-ソ連・東欧地域-

 

第8節 ソ連・東欧地域

 

1. ソ  連

 

(1) ソ連の内外情勢

(イ) 内  政

73年は穀物生産222.5百万トン(公表数字)という史上最高といわれる豊作,工業生産も5カ年計画完遂のためには充分と言えぬまでも,本年度計画の5.8%を大幅に上回る7.3%の成長率を達成し,内政面では昨年に比べ,ソ連にとつて比較的恵まれた年であつた。

73年のブレジネフ政権の最大の課題は72年に著しく落ち込んだ経済を回復するため,西側先進資本主義諸国との経済交流を通じて資本と先進技術を導入すること,および欧州の現状維持の確保を主眼とするブレジネフ書記長のいわゆる平和外交政策の推進にあつた。ブレジネフ書記長 は,4月の党中央委総会で党の支持をとりつけ,さらにその政策の積極的推進のため,人事面では治安,外交,軍の各分野の代表であるアンドロポフ,グロムイコおよびグレチコを中央委政治局員に登用,批判的と言われたヴォロノフおよびシェレストを政治局員から解任するなど自己の政権発足以来初めて政治局員の異動を断行しブレジネフ書記長を中心とする中央委政治局内の集団指導体制を強化した。

また,民心の昂揚のため,民族友好勲章の授与の機会を利用してブレジネフ書記長をはじめ,政治局員その他の指導者が各地に出向き,直接国民にアピールするとともに,マスコミ等を動員して党の指導力および労働規律の強化,社会主義生産競争の展開による労働生産性の向上の必要性を強調した。

他方,緊張緩和,平和共存政策の推進は,国内人心のゆるみをもたらすおそれがあるため,資本主義と杜会主義の両体制間の対立は継続するとして,イデオロギーの平和共存はあり得ないことを強調し,あらゆる機会をとらえて「ブルジョア思想」の浸透に対する警戒心の向上の必要を呼びかけた。同時に国内におけるイデオロギー引締めを強め,反体制運動家に対する弾圧を強化し,地下出版物の中心人物であつたチャリッゼ,メドヴェジェフ,シニャフスキーを事実上国外追放した。さらにヤキール・クラシン等は公開裁判で西側特務機関と協力したことを自白させられて6年の刑をうけ,なお頑強に抵抗するサハロフ,ソルジェニーツィンに対しては,マスコミを通じ,8月末から2週間にわたつてキャンペーンを展開した。これにより従来大衆にはあまり知られていなかつたソ連における反体制民主化運動の存在が広く周知されたことは,今後「自由」の問題をめぐり,特に知識人にかなりの影響を与えることも考えられる。

73年のソ連経済は,前述のように72年に比べて明るさを取戻し,74年の見通しもかなり明るいものがあるとみられる。しかし,従来の外延的発展から内包的発展へと重点を移行した今次5カ年計画の課題はまだ十分達成されておらず,このため,計画・管理・経済刺戟等の面での改善がはかられつつあり,特に経済管理については73年4月党中央委決定により企業の徹底的集中化をはかろうとしている。

軍事面では,73年12月12日のソ連最高会議(第8回第7会期)において,ガルブゾフ蔵相が,74年度予算報告の中で「国防費」を176.5億ルーブルとする旨明らかにし,65年以来の軍事費削減(73年度比2.5億ルーブル減)として注目された。これはソ連が国連等において提案した軍事費の10%削減措置とも関連し,平和に対するソ連の意図を示そうとするジェスチャーと考えられソ連当局が絶えず経済力の向上とともに国防力の増強の必要を強調していることからすれば表向きの国防予算の削減にも拘らず,実質的には国防力の充実が図られているものと思われる。

(ロ) 外 交

ソ連は73年5月および6月のブレジネフ書記長の西独,米国および仏訪問,10月の田中総理大臣の訪ソ,欧州安保協力会議第1段階の終了および第2段階の開始,中欧兵力削減交渉の開始等に象徴されているとおり,引続きいわゆる平和外交路線の推進,主として西側先進国との関係の改善に努めた。

