-北米地域-
第3節 北 米 地 域
(イ) 内 政
(a) 米国社会はヴィエトナム戦争やウォーターゲート事件などによる挫折と混乱から力強く立直りつつあり,77年を通じ社会は落着きを取り戻し,国民は自国の政治体制に対する自信を相当回復したと言えよう。このことは世論調査の結果にも現れており,例えば,78年2月のギャラップ調査によれば,回答者の57%が現在の生活に大いに満足していると答えている。これは,74年調査の34%に較べ,著しい改善である。
(b) 77年1月20日に就任したカーター大統領は,エネルギー消費の節約と代替エネルギーの利用を目的とする包括的「国家エネルギー計画」を発表したのをはじめ,行政,税制,社会福祉などの改革,インフレ抑止と景気浮揚,核不拡散政策など広範な分野における諸問題に積極的に取り組む方針を明らかにした。しかしながら,行政改革,社会保険財政健全化などの面で一部実績は残したもののエネルギー法案など重要法案の議会審議は難行し,78年に持ち越された。
(c) 既存の政治グループとのつながりが弱いこともあり,カーター大統領としては,強力な政治力を発揮するには,広範な国民の支持が必要とみられていた。カーター大統領自身も,就任式の徒歩パレード,炉辺談話などを通じ国民との接触に試みたが,国民の支持については,同大統領の期待に反し,支持率は若干低下の傾向にある。世論調査によれば,国民のカーター大統領支持率は,就任時の66%から出発し,3月に75%と最高を記録したが,年央以降,同大統領の人気にかげりがみられ,11月には54%に低下した。このような支持率の低下は,歴代大統領に共通するものであるが,大統領選で大きな支持を得た黒人と労働組合の支持が全国の平均支持率と同等の水準にまで低下したことが注目されよう。
(d) このような状況の中で78年1月19日発表された年頭一般教書をはじめとする一連の教書において,カーター大統領は,米国民の間に再び団結への意識が高まりつつあるとの認識を示し,そのような精神の下で,特殊利益よりも共通の善への配慮を訴えるとともに,米国内に,同大統領があまりにも多くのことに同時に取り組みすぎるとの批判もみられたことに鑑み,77年から持越された課題,特に経済問題の解決に優先的に取り組むとの姿勢を打出している。
(e) 78年は中間選挙の年でもあり,カーター政権は,新政策の立案よりも懸案の解決に精力を集中するものと考えられる。そのためには,カーター大統領が議会との関係をいかに良好なものとしその協力を得られるかにかかつており,議会との関係は引き続き同大統領の大きな課題となろう。
(ロ) 外 交
(a) 「開かれた外交」と外交における道義性の重視を掲げて登場したカーター新政権は,同政権の主要外交目標として,(i)人権擁護,(ii)先進民主主義諸国との関係の緊密化,(iii)中ソ両国との関係改善,(iv)開発途上国問題,(v)核不拡散,紛争の防止といつた世界的諸問題の解決を掲げた。カーター政権は、まず同盟諸国との関係強化を図るため,大統領就任直後の1月23日から2月1日まで,モンデール副大統領をベルギー,西独,イタリア,英国,フランス及び日本の6カ国に派遣することから外交に着手した。以後,「広範な外交政策遂行」の方針の下に,SALTII,新パナマ運河条約,在韓米地上軍撤退,南部アフリカ,中東和平,核不拡散,武器移転の規制など多岐にわたる問題に取り組む姿勢がみられたが,内政同様,多くの問題の解決は78年に持ち越された。78年においては,引き続きこれら諸懸案の解決に努力するものとみられるが,年頭教書においては人権へのコミットメントを再確認するとともに,外交の重要目標として,(i)国家の安全,(ii)同盟国の力と安全の維持,(iii)潜在的対立国との平和的競争,核の脅威を減ずるための合意などを挙げている。
