-西 欧 地 域-

 

第5節 西 欧 地 域

1. 西欧地域の内外情勢

(1) 概   観

77年の西欧情勢は,多くの国における議会での与野党伯仲,景気回復の停滞及びテロ行為頻発による治安の悪化などを背景として全般的に不安定かつ流動的な動きを示した。

77年には,ベルギー(4月),オランダ(5月),スペイン(6月)などで総選挙が行われたが,41年ぶりに総選挙が実施されたスペインにおいて民主中央連合と社会労働党の二大政党対立が出現したほかは,大きな変化はなかつた。ポルトガルでは,12月にソアレス首相が辞任したが,新内閣の樹立は78年に持ち越された。78年1月にアソドレオッティ内閣が総辞職したイタリア及び同3月に国民議会選挙を控えたフランスにおいては,左翼・共産主義勢力の政権参加が現実の問題として取りざたされるに至り,注目された。

西独及びイタリアなどにおける極左及び極右グループによるテロの頻発は,政治面,社会面で深刻な問題を投げかけた。

経済面では,多くの国において実施された緊縮財政と賃上げ抑制によりインフレは漸次鎮静化し,英国及びイタリアにおいては77年後半以降,国際収支の改善,通貨の安定などの明るい面もみられた。その反面、各国の景気回復は停滞傾向を強め,特に若年層を中心とする失業の増加が大きな政治・社会問題となるに至つた。かかる情勢を背景に一部の国では保護貿易主義的な動きがみられた。

目次へ

(2) 欧州の東西関係

(イ) 欧州安全保障協力会議(CSCE)

10月4日よりベオグラードにおいて75年のCSCEヘルシンキ最終文書の履行状況に関するフォローアップ会議が開催された。同会議は,78年2月中旬までに結論文書を採択して閉会する予定であるが,結論文書中に何とか人権に関するレビューを盛り込もうとする西側とこれを阻止せんとする東側が対立し,議論は平行線をたどってきた。

(ロ) 中央相互均衡兵力削減交渉(MBFR)

73年10月以降既に13ラウンドを重ねた本件交渉は,交渉開始後4年を経過した後も、交渉の出発点となる双方の兵力に関するデータ,削減対象となる範囲及び具体的な削減方法などの基本的な諸点において東西間に依然として大きな見解の相違があるため進展をみせておらず,交渉の早期妥結の可能性は小さい。

(ハ) NATO

NATO内部ではワルシャワ条約軍の軍備増強に対する危惧の念が強まつたため,カーター大統領のイニシアティヴにより5月,ロンドンにおいてNATO首脳会議(仏を除く)が開催された。右首脳会議においては,NATO及び欧州統合に対する米国のコミットメント並びにNATOの戦略に対する支持が確認された。またその直後に開催された防衛計画委員会では79年から84年にかけて,加盟国は防衛予算の年率実質3%の増加を目標とするガイダンスが作成された。更に12月の閣僚理事会では,SALTに関する米欧間の意志疎通が図られたほか,次期首脳会議を78年5月30日及び31日にワシントンにて開催することで合意をみた。

(ニ) その他

77年には,伊仏西3国共産党党首会談(3月),スペイン共産党の合法化(4月)などいわゆるユーロコミュニズムの動向が注目された。

目次へ

(3) 欧州統合

(イ) 政治・経済両面における統合への動きは必ずしも順調ではなかつた。

しかし,10月のジェンキンスEC委員長の経済通貨同盟に関する演説など統合への新しい動きもみられた。

(ロ) 政治協力

78年5~6月に予定されていた欧州議会直接選挙は,英の選挙準備の遅れなどの事情により実施が遅れることになつた。

(ハ) 経済統合

EC域内の景気停滞に加え,加盟諸国間の経済力格差・経済政策の相違は大きく,また度重なる通貨不安のため共同フロートも不安定な状況にあるが,10月のジェンキンズEC委員長のフローレンスにおける講演11月のEC委による経済通貨同盟に関する5ヵ年計画案の作成と新たな進展もみられた。

(ニ) 対外関係

ポルトガル及びスペインは各々3月28日及び7月28日,ECへの加盟申請を行つた。また,既に75年に加盟申請を行つているギリシアは,目下,EC委と加盟交渉を継続中である。

