-北米地域-

 

第5節 北米地域

 

1. 米  国

 

(1) 内  政

(イ) 内政重視を打ち出した第2次ニクソン政権

ニクソン大統領は72年11月7日の大統領選挙で,全米50州中49州521人の選挙人を獲得するという圧勝を背景に,第二期政権の順調なスタートを切つた。

73年1月20日に行われた大統領就任演説でニクソン大統領は,内政,外交における責任の分担,自助努力を強調し,従来の外交面における諸外国の米国への依存,また,内政面における連邦政府への過度の権力の集中を整理すべきであると述べた。さらに各州等地方自治団体および国民の各々が応分の責任をになうべきであると強く主張するとともに,第1期政権はややもすれば外交に重点がおかれすぎていたきらいがあるのに対して,今後は内政にも努力を傾けるとの姿勢を示し,これを具体化するため,天然資源および環境教書,経済教書,人的資源教書,都市開発教書,連邦刑事司法制度教書,エネルギー教書等を次々と発表した。しかし,その後ウォーターゲート事件が思わぬ発展を示し,また,民主党が多数を占める議会との関係もあつて,事態は大統領が考えたようには必ずしも進まなかつた。このため,9月には大統領が異例ともいえる特別教書を出して議会に対し,提出法案の早期審議の促進を要請した。

10月の中東戦争勃発に伴ない,米国はアラブ産油国の石油禁輸措置をうけ,その結果,全米にエネルギー危機が広がつた。さらに73年に入つてから急激に進行していたインフレーションにより,一般庶民の生活は非常な圧迫を受け,米国民の間にはウォーターゲート事件の進展ともからんで政府に対するかなりの不満が見られるに至つた。

このような国民の空気をうけて大統領は,74年1月30日の年頭教書で,(i)エネルギーの自給自足,(ii)永続する平和の構築,(iii)物価騰貴の抑制,(iv)より良い健康保険制度の確立,(v)地方分権の強化,(vi)運輸手段の改善,(vii)教責に対する連邦支出の適正化,(viii)国民ひとりひとりのプライバシー尊重,(ix)杜会福祉制度の改革,(x)世界貿易の拡大という国民生活に身近な問題点を74年の施策の10大目標としてかかげ,これらの課題と地道にとりくむとの姿勢を示した。同時に大統領は,過去5年間を通じてのニクソン政権の最大の目的は,永続する平和の構築にあり,これを8年間の大統領としての任期を通じての最も主要な遺産として残したいと述べて,引き続き大統領としての職責を果して行く姿勢を明かにした。

(ロ) 経済政策の動向

このように,第二次ニクソン政権は,内政重視の姿勢を打出してきたが,同政権の経済政策の動向は次のとおりである。71年8月に発表されたいわゆる「新経済政策」以降,米国経済は次第に回復のテンポを早め,賃金,物価の上昇も鈍化を示し,新経済政策は一応所期の効果を発揮したと考えられる。

こうした情勢の下で,73年1月11日,ニクソン大統領は,食品,医療,建設の3業種を除いて賃金・物価の法的規制を廃止することを明らかにし,賃金・物価統制は第2段階から自主規制を中心とする第3段階へと移行した。しかし第3段階移行後,農産物価格が需給逼迫により急騰し,他の諸物価も上昇したため,ニクソン大統領は6月13日,「物価の再凍結」と大豆等の農産物の輸出規制を実施した。

この物価再凍結によつて一時的に物価上昇は防止できたものの,特に農産物において生産縮小,供給不足を生むこととなつた。しかも他方で凍結を解除すれば,インフレは益々高騰する恐れがあるというジレンマに直面し,早期に第4段階への移行が求められていた。7月18日大統領は産業別に事情に応じた規制方式(第4段階)を発表した。これは価格凍結を8月12日に終了すること,およびコスト上昇分を価格に転嫁することを認め,インフレの主因となつている食料品生産が阻害されないようにすること等を骨子としたものであつた。

このような政策の下で,73年の実質成長率は5.9%と前年の6.1%を下回り,またGNPデフレーターの上昇率は,5.3%と年頭の政府見通しの3%を大きく上回る結果となつた。

ニクソン大統領の新経済政策から2年以上が経過した時点では,新経済政策で打ち出された3本の柱のうち,景気の回復については,ほぼ完全に目的を達したと考えられる。これに伴ない,失業率も73年後半には5%を下回る水準で推移した。

国際収支についても,73年中大幅に改善し,公的準備取引収支(わが国の外貨準備の増減に相当する)で53億ドルの赤字にとどまつた。(72年は103億ドルの赤字)しかし,インフレ抑制については依然として未解決であり,賃金物価統制の第4段階においてもインフレ圧力は鎮静化していない。最近では,統制が物資の供給不足を生むとの考えから,肥料,非鉄金属自動車等多くの業種で統制が解除されつつある。

