第 1 部
総 説
-総 説-
総 説
1973年の世界は,72年に引き続き,米ソ間,東西欧州間において,いわゆる緊張緩和の動きが進み,ヴィエトナムおよびラオスの両和平協定の成立,米中間の実務関係の進展もみられたが,他面,第4次中東戦争と石油危機の発生は,戦後30年を経て多極化し,多様化している世界の複雑な力関係を浮き彫りにし,国際政治・経済に多くの新たな問題と課題をなげかけた。超大国である米ソ両国は,今次の中東戦争に際して直接的な対決を避け,利害を調整して停戦を成立させたが,その過程で,双方の基本的な利害の対立をうかがわせる局面もみられた。
また,大国間のいわゆる緊張緩和の動きに伴い,各国はその独自性を高め,発言権を求める動きを強めており,各国間や各地域に存在する紛争要因が解消せず,むしろ顕在化する面も現われている。さらに,国際間の政治と経済がからんで,先進国,開発途上国を問わず,世界各国が広く相互に依存し影響を与えあう関係によつて結ばれているにもかかわらず,それを支えるべき利害調整の仕組みや相互の信頼関係がなお甚だ脆弱であることを露呈した。
このような国際環境の下において,わが国は,近年の高度の経済成長に伴い,その経済活動の規模の拡大,海外におけるプレゼンスの急速な増大などを通じて世界の諸国,諸地域との相互依存関係を多面的にかつ急速度に拡大してきた。その結果,一方において,わが国の国際的な影響力と地位が高まり,その内外にわたる活動は,世界各国の政治,経済,さらに民生に多大の影響を与えるに至つている。他面において世界の出来事が,わが国の政治,経済,国民生活に及ぼす度合も著しく増大している。従つて,わが国の外交も,従来,関係のうすかつた地域を含め,政治,経済,文化など国際関係の全般にわたり広く多方面にかつ多角的に展開する必要に迫られている。
今日の国際環境は,わが国にとって決して容易なものではない。今次の中東戦争とアラブ産油国の石油戦略や,74年初頭の田中総理東南アジア訪問の機会に一部において示された反日気運は,いずれもわが国の置かれている立場の困難さと複雑さを如実に示している。わが国は,自己をめぐる国際環境を的確に把握し,自己の基本的,長期的な立場と能力をふまえつつ,流動する情勢に機動的に対応する外交活動の基盤を大幅に強化し,広く世界各国との間に永きにわたる共通の利益を探究,拡大して行く積極的な努力を積み重ねて行かねばならない。
第1部総説では,第1章で73年におけるわが国を取り巻く国際環境を概観し,第2章および第3章では,このような環境の中でわが国がいかなる基本的課題の下にどのような具体的な外交努力を行つたかを述べてみよう。
-わが国をとりまく国際環境-
第1章 わが国をとりまく国際環境
1.概 観
(1) 73年を通じて,アジアにおいても,ヴィエトナムおよびラオスの両和平協定の成立,米中間の実務関係の進展,インド亜大陸諸国間関係の正常化への動きなど,この地域の情勢の安定に期待をもたせる動きが見られたが,インドシナ地域の和平は必ずしも定着するにいたらなかつた。
他方,中ソ間では国家間の実務上の関係に一部進展が認められたが,73年を通じて両国間の緊張は持続した。また,朝鮮半島においても,南北間の対話が断続的に続けられたにもかかわらず,情勢は必ずしも安定に向わず,73年末から74年にかけて,南北間に再び緊張状態が認められる。
(2) 世界経済にとつて,73年は大きな試練の年であつた。年初における主 要国通貨の変動相場制移行および世界的インフレ傾向の加速により,世界経済は混迷の度を深めた。
特に,73年秋以降の中東戦争に伴うアラブ諸国の石油生産削減措置は世界経済に大きな影響を及ぼした。この措置による原油価格の高騰は,73年を通じて見られた食糧などの一次産品価格の上昇にみられる世界のインフレ傾向を一段と加速させ,また,石油輸入国の国際収支を大幅に悪化させた。
