-1977年の世界の主要な動き-
第 1 部
総 説
第1章 1977年の世界の主要な動き
77年の国際情勢は,米国におけるカーター政権の登場,中国におけるトウ小平副総理の復活と華国鋒体制の確立など,国際情勢に対する影響という点においても注目を要する動きが見られたが,結局,政治,経済の両面において76年以前からの諸懸案につき解決の決め手を見い出せないまま推移した1年であつたといえよう。
国際政治面においては,戦略兵器制限交渉(SALT-II),中東和平問題,南部アフリカ問題,米中国交正常化などの諸懸案の解決が,78年以降に持ち越されたのみならず,人権問題をめぐる米ソ間の摩擦,「アフリカの角」地域などにおける局地紛争その他不安定要因が増大する側面もみられた。また,国際経済面においても,主要先進諸国が景気の停滞,失業,インフレなどに悩まされるなかで,保護貿易主義の高まり,通商上の摩擦の増大,国際通貨の動揺がみられ,またエネルギー問題に関する基本的な解決策がとられていないなど,情勢は期待されたほどの改善をみるに至らなかつた。更に,南北問題に関する対話の努力も続けられたが,多くの困難な問題が引き続き未解決のまま残された。
以下,このような情勢を敷衍し,77年を中心にその主要な動きを概観することとする。
第2次戦略兵器制限交渉(SALT-II)の難航で注目されていた米ソ関係は,77年当初カーター政権の人権重視の外交により摩擦が見られた。両国関係は,年央以降いつたん落ち着きを取り戻したものの,年末から78年にかけて,中東,「アフリカの角」などの地域における新たな情勢の展開・及び,これらの地域紛争の際に見られたソ連の対外支援能力の増大に象徴されるような同国の軍備増強努力を背景に米ソの新たな応酬が注目されるに至つた。
SALT-IIは,SALT-I協定の期限切れの10月3日までに合意に達することができなかつた(米ソ両国は,SALT-I協定を引き続き遵守する旨を表明。)が,その後も交渉が続けられている。SALT以外の分野では,3月のヴァンス国務長官訪ソを契機に,包括的核実験禁止(CTB),インド洋軍備規制などの諸問題についても協議が進められたほか,10月には,中東問題についても,ジュネーヴ和平会議の年内再開に努力する旨の共同声明が発出された。(同会議は結局開催に至らず。)なお,77年の米ソ貿易は,実績では76年に比し減少をみたが,ソ連の入超基調に変化はなかつた。
米中関係においては,双方とも上海コミュニケを基礎とする両国関係の改善を求めるとの基本姿勢を維持しながらも,台湾問題をめぐる立場に歩み寄りはみられず,8月にヴァンス国務長官が訪中したが,とくに具体的な進展はなかつた。
中ソの対立関係に大きな変化はなかつた。
ソ連は,毛沢東死後抑制していた中国に対する批判論調を77年前半にかけて復活させ,また中国は,一貫して厳しいソ連批判を続けた。
国家関係においても,3年ぶりの国境河川航行合同委員会第20回定例会議の開催などが若干注目されたものの,国境交渉では何らの進展もなく,総じて大きな改善はみられなかつた。
(a) 米国
ウォーターゲート事件後初めての選挙による新大統領を迎えた米国にとって,77年は新たな出発の年であり,新政権に対する内外の期待が高まつた。カーター大統領は,こうした期待に応えるべく,内外の幅広い諸問題に積極的に取り組む姿勢を示した。しかしながら,議会の協力が十分に得られなかつたことなどもあり,一部実績は残したものの,重要課題の解決は78年に持ち越された。
国内経済面では,75年春以来の拡大基調を維持して比較的健全な拡大を続けたが,他方原油輸入の増大,米国以外の先進諸国の景気回復の遅れに伴う輸出の伸び悩みなどにより貿易収支の赤字幅が大幅に拡大し,特に秋以降ドルは主要通貨に対して大幅に軟化した。これに工場閉鎖,レイオフの動きが加わり,一部に保護主義圧力の高まりもみられた。
(b) 中国
華国鋒政権は,77年において「4人組」の勢力排除を強力にすすめながら,トウ小平副総理を正式に復活させ,華国鋒主席を中心とする指導部の確立を図つてきた。11月以降,省レベルの革命委員会の「整頓」を手がけ,78年2月には全国人民代表大会を開き,憲法改正を行い,華国鋒総理を再任し,政府機関人事の調整を行うとともに,華国鋒政権成立以来の内外政策路線に沿つた具体策を打ち出した。内政面では,経済建設重視の現実路線をとり,今世紀内に「4つの近代化」を実現することを目指し,外交面では,「3つの世界」論に基づき,対ソ対決を軸とする外交活動を活発化し,西側先進諸国との交流拡大,「第3世界」との連帯強化の動きがみられた。