第4段階をいつ迄続けるか明確な方針は打ち出されていないが,大統領は74年経済報告の中で「賃金物価統制を徐々に撤廃する政策を継続する」と述べており,4月30日で期限切れとなる経済安定法の成り行きとともに注目される。

 

米国のGNP(季節調整済み,年率,単位・億ドル)
米国の主要経済指標

 

(ハ) エネルギー問題

現在,エネルギー問題は世界各国の共通の問題であるが,ニクソン大統領は以前からエネルギー問題の重要性を強調し,73年4月のエネルギー教書においても,「エネルギーの挑戦」に積極的に取組んで危機を回避することを訴えた。他方,議会でもジャクソン上院議員(民主党)を中心に,行政府のエネルギー政策ではまだ充分でないとして,新たなエネルギー関係立法措置を推進する動きがあつた。

73年10月の中東戦争を契機とする新たな石油情勢の下で,ニクソン大統領はこれを「エネルギー危機」と呼び,強力なエネルギー対策の実施と新立法措置の促進のための国民,議会,企業等の協力を呼びかけた。特に11月7日の演説では,80年までにエネルギー自給体制を確立するとの「プロジェクト・インデペンデンス」を提案した。これは基本的には,(i)エネルギー生産の増大,(ii)エネルギー保全,(iii)エネルギー研究開発という三つの方策を通じて,供給面においては年率4.7%増(過去15年間平均3%増),需要面においては2%増(同4~5.5%)を図り,これにより,80年までにエネルギー需給関係をバランスさせようとするものである。

また,このような国内対策に加え,キッシンジャー国務長官は73年12月に日,米,欧からなるエネルギー行動グループの設立を提案するなど,国際協力と協調によるエネルギー問題の解決を図る姿勢を見せている。(74年1月9日には,ニクソン大統領がエネルギー・ワシントン会議の開催を呼びかけ,同会議は2月11~13日,ワシントンで開催された。)

(ニ) ウォーターゲート事件

73年の米国の内政はウォーターゲート事件の進展により大きな影響を受けた。

本事件の核心は大統領自身が盗聴計画或いはその隠ぺいにかかわりあいがあつたかどうかであるが,これをめぐつて上院特別調査委員会(アーヴィン委員長)の設置(2月),およびその公聴会の開始(5月),大統領の側近ハルドマン,エーリックマン両補佐官の辞任(4月),クラインデイーンスト司法長官の辞任(4月)ならびにリチャードソン司法長官の辞任(10月)等が続発するに及んで,本件をめぐる論議は大統領の弾劾問題にも発展し,大統領制度の根底に触れる問題となつてきた。

大統領の弾劾問題に関しては昨年10月末以来,下院司法委員会(ロディノ委員長)が予備調査を進めている。

このように,ウォーターゲート事件をめぐる一連の動きは,いまだに流勲的であり,今後の司法手続の進展および弾劾に関する議会の動きを通じて帰趨が明かになつて行くものと思われる。

(2) 外  交

(イ) ニクソン・キッシンジャー外交の展開

米国にとつて長年の懸案であつた「ヴィエトナム和平協定」が1月27日に成立し,73年は久しぶりに海外で米軍を戦争に投入しない平和な年となつた。内政面で種々の問題を抱えながらも,ニクソン政権は前年に引続き得意とする外交問題と積極的に取組んだ。73年9月には,キッシンジャー補佐官が,国務長官に就任したことにより,これまでとかくホワイトハウスと国務省との間で乖離しがちであつたといわれている外交政策の立案および実施が一元化されることになつた。

まず,72年のニクソン大統領の訪中(2月)訪ソ(5月)によつて糸口をつけられた米中,米ソ関係をはじめとする対立陣営との「対決から対話へ」の方向づけの成功により,73年は同盟諸国との関係をより緊密化,活発化するとの方針を打出し,とくに米欧関係の強化をめざした外交政策が展開された。具体的な現れとして,4月23日,キッシンジャー補佐官(当時)はニュー・ヨークにおけるAP年次総会の演説で,73年を「欧州の年」と呼び,先進工業民主主義諸国間の「原則宣言」(いわゆる新大西洋憲章)の採択を提案したが,この目的は政治,経済,安全保障等の協力を通じて米国,西欧,日本およびカナダの間の一層の結束を はかろうとするものであつた。同提案に関して,米国は2月から8月にかけて,英,伊,独,仏,日との間の一連の首脳会談を通じて同盟諸国との緊密な話合いに努めた。