(b) ソ連との関係については,カーター大統領が,人権重視の立場から,ソ連の反体制学者サハロフを支援する態度を示し,また,ソ連・東欧諸国がCSCEヘルシンキ最終文書の人権規定を軽視していると非難したのに対し(6月),ソ連が内政干渉として反発するなど,一時摩擦がみられた。しかし,米ソ協調の重要性を強調するカーター大統領の演説(7月,チャールストン)以後においては,両国とも,両国関係の安定維持への配慮がみられ,関係は好転した。SALT・II については,ヴァンス国務長官とグロムイコ外相の間で,協議が続けられたが(3,5,9月),いまだ妥結に至つていない。双方とも,SALTIの期限切れ(10月3日)後も,同協定に矛盾する行動はとらないと発表している。
(c) 米国とパナマは,長年の懸案であつたパナマ運河問題で合意に達し,カーター大統領は,9月7日,運河のパナマヘの返還,米国による運河の管理・運営を今世紀末まで認めることなどを定めた新パナマ運河条約に署名した。カーター政権は本条約の批准を外交上の最重要課題としているが,上院の批准承認審議は難行している。
(d) カーター政権は,アジア・太平洋国家としてアジアにとどまるとの米国の基本的立場に変化はないとしているが,韓国との関係については,カーター大統領が,就任前から,在韓米地上軍の撤退を提唱して注目された。7月ソウルで開催された第10回米韓安保協議会の共同声明において,78年から4~5年間にわたる段階的撤退とそのために必要な韓国軍能力の向上のための補完措置が発表されたのに続き,10月21日,カーター大統領は議会に対し右補完措置の承認を求めた。他方,米国議会においては,下院が,10月31日,朴東宣事件調査への韓国政府の全面的協力を求める決議案を採択するなど,対韓関係が厳しい状況を呈している中で,補完措置法案の審議が円滑に進むかどうか注目される。朴東宣問題については,米韓両国は,12月31日,検察共助など両国間協力につき合意した。
(e) アジア外交の他の面では,9月8日マニラにおいて,米国とASEAN間の初の協議が開催されたことが注目された。中国との関係では,ヴァンス国務長官の訪中(8月)をはじめ,頻繁な要人の往来がみられたが,国交正常化の面では進展はなかつた。
(f) 中東和平問題は,年間を通じて米国外交の主題の一つであつた。米国の中東和平への基本政策は,国連決議242,338の尊重,占領地からのイスラエルの撤退と安全かつ承認された国境の設定,パレスチナ問題の解決(存在の承認,正当な権利の保証),当事国間の正常な関係を基礎とする和平の達成の4点に要約される。サダト・エジプト大統領が4月訪米したのをはじめ,米国とアラブ諸国,米国とイスラエルの間で頻繁な接触が保たれ,また,ソ連との間でも,外相会談の場などを通じて協議が行われ,10月1日には,ジュネーヴ会議の年内開催に努力するとの共同声明を発表した。サダト・エジプト大統領のイスラエル訪問後も,カイロ準備会議に参加するなど,積極的に調停者の役割を演じている。
(g) アフリカ外交の分野では,対南アフリカ制裁措置を強化し,また,9月,ヤング国連大使は,ローデシア問題解決のための米英共同案を提示した。エティオピア・ソマリア紛争については,OAUの調停による平和的解決を支持するとの立場であるが,エジプトに対するソ連,キューバの軍事進出の増大に深い懸念を示すようになつている。
(h) 核不拡散,武器移転問題については,4月27日核拡散防止法案が議会に送付され,また,5月19日通常兵器移転の大幅規制政策が発表された。核拡散防止法案は,78年2月10日議会を通過した。
(i) カーター大統領は,5月7,8日ロンドンで開催された主要国首脳会議に初参加し,他国首脳との相互理解を深め,また,12月29日から78年1月6日まで,ポーランド,イラン,インド,サウディ・アラビア,エジプト,フランス,ベルギーの7カ国を歴訪した。この訪問は,具体的な問題解決を目指したものではなく,米国が,多様化する世界に対応して広範な外交政策を遂行することを象徴的に示すためと説明されたが,歴訪は,その限りにおいて成功であつたとみられる。
(ハ) 経済情勢
(a) 77年の米国経済は75年第2四半期に始まる拡大基調を維持し,名目ベースで,10.8%,実質ベースで4.9%(いずれも速報)の経済成長を達成し,名目GNPは1兆8,904億ドルとなつた。
