて建国60周年に当たるが,内政面では,新憲法の採択,新国歌の制定,ブレジネフ書記長の連邦最高会議幹部会議長就任など目立つた出来事の多い年であつた。
40余年続いたスターリン憲法に代わる新憲法(10月7日採択)は,ソ連がこれまでに達成した成果のみならず将来の目標も掲げ,(あ)ソ連邦がプロレタリア独裁の諸課題を遂行して全人民国家となつたこと,(い)ソ連邦における共産党の地位と役割を明確に規定したこと,(う)人民の基本的権利・自由及び義務についてより詳細な規定を設け,自由諸国の民主主義に対比すべき社会主義民主主義をうたい,これを擁護するための国防の重要性を強調している。
ブレジネフ書記長を中心とする指導部の動向については,5月のポドゴルヌイ政治局員の失脚,6月のブレジネフ書記長の連邦最高会議幹部会議長就任により,現政権発足以来続いた「トロイカ」体制が形式的にも崩れたが,実質的には,ブレジネフ書記長の地位と権威の強化傾向が続き,重要な権力(党,国家,軍)がブレジネフ書記長に集中している現状には,表面上何らの変化の兆しも見えない。しかし,同時に,現指導部は,人事面に全般的な老齢化,ブレジネフ書記長の健康状態など若干の問題を内包している。
以上のほか77年の人事としては,クリコフのワルシャワ条約軍総司令官就任とオガルコフのソ連軍参謀総長就任(1月),カトウシェフ党書記の連邦副首相転出(3月),ルサコフの党書記就任(5月),チャジェリニコフ連邦コムソモル第一書記の党中央委宣伝部長転出とパストウホフの連邦コムソモル第一書記就任(5月),クズネツォフの連邦最高会議幹部会第一副議長・党政治局員候補就任とチェルネンコの政治局員候補就任(10月)などがあつた。
77年には,ジャーナリスト同盟大会(3月)と全ソ労組大会(3月)が開かれた。
社会面では,新憲法草案の国民討議を中心に,ソ連体制の優越性,ソ連邦における人権擁護を強調し,西欧の人権尊重,民主主義を偽りとするキャンペーンが展開された。
モスクワの地下鉄爆発事故,ホテル・ロシアの火事,若干の航空機事故などのほか,ごく少数の「反体制派グループ」の動きはあつたが,社会政治問題化するには至らなかつた。
(ロ) 外 交
ソ連の外交はその強大な軍事力を背景に,第25回党大会で採択された路線に従つて進められた。新憲法においても外交に関する一章を設け,「共産主義建設のための好ましい国際条件の確保」,「社会主義諸国との協力強化」,「民族解放闘争支援」,「平和共存」など従来の主張をうたい,国家関係の原則についてはCSCE最終文書の規定を盛り込んだ。また,軍縮面では十月革命60周年記念集会におけるブレジネフ演説で一連の提案を行いソ連の平和外交路線を内外に印象づけようとする姿勢をみせた。
ソ連は自国の安全保障にとりきわめて重要性を有する東欧諸国並びに米国・西欧諸国に対する外交を最優先課題としているもののごとく,その他の地域における活動は利害得失を十分勘案しつつ重点的にこれを行つているとみられる。
77年のソ連外交は当初米国の人権外交により守勢に立たされ,米ソ関係,中ソ関係を含めて概して低調であつた。77年後半から米国との関係改善の動きがみられたが,同年末から78年初にかけての「アフリカの角」及び中東情勢の推移は米ソ関係の発展にも一定の影響を与える要因となつている。
(a) 対東欧関係
東欧諸国との関係は米国の人権外交,東欧における体制批判運動の活発化,ユーロコミュニズム諸党の動向,CSCEフォローアップ会議の開催などに関連してある程度の影響を受けたと思われるが,77年を通じソ連と東欧諸国との関係に本質的な変化はみられなかつた。
東欧諸国に対しては党関係を含む2国間関係及びワルシャワ条約機構,コメコンを通じ引き続き協力強化が図られている。
(b) 対西側諸国関係
西側諸国に対してはいわゆる「緊張緩和外交」を推進しているが,特に増大する軍事費の重圧に対処するためもあつて米国との間にSALTなど軍備規制につき合意を達成すること,また国内経済力拡充のためわが国を含む欧米先進諸国との経済協力を促進することに大きな関心を示している。