(a) 対米関係

73年のソ米関係の最大の出来事は,6月のブレジネフ書記長の訪米であり,「核戦争防止協定」および「戦略攻撃兵器の一層の制限に関する交渉の基本的諸原則」の両文書がブレジネフ書記長とニクソン大統領の間で署名された他,一連の協定が締結されたことである。

ブレジネフ訪米の主目的は,米国との平和共存体制の確立によりソ連が米国とともに大国として世界の平和維持に直接責任をもつものであることを再確認し,これを内外に宣明すること(核戦争防止協定),および米国に貿易協定の早期発効(最恵国待遇の早期供与)を求め,先進工業国の中枢である米国との経済関係を推進することにあつたと思われる。

米国のソ連に対する最恵国待遇供与は,ソ連におけるユダヤ人の出国問題,自由化の問題に対する米国内の世論の関係もあり,未だ実旋をみるに至つていない。地方,74年にニクソン大統領が訪ソすることが合意されており,最高レベルの接触の拡大に伴ない,米ソ両国間の実務関係がさらに発展する可能性はある。

(b) 欧州関係

欧州についても対先進国関係改善政策の一環として,5月ブレジネフ書記長が西独を訪問,10カ年の経済協力協定を締結し,7月にはジョベール仏外相訪ソの機に,フランスと10カ年の科学技術協力協定を締結した。また英国との関係正常化に乗り出し,12月ヒューム英外荘訪ソを機に,近く10カ年の経済・科学技術協力協定の締結交渉を開始することに合意するなど西側諸国との経済,技術協力関係の推進に要力した。

欧州安保協力会議については,ソ連は73年内に第3段階である最高レベルの会議に持込むことを目標として活発な外交活動を行つてきたが,東西接触の問題につき西側がソ連からコミットを得ようとしているのに対し,ソ側はこれに低抗しているため,74年に持込まれることとなつた。

中欧兵力・兵器削減交渉は10月下旬からウイーンで始まつたが,ソ側が西側との1対1の削減を基本的態度としているのに対し,西側に均衡削減を主張しているので,交渉は長期化が予想される。

(c) 対東欧関係

ソ連は折にふれ東欧共産圏内の団結,協力の増大を強調しているが,最大の問題点はソ連自身が全面的に対西欧経済接近に乗り出した現在,これまで制御していた東欧諸国の西欧諸国への接近をどのようにコントロールしていくかにある。そのためソ連は,コメコン諸国圏内の経済の統合,専門化の政策を推進するとともに,思想的団結の一層の強化の必要を強調している。

(d) 中ソ関係

冷却した中ソ両国の対立の根は深く,ソ連政府による6月の中ソ不可侵条約締結提案に対しても,中国側は何ら反応を示さず,中ソ関係改善のきざしは認められない。

ソ連は73年も引続き激しい調子の中国批判キャンペーンを展開,ブレジネフ書記長自身も8月および9月の2回にわたり,中国指導部の反ソ主義が両国関係の正常化を阻んでいるとの中国批判を行つた。

国境交渉も7月にソ側首席代表イリイチョフが帰国したまま進展なく,貿易交渉は8月1日妥結したものの,73年度の貿易額は前年度をやや下回るといわれる。したがつて中ソ関係は実務的関係を細々維持するのみで,全般的改善は当分望み薄の模様である。

なお,航空交渉については,7月に相互の首都乗入れにつき原則的合意が達成された。

(e) 対中近東関係

10月の中東紛争再発に際し,ソ連は,米国との接触を維持し,また戦局がイスラエル側に有利に展開するや和平実現に対する姿勢を積極化し,国連での停戦決議,和平会議の共同招集へと持込んだ。