目次へ

(4) 各国情勢

(イ) ドイツ連邦共和国

(a) 76年12月に発足した第2次シュミット内閣は,連邦参議院における野党の優勢及び連邦議会における与野党議席差10という伯仲状況を背景に苦しい議会運営を強いられたが,与野党とも各々内部の不統一を露呈したこともあり,結果的には与野党間の対立は,大きな波乱を呼ぶことなく推移した。77年の内政上特筆すべき点としては,ブバック検事総長,シュライヤー使用者連盟会長などの暗殺及びルフトハンザ機ハイジャック事件などの発生により国内治安面において不安が増大し,政府としても治安対策の強化を余儀なくされたことが挙げられる。

(b) 76年に順調な回復を示した西独経済は,77年に入り著しく景気回復のテンポが鈍化し,10月に決定した約160億マルクに上る景気刺激策の実施にもかかわらず77年の実質経済成長率は2.5%(政府予測は5%),失業者数,約100万人と予想に反した停滞を示した。

西独政府としては,78年度における景気浮揚を目指し,公共投資を中心に予算規模の10.1%の増額を図り,ゆるやかな景気の回復を目指す政策を打ち出しており,78年度の実質経済成長率の目標値を3.5%と設定した。

(c) 外交面では,77年前半の段階において米国との間に原子力問題,人権問題及び経済政策などの分野で意見の相違が取りざたされたが5月のロンドン先進国首脳会議及び7月のシュミット首相訪米などを通じ両国関係は急速に調整されるに至つた。対ソ関係では注目されていたブレジネフ書記長の77年内訪独は実現を見ず78年に持ち越された。

(ロ) フランス

(a) 内政面では,左翼連合が3月の地方選挙において,人口3万人以上の主要都市の2/3以上の市長を獲得,予想以上の成果を収めたことから,78年3月の国民議会選挙の結果左翼政権が誕生する可能性が取りざたされるに至つた。

もつともその後左翼連合内部において共同綱領改訂問題をめぐり社共間における意見の対立が表面化し,9月の左翼連合首脳会談の失敗により社共分裂が決定的となつたため,左翼連合の進出の勢は足踏を見せるに至つた。

他方,与党派内部では,左翼連合の伸張を背景にジスカール大統領とシラク共和国連合総裁との確執が激化する様相を呈したが,9月に至りまがりなりにも多数派宣言がまとまり,与党派は一応の団結を示した。

左翼連合の分裂後も世論調査における左翼支持傾向は衰えをみせておらず,与党派内部の根強い対立も手伝つて,総選挙の行方は全く予断を許さない情勢にある。

(b) 経済面では,76年9月のバール・プランによる引締め政策の効果が現われ,需要の減少から輸入の減少をもたらし,貿易収支,経常収支とも大幅な改善をみた。鉱工業生産は投資不振を反映し停滞気味で,GNP成長率は当初見積りを下回り,3.2%程度とみられる。

失業者数は8月の122万人をピークに,12月末103万人(失業率4.8%)に減少,また消費者物価は,秋口の物価上昇気配を一部食料品の価格凍結措置の実施などにより,前年比9%増に抑えたが,総選挙を控え,依然として物価及び失業問題の解決が緊急の課題となつている。

(c) 外交面では,ドゴール以来の基本的外交路線を踏襲しつつ,欧州統合の推進をはかる一方,モンデール米副大統領の訪仏(1月),バール首相の訪米(9月),カーター米大統領の訪仏(78年1月)などを通じ,良好な仏米関係を維持した。また仏独友好を基本としつつ,対英関係の緊密化にも意を用いた。他方,ブレジネフ書記長の訪仏(6月),

バール首相以下諸閣僚の訪ソ(9月)など仏ソ関係の緊密化にも意欲を示すとともに,中東問題についても引き続き積極的姿勢を示した。

(ハ) 英   国

(a) キャラハン労働党政権にとつて,インフレ・失業・ポンド価値下落などの経済困難を改善し,景気刺激策を図ることが77年の最重要課題であつた。8月以降の第3次所得政策は英国労働組合会議(TUC)の拒否で実現しなかつたため,政府は7月,賃上げを10%以内におさめるというガイドライン,及び再賃上げまでは12ヵ月間をおくという12ヵ月ルールを含む新経済政策を発表した。その後政府は,賃上げにきびしい態度をもつて臨み,その結果10%ガイドラインはほぼ遵守され,12月には物価騰貴率は12%台にまで低下した。一方,北海石油の生産が順調に進捗したこともあつて,ポンド価値はもちなおし,12月には対米ドルレートも1ポンド=1.9ドル台を回復,これとともに外貨準備高も増加して,12月には205億ドルに達した。国際収支についても,8月の貿易収支が5年ぶりに記録的な黒字となり(1億4,100万ポンド),貿易外収支の恒常的黒字とあいまつて,大幅に改善した。

