-アジア地域-

4. ASEAN5カ国及びビルマ

 

(1) ASEAN5カ国及びビルマの内外情勢

(イ) タ   イ

(a) 内   政

76年10月の軍事クーデターにより登場したターニン内閣は,77年に入つても農村開発,汚職摘発などの諸施策を進める一方,学生運動や労働争議を禁止し,対外的にも強い反共姿勢を打ち出した。このため,社会秩序はかなり回復されたものの,労働組合やマスコミとの間に摩擦をおこし,加えて投資の停滞など経済政策に見るべき成果を挙げ得なかつたことから,次第に国民の間に不満を招くこととなつた。

他方,ターニン内閣を一致して支持して来た軍内部に不安定要因が見られ,3月26日には陸軍の一部将兵によるクーデター未遂事件も発生し,軍部とターニン内閣との関係は6月頃より次第に冷却化し始めた。両者の関係は10月に至り更に悪化し,遂に10月20日,サガット国防相を議長とする革命団による無血クーデターが発生した。

革命団は11月10日暫定憲法を公布し,11日にはクリアンサック国軍最高司令官が現職のまま首相に就任,13日にクリアンサック内閣が発足したのに引き続き,16日には360名の官選議員からなる国家立法議会が設置された。新内閣は恒久憲法の制定,78年中の総選挙の実施,インドシナ諸国との友好関係促進などの新政策を発表したほか,プレス検閲の廃止,労働組合との協調など内外にわたり柔軟な宥和政策を打ち出した。

(b) 外交

ターニン首相は8月のASEAN首脳会議出席などを通じてASEAN諸国との関係強化に努力した。他方,同首相の強硬な反共主義のためインドシナ諸国との関係改善の動きは停滞した。

10月の政変により登場したクリアンサック政権は,前政権時代に硬直した対インドシナ関係改善に積極的姿勢を示し,先ずヴィエトナムとの間で12月,友好関係促進に関する共同コミュニケを発表,78年1月にはグエン・ズイ・チン同国外相がタイを訪問し,両国関係は大きく改善された。

ラオスとの間では12月に航空協定が調印された。

カンボディアとの関係では,依然として局地的な国境紛争が続いている中で,78年1月ウパディット外相がプノンペンを訪問し,両国関係の改善について話し合いが行われた。

(c) 経済情勢

77年のタイ経済は,75年後半以降の景気上昇をうけて活況のうちにスタートしたものの,その後景気先行き不安の中で越年した。

77年の農業生産は旱魃のため,米・メイズなどの主要作物の生産が大きく減少したため,前年比2.8%減の実質生産となつた模様である一方,工業生産は,国内での盛んな建設活動に伴い,著しい伸びを示した。

物価は,75年,76年と安定的に推移したが,77年に入り,石油製品価格の値上げや公共料金引き上げの波及効果をうけ12月の前年同月比上昇率は11%となつた。

77年のタイの貿易は,輸出の伸びは20%程度と決して低いものではなかつたが,輸入が24%強伸びたため,貿易収支赤字は8.5億ドル以上に達する模様である。このため外貨準備高は76年末14.8億ドルから77年11月末11.7億ドルヘと減少した。

(ロ) インドネシア

(a) 内   政

スハルト政権にとつて2度目の総選挙が,77年5月に実施された。

その結果政府を支持するゴルカル(職能グループ)が,政府及び軍部の強力な支援を得て,前回(71年)の総選挙に比べ,得票率の面で若干後退したものの,約62%の票数を獲得し,勝利を収めた。

しかし,この選挙結果については,回教系の開発連合党(得票率29.5%)及び旧国民党,キリスト教系の民主党(同9%)から成る野党側が,政府及び軍部による選挙干渉と集計結果に操作があつたとして反撥し,加えて学生を中心とする現状不満分子が反政府デモなどの直接行動に出るに至つた。特に国民協議会(国権の最高機関で,向こう5年間の国策の大綱の決定,及び正副大統領の選出を行う)の総会を78年3月に控え,これら不満分子は,同総会に焦点を合わせ,政府・軍部指導者,高官などの奢侈な生活,汚職などの問題があるとして,特に77年末に至り,同じく現状に不満を抱く退役軍人,インテリ・グループとともに,現政権批判集会や街頭デモをジャカルタ,バソドン,スラバヤなどの主要都市で展開した。

