-国際経済など多数国間問題解決への努力-
第2節 国際経済など多数国間問題解決への努力
(1) 77年の世界経済情勢
73年の石油危機以来,深刻な困難に直面している世界経済は,75年央以降景気回復基調にあるものの,その速度は76年後半より鈍化し,77年は全体としてその回復は不十分なものに留まり,景気の停滞は長期化の様相を呈した。その中で米国経済は,個人消費,住宅投資などの最終需要の堅調さに支えられて比較的順調な拡大を続けたが,欧州では西独経済の拡大が不十分であつたことをはじめ総体的に景気停滞色が強まつた。特に,若年層を始めとする失業問題が深刻化し,社会・政治問題化の傾向がみられた。かかる先進国経済の停滞を反映して,世界貿易もその増勢が鈍化し,76年の10.6%に対して77年においては6%程度に留まつたものとみられる。また深刻化した失業問題,特定部門における困難などを背景にして,一部先進国において保護貿易主義的圧力が高まり,その世界貿易への悪影響が懸念された。
物価については,西欧における安定化政策の効果,国際商品市況の落着きなどから総じて騰勢は鈍化したが,依然として高水準にあり,ロンドン主要国首脳会議で強調されたように,インフレ抑制は引き続き各国経済政策の最優先課題の一つとなつた。
国際収支不均衡問題は,77年の先進国経済において特に注目された問題の一つであつた。OPEC諸国の大幅黒字,先進民主主義国及び非産油開発途上国の赤字という世界的な経常収支不均衡の形態は,77年も引き続き継続したが,先進民主主義国の国際収支状況にはかなりの変化がみられた。
すなわち,英,仏,伊などのこれまでの赤字国の経常収支は目立つて改善を示した一方,米国は,石油輸入の急増,景気回復局面の相違などから過去最高の大幅な赤字を記録した。他方,西独は,黒字を続け,わが国の黒字も大幅に増大した。
以上のような国際経済の動きを反映して,国際通貨情勢は波乱含みに推移し,特に9月末以降ドルは,円,マルク,スイス・フランなどをはじめとする主要通貨に対し大幅に下落し,EC共同フロート内にも緊張があつた。
このような情勢の下,経済規模が大きく,かつ,比較的経済実績のよい日,米,西独の各国がより一層景気拡大を図るよう期待されるとともに,特に,経常収支が黒字の日本及び西独に対する内需拡大の要請が強まつた。
エネルギー問題については,77年の石油需給は,需要面では,米国を除く主要先進消費国における景気回復の遅れ,また供給面ではアラスカ,北海,メキシコなどからの生産増大もあり,緩和状態が続いた。しかしながら80年代には世界の石油需給関係が逼迫化するとの予測もあり,中,長期的には楽観できない情勢にある。また原油価格は,76年12月のOPECドーハ総会の決定を受けて,1月1日から2本立て価格が実施されたが,7月に一本化された。更に12月のカラカス総会においては価格引上げが見送られ,当面価格は事実上すえ置かれることとなつた。
国際経済における南北問題の占める比重は,ますます高まりつつあるが,この問題に関しては2.において詳述する。
(2) 国際協力の進展
以上のような経済情勢において,保護主義の圧力に抗し,失業,国際収支の不均衡,インフレなどの諸困難を克服し,世界経済の持続的成長を達成するための努力が77年を通じ継続された。特に,世界経済における各国の相互依存性と世界経済の諸問題の間の相互関連性がますます深まる中で,先進民主主義国間及び先進国と開発途上国間の国際協力が精力的に行われた。わが国もこれらの国際協力において積極的役割を果たし,世界経済の安定的発展に貢献した。
例えば,77年5月にロンドンで開かれた主要国首脳会議においては,世界経済の運営に主たる責任を有するわが国を含む先進民主主義国の7首脳が景気の回復,国際収支,貿易,エネルギー,南北問題などの広範な分野につき堀り下げた議論を行つたが,各国首脳が当面する諸問題の解決のため一層の協力を行う政治的意思を明らかにし,これを克服する決意と自信とを表明したことは,世界経済が戦後最大の試練に直面している時だけに極めて意義深いことであつた。