ソ連は,従来から一貫して中東和平のための原則的態度,すなわち,イスラエルの全アラブ占領地からの撤退,パレスチナ・アラブ人民の合法的権利の保障を主張している。ソ連は,アラブ側の石油供給制限政策が外交面でもアラブ側に有利に展開していることを考慮し,和平会議等においては上記の主張の実現を図るものとみられる。

(f) アジア集団安保構想

ソ連は折にふれアジア集団安保構想に言及し,8月ホベイダ・イラン首相訪ソの際,イラン側から本件構想への支持をとりつけた。しかし,アジア諸国の中にはこのソ連の構想には具体性がないこと,中国を刺戟したくないことなどの配慮から否定的な見解が多く表明されており,当面具体的問題としてとりあげられることにはならないであろう。しかも,ソ連としては,今後ともアジア集団安保構想の実現に向つての努力は行つていくと思われる。

また,ホベイダ・イラン首相歓迎晩さん会の演説で,コスイギン首相が,アジア集団安保体制構想の内容として,「自国の天然資源の主権的所有に対するすべての国による承認および遵守」を追加的要件としてあげたことは,天然資源を主たる財産とするアジア諸国を,この構想に引きつけるねらいをもつ発言として注目される。

(2) わが国との関係

(イ) 北方領土問題(平和条約交渉)およびソ連首脳の訪日問題については,第1部総説第3章第1節3の「田中総理のソ連訪問」の項で記述したとおりである。

(ロ) シベリア開発協力問題

(a) 日ソ間で既に実施に移されたシベリア開発案件は,ウランゲル港の建設,パルプ・チップ用材の開発輸入および第一次極東森林資源開発の3件であり,このうち第一次極東森林資源開発は,1973年で完了した。

(b) 日ソ当事者間で話合いが行われている石油,天然ガス等の大規模プロジェクトは,(i)チュメニ石油開発,(ii)ヤクート天然ガス開発,(iii)南ヤクート原料炭開発,(iv)サハリン大陸棚石油・天然ガス探鉱,(v)第二次極東森林資源開発であるが,73年中の各プロジェクトに関する日ソ当事者間の話合いの主な動きは次のとおりであつた。

(i) チュメニ石油開発

73年2月および4月に日本側専門家が訪ソし,8月にセミチャストノフ外国貿易省第一次官を代表とするソ側代表団が来日,日ソ・ソ日経済委員会合同幹部会議が開催された際にも取り上げられた。その際セミチャストノフ第一次官は,日本への年間供給量は2,500万トン以下である旨言明した。日本側当事者からソ側当事者に対し,当事者間の本格交渉を始めるよう累次督促したにも拘らず,73年中には本格交渉は行われるに至らなかつた。

なお,米国企業のプロジェクトヘの参加の方途につき日米当事者間で話合いが行われた。

(ii) ヤクート天然ガス開発

73年7月オシポフ外国貿易次官が来日し,12月には日本および米国の専門家が現地視察のため訪ソした。日米の共同参加プロジェクトであるので,日米・米ソの当事者間でも話合いが行われた。

(iii) 南ヤクート原料炭開発

73年4月ソ側代表団が来日,7月には日本側専門家が訪ソし,埋蔵量,品質等技術的問題につき協議した。

(iv) サハリン大陸棚石油・天然ガス開発

73年7月にスシコフ外国貿易省対資本主義諸国機械輸入総局長が来日,技術問題等について話合つた。

(v) 第二次極東森林資源開発(第二次KS)

73年に完了した第一次KSプロジェクトを継続するためのものであり,73年7月モスクワで交渉が開始された。その後,8月および12月にソ側代表団が来日し,交渉が行われたが,同年中には妥結に至らなかつた。

(c) これらの日ソ間の諸プロジェクトに対し,政府としては,互恵平等の原則の下に,日ソ両国の当事者間の話合いが,双方に満足のゆく形でまとまるのをまつて,信用供与を含め積極的に協力するという基本的立場をとつている。