(c) ソ連
10月革命60周年に当たつた77年の内政面では,ポドゴルヌイの失脚とブレジネフ書記長の最高会議幹部会議長兼任及び41年ぶりの新憲法制定により,同書記長の権威が更に高まつたことが注目された。
経済面では,計画は従来に比しかなり低目に押えられたが,工業生産の年度目標は辛うじて達成したものの,国民所得,農業生産,労働生産性(工業)など多くの目標を達成しえず,かつ,最重要課題であつた経済体質改善が順調に進まなかつたことを改めて印象づける結果に終つている。
(a) 南北関係
77年においても,朝鮮半島情勢は,南北対話再開の兆しもなく,膠着状態のまま推移した。
(b) 対外関係
韓国は,経済の好調を背景に外交活動を活発に展開し,非同盟諸国を中心として外交関係樹立国数を増加するなどの成果を収めた。米韓関係においては,在韓米地上軍撤退問題が具体的に両国間で協議され,撤退計画の大枠について合意が成立した。一方,米議員買収工作事件をめぐり米韓間に摩擦の増大がみられた。
北朝鮮は,76年に非同盟諸国首脳会議などにおいて外交的後退を被つたため,77年は,非同盟諸国への働きかけを行うなど失地回復に努めた。また,北朝鮮は,8月1日,200海里経済水域及び軍事境界線を設定した。
なお,76年に引き続き,国連では朝鮮問題は取り上げられなかつた。
(c) 内政の動向
韓国では自主国防態勢の強化及び経済の持続的な高度成長を追求する努力が行われた。特に経済面の成果は著しく,GNP成長率10%,輸出100億ドルの目標を達成し,経常収支は初めて黒字を記録した。
他方,北朝鮮では,対外債務問題が依然解決されていないことから,77年度も経済事情は改善されなかつたとみられる。なお77年12月には最高人民会議が召集され,政府首脳部の改編が行われるとともに,78年度から始まる第2次経済7カ年計画が採択された。
(a) ASEAN諸国の対外関係
発足後10周年を迎えたASEANは,第2回首脳会議のほか,わが国,豪州,ニュー・ジーランドとの初の首脳会談を開くなど引き続き加盟国の連帯と強靱性の強化及び域外国との関係強化を図つた。また同諸国は,ASEAN地域の安定と繁栄は東南アジア全体の平和の中において初めて確保されるとの認識から,上記首脳会議などにおいてインドシナ諸国との平和的,互恵的な関係の発展を希望するとの姿勢を繰り返し表明した。
(b) 内政の動向
各国とも,依然として国内に幾らかの不安定要因を抱えながらも,政治的,経済的あるいは社会的脆弱性の克服のための努力を引き続き行つた。タイでは,10月のクーデターによりターニン政権が崩壊し,11月にクリアンサック国軍最高司令官を首相とする新政権が成立した。
マレイシアでは,フセイン政権は引き続きその指導性を高めてきたが,州レベルでの政治抗争もみられた。インドネシアでは,5月の総選挙以降,78年3月の国民協議会総会に向けて,学生を中心とするスハルト政権批判の動きが強まつたが,78年に入り政府の措置によりその動きは沈静化に向かつた。戒厳令体制6年目を迎えたフィリピンでは,12月の国民投票においてマルコス大統領が圧勝し,正常状態復帰への足固めを行つた。シンガポールでは,リー首相が内政,外交に引き続き強い指導力を発揮し,経済も順調に推移した。またビルマでは,78年3月の人民議会開催を控え,国内の体制固めが行われた。
(a) 内政の動向
インドシナ3国は,77年においても,国家の再建と社会主義体制の整備に努めた。
ヴィエトナムでは,各方面にわたつて南北一体化が更に続けられた。経済面においては,4月に外資導入に関する閣僚会議決議を明らかにするなど経済建設に対する積極的な取り組みがみられたが,他方,干ばつなどのため農業生産の低下が看取された。
ラオスでは,干ばつによる食糧不足をはじめ物資の欠乏,インフレ,反政府分子の活動など政治経済両面にわたつて困難が続いた。
カンボディアでは,77年9月ポルポット首相を党書記とする共産党の存在が明らかにされたが,同国の内情は依然として不明な点を多く残している。
(b) 域内関係
ヴィエトナム及びラオスが関係を強化したのに対し,カンボディアは,ヴィエトナムとの国境紛争を理由に,年末には対越断交に踏み切った。ヴィエトナム・カンボディア国境紛争は,国境線の不明確性のみならず,その背景には民族的対立もあり,同紛争は長期化の様相を呈している。