欧州諸国は当初米国の欧州への干渉の可能性,とりわけ,政治,経済,安全保障をリンクするアプローチに対して警戒の感を示していたが,米国の呼びかけに対して欧州としてのまとまつた反応を打出そうとの気運が盛上り,秋には,安全保障に関する「NATO宣言」と政治,経済に関する「米,EC宣言」の二本立てで作業を進める方向が打出された。しかし,この作業を進める過程で,欧州の主体性を強く主張する仏等EC諸国と米国の意見の相違が表面化し,また,日本,カナダをも含めた包括的宣言の採択が望ましいとの米国の立場に対する欧州の抵抗もあつて,宣言が採択されるまでにはかなりの迂余曲折が予想される見通しとなつた。さらに10月の中東戦争を契機に対中東政策をめぐる米欧間の足並みの乱れがみえ,74年2月のワシントンでの石油消費国会議では石油をめぐる米欧の利害の対立が浮彫りにされるなど,米欧関係の調整はかなりの問題を含む情勢となつて来た。

他方,米ソ関係,米中関係については72年の「対話」の開始を基礎に,73年はその実りを上げた年といえる。すなわち,米ソ関係は,前年のニクソン大統領の訪ソに対する答礼として行われた6月のブレジネフ・ソ連共産党書記長の訪米がそのハイライトであつた。この米ソ首脳会談で,人物・文化交流,海洋研究,交通・農業・原子力平和利用についての協力協定,通産事務所設置,SALT(戦略兵器制限交渉)に関する基本原則,米ソ核戦争防止協定等8つの協定および3つの議定書がまとまつた。特に「核戦争防止協定」は米ソ両国間および双方の同盟国その他に対する核不戦を約束するもので,核時代における米ソ不戦と平和共存の決意をうたい,戦後の米ソ関係においても「歴史的な道標」をなすもので,ニクソン政権の外交的成果とみることができよう。また,米ソ首脳が交互に相手国を訪問することについても合意され,74年にニクソン大統領が再び訪ソして米ソ協調関係を深めることになつた。しかし,両国間にはソ連が米国に期待している貿易拡大の遅れや,ソ連にいるユダヤ人の出国問題がある。

一方,米中関係は72年のニクソン訪中によつて劇的な好転をみせたが,それをさらに促進させるために2月にキッシンジャー補佐官(当時)が中国に飛んだ結果,北京とワシントンに連絡事務所を設置することで合意した。この連絡事務所は,実質的には大使館に準ずるもので,初代所長には米国がデービッド・ブルース元駐仏,駐英大使を,中国が黄鎮前駐仏大使といずれも,大物の外交官を任命し,米中両国は正式国交のないまま急速に接近することとなつた。さらに11月にもキッシンジャー国務長官は中国を訪問して米中関係の強化・改善を再確認しており,米中関係の改善はヴィエトナム戦争の終結とともにアジアにおける平和の確立に大きく寄与した。

以上の他に,73年に米国が世界平和に果した役割として中東戦争の停戦があげられる。キッシンジャー国務長官はイスラエル,エジプトをはじめソ連,アラブ諸国を文字通り東奔西走し,停戦,兵力引離し,ジュネーヴ和平会議の開催へと精力的な和平工作を行い,その活躍ぶりは高く評価された。

(ロ) 対外経済政策の動向

米国は,現行のガット・IMF体制が大きな変貌を遂げつつある世界経済の現状に十分効果的に対処できなくなつた結果,他国に比し,米国が不利な扱いを受けているとの不満を抱いており国際通貨・通商制度の改革を強く求めている。また多数の多国籍企業を擁する米国としては,進出先の国との種々の摩擦を円滑に解決するための国際的投資コードの作成にも強い熱意を示している。

米行政府は,このような立場から73年を通じ,積極的な経済外交を展開したが,その根底に,これら通貨通商,投資等の諸分野がそれぞれ相互に緊密に関係しあつているという一種のリンケージ論があることは注目に値いする。例えば,国際通貨制度改革の前提として,各国の貿易自由化の推進が不可欠という主張にも示されていると言えよう。

米国の通商政策を占う上で重要な要素は73年4月に議会に提出された通商改革法案であろう。行政府案は,基本的には,関税,非関税障壁の軽減・撤廃を可能とする貿易拡大的権限と輸入救済や対抗措置あるいは国際収支を理由とする課徴金賦課等を可能とする貿易規制的権限とを併せもつていた。下院審議の過程では,特に対ソ最恵国待遇供与規定が問題となり,結局,ソ連がユダヤ系市民の出国の自由を認め,出国税等を廃止しない限り,対ソ最恵国待遇のみならず,対ソ輸出投資信用の供与を禁止するとのいわゆるヴァニック修正案を付した上で,同法案は73年12月11日,下院を通過した。上院の審議は74年に持ち越された。

近年顕著となつてきた食料,原材料の世界的需給逼迫を背景として,米国は大豆等農産物や木材,鉄くず,石油製品につき,輸出規制措置を実施するに至つた。特に,農産品については従来米国は強い国際競争力を背景として農産物貿易についても工業品貿易と同等に扱うべきとの立場を打ちだし,ECおよびわが国に対し農産物の自由化を強く求めていたが,73年の食料原材料不足を契機に,米国の農産品貿易に関する態度が今後変つてくる可能性があるとの見方もある。