このため国軍首脳は,12月15日に声明を発し,学生の動きに対し警告を与えたが,学生などはかえつて態度を硬化させ,真向から政府及び軍部と対決する姿勢を打ち出した。これに対し政府は78年1月20日,有力新聞の発行停止処分とともに,学生の政治活動の凍結を命じ,かつ学生リーダー多数を逮捕した。これらの政府の措置によつて情勢は鎮静化の方向に向かつた。

(b) 外交

77年においても,インドネシア外交の最大の重点は,ASEANの域内協力の推進に置かれ,この姿勢は,同年8月のクアラ・ルンプールでの第2回ASEAN首脳会議,及び日本,豪州,ニュー・ジーランドとASEANの首脳会議などの場において示された。

また,同年10月,スハルト大統領は初の中近東訪問を行い,これらの諸国との間での政治,経済面での関係増進がはかられた。更に対中国関係では,同年11月,インドネシア商工会議所のミッションを広州交易会に派遣するなどの動きが見られた。

(c) 経済情勢

(i) 77年のインドネシア経済は,総体的にみて,順調であつたと言えよう。輸出は,主として価格要因により,石油及び非石油ともかなり伸び(総額109億ドル,対前年比27%増),一方輸入(総額62億ドル)も増加したものの,貿易収支はかなりの黒字となり,総合収支でも12億ドルの黒字となつて77年末の外貨準備は,24億ドルに達した。

75年以来の懸案であつたプルタミナ問題についても,77年8月までにはタンカー契約の主要部分が解約でき,一応の解決を見たことは,今後の経済見通しに明るい材料を加えたといえる。

(ii) 77年の石油生産は,76年を12%上回る615百万バーレルとなつたほか,60万トンのLNG(液化天然ガス)が生産され,はじめて輸出された(ほぼ全量わが国に対し輸出された)。

77年12月のOPEC総会で石油価格がすえ置かれたこととあいまつて,78年度予算総額(石油法人税収入が歳入全体の41%を占める)が対前年度比13.6%増と,比較的低い伸び率にとどまる結果となつた。

農業面では77年度の米の生産量が旱魃,虫害などにより推定1,560万トン(前年度並み)にとどまり,200万トン以上が不足したため,これを各国からの食糧援助及び商業輸入で賄つた。

鉱工業生産については,需要増などから総じて好調であつた。

(iii) 物価については,政府の金融引締め及び基礎的生活物資の価格抑制策などのため,77年には上昇率11.8%と,73年の大幅上昇以来最低の上昇率となつた。

(iv) 外国援助(77年度では歳入の18%を援助に依存している)については,77年4月のIGGI(対インドネシア政府間協議グループ)会議において,インドネシア政府は,77年度分として21億ドルの外国からの資金需要があるとして,その一部に対し援助要請を行つた。これに対してIGG1参加諸国及び国際機関は77年度中に合計約13億ドルの資金協力の意図表明を行つた。

他方インドネシア政府は,77年10月の大統領の中近東諸国訪問などを通じ,これら諸国からも積極的に援助をとり入れる姿勢を示した。

(v) 対インドネシア民間直接投資は,77年10月の投資手続きの簡素化などの投資勧誘措置にもかかわらず,引き続き低迷しており,77年は174百万ドル(同国政府許可額)であつた。

