総 説
総 説
序 説
1974年は,世界が石油問題の深刻な影響を受けた年であつた。73年秋の産油諸国の石油戦略発動によつて始まつた石油問題は,この年世界の政治・経済の全般にわたつて大きな変動をもたらすことになつた。
石油価格が急騰した結果,世界の各国で既に進行していたインフレは激化し,また多くの国は国際収支の悪化と深刻な不況に見舞われ,世界経済は甚だしい停滞と不均衡に陥るに至つた。
他方,産油国の国際的発言力は大幅に増大し,開発途上諸国は,国際場裡において連帯して新しいさまざまの要求を提起している。
国際的相互依存関係の深まつた今日の世界においては,世界の諸国が相互間の利害の相違を調整して,世界全体の健全な発展を計ることがかつてなく重要になつている。これをいかに実現するかは,現下の重要な国際的課題である。
国際政治面においては,過去数年来継続されてきた東西大国間の対話と緊張緩和の動きは,種々の対立要因をはらみながらも,1974年にも引続き維持された。他方,中ソ間の対立には変化はなく,また,アジアから中東にかけての地域においては,様々の不安定要因が根強く続いている。1975年に入つてからインドシナの情勢が急変を遂げ,これによつて周辺地域の様相も流動的となるに至つた。
この間米国においては,ウォーターゲート事件の発展の結果,米国史上かつてない大統領辞任という事態を生じ,フォード新政権の誕生を見たが,このような大統領の交替とこれに関連する一連の事態は,国際政治にも少なからざる影響を与えたと言つてよい。
東西間のいわゆる緊張緩和は,高度の核兵力を伴う米ソ間の軍事的均衡と西側同盟関係の存在の下で可能になつた。しかしながら,世界には依然として不安定要因をかかえ,紛争発生の危険を有する地域が存在している。
このような情勢の下で世界の平和と安定を図るためには,各国の自制と相互間の対話と協力を忍耐強く続けて行くことが必要とされる。
わが国は,大戦後30年間にわたつて平和を享受し,戦後復興と順調な経済発展を続けることによつて,世界における安定勢力としての地位を占めるに至つた。今日,世界は大きな変動の過程に入つており,その中でわが国は将来の針路について誤りなき選択と柔軟な対応を行うことにより,わが国の安全を確保し,国際関係の安定維持と諸国家間の協調協力関係の増進に寄与するため一層の努力を払わねばならない。
第1部総説では,第1章においてわが国を取り巻く国際環境を概観し,第2章では,このような環境の中でわが国の外交の基本的課題とされるものについて述べ,さらに第3章でわが国が行つた具体的な外交努力を説明してみよう。
1974年の国際情勢の主な特徴は,前掲序説に述べたとおりであるが,以下にその主要な動きについて述べてみよう。
1. 石油危機の波紋の拡大
(1) | 国際経済の困難増大 |
73年秋のアラブ産油諸国による生産削減と価格引上げを伴う石油戦略の発動の結果,既にインフレに悩んでいた国際経済は一層不安定化し,その困難が増大した。すなわち,石油の供給制限問題については,その後対米禁輸の解除(74年3月)をもつて一応終結をみたものの,石油価格は一挙に約4倍にまで高騰し,この結果,石油輸入諸国の国際収支の悪化,インフレの昂進,経済成長の停滞といういわゆる三重苦を加速するとともに,石油輸出諸国への巨額の石油代金の流入という国際経済上の一大不均衡をもたらした。 | |
(2) | 西側先進諸国の経済不振と相互間協力の進展 |
西側先進諸国は,著しい経済不振に陥り(OECD事務局報告によれば,同年におけるOECD諸国の実質経済成長率は対前年比0.1%減少,消費者物価上昇率は約14%,これら諸国の経常収支の赤字総額は340億ドルとされている),また,これに伴い各国内政上の困難も増大した。 | |
西側先進諸国は,経済的諸困難に対処するため国内施策に努めるとともに,当面焦眉の問題となつた石油・エネルギー問題,オイル・マネーの還流問題などの解決をめざし相互間の協力体制の強化をはかつた。この結果,ワシントン・エネルギー会議の開催(74年2月),OECD閣僚理事会における貿易制限自粛宣言の採択(同5月),国際エネルギー計画の策定,OECDの枠内における国際エネルギー機関の設置(同11月),OECD加盟国間金融支援取極の設立のための原則的合意(75年1月)などかなりの成果が得られた。 | |
(3) | 開発途上諸国の発言力の増大 |