(3) わが国との関係

(イ) 日米経済関係

(a) 日米貿易経済関係の現状

現在,日米貿易は二国間の貿易規模としては,米加貿易に次ぐ規模となつている。

他方,わが国から見ても,対米輸出は総輸出の26%,輸入は総輸入の24%を占めており,わが国の貿易相手国としての米国の地位は際立つて大きい。

日米貿易の内容を見ると,対米輸出では自動車,オートバイ等の輸送機器,ラジオ,テープレコーダー等の家電製品および金属製品,衣類等の商品の比率が大きい。また対米輸入については,航空機,電算機等の技術先端商品や,小麦,大豆,とうもろこし,木材等重要食料,原料で米国に依存するところが非常に大きい。

73年の日米貿易は,対米輸出96.4億ドル,対米輸入83.1億ドルの規模に達している。

対米輸出は前年比6.4%増(72年23.9%)にとどまり,大幅な鈍化を示したが,この原因としては,通貨調整効果の浸透,わが国の景気拡大による輸出意欲の減退,西欧・東南アジア等への市場分散化等が考えられる。

他方,対米輸入は,83.1億ドルに達し,対前年比伸率も68.2%増(72年21.9%)と急増した。73年に輸入がこのように大幅に増大した背景としては,通貨調整効果の浸透,わが国の経済開放化努力,農産物を中心とする一次産品価格の上昇,国内の好景気を反映して需要が増大したこと等があげられる。上記の結果として,ここ2,3年来の日米経済関係で最大の懸案であつた貿易収支の不均衡は,73年中にほぼ解消したと言えよう。日米貿易収支は,71年には33億ドル,72年には41億ドルの日本側黒字に拡大したが,73年は13億ドルの黒字となり黒字幅は前年の3分の1に急減した。

貿易面と並んで,日米間の資本交流もますます増加している。わが国に進出している外資系企業のうち62%(620杜)が米国系企業で占められ,その投資残高は72年末において約22億ドルに達している。

他方,わが国の対米直接投資は,73年に急増し,年末における許可累計額で約19億ドルに達している。従来は投資の主体も商業・保険業がほとんどを占めていたが,最近は,米連邦,州政府の積極的な勧誘,対先進国投資のネックであつた人件費格差が平価調整の効果もあつて縮小していること,対外投資の金額規制の撤廃(71年7月),外貨貸し制度の実現(72年8月),米国内の輸入制限的動きを回避する配慮等の理由から,製造業を含めた対米投資が増大している。

最近では,わが国から米国への技術輸出も増えており,一方的な対米技術輸入から真の日米技術交流へと進みつつある。

(b) 経済問題に関する日米間の対話

   (i) エバリー通商交渉特別代表の来日

エバリー通商交渉特別代表は73年2月8,9日,外務省で,鶴見外務審議官はじめ外務,大蔵,農林,通商産業,経済企画の各省庁の関係局長と意見交換した。

会議では,次期国際ラウンドの交渉権限立法たる米通商改革法案の内容,ガットの準備委員会等の作業計画等次期国際ラウンドを控えての多国間経済問題および日米両国間の経済問題が主な話題となつた。米側は,特に72年の日米貿易収支の不均衡が41億ドルに拡大したことを背景に,理論的に考えうる不均衡是正策のうち,対米輸入拡大に努力することの重要性を強調した。日本側からも貿易の拡大均衡という目標を指向するという考え方に共感を示すとともに,日米双方が協力して問題の解決に取組むことで意見の一致が見られた。

   (ii) 日米通商協議

5月7日,ワシントンで,鶴見外務審議官とエバリー通商交渉特別代表を中心に事務レベルの通商協議が行われた。

会議では,73年第1・4半期において,日米間の貿易アンバランスは著しく改善され,既に峠は越えたとの共通の認識の下で,日米両国間および9月に開始が予定されていた国際ラウンドを含む多角的経済問題について意見を交換した。

   (iii) 第9回日米貿易経済合同委員会

7月16,17の両日,東京で,大平外務大臣の司会の下に,第9回日米貿易経済合同委員会が開催された。

会議では,日米双方の関係閣僚が,国際情勢,日米経済情勢,日米貿易経済関係,国際貿易経済関係(国際通貨問題,多角的貿易交渉,国際投資),エネルギー問題,その他の日米協力関係(開発途上国に対する開発協力,その他)という議題に沿つて意見交換を行つた。会議の概要は,会議終了と同時に発表されたコミュニケに記されているが,今回の合同委員会の特色としては,次の2点が指摘できよう。これまでの合同委員会は,ともすれば日米間の経済,貿易上の摩擦要因の調整に多くのエネルギーが費やされる傾向があつた。そのような要因の大部分は現在,解決の方向に向い,峠を越したということで今回日米両国が拡大均衡を指向して何をなすべきかという問題を討議したことは大きな前進と言えよう。世界のGNPの40%のシェアを占める日米両国が,大きな試練に直面している世界経済の諸問題につき,どのようにして協力して解決に当たるかという問題を長期的かつ大局的見地から討議したが,これは,これまでの緊密かつ大規模な日米協力関係を「世界の中の日米関係」という発想の下でさらに強化,発展させる意味できわめて有意義であつた。