このような世界経済の動きは,わが国の経済にも反映し,わが国の物価上昇のテンポを早め,国民生活に大きな影響を与え,海外の資源,エネルギーに大幅に依存するわが国の経済体質を改めて認識させた。
さらに,これまで世界の政治,経済の中でどちらかといえば脇役を演じてきた開発途上国は,石油危機を契機として世界秩序の改革を求める主張を強めるようになつた。このような動きは非同盟諸国会議,回教諸国会議など,開発途上国を主体とする会議における討議などを通じて示され,またアルジェリアの主唱した国連資源特別総会の開催はその顕著な表われである。
(1) 国際政治に大きな影響を与える米ソ二超大国間では,73年においても,基本的対立をはらみつつ,緊張緩和を進めようとする努力が行われてきた。
73年6月のブレジネフ書記長の訪米に際して,核戦争防止協定,戦略兵器制限第2次交渉(SALT-II)に関する基本原則など,注目すべき内容の合意が達成された。また,欧州安全保障協力会議(CSCE)や相互均衡兵力削減交渉(MBFR)など多方面にわたる話し合いが続けられ,この間キッシンジャー米国務長官が2度(5月および10月)訪ソした。
また,実務面における両国関係を改善する努力も続けられ,ブレジネフ書記長訪米に際しては両国間の貿易量を増大させることについて合意が行 われた。
(2) しかし,米ソが直接のコンフロンテーションを回避し対話を進めようとする背景には,核の抑止力を基本とする「力」と利害の対立があるという双方の基本条件には変りがない。
ソ連は,西側諸国との平和共存を促進するが,西側とのイデオロギー的共存は決してありえないことを繰返し述べており,米国もソ連との対話を進めながら,ソ連を敵対国(adversary)と認識し,これと同盟国(ally)とを峻別するとの基本的態度を堅持している。
米ソ両国は一方で対話を進めつつ,他方において,実質的に核兵器をはじめ海空軍などの軍事力を増強する姿勢を変えていない。73年中においても,両国は屡次の地下核実験(米国はネヴァダで10回,ソ連はシベリア,カザフ地区などで計15回)を行い,ミサイルの分野では,同年夏以降のソ連による大型ミサイルの実験およびMIRV化の努力に見られるように,ソ連側は,従来からの量的優位に加えて,質的にも米国を追い上げる姿勢が見られ,また米国側もそれに対応するかのように,シュレジンジャー長官の発言(74年1月)などにより米国の戦略体系を一層効率化しようとする姿勢を示唆している。通常兵器の面でも両国は開発,改良を続けている。
(3) 対話により両国関係の改善を図ろうとする米ソ両国の動きは,世界の各地に存在する局地的な緊張関係を必ずしも緩和させることとはならない。米ソ両国は第4次中東戦争の勃発を防止することはできなかつたし,さらに,両国は一応停戦を実現させる過程において,一面において共同で停戦決議案を提出し,共同議長の下に和平会議を開くなど,直接の対立を避けつつ停戦実現の努力を行つたが,他面において,ソ連の出兵の動きに対応し,米国も10月25日,世界各地の全米軍に警戒態勢を布く措置をとつた。これは,米ソ間のいわゆる緊張緩和にひそむ両面性をうかがわせるものであつた。
(1) 米ソ間の対話の進展とは対照的に,中ソ間には前年に引続き緊張状態が存続した。73年を通じて,両国は機会あるごとに相手方非難の応酬を繰り返し,中でもエカフエ東京総会での中国代表によるアジア集団安保構想への非難(4月),ソ連艦隊の台湾海峡通過に対する中国による非難(5月),ブレジネフ訪米および中国の十全大会に際しての相互非難の応酬(6~8 月),特にブレジネフ書記長によるタシケントでの中国非難(9月)などが目立つた。74年1月には,中ソ双方がスパイ行為を働いたとして外交官を追放する事件が発生するなど,両国間での問題は絶えない。
