-アジア地域-
3. 中国及びモンゴル
(a) 概 観
77年の中国内政においては,「文革路線」からの脱却の動きが顕著となり,今後の長期的経済発展をめざし指導体制の整備及び政策調整に大きな努力が払われ,かなりの成果を挙げた。
外交面では,ソ連との対決を主軸とすることに変わりはないが,「第2世界」を重視する姿勢を示すなど全般的に現実主義的色彩が強まつた。
また,経済面では,自然災害などもあり農業は不振であつたものの,工業生産は部門により差異はあるが,全般的に顕著な伸びを示し,76年の低迷した経済を建て直し,今後の経済建設に向けての基礎づくりにかなりの成果を上げたものとみられる。
(b) 内 政
77年は,華国鋒政権が「天下大乱から天下大治に至る」との目標を目指し,着々と体制固めを行つた年と言うことが出来よう。
(i) トウ小平復活
1月には,周恩来一周忌と相前後して,北京の天安門広場などにトウ小平復活を要求する壁新聞が多数見られ,トウ小平復活の兆候が現われ始めた。
3月には,中央工作会議が開催され,来るべき「3中全会」(中国共産党第10期中央委員会第3回全体会議)で,トウ小平を正式に復活させることが決定されるとともに,「4人組」によつて「3大毒草」と攻撃された3つの文献の名誉が次々と回復された。
7月には,「3中全会」が開催され,華国鋒の党主席,党中央軍事委主席昇格追認,「4人組」の公職からの追放とともにトウ小平を失脚前のすべての職務に復帰させる決定がなされた。
(ii) 諸会議・運動の展開
年初以来各種の業種別全国会議を積重ねた上で,4~5月「大慶会議」が開催され,経済全般にわたる一大増産運動が展開された。
また,軍に関連しては,春以来「筋金入り第六中隊」(政治思想,軍事訓練,紀律各面で優れたものとして表彰された中隊),雷鋒(思想,紀律,軍務各面に優れ62年殉職した分隊長)に学ぶ運動を展開し,おりに触れて国防の近代化を推進する姿勢を示し,7月末より8月初め建軍50周年行事を大々的に行つた。
(iii) 11全大会の開催
かかる成果のうえに立つて中央指導部は,8月「11全大会」(中国共産党第11回全国代表大会)を開催し,華国鋒主席が党中央を代表して行つた「政治報告」,葉剣英副主席が行つた党規約および「党規約改正に関する報告」を採択するとともに,中央委員会(委員201名,候補委員132名)の選出を行い,続いて開かれた中国共産党11期中央委員会第1回全体会議において新しい党中央政治局メンバー(第3部資料編II付表3.(2).(ハ)参照)を選出した。
これによつて,華国鋒主席,葉剣英,トウ小平,李先念,汪東興各副主席を中心とする指導体制が党内において確立した。「政治報告」は,11年間にわたる文革が「4人組」粉砕を目標として勝利のうちに幕を閉じた旨宣言した上で,党内民主を強調するとともに,旧幹部の尊重,知識分子の役割重視,「4つの近代化」(今世紀内に農業,工業,国防,科学技術の近代化を実現し中国の国民経済を世界の前列に立たせること)の達成,華僑を含めた「統一戦線」の強化などをうたい,国内の安定,団結と経済建設を推進する方向を鮮明に打ち出した。新党規約は,「4つの近代化」達成との目標を明記したほか,「民主集中制」,特に党内民主を強調し,党員の権利義務につき前の規約に比し詳細な規定となつた。
(iv) その後の国内動向
その後中央指導部は,毛沢東一周忌(9月)に際し,毛沢東記念堂落成式を挙行するなど,毛主席の後継者としての中央指導部の正統性を強調する動きを見せ,また,「4人組」追放1周年には「4人組」に対する摘発,批判を一層徹底的に進めるよう呼びかけた。
他方,中国にとつて次の大きな政治日程たる第5期全国人民代表大会については,10月に開かれた第4期全人大会常務委第4回全体会議において78年春,中国人民政治協商会議全国委員会と同時に開催することが決定された。同大会においては政府活動報告,憲法改正,国家機構人事の選出が議題となることが明らかにされた。これをうけて,78年2月までに計29を数える省市自治区のすべてにおいて同大会代表選出と地方革命委員会再建を兼ねた人民代表大会が順次開催された。
科学技術の分野では,全国科学大会が78年春に開催される旨,77年9月党中央より通知が関係部門あて発出された。教育面では,大学入学者のうち2~3割は高校新卒者を農村へ下放することなく直接大学へ進学させ,また,文革以来下放された青年にも大学受験の機会を与えるため全国統一入試が12月実施されるなど,従来の教育制度を改め,より現実的な教育政策が打ち出された。
(c) 外交