(ハ) 日ソ貿易

(a) 73年の日ソ貿易高は,通関統計で輸出4億8,400万ドル(FOB),輸入10億7,800万ドル(CIF),合計15億6,200万ドルに達し,72年の実績(輸出5億400万ドル,輸入5億9,400万ドル,合計10億9,800万ドル)に比較し,大幅に増加した。しかし,貿易バランスは,72年に著るしく改善されたにもかかわらず,73年には再び大幅なわが国の入超となつた。これは,わが国内のインフレ,物資不足とともに国際通貨不安が重なつて輸出(特に機械設備の輸出)が延びなかつたことに起因している。

(b) わが国の対ソ主要輸出品目は機械設備,繊維および同製品,鉄鋼および同製品,化学製品等で,輸入は,木材,白金等非鉄金属,石炭等鉱物性燃料等が主要な地位を占めている。

わが国の工業製品の輸出,原材料の輸入という輸出入構造の基本的傾向は従来と変つていない。

(ニ) 日ソ漁業交渉

(a) 日ソ漁業委員会第17回会議

北西太平洋日ソ漁業委員会第17回会議は73年3月1日から東京で開催され4月26日,日ソ双方の委員が合意議事録に署名して終了した。

その結果,わが国の73年のさけ・ます年間漁獲量はA区域44,O00トン,B区域47,O00トン(但しB区域については10%以内の増減があり得る)と決定された。

(b) 日ソかに交渉

第5回日ソ政府間かに交渉は,73年3月1日から4月24日までモスクワで開催され,かに資源に対する日ソ双方の法的立場を棚上げした上で73年におけるかにの漁獲量につき合意し,5月11日新関大使とイシコフ漁業大臣との間で書簡が交換され合意議事録が署名された。73年の北西太平洋におけるわが国のかにの漁獲量は,全体として従来の実績を下回ることとなつた。

(c) 日ソつぶ交渉

第2回日ソ政府間つぶ交渉は73年3月1日から4月24日までモスクワで開催されつぶ資源に対する日ソ双方の法的立場を棚上げした上で,73年におけるつぶ漁獲量につき合意し,5月11日新関大使とイシコフ漁業大臣との間で書簡の交換が行なわれた。73年の北西太平洋におけるわが国のつぶの漁獲量は,樺太東方水域で穀付1,700トンオホーツク海北部水域でむき身1,125トンとなつた。

(ホ) 安全操業問題および漁船「だ捕」

安全操業問題については,第1部総説第3章第6節6,の「ソ連」の項において述べたとおりである。

北方水域におけるソ連官憲による本邦漁船の「だ捕」事件は,依然として頻発しており,73年における本邦漁船の「だ捕」件数は25隻,186名であり同年中に15隻,187名(その内21名が72年から越年)が帰還した。なお,1946年から74年3月31日まで,ソ連側に「だ捕」された漁船の総数は,1,425隻を数え,抑留漁船員の総数は12,013名に達している。その内,ソ連側から返還された船舶は876隻,帰還した漁船員は,11,970名で,「だ捕」の際または引取りの途中で沈没した船舶は23隻,抑留中に死亡した漁船員は32名である。

(ヘ) 墓 参

(a) 政府は61年以降ソ連本土(戦後ソ連本土に抑留され死亡した邦人の墓地),樺太(終戦時まで居住していた邦人の先祖の墓地)および北方領土(終戦時まで居住していた邦人の先祖の墓地)の三地域について墓参を実施してきた。しかし,ソ連側は日本側の希望する墓参地域の多くが「外国人立入禁止区域」内であるとして日本側の希望を部分的にのみ許可し,特に71年以降は,樺太墓参に限つて許可されてきた。