他方,産油国,とりわけ中東の産油国の国際的発言力は著しく増大し,石油輸出国機構(OPEC)を中心とするこれら諸国の石油政策の動向は,世界経済の動向に大きな影響を与えるに至つた。 | |
また,このような動きを背景に,開発途上諸国は,資源問題についての主張を強めるとともに,回教徒首脳会議(74年2月),国連資源特別総会(同4月),開発途上諸国資源会議(75年3月)など種々の国際場裡において,開発途上国に有利な新しい国際経済秩序を求める動きを活発化した。 | |
他方,開発途上諸国の中でも,石油を持たず,他に有力な経済手段も有しない諸国は,厳しい国際経済情勢の下で,一層深刻な経済困難に見舞われ,これら諸国の救済問題も大きな国際的な課題となつた。 | |
(4) | 社会主義諸国への影響 |
石油危機は,社会主義諸国にも少なからぬ影響を及ぼした。 | |
まず石油輸出国であるソ連は,石油価格の高騰により,国際収支上の実益を得るとともに,石油輸出先である東欧諸国などに対する発言力を一層強めることとなつた。また,中国は,わが国はじめ従来から石油輸出を行なつていた諸国に対する石油輸出を増加させるとともに,若干の国に対して新らたに石油輸出を行なつた。他面,西側諸国の経済不振や西側製品の価格上昇は,西側諸国との経済関係を強めつつあつた中国,北朝鮮,東欧諸国にとつて西側諸国との経済交流の発展を阻害する要因となつた。 | |
(5) | 国際経済関係における新しい動き |
以上の状況の下に,国際経済の基本的枠組に係わる新しい動きも活発化した。 | |
緊急に解決を要する石油・エネルギー問題及びオイル・マネーの還流問題に関しては,上述のとおり西側先進諸国間の協力が進展する一方,産油諸国側も石油輸出国機構(OPEC)を通ずる共同歩調の確保に努めたが,この間にあつて両者間の「対話」への動きが徐々に現れ始めた。 | |
他方,食糧問題については,国連主催の「世界食糧会議」が開催され,今後の国際協力の進め方につきある程度の国際的合意を達成した。 | |
また,新しい国際経済秩序の樹立を標傍して自らの立場を強化しようとする開発途上諸国の主張は,国連特別資源総会における「新国際経済秩序樹立に関する宣言」,第29回国連総会における「国家間の経済権利義務憲章」の採択などの結果となつて現われたが,これら諸国の要求と先進諸国との立場の調整は引続き今後の課題として残されている。 | |
更に,海洋の分野において新しい国際法秩序を求めて第3次海洋法会議第2会期(74年6月末より)が開かれたが,具体的合意をみるに至らなかつた。 |
(1) | 米ソ関係の動向 |
米ソ関係は,国際政治全般の動きに基本的な影響を及ぼすものである。高度の核兵器を大量に所有するに至つた米ソ両国は,両国間の直接的軍事衝突が双方の共倒れに至る危険を伴うとの基本的認識を有し,平和共存を図り,両国関係を安定化させることに努めている。 | |
米ソ間のいわゆる緊張緩和の動きは,軍備管理等の分野に留まらず,経済,科学,宇宙,その他の分野にも及んでいる。かかる実務関係の進展に紆余曲折はあつても,米ソ間の平和共存関係には基本的に大きな変化はないと見られる。 | |
もちろん,このことは,米ソ間の基本的な体制上の差異を解消するものではなく,一方にとつて他方は対立国(adversary)であるとの認識に変わりはない。この意味で両者は,いわば限定的な協調関係にあるとも言いえよう。 | |
米ソ関係のこのような基調の下で,1974年も米ソ両国間の関係改善の努力が続けられた。 | |
すなわち,ニクソン米大統領は,74年6月末より訪ソし,ソ連との間に,地下核兵器実験制限条約,対弾道ミサイル(ABM)システム制限条約に関する議定書などの署名を行つた。その後成立したフォード政権の下においても,キッシンジャー国務長官の訪ソ(10月)を経て,ウラジオストックにおけるフォード・ブレジネフ会談が開催され(11月),この結果,戦略兵器運搬手段及び個別誘導複数弾頭(MIRV)化されたミサイルの数の制限を骨子とする「ガイドライン」が合意され,第2次戦略兵器制限交渉(SALT II)に前進がみられた。 | |
戦略兵器制限交渉とともに,米ソ関係の重要な要素の一つである両国経済関係については,米国議会の意向により,対ソ融資を制限する輸銀法延長法及び対ソ最恵国待遇と信用供与をソ連のユダヤ人出国問題と関連づける新通商法が成立し,これを不満とするソ連側が米ソ貿易協定の実施を見合わせる旨米国に通告した(75年1月)ことにより,米国による対ソ信用供与を始め,両国経済関係の種々の分野における進展は若干停滞の様相を示した。 | |