77年前半の米ソ関係は,カーター政権の人権外交,SALT交渉に対する新しいアプローチにより一時厳しい雰囲気に包まれた。ソ連は米国の人権攻勢に対し,これを内政干渉として強い反発を示す一方,人権問題へのアプローチをめぐつて米・西欧間の足並みに相違がみられた点を踏まえブレジネフ書記長によるフランス訪問を実現したほか西側先進諸国との関係促進に努めた。
77年後半にはSALTについて米ソの立場にある程度の接近がみられ,また米国側の人権問題の取扱いにも慎重な配慮がみられるに至つた。
ソ連としては中性子爆弾の開発展開の動きに対する反対キャンペーンを行う一方,SALTを中心に米国との対話を促進し,西側諸国に対しては引き続き「緊張緩和政策」を基調として積極的な外交活動を展開するものとみられる。
(c) 対アジア関係
対中国関係については,国家関係を正常化する用意を示しつつも,そのためには中国側が具体的に反応すべきであるとしており,中国側の対ソ政策を併せ考えれば,当面,原則的問題にかかわる両国関係が急速に改善する可能性は乏しいと考えられる。
インドシナについてはヴィエトナムとの関係を最も重視し,併せてラオスをも世界社会主義体制の一翼に加えているが,カンボディアとの関係は正常化するに至つていない。
ASEAN諸国に対しては個別的に2国間関係の発展を図つているものの,組織としてのASEANについては,その軍事機構化とその背後にある米国の存在及び肩代りとしてのわが国の進出を警戒する姿勢を示した。
インドとの関係は,デサイ政権成立後も積極的な外交により,一応ソ印友好関係の維持発展を確認させることに成功したが,アジアにおける拠点の確保のためには対インド関係に更に意を用いていかざるを得ない状況にあるとみられる。
(d) 対中東関係
ジュネーヴ和平会議を通ずる包括的解決を提唱してきたソ連にとつて,77年10月,米ソ共同声明を発出したことは一応満足すべきものであつた。しかし,サダト・エジプト大統領のイスラエル訪問以降の推移についてはこれを個別和平への動きとして批判しており,あらゆる機会を捉えてアラブ諸国,特に反サダト勢力の結集に努め,もつて影響力の維持を図つている。
(e) 対アフリカ関係
ソ連は反帝・民族解放闘争支援を旗印にアフリカ情勢の推移を見守り,影響力扶植の努力を続けている。77年春にはポドゴルヌイ議長をザンビア,モザンビーク,タンザニアに派遣した。しかしスーダンでソ連軍事顧問団が追放されたほか,エティオピア・米国関係の冷却化に乗じエティオピアとの関係緊密化を図つたものの,反面,友好国であつたソマリアの離反を招いた。
南部アフリカにおいてもローデシア問題,あるいはナミビア問題の解決についてイニシアティヴを発揮する立場になく,西側諸国の平和解決の試みを見守らざるを得なかつたが,周辺諸国あるいは同地域の解放勢力との関係強化に努めている。
(ハ) 経済情勢
77年(第10次5カ年計画第2年度)は革命60周年記念全国増産キャンペーンにもかかわらず,全体として不振に終わつている。
鉱工業生産は漸く計画に達した(目標の対前年比5.7%に対し5.8%)が,5カ年計画の眼目たる生産性向上は76年に引き続き未達成(同4.8%に対し4.1%),また農業は全体として76年の伸びに及ばず(76年の4.1%に対し,3.0%),特に,その柱である殻物生産は前年比13%減の195.5百万トンと不調であつた。
以上の結果,国民所得(支出)の伸びも計画未達成(目標の4.1%に対し,3.5%)に終わつた。
なお対外貿易の規模は76年の11%増となつている。
東欧諸国をめぐる77年の情勢は,政治的には概して安定的に推移したと思われるが,経済的には,西側の長期不況に基づく対西側輸出の伸び悩み,コメコン内での資源価格の高騰の影響あるいは国内での価格維持政策に基因する財政事情の逼迫ひいては対外債務累積などの諸問題が依然として改善されていないと見られる。
若干の反体制的動きが散発的に見られたほかは国内政治的には特に大きな動きはなかつた。経済的には国民経済計画の実績が年次目標を若干下回つたほか,貿易環境の悪化などの困難があるにもかかわらず,西側の投資・消費財を輸入し,低物価政策・社会福祉向上政策を継続したことが注目された。