   (iv) 田中総理の訪米

7月31日,8月1日,田中総理大臣はニクソン大統領とワシントンで会談したが,経済問題に関しては,上記合同委員会の討議の結果を踏まえながら,特にエネルギー資源問題を主要テーマの一つとして話し合つた。両首脳は,この分野における日米協力の重要性を確認し,エネルギー資源の安定供給確保,産油国との間の公正かつ調和のとれた関係の探究,OECDにおける緊急時石油融通措置,新エネルギー源の研究,開発協力,米国内のウラン濃縮工場建設に関する日米関係企業間の共同調査等につき広範な意見交換を行なつた。

(ロ) 日米科学医学協力関係

日米両国の間では過去10年間,科学,医学および技術上の各分野にわたつて活発な協力計画が実施されてきた。これらの活動の代表的なものとして,日米科学協力事業,日米医学協力事業等がある。

田中総理大臣とニクソン大統領は73年8月1日ワシントンで発表された共同声明(第15項)において,従来のこれら諸活動の業績に対して満足の意を表するとともに,今後10年間のより増大する必要性に鑑みて,さらに科学技術面の協力活動を強化拡充することを約した。現在これに沿つて,従来の諸協力計画を総合的に再検討するとともに,新しい分野における協力活動をも含めての検討作業が行なわれようとしている。

(a) 日米科学協力委員会

日米両国の平和目的のための科学上の協力推進を目的として,61年 の池田総理大臣・ケネデイ大統領共同声明に基づき設置された日米科学委員会の第12回委員会会合は,73年7月10日から12日まで米国国務省会議室において開催された。

前記会合では,現在進行中の協力事業および新規提案の事業などの検討,環境問題研究における協力事業の役割り探究についての現況報告等が行われた。また第8回委員会で設けられることになつた「部門担当委員」制を廃止し,リェゾン・メンバーという責任者を置くことなどが合意された後,日米両国政府に対する勧告案を採択し,次回会合を75年の夏から秋までの間に東京で開催することを決めて閉会した。

本委員会の任務は,委員会のもとに行なわれている日米科学協力事業の促進のため,成果の検討,将来計画の企画立案等を行ない,日米両国政府に報告ないし勧告を行なうことである。これらを遂行するため委員会は,自然科学の全分野を網羅した8つの部門を持つており,多数の科学者の協力を得て,セミナー,協力研究,科学者の交換等各種事業を実施している。実施機関は日本側が日本学術振興会,米側が米国科学財団(National Science Foundation)である。

(b) 日米医学協力委員会

アジアにまんえんしている疾病について効果的な措置をとる上に必要な基礎的医学研究を目的として,65年の佐藤総理大臣・ジョンソン大統領共同声明に基づき設置された日米医学協力委員会の第9回年次会合は,73年7月26日および27日,米国ベセスタにおいて開催された(これに先立ち7月23日から日米専門部会によるシンポジウムが行なわれた)。

この会議では,過去1年間における日米医学協力計画の成果についての報告および専門部会の活動についてのガイド・ラインの検討が行われた。また74年8月東京で開催される次回合同委員会に先立ち,突然変異・癌原部会とウイルス性疾患部会の活動の評価を行なうため合同部会を開催すること,および本件計画の10カ年報告書の作成準備を開始すること等が合意された。なお,本委員会に設けられている部会はコレラ,結核,低栄養,ウィルス性疾患,らいおよび寄生虫疾患,突然変異および癌原部会の7部会である。

(ハ) 安 保 問 題

(密接な協議,協調)

日米安保条約は,わが国の安全保障のために不可欠なものであるのみならず,アジアにおける平和と安全の維持に寄与する国際政治の基本的枠組みの重要な柱の一つであり,また日米間の信頼,協力関係を具象する紐帯である。73年中も,日米安保条約の円滑,かつ,効果的な実施を図るための,密接な協議および協調が引続き進められた。

まず,73年夏の田中総理大臣とニクソン大統領との首脳会談において,両首脳は,国際関係の既存の枠組みがアジアにおける最近の緊張緩和への傾向の基盤となつていることを認識し,日米安保条約のもとにおける両国間の緊密な協力関係の継続がアジアの安定の維持のための重要な要素であることを再確認した。同時に,同条約の円滑,かつ,効果的な実施を期するための継続的努力に満足の意を表明し,日本における米軍施設・区域の整理・統合のため,さらに措置がとられることが望ましいことで意見の一致をみた

さらに,74年1月30日,日本側から大平外務大臣と山中防衛庁長官,米側からはシュースミス駐日臨時代理大使とガイラー太平洋軍司令官とが串席して,日米安全保障協議委員会の第15回会合が開催された。また,安全保障に関する事務レベル協議は,73年5月29,30の両日,東京で,74年1月14日,ワシントンで第8回,第9回の会合が開催された。