(2) | 米中関係の動向 |
米中関係においては,前年行われた連絡事務所の相互開設の後,74年を通じ特に大きな進展はみられなかつたものの,キッシンジャー米国務長官が再び訪中し(11月),両国間の関係正常化を72年の上海コミュニケに基づき進めていくことが再確認されるとともに,75年中のフォード米大統領の訪中が合意されるなど対話継続への努力が払われた。 | |
(3) | 中ソ関係の動向 |
中ソ間においては,74年を通じ,通商,航空など一定限度の実務関係は維持された。しかし,双方による一部外交官の追放事件(1月)やソ連ヘリコプターの中国領土内着陸事件(3月)等の事件が発生し,両国間に若干の緊張を生ずるとともに,種々の問題をめぐつて相互非難が続いた。秋以降には,中国国慶節(10月)及びソ連革命記念日(11月)に際し,双方が両国関係の改善をうたつた祝電を発出したことが注目されたが,その後中国側は第4期全国人民代表大会(75年1月)で採択された新憲法及び政治報告においても反ソ姿勢を明確に打ち出し,これに対しソ連側もかなりきびしい対中批判の言論を続けている。 | |
なお,最近の中ソ間の論争においては,相手国とわが国との関係をめぐる非難応酬が激化していることが注目される。 | |
(4) | 米国における新政権の成立 |
73年夏以来米国内政の大きな焦点となつていた「ウォーターゲート事件」は,遂にニクソン大統領の辞任という米国史上かつてない事態にまで発展し,代つてフォード新政権が成立した(8月)。 | |
フォード政権は,前政権の外交政策を踏襲しつつ,中東問題およびエネルギー,金融,食糧等世界経済の諸問題の解決のため強力なイニシアチブを取り,また西側同盟諸国との連帯を強化することに力を入れた。他方,「ウォーターゲート事件」の影響,秋の中間選挙における与党共和党の大幅後退などもあり,行政府は,内外政策の実施に当り議会の意向に一層制約される傾向が強まつた。 | |
(5) | 西欧諸国の動向 |
西欧諸国においては,厳しい経済情勢が続く中で,英,仏,独及び伊の主要諸国において相次ぐ指導者の交替が行われた。 | |
このような状況の下で,欧州共同体においても経済通貨同盟推進が困難に直面し,更に英国の加入条件再交渉の問題も加わり,統合の動きが鈍つたが,12月の首脳会談で従来の統合推進の方針が再確認され,また首脳会談の定期的開催等政治問題を含む域内協力の推進が図られることとなつた。 | |
また,73年春以来米欧間で検討されてきた米欧宣言構想については,74年6月にNATO宣言が採択され,米欧間の同盟関係が再確認されたが,他方,サイプラス問題の再燃やポルトガルにおける共産党を含めた政権の成立は,NATO体制をはじめ西欧の域内関係に新たな問題を提起した。 | |
なお,欧州における東西関係については,西独・ソ連間及び仏・ソ連間に首脳会談が開催され,また,欧州安全保障協力会議(CSCE)における交渉に進展がみられたが,中欧相互兵力削減交渉(MBFR)においては,特に顕著な進展はみられなかつた。 |
(1) | アジア地域は,域内全体としての均質性を欠き,各種の内在的不安定要因をかかえている上に,米中ソ3大国の動向及び国際経済の動きが及ぼす影響も国によつて一様でなく,全体として複雑な様相を呈している。またわが国の動向もこの地域の情勢に少なからざる影響を及ぼしている。 |
(2) | 米中ソ3大国は,上述2.の相互関係を背景に,それぞれ次のとおりの動きを示した。 |
米国は,いわゆるニクソン・ドクトリンに基づきアジア諸国の自助努力を重視し,特に東南アジアにおける軍事的プレゼンスを漸減する方針を維持し,74年末以降急激に変化したカンボディア及び南越情勢に対しても,議会からの強い制約の下で直接的軍事介入を避け,慎重に対処した。米国は,また,田中総理大臣の訪米(74年9月),フォード大統領のわが国及び韓国訪問(同11月)を通じて,日韓両国との友好協力関係を強調した。 | |
中国は,74年前半には批林批孔運動とも関連して若干の対外高姿勢を示したが,その後マレイシアとの国交樹立(74年5月),フィリピン・マルコス大統領夫人の訪中(同9月),シンガポール外相の訪中(75年2月)などにみられるように,比較的穏やかな態度を示した。 | |
日中間においては,航空協定,貿易協定及び海運協定の締結など実務関係の進展がみられるとともに,74年11月より平和友好条約締結のための予備交渉が開始された。 | |