しかしながら,このような国際金融面での活況に対し,生産活動は依然盛りあがりに欠け,実質経済成長率は0.5%(77年)と低く,失業率は6.0%(141万人,12月)と高水準にある。かかる状況をふまえ,政府は10月,所得減税及び公共投資を中心とする77年度10億ポンド強,78年度20億ポンドの規模の景気刺激策を発表した。

76年秋以降の経済困難のため補欠選挙で敗北を重ねた労働党は,現在少数与党であり,3月に締結した自由党との政策協定によつて,かろうじて議会運営を維持してきた。かかる労働党政府にとつての重要案件は,地方分権法案と欧州議会直接選挙法案である。スコットランド,ウェールズ両地域の「ナショナリズム」に対する配慮から,それぞれに議会を新設し,大幅に行政権限を委譲しようとする地方分権法案については,前会期で成立せず11月からの新会期に再び提出され,78年夏頃成立する見通しが出てきた。他方,欧州議会直接選挙に関しては,6月,政府の国内法案が発表されたが,12月,同選挙方法について小選挙区制を採用することとなつた。この結果新たな選挙区割りに時間がかかり,当初予定された78年夏の直接選挙実施は事実上不可能となつている。

そのほか,英政府の直接統治の続く北アイルランドでは,8月,女王訪問に際してテロが激化したが,その後カーター米大統領の平和解決をよびかける声明もあり,77年全体のテロ事件は76年に比し減少した。他方,有色移民をめぐる人種対立が顕在化しはじめている。

(b) 外交面では,1月よりジェンキンス元内相がEC委員長に就任,2月には外相に親EC派といわれるオーウェンが起用され,対EC外交に積極的姿勢が打ち出されている。欧州議会直接選挙法案のほか,漁業水域問題などを除き,一般的に対EC関係は順調といえる。

(ニ) イタリア

(a) 76年6月の総選挙後誕生した基民党(キリスト教民主党)少数単独のアンドレオッティ内閣は,その不安定な基盤にもかかわらず,共産党を含む野党5党による「棄権政策」に支えられ,イタリア経済の再建のための諸施策を精力的に実施した。7月4日には与野党6党間において政策協定が成立し,これにより同内閣は一応その基盤を強化し,今後当分の間は不安定な中にも「過渡的」政権として存続し続けるのではないかとみられていた。

しかるに秋以降左翼系の学生及び労働組合などの間で政府の緊縮政策とこれに協力する共産党の「棄権政策」に対する不満が強まり,抗議集会やストライキが頻発し,3大統一労組のゼネストに発展する気配さえみられるに至つた。

このような情勢の下で,従来アンドレオッティ内閣に対し柔軟路線をとつてきた共産党は,社会・共和両党の突き上げもあり,12月に入つて緊急事態内閣の樹立を提唱し,同党の即時入閣を要求することとなつた。これに対し,基民党は共産党の要求を拒否するとともに,政策協定の拡充強化を譲歩の限度としてあくまで「棄権政策」による現状維持を主張して共産党との対決姿勢を示したため政局は一転緊迫の度合を深めることとなり,78年1月16日,アンドレオッティ内閣は総辞職という事態となつた。

(b) 経済面では,76年秋以来の引締政策が徐々に効を奏し,対外収支の改善及び物価上昇の沈静など経済健全化の兆しが見え始めたが,その反面,年央以降には生産の落込みが見られ,失業者数も10月には160万の大台にのぼるという明暗両相を呈するに至つた。このような情勢を背景に,政府はインフレなき経済の回復を目指して,生産的投資の活発化及び企業金融の健全化を推進する一方,公定歩合の引下げ(6月,8月),輸出信用保険制度の導入(5月),若年労働者雇用促進法の決定(6月)などの景気刺激策を実施した。