(b) 73年度は5月,ソ連側に対し,ソ連本土(ザビタヤ,アルチョムおよびウラジオストックの3カ所),北方領土(歯舞群島,色丹島,国後島および択捉島の各島にある4カ所)および樺太(真岡,豊原および本斗の3カ所)への墓参につき許可方申入れをしたところ,7月ソ連側から,樺太への墓参のみ許可する旨の回答があつた。これに対し,政府はソ連本土および北方諸島への墓参についても許可するよう再考を促がしたが,「外国人立入禁止区域」を理由に肯定的回答が得られなかつた。

樺太(豊原,真岡および本斗)への墓参は,9月25日から29日まで実施された。

(c) 73年10月に,田中総理大臣が訪ソした際,総理大臣から墓参に対する日本人の心情を説明の上,今後墓参が日本側の希望どおり実現するよう配慮を要請した。これに対し,ソ連側は,「人道的考慮に基づき,然るべき注意をもつて検討する用意がある」旨を約した。

(ト) 未帰還邦人

(a) 戦後ソ連領に残留した邦人は59年までに大部分が「集団引揚」の形で帰還した。その後,さらに89名の邦人が帰国したが,現在なおソ連邦には,729名の邦人(家族を含めれば約3,500名)が残留している。このうち,105名(家族を含めれば408名)が帰国を希望していることが確認されている。

(b) 73年10月総理訪ソの際,総理から人道上の見地より帰国を希望する未帰還邦人の早期本国帰還実現のための協力を要請,ソ側は日本側要請を然るべき注意をもつて検討する用意があることを約した。

 

2. 東  欧

 

(1) 概 観

 70年以降,東欧諸国はいずれも,経済政策の重点を,国民の生活水準向上に向け,その結果,いずれの国でも消費物資の出廻り,あるいは住宅供給が格段に改善され安定した物価とあいまつて,国民の生活水準は目立つて向上している。このような政策転換は国民によつて評価されている一方,国民の消費生活指向がイデオロギー的無関心を助長する,という結果をももたらしている。

 東欧諸国の政権としては,国民の要請にこたえて,産業を近代化し生活水準を一層向上させるためには西側との経済交流を深めることが必要であると認識しながらも,これに伴なう人的あるいは情報の交流が,イデオロギーの弛緩,ひいては杜会主義体制の空洞化につながることを警戒している。東欧諸国が「緊張緩和」を唱え,西側との経済関係の緊密化への努力をしながら,国内ではむしろイデオロギー引締めの傾向を強めていることがうかがえる。

 この観点から,73年末に,ドイツ連邦共和国が,チェッコスロバキア,ハンガリーおよびブルガリアと外交関係を樹立し,アルバニアを除く全ての東欧諸国との関係が正常化されたことが注目される。今後の両者の関係は,東欧側のドイツに対する経済的期待と,その反面その影響下に置かれてしまうという懸念との交錯によつて特徴づけられると見られる。またこのような配慮は,東欧のECに対する慎重なアプローチにも見られる。

 この間にあつて,米国が東欧との経済関係増進に力を入れていることも注目に値する。

(2) 東欧各国の情勢とわが国との関係

(イ) ドイツ民主共和国

ドイツ民主共和国にとり,73年は,画期的な年であつた。対外面では,72年秋までドイツ民主共和国と外交関係を結んでいた国は30カ国にすぎなかつたが,両独間基本条約の署名を契機として,73年末現在日本を含め100カ国と外交関係を持つに至つた。また,9月には国連に加盟し,長年目標としてきた国際杜会における「独立主権をもつ杜会主義ドイツ国家」として承認を受け,国際的孤立から脱脚した。

内政面では,8月のウルブリヒト国家評議会議長の死去の結果,10月の人民議会は,シュトフ閣僚評議会議長(首相)をウルブリヒトの後任に,ジンダーマン閣僚評議会副議長をシュトフの後任にそれぞれ任名した。今回の人事異動により,ホネカーは党指導の強化と自己の地位の強化を成し遂げたと見られる。ホネカー指導部は71年の第8回党大会の路線に忠実に従つて内政政策を遂行し,私有形態が残存していた中小企業の国有化,地方行政における党指導の強化等杜会主義体制の増強とともに消費物資の充実,杜会保障の整備,住宅の建設等国民生活に密接した政策を推進した。