なお77年8月には,懸案の証券取引所がジャカルタに開設された。

(ハ) マレイシア

(a) 内   政

77年前半におけるマレイシア政情は,おおむね平穏に推移したのに比し,同年後半には与党国民戦線内における軋轢が顕著となつた。まず国民戦線を構成する一員であるマレイシア中国人協会内では,8月末の第28回総会において副総裁選挙をめぐる対立が生じ,またマレイシア・インド人会議内部にも指導層で対立が見られた。特にクランタン州に基盤を有するマレイ人政党である汎マラヤ回教党の同州首席大臣解任を求める動きは,同州の政情不安に発展し,この対立には連邦政府も乗り出して,11月8日同州に非常事態宣言が発せられるに至り,その結果,連邦政府が同州を直接統治することとなつた。一方汎マラヤ回教党は国民戦線を脱退したため,フセイン政権を支える与党連合の一角が崩れることとなつた。かかる政情混乱に対処するため,フセイン首相は,12月内閣の一部改造を行い,またクランタン州における民心安定にも努め,78年2月12日には非常事態宣言が撤回されるに至つた。

(b) 外   交

フセイン政権は,77年においても,ASEANを中心とする地域協力及び非同盟中立という基本政策の推進に力を注いだ。特にASEANについては,8月クアラ・ルンプールにおいて,第2回ASEAN首脳会議並びに日本・豪州及びニュー・ジーランドとASEAN諸国との首脳会議を主催し,これら会議の成功に貢献した。

またフセイン首相は9月から10月にかけての日・米・英各国訪問などを通じ,マレイシア経済の発展のための積極的な経済外交を展開した。またインドシナ諸国との関係においても,引き続き活発な交流を行い,関係改善に積極的に努めた。リタウディソ外相は5月にヴィエトナム,ラオスを,12月にカンボディアを訪問し,特にヴィエトナムとの間では天然ゴムに関する協力が具体化しつつある。

防衛面では,1月及び7月にタイ領南部の共産ゲリラ聖域に対するマレイシアとタイの共同覆滅作戦が行われたほか,インドネシア,豪州,ニュー・ジーランド,英国,シンガポールとの間で共同軍事演習が行われた。

(c) 経済情勢

77年のマレイシアの輸出は先進工業諸国の景気回復の遅れに影響されて14%の増加にとどまつた(前年の対前々年比伸び率43%)。他方輸入は前年比26.6%と大きく増大した。

外貨準備高は長期資本収支増に支えられて,550百万マレイシア・ドル増加し,約6,800百万マレイシア・ドルに達したとみられている。

国内では公共投資を中心に内需拡大が図られたが,経済成長率は8%(予測)にとどまつた。国内生産の面では,輸出の伸び悩みにより,ゴム,丸太,すずなどの主要輸出産品の生産も低調であつたが,製造業は堅実な伸びを示し,個人消費も公務員給与の改訂が刺激となつて前年比15.5%の伸びを示した。

民間投資は77年後半には回復基調に入り,年間約8%増が見込まれるが,新規投資は依然低迷を続けている。

(ニ) フィリピン

(a) 内   政

マルコス大統領は,72年9月の戒厳令布告以来,治安回復,経済開発,汚職追放などの諸改革においてかなりの成果をあげ,安定的な政権を築き上げてきた。このような実績を背景に,同大統領は77年8月に夜間外出禁止の一部解除などの戒厳令緩和策を打ち出し,「正常状態への復帰」を目指す姿勢を明らかにした。更に同大統領は12月17日に,第5回目の国民投票を実施し,予想通り90%近い圧倒的勝利をおさめた。この結果,マルコス大統領は,暫定立法議会の召集後も,旧憲法で定める大統領と,現憲法で定める首相の両職を兼務することとなり,フィリピンの政治は,引き続き同大統領の強力な指導の下に展開されることとなつた。

その後,78年1月には,暫定立法議会議員選挙を4月に実施することが決定され,フィリピンは戒厳令体制6年目にして大きな政治的転換期を迎えることとなつた。

また77年11月には,反マルコス派の中心人物の1人であるアキノ元上院議員に対して軍事法延が死刑判決を下したが,大統領がその再審を命ずるなど,反マルコス政治家の動きと,政府の対応振りが内外の注目を集めた。