また,73年1月に設置された両国政府の外交および防衛当局者で構成される安保運用協議会は,73年中計8回開催され,安保条約およびその関連取決めの円滑,かつ,効果的な実施をはかるための協議,調整を行つた。

(在日米軍施設・区域の整理・統合)

日米安全保障体制を防衛の基調とするわが国にとつて,在日米軍施設・区域の存在は,わが国の安全確保のため,欠くことのできないものであり,その効率的運用と安定した使用を図ることは当然であるが,他方,国内の経済的発展,全国的な急速な都市化現象等により,在日米軍施設・区域のあり方について調整の必要がでてきていることも否めない事実である。

このような見地から,政府は,従来から,日米安全保障条約の目的の達成と施設・区域所在地域の経済,杜会的発展との調整を図りつつ,その整理・統合を図つてきたが,73年においても,次のような措置を講じた。

まず,73年1月23日の第14回日米安全保障協議委員会で,関東平野地域における施設・区域の整理・統合計画が了承されたほか,那覇空港の完全返還および那覇空港周辺地区の返還につき原則的合意ができた。

また,73年6月14日の日米合同委員会で,沖縄県に所在する米軍施設・区域計8カ所の返還(全面返還2カ所,一部返還6カ所)が取決められた。74年1月30日に開催された第15回日米安全保障協議委員会で,沖縄県に所在する米軍施設・区域の一部または全部返還(計32カ所)について合意が成立し,日米双方は,このような整理・統合は沖縄県民の強い要望に沿うものであることを確認するとともに,整理・統合計画の迅速な実施を図るとの意向を表明した。(資料編「日米安全保障協議委 員会第15回会合について」参照)

 

2. カ ナ ダ

 

(1) 内政と外交

(イ) 政  情

(a) 72年10月の総選挙の結果,野党第一党との議席差わずか2議席という少数党内閣(自由党109,進歩保守党107,新民主党31,杜会信用党15,その他2)として発足した第2次トルドー政府は,まず,少数党政権としていかにして政局を運営するかの課題に取組んだ。

内政の主要問題は,(i)雇用増大,経済の安定成長,物価安定,地域経済格差の是年等の経済政策,(ii)杜会保障制度の再検討,住宅問題の改善等の杜会政策,(iii)連邦,州政府首相会議の開催等による連邦と州との関係改善等であり,これに加えて国民的統一と全カナダ人にとつての機会均等という国家目標を達成する問題がある。

(b) 野党第一党の進歩保守党は第29議会開会直後から,トルドー政権打倒をめざし,冒頭からトルドー政府の施策を批判し,早々と政府不信任案を出す動きを見せて成行きが注目されたが,キャスティング・ボートを握る新民主党がトルドー政府への協力姿勢を打ち出したため,同政権は当面の政局不安を乗り切つてきている。

(c) このようにトルドー政府は各党間の不安定な勢力関係の中にありながら,過去一年間を特記すべき難局に直面することなく,一応の安定を保つてきた。この背景として,(i)上述のようにキャスティング・ボートを握る新民主党の支持を得ることに成功してきたことの他,(ii)物価,減税,民生向上等内政に重点をおいた施策を打ち出して国民の批判にこたえる努力をして来たこと,(iii)野党との対決を避け,事前に野党と審議を尽す等慎重な議会運営に努めてきたこと,などが上げられる。他方,新民主党の側では,早期総選挙により議席数の大幅増加を必ずしも期待できない見通しにあり,また,インフレ,エネルギー対策を含め,政府の施策に代る明確な対策を打ち出せず,世論の支持も伸び悩み,トルドー政権打倒へのきつかけを生み出し得ていないことがあげられよう。

(d) 今後の政局の見通しについては,一部には,今夏総選挙を予想する見方もあるが,総選挙の時期については,インフレ・エネルギー問題に関する対策等をめぐる今後の政局の動向,新民主党の政府支持の方針いかんなどの要素にかなり左右されると思われる。

(e) 上記の動きの他,最近連邦政府と州政府との関係に係る問題が顕在化してきている点も注目される。これらはカナダの根強い地域主義によるものであり,その一例として,73年9月以降,石油価格等をめぐる西部カナダのアルバータ州等の石油生産州と連邦政府との対立がある。

(f) 世論の動きについては,73年1月以降若干の浮き沈みは見られたものの73年11月初旬の調査では自由党支持43%,進歩保守党支持33%,新民主党支持18%,その他6%となつており,11月以降表面化してきたエネルギー問題をめぐるトルドー政府の処理ぶりが今後の世論の動向を左右する決め手のひとつとなるものと思われる。

(ロ) 経  済

(a) カナダ経済は73年に入つて,海外主要国の旺盛な資源需要ならびにようやく盛り上りを見せ始めた民間設備投資の増大等に支えられて上昇を続け,7.1%の実質成長を遂げた。