同会議は,77年から78年にかけての世界経済の運営にはずみと指針とを与え,各国とも同会議で示された共通の目標に向けてそれぞれ努力を行つた。すなわち,同会議は,世界景気の回復につき先進諸国間の2極分化傾向を認識した上で,各国がそれぞれの経済情勢に見合つて成長政策ないしは安定化政策をとり,もつて全体として世界を持続的成長の軌道に乗せることを目標として合意したところ,関係各国ともこの方向に沿つた努力を鋭意行つてきている。
また貿易面では保護貿易主義を抑圧し,開放的な国際貿易体制を強化するため強い政治的指導力を発揮することが約束され,特に東京ラウンドの積極的推進が合意された。東京ラウンドは,77年には米国,ECの交渉責任者が交替したこともあり,実質的な進展が図られ,11月には工業品の非関税措置,農産物の関税,非関税措置について各国から交渉相手国に対し要求リストが提出された。78年1月には上記リクエストに対する解答及び工業品の関税引下げがいわゆるイニシアル・オファーとして,日本,米国,ECなどより提出され,交渉は本格的段階に入つた。
貿易に関しては更に経済協力開発機構(OECD)において,保護主義的な圧力の増大にかんがみ,いわゆる「貿易制限自粛宣言」(貿易プレッジ)が75年,76年に続き更新された。
国際金融面では,国際通貨基金(IMF)において,77年8月に補完的融資制度(ウイッテフェーン構想)の設置が決定され,国際収支困難に直面している国に対する国際的協力措置が強化された。
エネルギー分野における先進国間の協力は主としてIEAにおいて行われた。すなわち,世界の石油需給が80年代にも逼迫化する危険があるとの事態を深刻に受けとめたIEA加盟主要先進消費国は,77年10月のIEA閣僚理事会において輸入石油依存度低減目標を採択した。南北問題分野では,国際経済協力会議(CIEC),国連貿易開発会議(UNCTAD)一次産品協議を始めとして南北間の対話が精力的に行われたが,その内容及びわが国の寄与については第2節に詳述する。
(3) わが国の国際協力
世界経済が多難な時代にあつては,ともすれば各国の利己主義が前面に出て連鎖反応的な混乱を惹起しがちであるが,77年の世界経済においては,上記にその一端を掲げたとおり,各国の国際協力により,混乱と対立の激化が食い止められ,回復と安定化の道が模索された。
わが国は,先進民主主義国としてその経済力にふさわしい役割を国際社会で積極的に果たし,世界経済の回復に貢献するとの立場から,2国間及び多国間で国際協力のための努力を行つた。
特に,わが国は,数次にわたる景気対策に続き,内需拡大の見地より昭和53年度経済成長率に関し先進諸国中最も高い目標を決定したが,これは,わが国経済のためのみならず,世界経済全体の回復に貢献することを目的としたものであり,また,国際的に急務となつている経常収支黒字幅の縮小にも資することを目指したものである。
また,わが国は,77年秋以降対外経済対策を策定し実施しているが,これは,東京ラウンドヘの積極的取組み,関税の前倒し引下げ,残存輸入制限品目の割当枠の拡大,部分自由化,標準決済制度,政府調達など貿易に影響を及ぼす措置の改善,輸入金融の拡充,節度ある輸出,備蓄,前払い輸入などの推進,経済協力の推進を中心としている。これらの措置は,自由貿易体制を守るべくわが国の国内市場の一層の開放化を目指すとともに,主要先進諸国との通商上の調整に資するものであり,このようなわが国の努力は,米国,ECなどからも高い評価を受けた。
今後とも厳しい国際経済環境が継続することが予想される中で,わが国としては,上記諸施策の推進に遺漏ないことを期しつつ,国際協力を一層推進することが必要となろう。
