-アフリカ地域- |
アフリカ諸国の日本に対する期待と関心はますます高まりつつあり,1972年にはガンビアのジャワラ大統領,モーリシアスのラングーラム首相のほか多数の国から閣僚が来日し,また,モーリタニアのダッダ大統領を団長とするアフリカ統一機構(0AU)代表団が来日し,いずれも政府および財界の首脳と会談したが,これらはアフリカ諸国とわが国の間の相互理解と協力関係の増進に寄与するところ大であった。わが国は1973年1月,リベリアに大使館を開設し,これによってサハラ以南のアフリカにおけるわが国の大使館は12となった。またギニアは1972年12月,東京に大使館を開設した。
わが国とアフリカ諸国との関係の進展は,1972年には特に経済協力の面で著しいものがあった。すなわち,わが国は発展途上国への資金援助について,従来のアジア中心の援助対象を徐々にアフリカを含む他の地域へ広げんとしており,1972年にはエティオピアとナイジェリア,1973年に入ってからケニアとザンビアに円借款の供与を約し,これら諸国の経済発展のための基盤建設を援助することとなった。マダガスカルとザイールに対する円借款の供与についても,積極的に検討している。アフリカヘの円借款供与の約束は1966年に行なって以来のものである。
アフリカ諸国の経済開発を促進するものと期待されている大陸横断道路建設計画は国連アフリカ経済委員会(ECA)によって推進されているが,わが国はECAへの専門家派遣,トランス・アフリカン・ハイウエイ委員会の会合出席,調査団の派遣などを通じて右計画の実現に協力している。またアフリカ開発銀行加盟国の経済社会開発などに緩和された条件の融資を行なうことにより同銀行の活動を援助するために設けられたアフリカ開発基金に,わが国も参加することとなった(1972年11月署名)。これらは先進国が共同でアフリカの経済社会発展を援助しようとする動きに,わが国も参加するものであり,成果が注目される。
わが国とサハラ以南のアフリカ諸国との貿易は1972年にはわが国の輸出19億4,900万ドルで前年度比O.7%増,輸入は10億9,100万ドルで前年度比20%増であった。わが国と一部の国との間には依然として片貿易問題があるが,一次産品の開発輸入および関税引下げなど解決のため地道な努力を続けている。また一部のアフリカ諸国は旧宗主国から引継いだ対日ガット35条援用を未だ撤回しないでいるが,この撤回申し入れのため政府は鶴岡前国連大使を団長とする使節団を1971年4月には主として旧仏領諸国へ,1972年4月には主として旧英領諸国へ派遣した。1971年にはチヤードとガンビア,1972年にはダホメとブルンディが,35条の援用を撤回した。
貿易関係の拡大と平行してわが国からの企業進出も進んでおり,1973年3月現在,73件を数えている。
エティオピアにおいては安定した政情のもとに経済社会開発が進められているが,1968年に始まった第3次5カ年経済開発計画は農業生産の停滞,恒常的な貿易収支の赤字などを背景に投資実積,経済成長率は目標を下回ったため計画期問の延長を余儀なくされた。経済開発を進める上でいっそう多くの外国援助を必要としており,とくに伝統的な友好国としてわが国に対する期待は強い。
わが国に対しては,1971年1月円借款供与の要請があり,わが国は関連プロジエクトを検討したのち,37億円の円借款の供与を決定し,1972年9月交辞公文が両国間に取り交された。この結果わが国の協力により地下水開発などのプロジェクトが実施されることとなり,エティオピアの民生安定,経済発展に寄与することになろう。1970年以来わが国企業により進められてきたエティオピアの銅鉱山開発計画は成功を収めつつある。1973年に入り現地合弁会社も発足し2年後には生産開始の予定である。エティオピアでは初の本格的な鉱物資開発として,同国の経済発展を一歩進める上で大きな役割を果たすものとして注目されてよい。また,わが国は1972年に,港湾建設技術調査団および農業開発基礎調査団を派遣し,エティオピアの経済開発のための調査を実施した。
ウガンダにおいては,1972年8月の非ウガンダ国籍アジア系住民の国外追放決定,1973年1月の英国系企業500社の国有化発表,英国との関係の冷却化,1972年9月のオボテ前ウガンダ大統領支持派ゲリラのウガンダ侵攻など内外にわたって波乱が多かったが,わが国はアミン政権とウガンダ訓練センターの期限延長を行なうなど従来通り経済,技術協力を継続している。わが国が1966年7月に供与を約した円借款(10億8,100万円)はシャツ縫製などのプロジェクトに使用されたが,約3億4,800万円が未使用残額となっている。