(c) 対外関係
ソ連及び中国との関係には,基本的変化は認められなかつた。
ASEAN諸国との関係では,ヴィエトナムとラオスが機構としてのASEANには引き続き警戒的態度を示したものの,2国間関係では,カンボディアを含め,おおむね相互の独立主権の尊重,平等互恵などの立場による善隣友好の姿勢を示した。
なお,米越関係では,国交正常化交渉に進展はみられなかつたが,米国は,9月のヴィエトナムの国連加盟に際して拒否権を行使しなかつた。
(a) 内政の動向
インド及びスリ・ランカでは,それぞれ3月及び7月の総選挙の結果,与党が大敗し,パキスタンにおいては,3月の総選挙の結果をめぐる与野党の激しい対立が7月には軍部による政変を引き起こし,また,ネパールにおいては9月に首相交代と内閣改造が行われるなど,77年の南西アジア地域各国の国内情勢は大きな変革を経験した。
(b) 対外関係
インド亜大陸諸国間関係では,インドのデサイ新政権が近隣諸国との関係改善を一層促進するとの姿勢を示したため,域内諸国関係は一層改善された。
大国との関係では,インドが「真の非同盟」を標榜し,ソ連との関係をより実務的かつバランスのとれたものにするとの姿勢を打ち出す一方,米国,日本などの西側先進国との関係緊密化を図つたほか,中国との関係についても関係改善への模索がみられた。
豪州においては,フレーザー政権は,77年末の総選挙で野党の労働党に圧勝し,国民の支持を再確認したが,他方経済活動は比較的低調に推移した。ニュー・ジーランドにおいても,政府の諸措置にもかかわらず,経済は極めて不調であり,政治・社会問題化するに至つた。
対外面では,豪州,ニュー・ジーランドともに両国産品特に農産品の輸出振興のため積極的な対外アプローチを行つたほか,8月,両国首相は,ASEANとの首脳会談に出席した。
西欧諸国は,景気回復の停滞,議会での保革伯仲傾向などの不安定要因を抱えつつも,全体として内政に大きな変化はみられなかつた。
経済面では,国際収支面で若干の改善をみた国もあるが,全般的には各国とも石油危機以来の不況要因を克服することはできず,失業は依然高水準にとどまつた。かかる情勢を背景に一部では保護主義の高まりが見られた。ただし緊縮財政と賃上げ抑制により,インフレは,多くの国において漸次鎮静化した。
人権擁護を旗印とした政府批判運動は,年初から春にかけて東欧の幾つかの国でみられたが,各国政権は,基本的に安定を保つた。経済面では,対外交易条件の悪化,ポーランドをはじめとする一部の国における農業生産の不振及び対外債務累積の増加などがみられ,全体として好転の兆しは見られなかつた。
外交面では,ポーランド,ハンガリーの活発な対西側外交,東欧各国による中東諸国に対する経済外交などが注目された。なお,アルバニアは,中国の「三つの世界」論に対する批判を展開した。また,ユーゴースラヴィアのチトー大統領は,中国,ソ連,北朝鮮,フランスなどを訪問し,活発な外交活動を繰り広げ注目された。
77年の欧州における東西関係は,人権重視を公約に登場したカーター政権がソ連東欧諸国における体制批判運動抑圧に対し批判的な立場を打ち出したため,当初若干の摩擦がみられたが,基本的には大きな変化は認められなかつた。
10月4日よりベオグラードで開催された欧州安全保障協力会議(CSCE)のフォロー・アップ会議においては,会議を対決・論争の場としないことに関する東西間の暗黙の了解などにより,人権問題を中心として時折り激しい応酬があつたものの,年末までの議事はほぼ円滑に進められた。しかしながら,78年に入り結論文書の作成をめぐつて会議は難航した。
中欧相互均衡兵力削減交渉(MBFR)については,第13ラウンドを経た後も見るべき進展はなかつた。EC・コメコン関係では,9月両機関の首脳会談が実現し,78年春に両機関間で正式交渉を開始する旨の合意をみた。
また,貿易面では,東側の対外債務が引き続き増大したため,西側の一部に東側諸国の一部に対する信用供与につき慎重論もみられた。
77年初頭以来,ジュネーヴ和平会議再開による包括和平達成を目指し,アラブ側紛争当事諸国における和平気運が高まるとともに,カーター米新政権による積極的な調停活動が行われたが,ジュネーヴ和平会議へのPLO参加問題,パレスチナ問題などについて,アラブ・イスラエル間の意見の調整をみるに至らなかつた。11月サダト・エジプト大統領は,こうした状況の下でアラブ国家の元首として初めてイスラエルを訪問し,エジプト・イスラエル間で直接交渉が開始されるに至つた。しかしながら,占領地撤退問題,パレスチナ問題などをめぐる両国の立場の相違は容易に調整をみず,交渉は米国の調停を得つつ78年に持ち越されることとなつた。