(c) 77年の外交面における最大の目標は,イタリアの経済立直しを対外面で補強し国内政治経済の動揺に起因するイタリアの対外的信用の失墜を回復することにあつた。このため,アンドレオッティ首相自ら米国及び西欧主要国を歴訪するかたわら外務・経済閣僚を中近東・ソ連・東欧諸国などに派遣するなど活発な動きをみせた。

また,10月に上院,及び12月に下院においてNATO体制受諾の確認などを織り込んだ外交政策に関する6党共同決議が採択されたが,これは基民・共産両党が外交政策について公けの場で初めて合意したものとして注目された。

目次へ

2. わが国と西欧諸国との関係

(1) 日欧関係全般

わが国と西欧諸国とは伝統的に友好関係で結ばれているが,最近では更に種々立場を同じくする先進民主主義諸国の一員として増々相互間の交流を拡大化・緊密化しつつある。77年においては日欧間での最大の懸案である日欧貿易問題の解決及び日米欧関係の一辺としての日欧関係の一層の強化の観点より,引き続き西欧各国との間において活発な交流が行われた。

まずわが国よりは5月の主要国首脳会議(ロンドン)への福田総理大臣,鳩山外務大臣,坊大蔵大臣の出席,12月及び78年1月の牛場対外経済担当大臣のEC委員会及び西欧各国訪問などが行われ,西欧からは10月にジェンキンスEC委員長,12月にヨーゲンセン・デンマーク首相,ソルサ・フィンランド首相の訪日などが行われた。また,第14回日仏定期協議出席のため鳩山外務大臣が訪仏し,第9回日独定期協議に出席のためゲンシャー西独外相が訪日した(詳細については別表参照)。

目次へ

(2) 日・西欧経済関係

わが国と西欧諸国との貿易は77年もわが国の大幅な出超となつたため,ECを中心とする西欧諸国より貿易不均衡の是正を求める要求が引き続き行われた。

(a) 概   要

76年秋,EC域内の経済困難を背景として,対日貿易赤字拡大傾向,わが国の特定産品の対EC輸出急増などが政治問題化し,大きくクローズアップされ,EC側より種々の問題が提起されるに至つた。これに対し,わが国は先方の困難解決に可能な限りの協力を惜しまないとの基本的な考えのもとに,同年11月末EC委員会宛に書簡を発出し,(i)自由貿易原則の維持,(ii)拡大均衡の方向での不均衡是正,(iii)日・EC間の対話促進の必要性を伝え,また、今後とも日・EC間の問題については,相互の接触を緊密化することによりその解決を図るとの方針を伝えた。

(b) 77年の動き

(i) その後,わが国はEC側との間で上級事務レベル協議、日・ECSC協議に加え,造船,排ガス規制,農産加工品,医薬品,船舶用ディーゼルエンジンなど具体的問題につき協議を重ねた結果,EC側は,わが国の協力姿勢を評価し,日・EC問題を政治的に取り上げんとする空気は一応和らいだ。

(ii) 然しながら,日・EC貿易不均衡は77年においても拡大を続け,10月訪日したジェンキンスEC委員会委員長は,不均衡是正の必要性を強調し,失業問題が深刻化している分野における日本の輸出自粛及び日本市場の一層の開放化を訴えた。

(iii) かかる状況の下で,12月開催された日・EC上級事務レベル協議において,EC側は貿易不均衡の拡大傾向逆転の必要性を強調し,日本政府が当時策定中であつた新経済政策の内容に大きな関心を表明した。右協議の直後に開催された欧州理事会は対日関係を審議し,EC委員長に対し日本政府との協議を継続かつ強化するよう求めた。

(c) 現   状

その後,12月及び78年1月の2回にわたり牛場対外経済担当大臣が訪欧し,わが国の国内経済政策及び一連の対外経済対策の内容を説明したところ,EC側は景気浮揚,経常収支黒字の削減に取り組むわが国の姿勢を評価する一方,個別措置の面で一層の対EC配慮を期待するとし,また,同大臣の第1回目のブラッセル訪問の直後開催されたEC外相理事会は,2月7日の外相理で再度日本問題を討議し,事態の進展ぶりをレヴューすることとした。

<要人往来>

<貿 易>

<民間投資>

目次へ