他方,中ソ両国は平常な国家関係を維持し,ソ連大使およびソ連側国境交渉代表の北京帰任(5月),中国機のモスクワ乗入れに関する合意成立(7月),73年度中ソ貿易協定の調印(8月)などの動きがあつたことも見逃せない。
(2) このような中ソ対立を反映して,社会主義圏内部では,はつきりとソ連側に立つ国と,中国を排除して社会主義圏の結束を固めようとする動きにくみさない国とに分裂した状況が続いた。
ソ連側に立つ国の間の結束を固める動きは73年を通じ活発であり,ブレジネフ書記長によるポーランドおよび東独(5月),キューバ(74年1月末~2月初)訪問,コメコン第27回総会(6月),ソ連・東欧8カ国のクリミア首脳会議(7月),コスイギン・ソ連首相と東欧諸国首相との一連の会談(8月),ソ連,東欧党中央委書記会議(12月)などがあつた。
さらに,ソ連の指導下に国際共産主義運動を進めようとする動きもあり,12月にカダール・ハンガリー党第一書記が世界共産党会議の開催を提唱したことなどが注目される。
このような動きに対して,北越,北鮮,ルーマニアなどの諸国は中国とも良好な関係を維持し,また中国もこれら諸国との関係につき配慮している。
(3) なお,73年の社会主義圏の経済を全体として見れば,ソ連,中国とも農業生産は順調であり,西側諸国からのプラント,技術の導入も積極的に行われた。ただし,社会主義経済の運営をいかにして効率化して行くかという根本問題は依然として解決されていない。
(1) 73年1月に発足を見た拡大欧州共同体の諸国を含む西欧諸国や日本は,経済力を増大し,国際的地位が向上しており,他面,米国の対ソ,対中関係改善の努力とも関連して,米,欧,日など西側先進諸国間の関係を改めて調整する必要が生じてきた。米,欧,日間においては,特に通貨,通商問題をめぐつて利害調整の努力が行われてきたし,米欧間には,欧州の安全保障に関する防衛努力の分担など,相互の意見が必ずしも一致しない問題が存在している。73年4月,キッシンジャー大統領特別補佐官(当時)の提唱によるいわゆる「原則宣言」構想も,このような状況をふまえて,共通の政治理念,社会体制をもつ西側先進諸国が政治,経済,安全保障などについて基本的な共同認識を相互に確認し,今後の協力関係を強化しようとの試みの一つであつた。
(2) さらに,73年秋の中東戦争および石油危機に際して,アラブ諸国の石油に大きく依存する西欧,日本などがとつた対応の姿勢は,米国の姿勢と必ずしも軌を一にしなかつた。
その後,これらをめぐつて関係諸国間で,多くの意見調整の努力が行われており,エネルギー問題については,74年2月に主要石油消費国間のワシントン会議が開催されたが,米仏問などの溝はなお埋められるに至らなかつた。「原則宣言」についても,その帰趨は定かでない。
(3) 拡大欧州共同体は,石油危機により加盟国間の微妙な利害の差も表面化し,困難な局面を迎えており,今後,欧州経済統合の進展には若干の紆余曲折が予想される。欧州共同体を中心とする欧州諸国の動向は,西側先進諸国の相互関係にとどまらず,今後の世界経済,その他の面に大きな影響を与えるものと思われる。
この間にあつて,わが国としても,西側先進諸国との関係緊密化に努めてきている。
(1) 73年には国際間の貿易,通貨,資源などを含む国際経済秩序に大きな変動が見られた。
スミソニアン体制の下で小康を保つてきた国際金融情勢は73年に入り,通貨市場の混乱を生み,ドルの切り下げ,円を含む主要各国通貨の変動相場制への移行が行われた。世界の主要国による屡次の蔵相会議と,9月,ナイロビで開かれたIMF・世銀総会で,世界的通貨不安を終息させ,新しい国際通貨制度を発足させるための諸国間の意見の調整が行われ,わが国も積極的な寄与を行つた。