ミンダナオ島を中心とする南部回教徒問題は,76年12月の停戦協定成立後一応小康状態を保つていたが,77年9月以後政府軍と回教徒ゲリラ(MNLF)間の武力衝突が再燃し,10月には政府軍将兵35名がゲリラに殺傷される事件が発生した。これに対し政府は大規模な警察行動をとる一方,ゲリラの投降呼びかけ,南部地域の経済社会開発の推進などの施策を講じている。またフィリピン共産党ないし「新人民軍」の動きも一部で伝えられたが,11月にシソン共産党中央委員会議長が逮捕されたこともあり,現在ではかかる動きはマルコス政権にとつてさほどの脅威とはなつていないとみられる。

(b) 外   交

フィリピンは,引き続きASEANの域内協力関係の緊密化に努めた。かかる協力の一環として,77年1月シンガポールのリー・クァン・ユー首相が訪比した際両国間貿易に係る関税率の一律10%引下げが決定された。また,8月のクアラ・ルンプールでの第2回ASEAN首脳会議において,マルコス大統領は,フィリピンとマレイシアとの間の長年の懸案であつたサバ領有問題につき,フィリピンが請求権を放棄する旨発表した。

対米関係では,ホルブルック国務次官補の訪比及び,イメルダ・マルコス大統領夫人,ロムロ外務長官の訪米などを機に,いわゆる「米国離れ」の傾向に変化が見られた。76年秋より中断されていた比米基地交渉も,11月のニューサム新米国大使の着任とともに本格的に再開された。

対共産圏外交では,12月にホーネッカー東独国家評議会議長及び78年1月にはグェン・ズイ・チン・ヴィエトナム外相が訪比し,それぞれ貿易協定などに署名した。また,11月にヴィエトナム大使,翌月にソ連大使がそれぞれ初めてマニラに着任した。

また多国間外交の場においても,フィリピンは活発な動きをみせ,

79年のUNCTAD総会のマニラ開催が正式に決定された。なお第33回国連総会のマニラ開催は,結局見送られることとなつた。

(c) 経済情勢

77年のフィリピン経済は,内外の困難な諸条件にもかかわらず比較的順調に推移した。77年のGNPの実質成長率は6.1%(推定)と,昨年を若干下回つたものの,一応の水準を保つた。物価上昇率も8.0%(推定)と比較的落着いた動きを示した。

77年の輸出は前年比16.4%増であつたのに対し,同年の輸入は10.6%増にとどまり,貿易収支の赤字幅は686百万ドルとなつた。輸出増の主要因はココナッツ,ニッケル,砂糖,繊維製品などの輸出の好調にあつた。また,国際収支は貿易収支の改善と積極的な外資借入れにより164百万ドルの黒字を記録した。更に対外債務の増加も若干落ち着きをみせ,77年末で6,466百万ドルとなつた。

(ホ) シンガポール

(a) 内   政

77年のシンガポールの内政は,76年末の総選挙における与党の圧勝の下に,新しい改造内閣を以つてスタートした。国民の信任を新たにしたリー政権がいかなる新しい国内的施策を打ち出すかが注目されたが,引き続く世界的不況の中で,外部環境の影響を受けやすいシンガポールとしては,内外の諸変動に対応して同国の社会を慎重に調整してゆく必要があり,このために,従来の内政上の諸施策を強化推進する方針がとられた。

具体的には例えば二言語主義の教育政策に関連し,中国語系の南洋大学に英語を導入すべく,カリキュラムの改革を図つたことなどが挙げられる。このほか,政府の住宅建設を中心とする公共投資をテコに,経済が比較的安定裡に運営されたこともあり,77年は内政上大きな破乱もなく推移した。

(b) 外   交

リー首相は,クアラ・ルンプールでの第2回ASEAN首脳会議を頂点として精力的な首脳外交を展開した。シンガポール外交は,米,中,ソの多角的勢力均衡の上に立つて,ASEANにおける協調を主軸としつつ,日本,豪州,ニュー・ジーランド,ECなどの域外国に働きかける戦略をとつているといえよう。ASEANについては,その域内協力が必ずしもシンガポールの期待するようなテンポで進まないことに不満を有しながらも,ASEANの結束を維持することを第一として,域内関税引下げ,ディーゼルエンジン・プロジェクトの推進などにつき,域内諸国と忍耐強い交渉を行つた。