77年中の動向を四半期別に見ると,まず第1四半期は,年初の異常寒波の影響が懸念されたものの,その影響は比較的軽微なものにとどまり,個人消費が大きく伸びたこと及び在庫変化額が76年第4四半期のマイナスからプラスに転じたことから実質7.5%(前期比,季調済,年率,以下同じ)という大幅成長を達成した。第2四半期には,個人消費の伸率が鈍化したために成長率は若干鈍化したが,政府支出、住宅投資が下支えの役割を果たし,やはり6.2%という高率の成長率を記録した。第3四半期には,政府支出が引き続き堅調な伸びを示し,海外経常余剰が第1,2四半期のマイナスからプラスに転じたものの,個人消費をはじめとするその他の項目全般が伸び悩んだため,実質成長率は5.1%にとどまることとなつた。第4四半期(速報ベース)の実質成長率は4.2%と表面上更に鈍化することとなつたが,これは最終需要の盛り返しに伴い在庫変化額が大幅減少を示したためであり,内容的にはむしろ,個人消費が実質可処分所得の大幅な伸びに支えられて力強い伸びを記録するなど,バランスのとれたものとなつている。今後の経済拡大の大きな鍵である設備投資については77年全体で実質8.8%の伸びを記録したが,工場建屋などの大型投資の伸びはいまだ不十分な状態にある。
(b) 失業率については77年に入り徐々に改善され,76年12月の7.8%から77年4月の7.1%へと低下をみた。それ以降は引き続き就業者は増加したものの,他方労働人口も増加したため7%前後の水準で一進一退を続けたが,11月頃より就業者数の大幅増加が見られるようになり,12月の失業率は6.4%にまで低下するに至つている。
(c) 物価動向については年初の異常寒波の影響がエネルギー,食料品価格の上昇となつて現れ,年央まで悪化が続いた。その後は若干の沈静化を見せたが,77年12月の前年同月比消費者物価上昇率は結局6.8%という水準にとどまることとなつた。
(d) 77年の米国国際収支については,サービス収支は引き続き安定した黒字を計上したが,貿易収支については,輸入が米国経済の堅調な拡大から石油輸入を中心として大きな伸びを示し,前年比21.7%という大幅な伸びを記録したのに対し,輸出の伸びが米国の主要貿易相手国の景気停滞を主因として前年比4.6%という小幅なものにとどまつたため,貿易収支は大幅に悪化し,76年の約4.5倍に当たる267億ドル(センサス・ベース)の赤字を記録するに至つた。
(e) カーター大統領は就任早々の77年1月,1人当たり50ドルのタックスリベート(税の払いもどし)を中心とした景気刺激策を発表したが,その後4月に至り景気回復が順調であること,むしろインフレ懸念の方が強まつていることなどを理由としてこのタックスリベート提案を撤回するとともに,総合的インフレ対策を発表した。大統領はまた4月,エネルギー法案を議会に提出し,米国国内政策上最優先課題として節約,生産及び価格の合理化,石炭など石油代替エネルギー資源への転換を柱とするエネルギー政策の確立に取り組む姿勢をみせた。この法案は下院を若干の修正を除き,ほぼ原案どおり通過した後,上院において大幅修正を余儀なくされ,両院協議会にかけられることとなつたが,結局成立をみないまま年を越した。
(f) カーター大統領の経済政策の全貌は78年初の一連の大統領教書及び報告で初めて明らかになつたが,経済報告に掲げられている具体的政策は,(あ)効果的エネルギー計画の早期確立,(い)財政の合理化,圧縮,(う)民間主導の経済成長を保証するために減税を行うと同時に税制をより公平,簡素かつ累進的なものとすること,(え)経済が許す限り速やかに均衡予算を実現すること,(お)構造的失業の解消,(か)生産性と生活水準を高めるための資本形成促進,(き)産業界,労働界の自発的協力の下にインフレ防遏をはかること,(く)世界経済の回復と世界貿易の拡大を促進すると同時に強力な国際通貨体制を維持すること,の8政策である。
(g) 78年の米国経済見通しについては,予算教書において,実質経済成長率4.7%,GNPデフレーター6.1%,消費者物価上昇率5.9%,失業率6.3%と見通されている。また国際収支については77年とほぼ同程度の赤字を見込むのが一般的のようである。