ソ連は,インド亜大陸における影響力の確保,拡大に努めるとともに,東南アジア諸国との接触増大,オーストラリア首相の訪ソ招待,わが国に対する働きかけ強化など幅広い活動を行つた。 | |
日ソ間においては,75年1月宮澤外務大臣が訪ソし,平和条約締結のための継続交渉が行われた。 | |
(3) | 朝鮮半島においては,73年に中断された南北対話は,再開のための話し合いが行われたものの実質的な進展はみられず,韓国漁船撃沈事件(74年2月),韓国警備艇撃沈事件(同3月),非武装地帯におけるトンネル発見(同11月,75年3月),北朝鮮漁船撃沈事件(75年2月)など両国関係を緊張させる事件が続発した。対外面でも南北双方は活発な外交活動を展開したが,韓国とすでに外交関係を有している国が北朝鮮とも国交を樹立する例が前年と同様に増加した。 |
日韓間においては,民青学連事件に関連した日本人逮捕事件,在日韓国人による朴大統領狙撃事件等をめぐり両国関係に摩擦を生じたが,椎名特派大使訪韓(74年9月)及び上記日本人の帰国(75年2月)等によつて両国関係は沈静化に向つた。 | |
(4) | インドシナについては,ラオスにおいて第3次連合政権が成立(74年4月)したものの,南越及びカンボディアにおいては戦闘状態が続き,74年末以降,共産勢力側の軍事的攻勢が強まり,遂に75年4月両国においてそれぞれ旧政権が崩壊するに至り,情勢の激変がみられた。 |
(5) | その他の東南アジア諸国においては,数々の政治的,経済的諸困難はあつたが,大きな波乱には至らず,ビルマにおける民政移管(74年3月)及びタイにおける総選挙の実施(75年1月)など民主体制への動きもみられた。 |
わが国と東南アジア諸国との関係においては,田中総理大臣のASEAN諸国(1月)及びビルマ(11月)訪問が行われ,相互協力増進のための努力が払われた。 | |
(6) | 南西アジアにおいては,パキスタンによるバングラデシュ承認(74年2月),印パ間の通信,貿易等実務関係の再開など各国間の関係正常化の動きがみられたが,他方インドの核実験(同5月)は多方面に少なからざる波紋を及ぼした。 |
(7) | 豪州及びニュー・ジーランドは,アジア地域を重視し,アジアにおける地域協力を推進する方針の下で外交多角化の努力をそれぞれ続けた。 |
カナダもアジア地域との関係を強める姿勢を示した。わが国との関係においては,田中総理大臣が,9月の米国,カナダ訪問にひきつづき,10月から11月にかけて,豪州,ニュー・ジーランドを訪問し,幅広い分野における友好協力関係の強化について話し合いが行われた。 |
(1) | 中東情勢については,73年末のジュネーヴ和平会議に続き,74年前半の米国による精力的な外交努力もあり,エジプト・イスラエル間及びシリア・イスラエル間の第1次兵力引離しが実現するなど和平への動きが進展した。その後も米国はいわゆる「段階的和平方式」を唱えつつ,エジプト・イスラエル間の第2次兵力引離し実現をめざし仲介工作の努力を行つた。 |
この間にあつてアラブ首脳会議の開催(74年10月),国連におけるパレスチナ問題の討議などを経て,「パレスチナ解放組織」(PLO)の国際的地位の向上がみられ,中東和平の動きにおいてパレスチナ問題の解決も一層大きな課題となつてきた。 | |
(2) | アフリカにおいては,74年を通じ,ギニア・ビサオが独立を旧宗主国ポルトガルにより承認されたが,続いてモザンビーク,アンゴラなど南部アフリカの白人政権にとつての緩衝地域的役割を果していた非自治地域が黒人国として独立する運びとなり,それに伴い南部アフリカ問題も局面打開への動きを示し始めるなど大きな変化が現われた。 |
(3) | 中南米地域においてはアルゼンティン,ブラジル,ペルーで多少政情の流動化が見られたが,各国の内政は概ね平穏に推移した。1973年10月キッシンジャー長官の提唱した米・中南米諸国間の「新しい対話」政策の進展により域内協調の促進が期待されたが,1975年初頭成立した米国新通商法は,多数の域内国の反発を招き,第3回米州外相会議は無期延期されるに至つた。また,米国を含む米州機構とは別個に中南米諸国のみによるラ米経済機構創設の動きにも注目すべきものがあつた。なお,わが国との関係では,田中総理大臣のメキシコ,ブラジル訪問(74年9月)等を通じ,中南米諸国とわが国との協力関係に進展がみられた。 |