両独間基本条約の成立により,両独間旅行制限が緩和され73年1年間で西ベルリンを含め西側から約750万人がドイツ民主共和国を訪れた。

一方ドイツ民主共和国政府は11月同国訪問者に対して課される最低強制交換金額を一拠に倍増し,ドイツ民主共和国訪問者の数を実質的に制限する動きも見せた。

わが国とドイツ民主共和国との関係は,5月に外交関係が樹立され10月に相互に大使館が設置された。この間,民間レベルにおける経済・文化交流も活発化した。

(ロ) ポーランド

ゲーレック新指導部が出現してから3年目をむかえ,政治的にはますます安定度を加え,経済的にも消費物資の出まわりはよくなり,国民生活も明るさを増している。この成功を背景に,10月に第1回党全国会議が開催され経済発展を内外に誇示し,今後の展望を示した。同会議では5カ年計画で予定された賃金増加18%を3年で達成し,また70年暴動の原因となつた主要食料品価格を74年中据え置く旨発表した。新指導部は,成立以来民生向上につとめており,現在まではこれを果して来たと言えよう。すなわち73年は国民所得10%増,工業成長率12%を記録している。しかし,他方では,対外債務の増大,財政支出増大,一部品目の価格上昇などが現われつつあり,これをどこまで抑えながら,産業の近代化および国民生活の近代化を長期的に確保し得るかが今後の課題と見られる。

わが国との関係は各分野で順調に発展しており,7月には東京で第4回日波経済混合委員会が開かれ10月には井出団長以下衆参両院から10名の議員団がポーランドを訪問した。

両国間経済関係は活発化しており,日本側の輸出130百万ドル,輸入49百万ドル,総額1.8億ドルと2億ドルに迫る勢をみせ,東欧諸国中最大規模となつている。

一方,貿易アンバランスの増大も目立ち,産業協力等一層密接な関係を通じて,両国経済関係の拡大均衡達成の方策が検討されている。

(ハ) チェッコスロヴァキア

誕生以来4年目を迎えたフサーク指導部は,2月のブレジネフ・ソ連党書記長の訪問,3月のスヴォボダ大統領の再選等を通じて安定性を誇示した。フサークの地位の安定をうけて,73年は,党指導部内部の人事異動は行われなかつた。

フサークの「正常化」路線は,ソ連と忠実に連携することにより,平穏裡に推移し,殊に,国民の経済生活に対する不満を解消させるために,生活水準の向上,消費生活の改善に意を注いだ。経済各種目標は,計画を上回わるスピードで達成され過去2年間の順調な経済活動と相まつて,今後の経済発展に対する基礎固めが達成されたといえる。

72年秋以来積極化した「外交攻勢」は,73年において2国間関係の改善に意が注がれ長年にわたり同国外交政策上,最大の懸案であつたドイツ連邦共和国との外交関係の樹立は,歴史的意義を有する重要な出来事であつた。また米国との関係改善も進展し,6月にはロジャーズ国務長官が来訪した。また,68年の「チェコ事件」以来関係が冷却化していたルーマニアおよびユーゴースラヴィアとの関係については,チャウシュスク書記長が非公式ながらプラハを訪問(3月),またフサーク書記長がベオグラードを公式訪問して(11月),いずれも,従来の相互の立場を尊重しながら関係拡大をはかることとなつた。

わが国とチェッコスロヴァキアとの貿易は飛躍的に増大し,往復66.8百万ドル(通関ベース,前年比2.4倍)となり,今後の両国間の経済交流拡大が期待される。また,11月にはフニョウペク外相が来日し,わが国政府と両国間関係を一層発展させるための施策につき,意見の交換を行つた。