アフリカ情勢は,南部アフリカ問題をめぐって活発な動きがみられ,また「アフリカの角」地域における紛争が注目された。
南アフリカ共和国のフォルスター政権は,国内のアパルトヘイト反対勢力に弾圧をもつて臨んだ。これに対して,11月の国連安保理の対南ア強制的武器禁輸決議にみられる如く,アパルトヘイト非難の国際世論は一段と強まつた。
南ローデシアでは,英米が平和的解決の努力を行つたが,関係者の合意には至らず,一方,スミス首相の率いる白人政権は,黒人穏健派との内部解決を図つた。
ナミビアでは,国連安保理西側5カ国(英,米,仏,西独,加)がナミビア問題の平和的解決につき南西アフリカ人民組織(SWAPO),南アなどと交渉を行つた。
6月頃より激化し始めた「アフリカの角」地域におけるエティオピアとソマリアとの間の対立は,ソマリアのエティオピア内解放勢力への援助の本格化に伴い,両国間の紛争に発展した。
経済面では,コーヒー産出国を始め,一部諸国に好転の兆しがみられたものの,全般的には,物価の上昇及び天候の影響を受けやすい農業中心の性格のため,依然として経済困難を克服できない国が多かつた。
中南米情勢では,軍部の支配が76年に引き続き大多数の国において顕著であつたが,そのうち,ボリヴィア,ペルーなどいくつかの国で民政移管計画が明らかにされたこと,また経済運営の方式としてより現実的な政策がとられる傾向が一層定着した点が注目された。
また,米・パナマ間にパナマ運河新条約交渉が妥結し,9月,条約の調印が行われた。
先進民主主義諸国の経済は,77年に入つても全体としてその景気回復テンポは期待されたほどのものとはならなかつた。米国経済は,比較的順調な拡大基調を維持したが,その他の主要国においては景気回復が十分には進まず,77年のOECD加盟諸国全体の経済成長率は3.5%程度に留まつた。また,ドルの大幅軟化をはじめ国際通貨情勢は波乱含みに推移した。
特に西欧諸国では生産水準が上昇しないなど景気の停滞が著しく,また雇用情勢も若年層を中心とした失業者数の増大,失業期間の長期化などむしろ悪化の傾向がみられ,一部の国においては保護貿易主義的圧力の高まりがみられた。
こうした中で,世界経済の安定化と自由貿易の発展を図る努力が先進民主主義国間で精力的に行われ,5月のロンドン主要国首脳会議においては,世界経済の諸困難に共同して対処する決意が表明された。
南北間には,基本的には対話の基調が維持された。5月にパリで開催された国際経済協力会議(CIEC)は,一次産品共通基金の設立に関する基本的合意,先進諸国による10億ドルの特別行動及び政府開発援助の拡大に関する合意などの成果をあげた。その反面,新国際経済秩序(NIEO)樹立を主張する開発途上国にとつては債務累積問題など,また先進諸国にとつてはエネルギー対話継続問題など双方にとつて不満を残す結果となつた。
しかしながら,南北双方とも対話の継続を希望していることに変りはなく,年間を通じて共通基金設立交渉及び一連の個別一次産品協議などが行われ,また,第32回国連総会においてはアド・ホック全体委員会が設置され,80年の経済特別総会に向かつて,南北問題全体の見直しを行つていくこととなつた。
第3次国連海洋法会議の進展が遅れているなかで,200海里水域を設定する国が相次ぎ,漁業に関する限りいわゆる200海里時代は現実のものとなつた。このような新たな海洋秩序の形成をめぐる国際的な動きに対応すべく,「領海法」及び「漁業水域に関する暫定措置法」が7月1日に施行され,わが国も領海12海里,漁業水域200海里を採用することとなつた。
200海里時代を迎えて,2国間及び多数国間における漁業交渉が相次いで行われ,日米間,日ソ間の漁業協定などいくつかの漁業取極が締結された。
米国カーター新政権は,その最重要政策の1つとして核拡散防止を掲げ,核燃料サイクルのあり方に関する国際的協議を行うことを提唱した。その結果,10月には米国の招請の下に,わが国を含む40カ国が参加して,核拡散防止と原子力平和利用の推進を両立せしめるような核燃料サイクルの確立を目的とする国際核燃料サイクル評価(INFCE)の設立総会がワシントンで開催され,以後2年間にわたり,検討作業が行われることとなつた。