対インドシナ関係では,10月にヴィエトナム航空機の乗つ取り事件犯人の引渡しをシンガポールが拒んだため,11月に予定されていたヴィエトナム貿易使節団の訪問が取り止められるという事態が起こつたが,その後関係は改善の方向に向かつた。

またリー首相は対先進国外交を積極的に推進し,5月にわが国を訪問したほか,9月には米国,カナダ,ベルギーを訪問し,それぞれ首脳との会談を行つた。

(c) 経済情勢

77年のシンガポール経済は,世界的な景気の停滞という悪条件にもかかわらず76年に引き続き比較的順調に推移し,商業(観光を含む),運輸業及び製造業を牽引車として,7.8%(予測)の成長を遂げた。

雇用機会も増加し,登録失業者数も10月末で約3万人と記録的な低水準にとどまつた。他方,消費物価も年率約2.9%と依然小幅の上昇にとどまつた。対外貿易は,輸出,輸入とも順調に伸び(各々23.5%,13.9%増),国際収支も黒字を続け,外貨準備高は9月末で8,847.9百万シンガポールドルに達した。

(ヘ) ビ ル マ

(a) 内   政

民政移管後4年目を迎えたビルマにおいて,77年には,全般的にみて,新しい政治体制が定着する傾向が見られた。

ただし,内政面においては,2度にわたる党・政府幹部の大規模な人事異動が行われるなど,注目すべき動きが見られた。すなわち,2月には従来の政治及び経済諸政策の適否などを検討するための第3回党大会が開催され,その結果,セイン・ウィン首相及びルウィン副首相を含む多数の党・政府幹部が党中央委員会から追放された。これら幹部は,引き続き3月に開催された人民議会第7会期中,党の政策の実施にあたり目標を達せられなかつたことなどを理由に,閣僚などの要職を辞任した。

しかるに9月に至り,上記第3回党大会で新たに党・政府の要職に就いた者などに対する逮捕・取調べが開始され,その結果トゥン・リン運輸通信相,タン・セイン計画財務相,チョウ・ゾオ鉱山労働相が閣僚を辞任した。かかる党内の混乱に決着をつけるため,11月に急拠臨時党大会が召集された。その結果,中央委員及び中央執行委員の大幅入替えが行われ,新たに現役軍人が多数任命された。これは78年1月の第2回人民議会総選挙を控え,党内の体制固めを図つたものとみられている。

他方,ビルマ共産党(BCP),ウ・ヌ派亡命グループ及び少数民族など各種反乱分子の活動は,77年を通じ引き続き執拗に続けられた。

特に,10月には,BCPが北部シャン州で政府軍と1ヵ月間に25回にわたり交戦し,双方に多数の死傷者を出すという,近年にない大規模な戦闘が行われた。

(b) 外   交

外交面においては,77年を通じ,近隣諸国を中心に各国との交流が一段と活発化した。特に,トウ頴超中国全人大会常務委副委員長のビルマ訪問(2月),及びネ・ウィン大統領の2度(4月及び9月)にわたる中国訪問など,中国・ビルマ両国要人の交流が行われた。更にゼアウル・ラーマン・バングラデシュ大統領のビルマ訪問(7月),ネ・ウィン大統領による北朝鮮(9月)及びカンボディア(11月)訪問など首脳の交流を通じ,各国との関係強化がはかられた。

(c) 経済情勢

近年における米作を中心とする比較的好調な農業生産,並びに経済改革の成果などもあり,ビルマ経済は全般的にみて,77年を通じかなりの改善がみられ,一応の拡大傾向をたどつたと言えよう。しかし実質国民所得は依然低いレベルにあり,国民生活が大幅に改善されるには至つていないとみられている。

他方,政府は4月より従来の長期経済計画(77/78年度は第2次4カ年計画最終年度)を基礎としつつ,新たに「開発5カ年計画」(77/78から81/82まで)をスタートさせた。同計画では,農業及び運輸・通信分野の開発に最重点を置き,年間平均成長率6%達成を目標としている。