(イ) 内 政
77年におけるカナダの内政上の中心課題はケベック問題と経済問題であつた。76年11月にケベックの分離・独立を党是とするケベック党政権が同州において誕生したことにより,その分離・独立問題がカナダの深刻な政治問題となつた。ケベック党党首でもあるレベック・ケベック州首相は77年1月には訪米,11月には訪仏し,国際的にケベックの分離・独立に対する理解を求める一方,同州においては,77年8月,州内英系少数市民の反対を押し切り,仏語を州内唯一の公用語とする言語法を制定して連邦政府の2言語政策と対立し,12月には分離・独立についてケベック州民の民意を問う州民投票実施法案を州議会に上程した。これに対し,連邦政府は同州民の関心を連邦内にとどめるべく連邦制の枠内での州の権限の拡大の要求についての話合いには応じうるとの宥和的姿勢を示す一方,国家統一の重要性について国民一般に対する広報啓蒙活動に努めた。77年の各世論調査によれば,ケベックの分離・独立に関し,カナダ国民の80%以上が反対しており,10数%のみが賛成している。またケベック問題の解決について,ケベック州出身であるトルドー首相に対する国民の期待が高まり,政府与党に対する国民の支持率が上昇した。
(ロ) 外 交
(a) 米国との関係
カナダは政治,経済,軍事,文化など多数の分野において隣国米国と緊密な関係にあり,77年においてもトルドー首相は2度にわたりワシントンを訪問しカーター大統領と会談した。また年来の懸案であつたアラスカ産天然ガスをカナダを経由して米本土に運搬するための北方パイプ・ライン協定が署名されるなど,米加両国は極めて友好的な関係を維持している。
(b) EC諸国との関係
カナダは,また,NATOの一員としても積極的に貢献する姿勢を示している。カナダとECの間では原子力問題が懸案となつていたが,12月に交渉が最終的合意に達し,カナダは対ECウラン禁輸を解除することとなつた。77年には首脳間の交流も活発に行われ,トルドー首相が5月にロンドン主要国首脳会議に出席したほか,西欧諸国よりはキャラバン英首相(3月),シュミット西独首相(7月),エリザベス英女王(10月)などが訪加した。
(c) 国際場りにおけるカナダ外交
カナダは主要国首脳会議の一員であり,また,CIEC共同議長国として南北問題にも積極的に取り組んでいる。ジェイミソン外相は中南米,中近東,欧州など,77年に数次にわたり諸外国を訪問し,またゴイエ仏語圏担当相が精力的に仏語圏アフリカ諸国を訪問した。
(ハ) 経済情勢
77年のカナダ経済を概観すると賃上げ率の低下傾向,食料品を除く消費者物価上昇率の低下,予想を上回る雇用増,貿易収支黒字の拡大などいくつかの明るい材料もあつたが,他方個人消費支出の伸びが小幅なものにとどまり,設備投資が横ばいに終わつたことなどに伴い,実質GNP成長率がわずか2.5%程度のものにとどまるものと見込まれていること,雇用増にもかかわらず失業率が上昇を続け,12月の失業率は8.5%という高水準に達したこと,カナダドルの下落などから食料品価格が年間を通じ上昇した結果12月の消費者物価上昇率(前年同月比)は9・5%という高率となつたことなど経済情勢の改善がはかばかしくないことを示す材料も数多く存在した。
実質GNPの動向を四半期別にみると,第1四半期には政府支出と輸出の増大により76年第3,4四半期のマイナス成長からプラス成長に転じ,前期比1.6%の成長を記録したが,第2四半期には個人消費の不振,経常海外余剰の悪化を主因として再び前期比0.6%減というマイナス成長に転落するに至つた。しかしながら第3四半期には個人消費の回復,貿易収支黒字の拡大などを主因として前期比1.3%のプラス成長を記録し,78年についてはカナダ政府は5%の実質成長率を期待している。
国際収支については,貿易収支はその黒字を順調に拡大させたものの,貿易外収支赤字が利子配当の支払増及び旅行収支の悪化などを主因として拡大を続けたため,経常収支は第1~3四半期累計で34.7億ドルの赤字を記録した(前年同期は31.0億ドル)。