外交面では,圏内の相互関係を新たに確立しつつ,対アフリカ・中近東・アジア外交にもソ連の方針に沿いつつ積極的に取組んだ。
ギエレク政権は,76年より懸案として繰り越された基礎食料品値上げを実施できなかつたことにより,食管会計への巨額の国庫財政負担軽減に失敗したほか,長年の生産財重視政策に起因する生活必需品の不足,4年続きの農業不振および対西側債務の累積などの経済問題の対策に苦慮している。他方,76年に組織された労働者擁護委員会の後継である大衆自衛委員会などの反体制の動きもあり,同政権は国民との対話路線の一層の推進,カトリック教会との宥和などの政策を進めた。
対外的には,米・仏・独を含む諸国との間で,首脳訪問による積極的な外交を展開した。
年初に,基本的自由と人権の尊重を求める「77年憲章」運動が発生したが,フサーク政権はこの反体制グループの相互分野と隔離政策に努めて事態の収拾に成功した。経済面でも農工業とも目標達成に一応成功したとみられる。外交面では引き続きソ連・東欧諸国との連帯強化に努めた。
カーダール政権は,人権問題,ユーロコミュニズムヘの対応,宗教問題などを慎重かつ手際よく処理し,経済面でも農業をはじめ大部分の分野で76年と比べ高い増加率を記録するなど順調であつた。
対外面においては,デタント推進による安全保障の確保,経済関係の強化などを図るべく,西側先進諸国とも活発な首脳訪問外交を展開した。
3月にルーマニアを襲つた大地震は,ルーマニア経済に多大の被害をもたらしたが,チャウシェスク大統領以下国民が精力的に努力した結果順調に回復し,当初の経済計画を上回る工業成長を遂げた。しかし,この為に国民に強いられている犠牲は大きいものがあると思われ,また内政面での厳しいイデオロギー統制は引き続き堅持されており,作家のパウル・ゴマを中心とするグループの「チェッコスロヴァキア77年憲章」への連帯声明,ジュウ渓谷での大規模な鉱山労働者ストライキなど,公然と体制に反対を唱える現象が出現したのが注目される。
党及び国家の第一人者であるジフコフ国家評議会議長の絶対的権力は不変であり,党内ナンバー2と見られていたヴェルチェフ政治局員を解任するとともに,40歳台の若手を多く党中央に登用し,党の世代交替を図つた。経済面では,国民所得は対前年比6.4%成長したものの,主要な経済目標は軒並み計画を下回つた。外交路線は,対ソ同調姿勢が保持された。
ホッジャ第一書記は絶対的権力の確立に成功し,その地位は安定しているとみられる。
7月以来中国の世界3分論批判に踏みきつて,対中関係は急速に冷却したが,これは,中国の対欧米姿勢に対する不満とチトー大統領の訪中に対する怒りによるものと考えられる。
85歳を超えたチトー大統領のもとで内政は総じて平穏りに推移したが,セルビアの民族主義のうつ積の徴候がみられ,これとの関連でチトー夫人が6月以来公式の場に姿を見せていないことが,種々の憶測を招くこととなつた。ポスト・チトーに備えた体制固めが着々と進められてはいるものの,複雑な多民族国家における民族問題の解決の困難さがうかがえる。
経済面では,経済成長率が,記録的な農作,建設部門の10%の伸び,基礎部門への投資増などによつて目標の約5.5%成長を上回つたが,一方で貿易収支赤字幅の拡大傾向がみられる。
外交面では,チトー大統領のソ連,北朝鮮及び中国の3カ国歴訪,フランス訪問,シュミット西独首相の訪ユなど,積極的な首脳間交流が促進された。特に,訪中の際,党関係の復活について中国側の原則的了解がとりつけられたことは,国際共産主義運動におけるユーゴースラヴィアの威信を一段と高め,対ソ関係においてその手を強める効果をもつものと考えられる。
(a) 77年春の日ソ漁業交渉は領土問題が絡み,ソ連が強硬な態度をとつたため難航したが,日ソ漁業暫定協定第8条は「この協定のいかなる規定も・・・・・・相互の関係における諸問題についても,いずれの政府の立場または見解を害するものとみなしてはならない。」と規定しており,わが方の北方領土に対する基本的立場は貫かれた。この交渉は,わが国の北方領土返還要求が一部の者の声でなく国民の総意に基づいていることを明確にした。