(1) 77年の開発途上国の現状は,国内総生産及び1人当りの所得の伸び率の低迷,経常収支赤字など,基礎的指標について,76年と基本的には大差のないまま推移した。
77年の南北問題の主要な出来事は,国際経済協力会議(CIEC)が1年余にわたる南北対話を継続した後終了したこと,及び第4回国連貿易開発会議(UNCTAD)の主要懸案事項である一次産品共通基金交渉会議及び債務問題会合などが開催されたことであつた。
CIECは,石油危機により産油国と消費国との間の対話の必要性が認識されたことを背景にフランスのジスカール・デスタン大統領が提唱し,エネルギーのみならず,一次産品,開発,金融の諸問題につき76年以来対話を重ねてきた。しかし,77年6月の閣僚会議は,エネルギー対話の継続などの問題で南北間の意見調整に成功せず,結局,未合意点と合意点とを並記した報告書を採択して終了した。
開発途上国は,CIECがエネルギーを含む一次産品の購買力の保全,一括自動債務救済などにつき先進国からの譲歩が得られず,新国際経済秩序樹立の目標に程遠い成果しか得られなかつたことに不満を持つている。しかしながら,エネルギー問題についての初の産消対話が一年余にわたり継続したこと,また他方で共通基金設立の合意,実物資源移転の効果的かつ実質的な増大の合意,更には10億ドルの「特別緊急援助計画」などの顕著な成果が得られたことは否定しえず,これらは,南北対話の歴史においてもそれなりに重要な意義を有していると評価しうる。
同年における注目すべき出来事の他の一つは第4回国連貿易開発会議(UNCTAD)において採択された「一次産品総合計画」の履行,なかんずく,その中核である「共通基金」交渉会議の開催であつた。77年3月の同会議は,共通基金設立の約束を求める開発途上国と同基金の内容が明確にならなければ約束できないとする先進国が対立し物別れに終わつたが,前述のCIECにおける共通基金設立の合意を踏まえて開催された77年11月の再開会期は,個別商品協定の緩衝在庫資金の預託による共通基金(いわゆるプーリング・メカニズム)の設立を主張する先進国と,政府直接拠出により右を設立せん(いわゆる中央資金としての共通基金)とする開発途上国の主張が対立したことなどにより,再び物別れに終わつた。これに対し,「一次産品総合計画」対象18品目に関しては,新砂糖協定が合意され,また天然ゴムについても緩衝在庫を伴う商品協定交渉を行う可能性が強まるなどの成果を挙げている。
また長年にわたり南北問題の主要懸案事項であつた累積債務問題については,CIECでの合意到達に失敗した後,UNCTADにおいて討議が重ねられてきた。この結果,78年3月の貿易開発理事会閣僚会議において,貧困国の債務・開発問題の解決のため,既存の2国間政府開発援助(借款)の条件再調整あるいは,それに見合う措置を債権国がとるべく努力することに合意し,本問題での大きな前進が見られたことは評価しうる。
また,開発途上国の要求している新国際経済秩序(NIEO)については,国連の第63回経済社会理事会において,米国が,より公平な国際経済秩序へ向けての動態的な概念としてのNIEOを原則として支持する旨表明した結果,NIEOの概念を原則的に容認し,その内容は今後の南北間の話合いを通じて固めていくというのが,先進国側の考え方の大勢となつたと見ることができよう。かかる認識を踏まえ,80年代の新国際開発戦略(新IDS)はNIEO樹立を目指して策定されることとなろうが,今後は,新IDSの内容に何を盛り込んでいくかが,南北対話の重要な焦点となろう。
(2) わが国は,77年においても引き続き南北問題の解決に向けて,各国と協調し,積極的な協力を行つた。