かかる厳しい情勢下にあつてクレチェン蔵相は,10月20日賃金物価規制の段階的撤廃,低中所得層に対する減税,雇用税額控除制度の導入,民間設備投資促進のための税制上の諸措置を主な内容とする経済財政方針演説を行つたが,これら政策の奏功により,カナダ経済が抱える前記の如き諸問題が解消して行くことが期待されている。
日米両国間の友好協力関係は,国民生活のあらゆる面で益々緊密化しているが,77年においても,政府・民間両レベルで活発な接触,交流が行われ,両国間の懸案の解決,両国民間の相互理解と相互信頼の一層の増進に向けて,大きな進展がみられた。福田総理大臣は3月に訪米し,21,22日の両日,カーター大統領と会談し,共通の関心を有する諸問題について忌憚なく話し合い,両国の提携関係を一層強化していくとの共通の決意を確認した。
また,以下に詳述するもののほか,定期協議だけでも,政府レベルのものとして,日米文化教育協力合同委員会,日米高級事務レベル協議,その他公的レベルにおける接触として活発な日米議員交流や,日米知事会議があり,民間レベルのものとして日米海洋会議,日米関係民間会議(下田会議)など多くの会合が開かれた。更に,ブラウン国防長官(7月),ヴァンス国務長官(8月)その他閣僚が来日したのをはじめ,両国政府,議会要人の頻繁な往来がみられた。
(a) 貿易関係
わが国にとり最大の貿易相手国である米国との貿易は,75年の世界的不況に伴い縮小傾向を示したのを除き順調な拡大基調を持続しており,77年についても前年比13.6%の伸びを記録した(米側統計による)。
しかし,これが下記の表の如く輸出に偏つたものであつたため,日米貿易収支日本側黒字幅は前年の約1.5倍に当たる81億ドルを記録することとなつた。
(b) 日米経済協議
77年から78年にかけて日米両国は,世界景気の回復の遅れと石油価格大幅引上げ後のOPEC諸国の黒字累積という国際経済状況のもとで,世界経済に大きな地位を占める両国が如何なる役割を果たすべきかにつき一連の広範かつ緊密な協議を行つた。
すなわち,わが国においては52年度当初の実質GNP成長率6.7%前後,経常収支7億ドル程度の赤字との経済見通しでいたがその後,経常収支は大幅黒字を示すに至り,9月には同見通しは65億ドルに改訂されるに至つた。
他方米国においては,米国内外の景気局面の相違並びに石油輸入の増大を主因として貿易・経常収支ともに大幅な赤字を計上していつた。また米国においては一部産業においてわが国よりの輸出急増に対し保護主義的動きが見られ,カラーテレビについては米国国際通商委員会は通商法の輸入経済条項に基づき関税引上げ措置を勧告たが,米政府はこれを避け,日米両国の話し合いにより同年5月日本側の一方的輸出規制を内容とする取極めが締結された。しかし,その後においても鉄鋼輸入問題を中心に保護主義の動きが高まり,特に米議会においてもその傾向が顕著となつたが,米政府は一貫して鉄鋼の輸入数量制限的アプローチはとらず,価格アプローチで対処する態度をとり,ソロモン委員会の答申をもとに,トリガー・プライス方式を実施することとした(78年2月21日実施)。
かかる事情を背景に,日米両国は保護主義の防遏と世界経済の安定的拡大に寄与すべきとのグローバルな観点から,一連の経済協議を開催することとなつた。9月の東京での日米高級事務レベル協議,11月の非公式事務レベル協議,12月の牛場大臣訪米と行われ,78年1月のストラウスSTR大使が訪日し,牛場大臣などわが方関係者との会談の結果,牛場・ストラウス共同声明の発表をもつて決着を見るに至つた。
これら一連の経済協議を通じてわが国は,わが国の国際的役割を果たすべく努めるとともに,わが国とともに世界経済の運営に大きな関心と責任を分かち合う米国に対しても,その国際的役割を果たすよう種々要望するとの基本的立場で対処し,その結果,上記共同声明においては,わが国側の内需の拡大,日本市場へのアクセス改善などを通ずる経常収支黒字縮小努力がうたわれるとともに,米国としても,輸入石油への依存度低下,輸出の増大などによりその国際収支ポジションを改善し,ドル価値を維持する意向である旨述べられることとなつた。