(b) 園田外務大臣は78年1月8日から11日までソ連政府の招待によりソ連を訪問し,ソ連との平和条約締結交渉及び外相間定期協議を行つた。園田大臣は,グロムイコ外相との間で行われた平和条約締結交渉において,「日ソ係に真の友好の基礎を築くためには,北方4島の一括返還を実現して平和条約を締結することが先決である」旨条理を尽して説明し,北方4島の問題が「第2次大戦の時からの未解決の諸問題」に含まれるとの了解の下に作成された田中総理訪ソの際の73年10月10日付の共同声明に基づき,平和条約締結の交渉を行うことを強く求めた。これに対しグロムイコ外相は,日ソ間に平和条約を締結することの必要性には同意したが,結ばれるべき条約の基礎について日ソ双方に隔たりがあり,日本側の主張するところは受け入れ難いとの従来のソ側の立場を繰り返した。同時にグロムイコ外相は,平和条約交渉と並行しつつ,他方で日ソ関係を一層発展させるために「善隣協力条約」の締結が必要である旨述べ,同条約の案文を提出した。
これに対して園田大臣より日ソ間に真に安定した善隣友好関係を築くためには,北方4島の一括返還による平和条約の締結が不可欠の前提であり,ソ連側のいう「善隣協力条約」は日ソ間の真の善隣友好の基礎にはなり得ない,したがつて平和条約締結までは,ソ連側の「善隣協力条約」案を検討する用意はまつたくないことを明確に述べた上で条約案については儀礼上一応預ることとして,日本側からは,日本側の平和条約に関する考え方の骨子を書いた文書をソ連側に手交した。グロムイコ外相は,ソ連の立場はすでに述べたとおりであるので,日本側の文書は,善隣協力条約に関する日本側の理解と同様の理解の下で一応預ることとしたいとしてこれを受取つた。
以上のような応酬の結果,平和条約締結交渉を継続するとの合意が確認された。
また園田大臣は,コスイギン首相と会見したが,この会見では,コスイギン首相の方から,日本側は日ソ関係を領土問題で複雑にしている,グロムイコ外相が述べた領土問題に関するソ連の立場はソ連の党中央委員会,政府の見解であり,日ソ間に領土問題は存在しない旨述べた。これに対し園田大臣より,両国は73年10月10日付の共同声明で第2次大戦後の未解決の問題を解決して平和条約を締結することに合意済みであるので,これに基づき話合いを継続していきたいと日本側の立場を明確に述べた。
(a) 日ソ間で既に具体化したシベリア開発案件は第1次及び第2次極東森林資源開発,パルプ・チップ開発,ウランゲル港建設,南ヤクート原料炭開発,サハリン島陸棚石油探鉱及びヤクート天然ガス探鉱の7件で,このうち第1次極東森林資源開発及びウランゲル港建設の2件は終了しているため,現在実施中のものは5件となつているが,これらは全体として順調に進んでいる。
(b) 77年9月,東京において,シベリア開発協力の推進母体である日ソ及びソ日両経済委員会の間の第7回経済合同会議が開催され,別記現行諸案件の総括が行われたが,同会議においては特に新規の具体的案件はなく,第3次極東森林資源開発,ウランゲル港の拡張などの現行諸案件に関連する追加的案件及び,極東紙・パルプ・プラント建設など,従来からの継続交渉案件についての意見交換を引き続き実施することが合意されるにとどまつた。
(a) 77年の日ソ貿易は輸出が73年以来4年ぶりに減少,このため輸入が大幅な伸びを示したにもかかわらず,貿易規模は日ソ貿易はじまつて以来初めて前年の水準を下回るに至つた。(輸出の減退は主として,従来からの中心品目たる鉄鋼を主体とする金属製品が半減したことによる。その他の主要品目たる機械,設備及び繊維製品は引き続き増加。化学品は横ばい。輸入の増加は中心品目たる木材,綿花,食料が増加したほか,一般に輸入品価格の上昇による。なお,石油,石油製品は前年を下回つた。)
この結果,わが国対外貿易総額に占める比率も76年の2.6%から2.2%に低下した。
(b) 貿易年次協議の開催
76~80年日ソ貿易支払協定に基づく貿易年次協議が77年12月,モスクワで開催され,両国間貿易の推移などにつき意見交換が行われた。