(ニ) ハンガリー

経済的繁栄を背景として,国内情勢は安定しており,カーダール党第一書記に対する国民の信頼感は依然として強いものがある。ハンガリーの経済改革は,東欧杜会主義諸国中最も進んでおり,ここ数年の間に生活水準の著るしい向上をもたらした。反面投資の過熱化,輸入の著増,所得格差の拡大およびイデオロギーに対する国民の無関心等の弊害が現われて来たため,72年11月の党中央委総会で若干の是正措置がとられた。さらに73年も引続き,主要経済閣僚から成る国家計画委員会の創設,主 要企業を監督下に置くと同時に中期計画を導入,投資および輸入の抑制措置等がとられ国民経済に対する国家のコントロールを強化しつつある。イデオロギー面においても,ヘケドゥーシュ元首相を右翼偏向として党から追放したことは,自由化を一層推進しようとする一派に対する警告とも受取られ全般的に自由化の行き過ぎにブレーキをかける動きが見られた。

ソ連との関係は,ハンガリーが外交面で圏内の足並みを乱す行動は一切とらないこともあつて極めて良好である。対米関係も米資産補償協定の締結,米上院議員団,デント商務長官の来洪およびヴァーリ副首相の訪米があり,改善の跡が著るしい。年末にはドイツ連邦共和国との間に外交関係が樹立された。

わが国のハンガリーに対する輸出は1,047万ドル,輸入は1,472.6万ドル総額は2,519.6万ドルで前年比約20%増加している。なお,ペーテル外務大臣の訪日および文化交流に関する合意成立を契機として,両国間の関係緊密化のための動きが活発化していることが注目される。

(ホ) ルーマニア

ルーマニアは,対外的には,自主独立外交を堅持しており,一時のように派手な動きはないが,ソ連杜会主義圏内で,独自な立場を維持している。チャウシェスクの極めて頻繁な外国訪問(米,独,伊,ヴァチカ ン,中南米,アフリカ,アジアを含む17カ国),欧州安全保障協力会議における独特な発言,第3次中東戦争直後におけるイスラエル外相のブカレスト訪問,あるいはチリ政変後も,共産圏唯一の国として,チリと外交関係を断絶しなかつたことなどは,この自主外交の表われである。

経済面では,チャウシェスク指導部は「5カ年計画の4年半達成に象徴される超高度成長政策を続行しており,工業生産の伸びは,73年に16.2%,74年に17%と,極めて高い目標を掲げている。また,対外貿易についても,74年交換可能通貨諸国に対する輸出70%を増大する,という計画がある。このような意欲的な成長政策の反面,一部には目標達成上の困難が生じ,急成長に起因する各種のひずみも見逃せず,対外債務の累積,資源確保の困難が見られる。また新住宅法(賃借住宅の強制買取)大量配置転換,一部生活物資の値上げなど国民生活に直接影響のある一連の施策も,このような不均衡の表われと見られる。

党指導部におけるチャウシェスクの地位は,一連の人事異動を通じ,さらに強化されたと見られ1月のチャウシェスク誕生日祝典,あるいは,夫人の党執行委員就任等も,その確固とした地位を示威するものである。チャウシェスク指導部の将来は意欲的な経済成長政策の成否にかかつていると云えよう。

わが国との関係は友好裡に推移しており,秋田衆議院副議長を団長とする議員団が,ルーマニアを訪問した。貿易は,わが国の輸出7,100万ドル,輸入2,800万ドルで総額9,900万ドルはルーマニアの工業化政策を反映し,前年比67%と大幅に増加した。

(ヘ) ユーゴースラヴィア

71年のクロアチア指導部の退陣事件,72年のセルビア指導部のパージに引続き,73年も綱紀粛正,順法運動のスローガンの下に各界のパージが行われた。これらは否定的現象ないし傾向が依然として存在することを示すと同時に,74年に予定される憲法改正,第10回党大会という重要な政治日程とにらみ合わせて,「チトー後」の体制確立の緊要性を物語るものと言えよう。