(b) カナダはGNPの約20%を占める対外貿易の円滑な拡大を図り,国内的には産業構造を高度化し,雇用の拡大,経済基盤の強化,製造工業の対外競争力増大などの諸措置を強力に進めている。

(c) 72年来の世界的異常気象による作柄不振と需要の増大に伴う農産物価格の上昇,海外主要国の工業原材料価格の高騰は,カナダ国内のこれら物資の価格騰勢の原因のひとつとなつた。これに対して政府は,物価の上昇を抑制するにあたつては,物価の直接規制ならびに需要管理によるべきではなく,物の供給の増大によつて対処すべきであるとの態度をとつた。

(d) カナダの石油生産は量的には国内需要を十分に賄える状態にあるが,国内市場間の輸送上の難点ならびに価格上の理由から,その一部を米国市場に輸出する反面,東部カナダではヴェネズエラ,中東等から輸入する政策をとつてきた。原油の対米輸出は,元来カナダ国産原油の開発促進要因であつたが,73年に入つて,米国の輸入需要の急増に対し原油,石油製品の輸出を全面的に許可制の下においた外,73年10月以降輸出税の賦課により国内価格と対米輸出価格の開きを調整している。また,カナダは長期にわたるエネルギー供給態勢を確立するため,アサバスカ・オイル・サンドの開発,北極海や東部海上における石油・天然ガスの探査,マッケンジー・パイプラインの敷設等の推進に積極的に取組んでいる。

(e) なお,多年論議が続けられて来た外資審査法は73年12月に議会を通過し,74年4月既存企業の支配取得に関する部分が施行された。新規企業の設立・拡張に関する部分は若干猶予期間を経て施行されることになつている。

(ハ) 国  防

カナダは71年8月に発表された国防白書「70年代の国防」に示されているように,超大国による核抑止力の均衡下にあつては,軍事が国際政治に果す役割に限界があるとの認識に基き,中級国家としてのカナダの追求すべき国防政策の方向として,北米の防衛は北米大陸防空軍(NO RAD)を通じて米国との協力の下に行なうとともに集団安全保障体制維持の立場からNATOに引続き積極的に協力するとの方針をとつている。73年においては,同年5月10日米国との間で現行の北米大陸防空軍協定(NORAD)を2カ年間延長し,また国防予算の増強(20億ドルに据置れていた国防予算を今後5年間に30億ドルに増加する)等の動きがみられた。

(ニ) 外  交

(a) トルドー政権下におけるカナダ外交は,カナダをとりまく内外の環境の変化-米国からの経済的,文化的独立を求めるナショナリズムの擡頭,ケベック独立運動に代表される英語系と仏語系の対立,失業,インフレ等の杜会経済問題等の諸問題等をかかえている国内情勢および東西冷戦から緊張緩和へ,米ソの二極化時代より多極化時代へと変化しつつある国際情勢-に即応した国益優先,外交の多極化を指向しつつあると云えよう。

(b) 戦後カナダが国際協調主義の下に世界平和の維持発展に積極的に貢献して来たことは周知のとおりであるが,70年の外交白書は,カナダが世界のあらゆる紛争地域において紛争解決者としての役割を果たしうるとの幻想は捨てさるべきであり,今後は自国の国力と国益に見合つた範囲で平和維持活動に参加すべきであるとの現実的な考えを打ち出すに至つている。また,海洋法,環境問題,エネルギー問題では米国の提唱する北米大陸エネルギー政策に対し,国益優先の色彩をますます強めている。

(c) カナダ外交にとつての最大の課題は,対米関係の調整にあり,72年10月カナダ外務省は対米外交の基本方針として「対米自主外交の推進,経済的自立の確保」の選択をとることを発表したが,これは国内に高まりつつある対米ナショナリズムを考慮に入れたものと考えられる。

(d) 73年についてみると,前年秋の総選挙の結果少数政権となり,政局が不安定であつたこと,現政権の施政の中心が内政におかれたこと等の事情を反映して,外交面で特に目立つた動きはなかつた。同年前半は,カナダとしては周囲の事情によりやむなく参加したヴィエトナムICCS問題の処理が当面の懸案となり,5月にはICCS脱退が決定された。8月には,英連邦首相会議がオタワで開催され,次いで10月には,トルドー首相の中国訪問が行なわれ貿易,領事,医学,文化交流等につき両国間に合意が見られた。

また,キッシンジャー米大統領補佐官(当時)の提唱になる原則宣言(新大西洋憲章)構想をめぐる動きの中で,カナダは,米欧日の三極のひとつに付随するように見られることを拒否しつつ,先進民主主義工業国の一員としてEC諸国等との関係をより長期的基盤に置く方途を検討するに至つている。

(2) わが国との関係

(イ) 日加関係全般 カナダの国内においては,外交の多極化を進めるにあたつて,わが国をはじめとするアジア・太平洋地域との関係増進を重視する気運が高まつており,今後日加両国は,経済,貿易に限られない幅広い交流を図つて行くことが必要である。