(i) 対ソ関係
中国は党11全大会などにおいてソ連「覇権主義」に反対する「最も広範な統一戦線」結成の考え方を明確にし,言論面での対ソ非難を継続した。
一方,3年半ぶりに開かれた中ソ国境河川合同委員会での部分的合意(10月)及び在北京ソ連大使主催の10月革命60周年記念レセプション(11月7日)に11年ぶりに中国外交部長が出席するなど同国との国家関係の維持にあたつては,より冷静に対処していくとの姿勢がみられた。
(ii) 対米関係
新政権成立後の米中双方は,上海コミュニケが両国関係の基礎である旨強調したが,台湾問題については,中国がいわゆる3条件を堅持し,米国は台湾の安全保障が配慮されるべしとの立場を崩さなかつた。
8月のヴァンス国務長官の訪中は,両国新指導者間の初めての直接対話であり,双方は相互理解が深まつた点を評価した。また米上下両院議員などの訪中,中国の大型石油代表団の訪米(78年1月)など人事交流は活発であつた。
(iii) 対アジア関係
北朝鮮との関係では,華主席ら中国要人が離任前の玄峻極大使を接見(1月)するなど特別の配慮を示し,朝鮮問題点に関する北朝鮮の立場支持を繰り返し表明した。
インドシナとの関係では,ポル・ポト党書記の訪中(9月),陳永貴副総理(12月),トウ頴超全人大会常務委副委員長(78年1月)のカンボディア訪問を通じ,中国はカンボディアとの緊密な関係を強調し,ヴィエトナム・カンボディア紛争については慎重に対処しつつも間接的にカンボディア側支持の姿勢を示した。
中国はASEAN首脳会議の開催など同地域内および日本など域外先進諸国との協力関係強化の動きを歓迎,支持した。
78年初頭,トウ小平副総理がビルマ(1月),ネパール(2月)を訪問し,両国との友好関係の強化をはかつた。
(iv) 対欧州関係
東欧関係では,チトー・ユーゴースラヴィア大統領の訪中に象徴される両国関係の緊密化が注目された。アルバニアは7月以降中国の「3つの世界」論を公然と批判したが,中国は間接的に反論するにとどまつた。
中国は,西欧諸国,特に仏,英,西独との関係緊密化に努め,ゲンシャー西独外相(10月),バール仏首相(78年1月)が訪中した。
(v) 対アフリカ関係
アフリカ諸国指導者に対する招待外交は従来同様活発であつた。
また,アフリカにおけるソ連の「覇権主義」を厳しく非難した。
(d) 経済情勢
(i) 華国鋒政権は,「4人組」失脚後,76年末の第2回大寨会議で,77年の4つの任務の1つとして「国民経済向上」を挙げ,77年8月には,11全大会で「4つの近代化」の達成をかなめとする経済重視政策を打出した。その一環として77年中に懸案となつていた全国工業大慶学習会議(77年4~5月)をはじめ,ほとんどの経済分野を網羅する全国会議が開催された。これらの会議では,「4人組」が残した経済面への悪影響が明らかにされるとともに,その悪影響を一掃した現政権の経済政策の周知方について精力的な運動が展開された。さらに,企業の管理体制の改善をはかり,生産増大を目指す社会主義労働競争が全国的に展開されるとともに,前掲大慶会議では賃上げが公約された。(10月に実施され,職員・労働者の60%の賃金が調整された。)これらの生産意欲を高揚する措置がとられたことなどにより,生産は,77年春以降本格的に回復しはじめ77年全体としてはまずまずの成果を収めた。
(ii) 農業生産は,「災害の規模と総被災面積からすれば解放以来最悪の年」といわれた深刻な自然災害により低調で,穀物生産高は76年並み(2億90~2億95百万トン)とみられる。
他方,工業生産高は年初の計画の対前年比8%増を大幅に上回り,14%増以上と報ぜられている。この伸長率は第4次5カ年計画期の平均増加率9.1%を大幅に上回るものであつた。これらから77年度の経済成長率を試算すると前年比9%増になると推定される。
産業別動向については石炭の生産高は,76年比10.2%増(推計約5億38百万トン),原油生産高は76年比8%増(推計約90百万トン),発電量は同じく9.8%増(推計1,400~1,430億KWH),粗鋼生産高は76年比12.7%増(推計約23百万トン),化学肥料は30%以上も増加したと報ぜられている。
(iii) 77年の対外貿易額は貿易総額で142億20百万米ドルと前年比8.6%増となり,うち輸出は約9.6%増,輸入は約7.4%増とみられている。輸出入バランスは76年を上回る,11億12百万米ドルの出超を記録する模様である。なお,中国側の資料によると中国の貿易相手国・地域は160に及んでおり,その輸出品目構成は製造品が63%,農副産品が37%となつている。