通商問題については,東京でのガット閣僚会議(9月)で世界貿易の自由化を一層推進するため,新国際ラウンド交渉を開始することを決定した東京宣言が採択された。わが国は,このような動きを推進する役割を果した。
(2) 73年においては資源,エネルギー問題が大きく表面化した。原油の価格は近年上昇傾向にあつたが,中東戦争に伴いアラブ産油国が石油生産削減を実施し,さらに大幅な価格引き上げが行われるに及んで,石油に対する需給の先行不安や通貨問題への影響と相まつて世界経済に深刻な問題を投げかけた。
わが国を含む世界の工業国は相次いで石油の消費規制措置をとる一方,国際的な協力によつて問題の解決をはかろうとする動きが活発化した。12月,米国はエネルギー行動グルーブ結成を呼びかけ,次いでニクソン大統領の提案に基づき,74年2月,ワシントンで主要消費国会議が開催された。わが国も同会議に参加し,産油国と消費国間の調和ある協力関係を実現するために努力した。
(3) 特に原油価格の大幅引き上げは,産油国への資金偏在を招き,国際経済情勢の不安要因となつた。このため,IMFの国際通貨改革作業は困難な局面を迎えている。さらに,石油価格高騰により,先進諸国においては 物価上昇の加速,国際収支の悪化,エネルギー不足による生産の困難などにより,スタグフレーションが起り,保護主義や地域主義の考え方が強まることも危倶されている。また,非産油開発途上国は,原油価格の値上りのほか,輸入中間原材料などの高騰および入手離,先進国からの援助の伸び悩みの見込みなどにより,大きな打撃を受けている。
(4) 73年は,海洋に関しても新しい国際秩序を求める動きが強まり,国連総会は,第3次海洋法会議を74年6月に開催することを決定した。近時,経済活動の拡大などに伴い海洋利用が著しく進んだ結果,海洋資源の減少,枯渇,海洋汚染などの深刻な問題が提起される一方,沿岸国は自国周辺の広範な公海を排他的に利用し,その中の資源を独占する傾向がますます顕著になつてきている。
海洋国家として伝統的な自由競争の原理から大きな利益を受けてきたわが国は,この動きにより,大きな影響を蒙ることが予想される。
(1) 資源,エネルギー問題や海洋の問題などに見られるとおり,開発途上国は近年発言力を強めつつある。特に73年においては,アラブ産油国の石油戦略の例に見られるごとく,開発途上国が国家的自立を達成するため,経済面においても,資源,貿易,援助などに関して,種々の要求を政治的要求と絡み合わせてとり上げる傾向が強く見られた。
9月にアルジェで開かれた第4回非同盟諸国首脳会議では政治的な主張に加えて,従来にも増して経済問題につき開発途上諸国の急進的要求を盛り込んだ諸宣言,諸決議が採択され,また,73年秋以来数次にわたり開催されたアラブ諸国の首脳の会談,74年2月,ラホールで開催された回教国首脳会議でも開発途上諸国の経済問題にかかわる諸要求を政治的に打ち出す動きが目立つた。
(2) こうした傾向は,一方において国連などにおける先進諸国と開発途上諸国の対立を一段と先鋭化させる傾向をもたらし,他方において南北間の対話の場としての国連諸機関の重要性をむしろ高める結果にもなつている。また,石油などの重要な資源を有する国とこれを有しない開発途上国とでは,その利害や立場を異にし,開発途上諸国内部の問題が複雑化していることが認められる。
開発途上国と密接な関係を有するわが国は,これら諸国の基本的な願望とその複雑な関係を理解しつつ,国際機関および二国間などの場を通じて,できるだけの協力を行つてきた。