(イ) 先ず貿易面についてみれば,(i)77年8月の日本,ASEAN共同声明において,国際錫協定緩衝在庫へのわが国拠出意図表明を行い,(ii)一般特恵制度に関し,上限(シーリング枠)の算定基準年次を68年から原則として75年に改め,これにより約1.8倍の増枠を実施し,(iii)78年1月には新国際砂糖協定への参加を決定し,(iv)また同年1月にGATT多角的貿易交渉(MTN)東京ラウンドの一環として関税非関税及び農業分野のオファーを提出するなど具体的な措置を逐次とつてきているのはこの証左である。
(ロ) 政府開発援助(ODA)の量については,77年において総額で76年の約3,277億円から約3,825億円へと16.7%の増加となつた。しかしながら対GNP比率においては76年の0.20%から0.21%へと上昇したものの,依然,DAC加盟諸国水準(76年平均0.33%)からは程遠い状態にある。これは,わが国の南北問題に対する基本姿勢に照せば極めて不満足な状況といえよう。わが国は,ODAの対GNP比0.7%の目標を受諾しており,この目的達成のため最大限の努力を行うこととしている。かかる政策意図の表われとして,わが国は,CIEC,OECD閣僚会議などの場において「今後5年間に倍増以上のODA拡大に努力する」旨明らかにした。この「5年間倍増以上」の基本方針は,77年8月に福田総理一行がASEAN諸国及びビルマを訪問した際にも繰り返し述べられている。かかる背景において編成された78年度のODA事業予算は,総額6,354億円と前年度比15.8%増となつている。
(ハ) 更に,わが国は,前述のCIEC及びUNCTAD並びに国連システム内のその他の諸会議等において,一次産品共通基金,債務問題など,南北問題を構成する諸問題の討議に積極的に取り組んできている。
77年初頭登場した米国のカーター政権は,その最重要政策の一つとして,核拡散防止を掲げ,このため,自国の原子力平和利用計画に厳しい規制を加えるのみならず,わが国ほか諸外国にもこれに同調することを強く求めた。
わが国は,西欧諸国とともに,核拡散防止にはできる限り協力するとの立場をとりつつも,原子力平和利用に過当な規制を加えることには反対であり,特に,原子力発電所の使用済み燃料を再処理して得られるプルトニウムを再利用することはウラン資源の有効利用を図るためには不可欠である旨を強調した。
核不拡散と原子力平和利用の両立をいかにして図るかということに関するこの問題については,77年5月の先進国首脳会議でも取り上げられた後,原子力平和利用にとくに深い関心を有する先進及び開発途上諸国間の国際協議(「国際核燃料サイクル評価」(INFCE)と呼ばれる。)により,2年間の予定で検討されることとなったが,わが国などの努力において,この協議への参加中も既存の原子力平和利用計画実施を続けてよいことが合意された。
他方,わが国は77年より,東海再処理施設の運転開始を予定していたところ,上記の米国の新政策との関連で同再処理施設における米国産ウランの再処理問題に関し日米間に立場の相違が生じた。結局日米双方が忍耐強く交渉を続けた結果,条件付きではあるが,米国が同施設の運転開始に同意するに至つた。
また,77年は,カナダ及び豪州が,天然ウラン供給国として,受領国に対する規制権の強化を求めたことにおいても注目される年であつた。特にカナダは,わが国,スイス及びEC諸国に対し,原子力協定の改訂がカナダの主張するとおりに進んでいないとの理由で,77年1月にウラン供給停止措置を執つた。しかし,日加間で精力的な交渉が続けられた結果,78年1月の交渉で日加原子力協定改訂議定書に仮署名するに至り,対日供給停止が解除された。また豪州は,77年秋,わが方ほか豪産ウラン輸入国に対し,原子力協定を改訂したい旨のカナダ同様の申し入れを行い,わが国は,近く本件につき豪州と協議を行う予定である。但し,豪州は豪産ウランの供給停止措置はとつていない。