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(2) わが国とASEAN5カ国及びビルマとの関係

(イ) タ   イ

経済協力関係として,77年6月に第4次円借款(249億円)の交換公文が締結されたほか,第5次円借款として8月,福田総理大臣のタイ訪問の際及び翌9月ターニン首相の来日の際に各々275億円及び50億円の計325億円を供与する旨のプレッジが行われた。また無償援助として東北タイ技能開発学校建設のため10億円,食糧増産援助のための9億円を供与する旨の交換公文が8月及び12月にそれぞれ締結された。

(ロ) インドネシア

日本とインドネシアの2国間関係は,近年特に安定的に推移しており,77年においてはかかる基調は一層鮮明となつている。77年8月の福田総理大臣のインドネシア訪問に際しては,両国政府首脳の間で率直な意見交換が行われ,また各分野における協力関係拡充(IGG1借款490億円の交換公文締結,65億円の食糧借款の供与の意図表明など)が約束され,更にスハルト大統領の訪日招請が行われた。

かかる首脳間の交流に加え,両国間の相互理解を深める努力が各種レベルで続けられ,両国の官民各層の対話の場である日本・インドネシア・コロキアムは77年中に東京(3月)及びジャカルタ(11月)で2度にわたり開催された。

また,わが国は,ASEAN工業プロジェクトに対する協力の手始めとして,インドネシアの尿素肥料プロジェクトに対する協力を具体化しており,78年2月には,わが国より同プロジェクトについてのフィージビリティ(実現可能性)調査団を派遣した。

(ハ) マレイシア

77年のわが国とマレイシアとの関係は,6月の外交事務レベル協議の開催に始まり,8月の福田総理大臣のマレイシア公式訪問,及び9月のフセイン首相の訪日など画期的な進展をみせた。この間,わが国は第4次及び第5次の円借款(共に210億円)の供与を決めた。また民間レベルにおいても,11月に第1回日本・マレイシア経済協議会が開催された。このような交流により,従来西欧への関心が強かつたマレイシアにおいて,対日関心が目覚ましい高まりを示し,両国関係の緊密化がはかられた。

(ニ) フィリピン

77年における日比関係は,4月のマルコス大統領の国賓として2度目の訪日,8月の福田総理大臣の訪比を中心に,その緊密さが再確認された。また,同年においてわが国は第6次円借款として275億円を供与し,また食糧増産のための無償資金協力も行つた。

一方77年における両国間の貿易収支は,約2億ドルの比側赤字となり,貿易バランス問題は76年に引き続き比側の重要な開心事となつた。

懸案の通商航海条約改定交渉は,77年3月以来,78年1月までに計4回交渉が行われたが,南北問題を背景とする比側の主張とわが方の立場との間には,依然として隔たりがみられた。

(ホ) シンガポール

77年は,5月のリー首相の訪日と,8月の福田総理大臣のシンガポール訪問により,両国関係にとり記念すべき年となつた。リー首相の訪日に際しては,シンガポールが極めて重視してきた懸案である石油化学プロジェクトに対するわが国の協力が本決まりとなり,また福田総理大臣のシンガポール訪問では,両国首脳間の対話などを通じ,両国の友好親善関係の一層の強化が図られるとともに,日本・シンガポール合同技術訓練センターに関する協力が進められることとなつた。

(ヘ) ビ ル マ

77年においては,両国間の友好関係増進のため積極的な努力が引き続いて行われた。特に8月の福田総理大臣のビルマ訪問により,両国首脳の相互理解が一層増進された。また,総理大臣訪問の機会に,ネ・ウィン大統領及びマウン・マウン・カ首相に対し訪日招請が行われた。他方,経済協力分野においては,旧4プロジェクトに対する195.4億円,商品借款90億円の交換公文が締結されたほか,6億円の食糧増産援助(無償協力)が決定されるなど一層の協力関係の拡充が図られた。

<要人往来>

<貿 易>

<民間投資>

<経済協力(政府開発援助)>

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