(1) 米,中,ソの動向は,わが国の動きと相まつて,アジア・太平洋地域の情勢に大きな影響を与えている。73年において,中ソ間には引続き緊張状態が持続したが,米中関係は,2月のキッシンジャー補佐官(当時)の訪中の結果,両国が相互に相手方の首都に連絡事務所を置くことになり,実質的には外交関係にほぼ等しい関係へと進んだ。米ソ間の対話の進展をも背景として,アジア情勢は全体として一応鎮静化の方向に向い,ヴィエトナムおよびラオス両和平協定の成立などが見られた。
(2) 米国は,一方においてニクソン・ドクトリンに基づき在アジア米軍を徐々に削減する方針を維持しつつ,他方,アジア諸国に対する条約上の義務を守り,この地域の平和と安定に必要なプレゼンスを維持し続けた。中でも,安保条約を軸として,日米両国が,双方の努力により,近年発生した摩擦諸要因の多くを除去し,緊密な関係を強固にしたことは,アジア地域の平和と安定に資するところが大きかつた。なお,この間米国は3月には南ヴィエトナムからの米軍撤退を完了し,また台湾との関係では,74会計年度より無償軍事援助を打ち切つた(6月発表)上,一部在台米軍の撤退も開始し(9月),さらにタイとの間でも,同国駐留米軍の削減問題につき累次の協議を重ね,9月に一部駐タイ米軍の引揚げが行われた。
(3) 中国の国内情勢は73年後半以降必ずしも安定しているとは言い切れない様相を呈しているが,外交面においては大きな変動は認められなかつ た。
日中間の実務関係は73年を通じ曲折を交えながらも進展し,74年1月に大平外相が訪中して実務関係の促進に寄与するところがあつた。
(4) ソ連はこの地域における活発な活動を続け,アジア集団安全保障構想をしばしばとり上げ,東アジア海域からインド洋にわたるソ連艦隊の活動を強め,73年夏から74年にかけて東太平洋海域でMIRVミサイル実験などを行つた。
日ソ間では,10月に田中総理が訪ソし,北方領土問題を含む平和条約交渉などについて話合いが行われた。
(5) 朝鮮半島においては,72年7月の南北共同声明に引続いて,73年前半は,赤十字会談および調節委員会が数次開催された。しかしながら,南北関係をめぐる両当事者の立場は微妙であり,北朝鮮が韓国と国交を有する諸国と次々に国交を設定し,また,韓国とならんで世界保健機関に加盟する(5月)といつた事態を踏まえて,韓国側が6月に国連同時加盟には反対しないなどの現実路線に沿つた画期的な声明を発表したのに対し,北朝鮮側は直ちに否定的な立場を明らかにした。11月の国連総会で南北対話の継続を期待するとのコンセンサスが得られたことは,朝鮮問題での対決をさけようとする国際世論を反映したものとして注目されるが,73年末から74年初頭にかけて,南北間の緊張を示す事件も数回発生し,南北対話にはさしたる進展はみられなかつた。
(6) インドシナでは73年1月のヴィエトナム和平協定の成立,2月のヴィエトナムに関するパリ国際会議およびラオス和平協定の成立などを通じて和平への気運が大きく盛り上つたが,カンボディアにおいてはプノンペン市をめぐる攻防など,その後の情勢は一進一退を続け,他方和平協定の成立したヴィエトナムでも停戦違反事件が続発している。ラオスにおいては,74年に入つて連合政府成立の気運が熟し,事態は正常化に向つている。
その他の東南アジア地域では,内外の要因により国内の不安定性が増大した国が多い。フィリピンではマルコス政権下で政治体制が再編成され(1月),タイでは10月に政変が起こり文民内閣の成立をみた。74年1月の田中総理訪問時のタイ,インドネシアにおけるデモも各国内の要因と絡んだ面も認められる。
(7) 豪州,ニュー・ジーランドは,72年末に成立した労働党政権のもとにその独白性を高める動きを示し,両国首脳がアジア諸国を歴訪して,アジア地域を重視する外交を進めた。