(c) 投資関係
貿易面と並んで資本投資関係においても米国は最大の相手国であり,わが国からの海外直接投資,わが国への対内直接投資の両面について下記の表の如く圧倒的地位を占めている。直接投資の現地雇用創出,経済拡大効果などに鑑み,今後日米資本関係が益々緊密化することが期待されている。
米国200海里内におけるわが国漁業については,77年11月29日に日米長期協定が発効を見,従来の暫定取極(77年3月4日に発効)のもとで行われていたわが国漁業は新しい協定のもとで行われることになつた。
78年のわが国に対する漁獲割当量は米国との一連の協議において従来の実績確保のため積極的な努力を払つた結果,総量において77年の約97%(約116万トン)が確保された。
77年初頭就任したカーター大統領は,核拡散防止のためとして,原子力平和利用に強い規制を課する政策をとり,この政策は,核拡散防止には協力しつつも原子力平和利用に対する過度の規制は排するとの立場をとるわが国,西欧諸国との間での外交上の問題を惹起した。しかし日米双方の努力により,77年9月には,東海村再処理工場の運転方式について合意に達することができた。また,核拡散防止と原子力平和利用の両立をはかるための国際協議(INFCE)も,日米欧の合意により,他の諸国も加えて,77年10月より2年間の予定で開始されることとなつた。(原子力平和利用の項参照)
(a) 密接な協議・協調
日米安保条約は,わが国の安全のみならず,極東の平和と安全の維持に大きく寄与してきている。77年においても,日米安保条約の円滑かつ効果的な運用を図るため,日米間において引き続き密接な協議及び協力が行われた。
77年3月に福田総理大臣が訪米してカーター大統領と会談した際,日米安保条約をめぐる諸問題についても話合いが行われた。両者は,友好と信頼の絆で結ばれた日米両国の緊密な協調関係が,アジア・太平洋地域における安定した国際政治構造にとつて不可欠であることにつき意見の一致を見るとともに,日米安保条約は極東の平和と安全の維持に大きく寄与してきていることに留意し,同条約を堅持することが両国の長期的利益に資するものであるとの確信を表明した。
また,安全保障協議委員会の下部機構である防衛協力小委員会は77年中に3回開催され,同小委員会は当面「わが国に直接武力攻撃がなされた場合,又はそのおそれのある場合の諸問題」を中心に研究・協議を進めて行くこと,また,作戦,情報,後方支援の3部会を設置し,専門的な立場からの検討を行わしめることが了解された。
(b) 在日米軍施設・区域の整理統合
政府は,従来から,日米安保条約の目的の達成と施設・区域周辺地域の経済的社会的発展との調和を図るため,在日米軍施設・区域の整理統合を推進してきた。77年においては,在日米軍施設・区域のうち7カ所が全面返還されたほか,数多くの一部返還が実現した。
わが国は,日米間に存する路線権,以遠権などの面における航空権益の不均衡を是正するため,76年10月以来,米国政府との間で日米航空協定の改訂交渉を行つてきており,77年においても4月,7月,10月と3回にわたり協議を行つた。これまでの数次にわたる協議において日米双方の立場は明確になつてきているが,双方になお相当の隔たりがあるため,交渉の妥結までには更に折衝を続ける必要があり,78年3月15日より第6回協議が開催されることで合意している。わが国としては,世界の民間航空情勢の動向などに注意を払いつつ,日米友好の見地から双方に満足すべき解決が得られるよう鋭意交渉を続けていく考えである。
(a) 現行の日米犯罪人引渡条約は,1886年(明治19年)に締結されたものであつて引渡しの対象とされている犯罪が限定されているため国際的な交通機関の発達などによる国際的渉外事件の増加をはじめとする最近の事態に必ずしも適合しなくなつていた。
このため69年以来行われてきた日米間の非公式協議を踏まえ,政府は,76年1月米国側に現行条約の改訂を提案し,米国側と交渉を重ねてきた。その結果1978年2月案文の最終的合意をみるに至った。