政府もこのような認識のもとに,73年1月カナダにおける対日世論調査の実施,広報シンポジウムの開催をはじめ,機会をとらえて日加間の交流緊密化に努めている。日加間の人の往来も増しつつあり,わが国からは同年10月桜内農林大臣が訪加し,カナダの農林大臣,環境大臣と会談,また11月には日加科学技術協議代表団が訪加している。またカナダからは同年3月シャープ外務大臣が訪日し,田中総理大臣および大平外務大臣と会談したほか,同年9月に予定されていた第7回日加閣僚委員会がカナダ側の都合により延期された際にはシャープ外務大臣が単独で来日し,大平外務大臣と日加間の諸問題につき会談している。また10月には日加航空協定予備交渉,北太平洋漁業国際委員会会議の開催のほか,トルドー首相夫妻が中国訪問の途次非公式に立寄り,1泊している。

(ロ) 経 済 関 係

73年においても日加経済関係は貿易関係を中心として引き続き順調な発展を遂げた。同年の日加貿易は,往復で約30億米ドルに達し,カナダは,わが国にとつて,米国,オーストラリアに次いでインドネシアに比肩しうる第4番に重要な貿易相手国としての地位を占めた。また,この年わが国は始めて英国を抜いてカナダにとつて米国に次ぐ第2番目の貿易相手国となつた。このように発展を続ける両国間の貿易経済関係が,今後とも幅広く充実したものとなることが期待される。

(a) 日加貿易の推移

73年の日加貿易は,対加輸出約10.0億米ドル(前年比9.5%減),同輸入約20.1億米ドル(同75.4%増)と往復約30億米ドル(同33.8%増)に達した。72年の日加貿易は輸出入ほぼ均衡していた(対加輸出約11.0億米ドル,同輸入約11.5億米ドル)が,輸入原材料価格の高騰もあつて,対加輸入が大幅に増加した反面,対加輸出が伸び悩んだため,73年の日加間の貿易収支はかなりの日本側入超となつた。

商品別に見ると,73年の実績から見た主要対加輸出商品は,乗用車,鉄鋼,オートバイ,テレビ,ラジオ,プレーヤーセットの順で,オートバイ,ラジオ・プレーヤー・セットが各々対前年比21%,30%の伸び率を示した反面,乗用車,鉄鋼,テレビは各々同29%,3%,12%の減少を示した。主要輸入品は,銅鉱石,小麦,石炭,菜種,木材の順であり,いずれも価格が大幅に上昇した結果,銅鉱石,小麦,菜種,木材は,対前年同期比100%前後の伸び率を示し,石炭も同54%の伸び率を示した。

(b) カナダの農産物輸出規制

73年中の世界的な飼料穀物等農産物需給の逼迫および米国の大豆等の輸出規制措置の影響を受けて,カナダは同年6月から菜種・亜麻仁・豚肉等を輸出許可制の対象とした。わが国は菜種・亜麻仁の輸入のほとんどをカナダに依存していることもあつて,その影響あるいは規制が他の品目に波及することが懸念されたが,実際上対日輸出にさしたる支障は生ぜず,需給事情の緩和とともに9月から輸出監視体制に移行した。

(c) 対加輸出自主規制

わが国は58年以来一部の繊維品および真空管等について対加輸出自主規制を行なつている。これは日加関係全般に対する配慮からするわが国の自主的判断に基づくものであるが,規制品目の選定およびその規制水準等については,わが国の決定の参考とするため日加両国政府間で話合いを行なつており,73年の規制についても数次の話合いを行ない,72年の規制品目より3品目を減らし,8品目について72年の水準を若干上回る水準で規制を継続することとした。

(d) カナダの新外資審査法

カナダの外資審査法は,72年5月にその原型となつた外資による支配取得審査法案が議会に提出されて以来議論されてきたが,同法案は73年12月議会を通過成立し,74年4月既存企業の支配取得に関する部分が施行され,新規設立に関する部分は若干の猶予期間をおいて施行されることとなつている。これによれば,今後一定基準以上の新規設立もしくは既存の企業に対する直接投資は,政府によつてカナダ経済に及ぼす影響等の基準からする審査および許可の対象とされることとなつている。

(e) 日加科学技術協力

73年11月わが国の政府事務レベル代表団が訪加し,オタワで日加間の科学技術協力に関する協議を行つた。これは72年3月のギレスピー科学技術大臣を団長とするカナダ科学技術使節団の訪日をフォロー・アップし,カナダにおける科学技術事情を調査するとともに,日加間の科学技術協力の方途について協議するためのもので,代表団はオタ 、ワ,トロント,モントリオール,ヴァンクーヴァー等の各地を訪問し,環境・運輸・海洋・水産等の分野における研究事情を視察するとともに関係者と意見を交換した。

 

 

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