9月にコスイギンが訪ユし,11月にはチトが訪ソし,ソ,ユ間の一応の調整が為され両国の報道機関の相互非難は姿を消すに至つたが,ユーゴースラヴィアが対ソ接近路線を打出したとはかならずしも云えず,独立,主権,平等,内政不干渉を旗印とするその外交路線を変更したとは考えられない。現に9月のアルジェリアにおける第4回非同盟諸国首脳会議をリードしたことにも見られる通り,対外政策面では,非同盟・積極的平和共存の建前を堅持している。

経済的には従来,国際収支,インフレ,非流動性の「三悪」に悩まされて来たが,国際収支,非流動性については多分の改善が見られた。しかし,インフレ傾向は依然として続いており,国際経済の動向に影響され易い体質から,最近の国際経済の変動に大きく揺さぶられる懸念がある。

わが国との関係は,政治的懸案はなく,大平大臣の訪ユ,トドロヴイッチ連邦議会議長の訪日等に見られるように,良好と言える。

貿易関係は,総計78百万ドル,うちわが国の輸出は51百万ドルで総額前年比47%増であつた。

(ト) ブルガリア

ジフコフ政権は,東欧六カ国中最も長期政権であり,党最高指導部の陣容は,66年11月の第9回党大会以降ほとんど不変である。ソ連の援助をテコに高度の経済発展を誇つて来たが(過去15年間の年平均成長率9.1%),ここ数年成長率もダウン傾向にあり,経済建直しのため72年12月に開かれた党中央委総会は,今後の最重点政策として,国民生活水準向上に関する決定を採択した。この決定に基づき,73年には最低賃金,若干の職種の賃金,年金の引上げが行われた他,一部消費物資の価格引下げおよび週5日制の漸進的導入等の諸措置がとられた。経済管理政策については,利潤制度の導入などいわゆる自由化は抑え,工業部門における部門別企業連合,農業における地域別農エコンプレックスの創設により大型化,集中化を推進するとともに科学技術の導入による近代化によつて生産効率を高める基本方針をとつている。しかし,大型化による官僚主義の慢延,専門化により一部門の低滞が直ちに他部門に波及すること,ならびに物質的インセンティヴに乏しいため勤労意欲の低滞,労働規律の弛緩により重要プロジェクトおよび住宅建設の遅延等の欠陥が出て来ている。外交面では,ソ連との関係は極めて密接であり,ポドゴルヌイ(6月),ブレジネフ(9月)の来訪,ジフコフ(7月)およびトドロフの訪ソがあつた。またギリシャ,トルコ,ユーゴ等のバルカン半島の近隣諸国との関係改善に進歩がみられた。

わが国のブルガリアからの輸入1,810.4万ドル,輸出3,560.9万ドル,総額は5,371.3万ドルで対前年比約6割増であつた。ブルガリアは最近,わが国からの設備輸入に大きな関心を示している。

(チ) アルバニア

「米帝国主義」,「ソ連修正主義」に対する非妥協的攻撃は依然として続けられ,CSCEに対しても,二超大国が支配する会議は無意味であるとして出席を拒否している。他方,中国との友好関係の維持に努力し,最近では中国の批林批孔運動に唱和するなど,中国がアルバニアにとつて重要で最大の友好国であることを示している。

イデオロギー的に問題のないアジア・アフリカ,ラ米諸国との関係調整が行われたが,国内における反自由主義キャンペーンと宗教排撃運動の強力な推進に見られるように,外国の影響の流入に対し極めて警戒的である。極度に排外主義的政策が再度アルバニアを支配した観があり,ホツジヤ指導部の国内把握はますます強まつている。

わが国とアルバニアの間には極く僅かな貿易(総額44万ドル,わが方の輸出9.5万ドル,総額前年比13.7%増)および友好団体等の一部の旅行者を除いては,外交はもとより,人的,経済的,文化的交流は皆無に等しい。

 

 

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