(a) 内 政
6月19日,4年振りに,第9期人民大会議選挙が行われ,これに基づく第1回人民大会議が同27日開催された。この会議の結果ツェデンバル人民大会議幹部会議長が再選されたほか,閣僚会議メンバー全員が再選され,引き続きツェデンバル指導体制は不動であつた。77年においては,76年に開催された第17回党大会の指示を実践することに重点が置かれた。
(b) 外 交
78年2月1日現在84カ国と外交関係を有するが,77年もソ連を積極的に支持する外交政策を堅持している。他方,中国との関係では,貿易,国際列車の運行など実務的関係が継続されているのを除き,みるべきものはなく,モンゴル各紙には毛沢東死後ひかえていた中国非難記事が再び掲載されるようになつた。
(c) 経済情勢
天候不順のため,農牧業は76年に引き続き不振で牧畜においては成長目標が未達成であつた旨発表された。工業においても畜産品に原料を依存する部門が不振であつたため前年比4%増にとどまり,目標より1.2%下回つた。
(a) 実務関係
(i) 海運民間協議団体の設立など
76年8月の海運民間協議団体の設立及び右代表事務所の相互設置に関する交換公文に基づき,77年9月,日本側団体として「日中海運輸送協議会」が設立され,日中双方の代表事務所が東京,北京に設置された。
(ii) 日中気象回線の開設
77年9月25日北京で,東京-北京間の気象回線設立に関する取極」が調印された。これにより同年12月より日中相互間に気象資料の交換が開始された。
(iii) 日中商標協定の締結
74年以来続けられていた日中商標協定交渉は77年9月ようやく妥結し,同月29日北京で協定が調印された。この協定は日中間の商標の保護に関し,相互に最恵国待遇を与えることとなつており,78年1月31日には発効通告に関する書簡交換が東京で行われ,3月1日に発効をみることとなつた。
(iv) そ の 他
3月には第2回日中貿易混合委員会が,12月には日中漁業共同委員会第2回年次会議が開催されたほか,10月には,77年の生糸,絹製品の輸入量に関する取極が結ばれた。
(b) 日中経済関係
わが国の輸出を商品別にみると化学肥料,鉄綱の伸長が顕著である反面,機械設備は76年に引き続き減少した。他方,輸入は商品別にみると動物性生産品及び植物性生産品中採油用の種子を除き一般に増大した。単一品目では原油,生糸の伸びが顕著であつた。
日中長期貿易取極は,77年春訪中した経団連代表団と中国側との間で締結について基本的合意が成立していたが,その後,東京における稲山嘉寛・劉希文会談及び北京における日中長期貿易取極推進委員会訪中団と中国側との交渉などを経て,78~85年の間に日本よりプラント,建設資機材を,また中国より原油,石炭を輸出し,往復で200億ドルの貿易を行うことについて合意に達し,78年2月16日北京で調印された。
(c) 人的往来及び文化などの交流
77年における日中間の人的往来は,政治,経済,学術,文化,スポーツの各分野に及んでいるが,とくに経団連をはじめとするわが国財界首脳の訪中が相次いだ。
外務省としては,77年11月張香山中国放送事業局長(中日友好協会副会長)を団長とする中国報道代表団(一行10名)を国交正常化後初めての正式代表団として招待した。77年中国からの来日団体の傾向としては,自然科学関係の学者,技術者が,わが国の大学,研究所,工場などの施設視察及び意見交換のため来日する件数が急増しており,科学技術を含む中国の「4つの近代化」政策を反映するものとして注目される。
また,中国から種々のスポーツ代表団が来日したほか,わが国において中国展が開催され,天津歌舞団(5月),中国武術団(10月)の公演が行われた。
なお,77年1年間の引揚者及び里帰者は次表のとおり。
77年,わが国とモンゴルの関係には,着実な進展が見られた。経済協力の分野では,カシミヤ,ラクダ毛加工工場の建設のためわが国政府よりモンゴル政府に対し50億円を限度とする贈与を行うことをさだめた「経済協力に関する日本国とモンゴル人民共和国との間の協定」が締結されたことが特記される(3月17日署名,8月25日発効)。この協定に基づく経済協力は,アジアの発展途上国としてのモンゴルの経済建設に寄与すると同時に,日モ関係においては,かつて30~40年代に生じた戦闘行為に由来する一種のわだかまりをも払拭し,今後の両国間友好関係の促進に多大の貢献をなすものと期待される。このほかわが国政府はモンゴル政府に対し,小型農業機械の贈与を行つた。