(b) 今回の新条約締結の意義は,何よりも現行条約に比べ飛躍的に引渡しの対象犯罪が拡大されることにある。現行条約では,殺人,強盗,放火などの古典的な犯罪のみが引渡しの対象犯罪とされているが,この改訂条約では,引渡しの対象犯罪を「死刑又は無期若しくは長期1年を超える拘禁刑に処することとされている犯罪」として包括的に規定している。
また,これと並んで,犯罪の抑圧のための日米両国間の協力をより実効あるものとするための諸規定が新設あるいは整備されている。
77年は,76年10月トルドー首相の訪日によつて高まりをみせた日加関係を経済面,文化交流などの面で一層幅広く,かつ,深みのあるものとする上で意義深い年であつた。特に77年は日本人のカナダ移民100年目に当たるため,活発な文化交流が行われた。わが国は,この日系移民100年を記念し,カナダにおいて歌舞伎公演,学術講演,柔道師範の巡回など多彩な文化事業を行い,カナダ政府は,多元的な文化政策に基づき積極的にこれを支援した。文化交流は,言語や歴史的背景を異にする日加両国が相互理解を深めるうえで不可欠なものであり,この意味で77年は実り多い年であつた。
日加両国政府は,両国間問題及び両国が共通の関心を有する諸問題について緊密な協議を行つてきており,77年においても外相レベルの会談が2度にわたつて行われたほか,事務レベルでの協議が頻繁に行われた。日加間の懸案としては,原子力協力協定改訂問題,漁業問題,航空問題などがあるが,いずれも緊密な協議と協力を通じ,解決したかあるいは解決の方向に向かつている。
(a) 貿易関係
わが国にとつてカナダは輸出入合計第7位の貿易相手国であり,逆にカナダにとつてわが国は米国に次ぐ第2位の貿易相手国となつている。
日加貿易は,75年に世界的不況に伴う貿易縮小から一時的縮小をみた後,再び拡大に転じており,77年についても下記の表にみられるように順調な拡大を維持した。但し,貿易収支のカナダ側黒字基調は不変である。
品目別内訳をみるとわが国はカナダから銅鉱石,石炭,パルプ,菜種などの原材料及び小麦,大麦などの食料品を輸入し,これらに関する対加依存度がかなり高くなつている一方,カナダヘは自動車,鉄鋼,家電機器などの完成品を輸出しているが,これらの対加依存度はテレビなど一部のものを除き概して低くなつている。
カナダ側はかかる貿易構造に関し,輸出構成上最終製品の比重を高めるとともに,資源を加工した形態で輸出したいとの希望を有しており,特にカナダが自主開発したCANDU型原子炉や短距離離着陸機STOLなどの対日輸出に大きな期待をよせている。
(b) 投資関係
わが国の対加投資は従来パルプ,製材などの輸入補完的な資源開発事業がその大宗をなしていたが,今後の傾向としては,カナダの未開発の資源の開発,加工方面に投資が向かうものと思われる。カナダは国内資本の不足及び米国資本によるカナダ産業の過度の支配という2つの事情から,米国資本への過度の依存を避けつつ工業化の促進と雇用機会の創設を図ることを外資政策の主要目標としており,わが国に対しても鉱業開発及び加工度向上に資する加工,製造業への進出を歓迎する空気が強い。
カナダは,米国に先立つて77年1月1日に200海里漁業水域を実施したが,77年については,日加両国政府間の話し合いの結果,二国間協定を締結せずに,カナダ沖におけるわが国漁船の操業は引き続き確保された。
しかしながら政府としては,78年以後についてもカナダ沖におけるわが国漁船の操業が長期的かつ安定的な基礎に立つて行われる必要があるとの観点から,カナダとの間で漁業協定を締結することとし,現在,そのための交渉が行われている。
カナダは,受領国に移転された自国産ウランに対する規制権の強化を求めて,わが国,EC諸国などに原子力協定の改訂を申し入れていたが,77年初頭より,このための交渉がカナダの満足する方向に進捗していないとの理由で,ウラン供給停止措置をとり,カナダ産ウランに大きく依存するわが国との間で大きな外交問題を惹起した。
この状況のもとに3次にわたる交渉を行つた後,78年1月,原子力協定改正議定書に仮署名することができ,カナダの対日ウラン供給停止措置も13ヵ月ぶりに解除された。