(a) 2月24日,ソ連邦大臣会議は,75年12月10日付のソ連邦最高会議幹部会令の適用水域を規定するとともに,同水域におけるソ連の漁業管轄権を3月1日より行使することを明らかにした(適用水域に北方4島周辺水域が含まれていることにつき日本側は抗議)。2月28日より3月5日まで,鈴木農林大臣が訪ソしてイシコフ漁業相と会談し,日ソ間において新たな漁業協定を締結すること,及びとりあえず77年末まで有効な暫定取極を締結することに合意を見た。
(b) (日ソ漁業暫定協定)
前記合意をうけて3月15日よりモスクワにおいて交渉が行われたが,適用水域とソ連漁船のわが国12海里内操業問題に関して行き詰まり,一旦交渉は中断した。4月5日,園田官房長官が特使として訪ソし,コスイギン首相と会談,引き続き鈴木農林大臣が再訪ソし,イシコフ大臣と折衝したが,行き詰まりは打開できなかつた。この間3月15日より東京で開かれていた日ソ漁業委員会は,漁獲量及び操業水域について合意を見ないまま3月31日中断した。鈴木大臣の再訪ソに際しイシコフ漁業相との間で非公式協議が再開され,ソ連200海里水域外のさけ・ます漁獲量(6万2,000トン)につき合意を見たが,4月27日操業水域の規定につき話し合いが行き詰まり(注-ソ連側は,「ソ連邦大臣会議決定の適用水域(北方4島周辺水域を含む)の外の水域」と規定するよう主張)交渉は再び中断した。なお,ソ連側は,4月29
日,日ソ漁業条約の廃棄を通告してきた。5月2日,国会は「領海法」及び「漁業水域に関する暫定措置法」を成立せしめた。5月5日再開された交渉で鈴木大臣は,前記海洋2法の成立に象徴される国民の一致した世論を背景に交渉を行い,また16日福田総理大臣はソ連首脳に対し親書を送り,本件交渉は純粋に漁業問題に関する交渉として協定を締結すべきことを強く訴えた。かくして5月19日に双方は協定本文について合意に達し,27日モスクワで署名が行われた。
(c) (「ソ日」漁業暫定協定)
日ソ漁業暫定協定に対応し,わが国「漁業水域に関する暫定措置法」に定める漁業水域におけるソ連邦の漁業に関する協定を締結するため6月以来東京において交渉を行つた結果,8月4日東京において協定の署名が行われた。
(d) (日ソ長期漁業取極締結交渉)
日ソ,「ソ日」両漁業暫定協定は,その有効期間が77年12月31日となつていたので,それ以降の操業についての新たな取極,さらにソ連側が廃棄通告してきた日ソ漁業条約に代わる新たな取極の必要が生じた。このため9月29日からモスクワで交渉が行われ,12月16日,両漁業暫定協定を1年間延長することを内容とする「延長議定書」が署名された。しかし,日ソ漁業条約に代わるサケ・マス及び漁業協力を内容とする日ソ漁業協力協定締結は合意に至らず,78年に持越された。
日ソ科学技術協力協定に基づく第1回委員会は78年1月23日から27日まで東京で開催され,27日,日ソ双方は議事録に署名した。同議事録においては,(あ)原子力と農業の2分野においてまず協力を開始する,(い)専門家グループで具体的協力計画を作成する,(う)79年に第2回委員会をモスクワで開催する,ことなどが合意されている。
政府は77年度の北方4島,ソ連本土及び樺太への墓参実施につき,5月,ソ連政府に対し,日本側の希望どおり実現されるよう申し入れた。
これに対し,7月ソ連側は樺太(真岡,本斗,豊原,内幌)への墓参を認めること及びそれ以外の諸地点への墓参については同意できない旨回答してきた。
政府は北方4島及びソ連本土への墓参について,人道的見地からこれが実現されるよう再三ソ連側の再考を求めたが,8月ソ連側は上記7月の回答を最終回答として確認した。
上記の結果,77年度においては8月25日~9月1日に樺太墓参が実施された。
78年1月,園田外務大臣訪ソの際,同大臣は,グロムイコ外相に対し78年度においては北方4島及びソ連本土墓参についてもソ連側の特別の配慮を要請した。
政府は機会あるごとに,ソ連側が帰国を希望する在ソ連未帰還邦人に対し遅滞なく日本への帰国を許可するよう要請してきたが,78年1月,園田外務大臣訪ソの際にもグロムイコ外相に同様の要請を行つた。
77年1月から78年2月までの間に5名(家族を含めれば7名)が一時帰国した。