わが国とケニアとの関係では依然として片貿易(わが国の大幅出超)が問題となっているが,わが国はこの是正のため努力している。すなわち,わが国の協力になる緑茶製造プロジェクトが軌道に乗り,1973年1月ケニア・マルゼン・ティー会社(合弁)は本格的生産を開始したが,同年2月6日の開所式にはケニヤッタ大統領ほか政府高官が出席し,ケニア側の関心の強さを示した。わが国は年間600トンのせん茶を輸入する予定である。また,1972年4月,わが国の対ケニア主要輸入品たるソーダ灰の関税率を引下げたほか,除虫菊および乾花についても,一次税率無税,2次税率20%として,実質上,特恵供与と同様の効果をもたらした。経済,技術協力の分野においては1966年に供与が約された第一次借款はモンバサ港さん橋建設などに使用され,残額の使用期限が1974年12月末迄再度延長され,さらに1973年1月モンバサ空港拡張計画に対する総額40億8,600万円の円借款供与が決定された。右空港拡張はケニアの観光開発で大きな役割を果すものと期待されている。
わが国とタンザニアの関係については,タンザニアがキリマンジャロ地域開発計画および南岸道路計画にわが国の協力を期待しており,わが国は,前者については具体的なプロジェクト発掘のため農業協力調査団を1973年3月に派遣し,後者については1972年7月わが国調査団の報告書をタンザニア政府に提出した。また,わが国が1966年に供与を約した円借款(20億1,600万円)のうち現在6億700万円が未使用残額となっている。
ザンビアのカウンダ大統領は,1972年2月以来UNIP(統一国民独立党)による一党民主制を目指し着々と準備を進めてきたが1972年12月5日議会は憲法改正法案を承認し,ここに一党民主制を実現し第二共和制に移行することとなった。ザンビアからはわが国は毎年多額の銅を輸入し,青年海外協力隊派遣取極に基づいてわが国から協力隊員が派遣されているが,経済技術協力は未だ必ずしも軌道に乗つたものとはいえなかったところ,1972年8月ザンビアのムワナカトエ大蔵大臣およびソコ貿易大臣が来日し,政府関係者と話し合いを行なった結果,ザンビアの第二次国家開発計画実施のための92億4,O00万円の円借款を供与することで両国間に合意をみ,1973年1月23日,ルサカにおいて書簡交換が行なわれた。本円借款は主として国有鉄道拡張計画およびラジオ・テレビ網拡充計画実施のために使用されることになっている。なおこの円借款に基づく協力の打ち合せのため1973年3月にはムリキタ電力運輸建設大臣一行が来日した。
バンダ大統領のマラウイ政府は南アフリカと外交関係をもちその援助を受け入れるなど現実政策をとり,新首都建設をはじめとする開発計画を推進中である。マラウイには1971年7月に結ばれた協定に基づきわが国から青年協力隊員が派遣され活躍している。
マダガスカルにおいては1972年5月政変がぼっ発し,ラマナンツォア政権は内外に新政策を打ち出しているが,わが国との関係は急速に緊密の度を加えつつある。すなわち,マダガスカルからは,1971年同国のナモロナ河電源開発プロジェクトに関し,わが国に対して円借款の供与方要望があり,この正式要請のため1972年3月ラコト・ザフィマエリ鉱山電力大臣一行が来日した。わが国政府は本計画に円借款を供与する方針で,現在検討を進めている。その他1972年3月,同国東部沿岸に台風の襲来があり,かなりの被害が、出たので,わが国は見舞金(50万マダガスカル・フラン)を贈与するとともに,先方の食糧援助の要請に対してもその実現の方向で検討している。またラチラカ外相の強い訪日希望に応え,同外相招待の方向で検討を進めている。
モーリシアスからは1972年4月にラングーラム首相がわが国を非公式訪問し,佐藤総理と会談した。
南アフリカは内外の反対を無視して人種差別政策を推進している。わが国は従来よりかかる政策には強く反対しており南アフリカとの経済関係の断絶などを勧告した国連総会決議を重視して,経済関係については,通常の貿易の枠内にとどめ,経済協力,技術協力を行なわないことは勿論,投融資活動も対外直接投資の自由化の対象外として認めていない。また,一連の国連安全保障理事会の決議に従って南アフリカ向け武器・弾薬等の輸出は禁止している。
南アフリカは,1971年11月の大幅な輸入制限に加え,同年末の国際通貨調整に際しラントの切下げを行なった結果,1972年のわが国の対南アフリカ輸出は,同国のその後の段階的な輸入制限緩和措置にもかかわらず,減少した。なお,わが国は南アフリカに対し,ガット35条の対日援用撤回を機会あるごとに要請している。
南ローデシアについては,1972年5月ピアース委員会報告により1971年11月の英・ロ交渉で合意された解決提案が南ローデシア住民全体にとって受け入れられないことが明らかになり,解決への道が中断した。このため国連安保理決議に基づく対南ローデシア経済制裁が引き続き行なわれており,わが国は同決議を誠実に履行し,人道上必要とされる物資などの例外品を除き南ローデシアとの輸出入を停止している。
1972年4月,ダッダ・モーリタニア大統領を団長とする0AU使節団が来日し,わが国に対し対南ア貿易を縮少すること,アフリカの諸解放運動団体に援助を送ることなどの要請を行なった。わが国は1972年には国連の南部アフリカ教育訓練計画に2万ドル,南アフリカ信託基金に1万ドル,ナミビア基金に1万ドルを拠出している。
ザイールにおいては経済社会面でのいわゆる「アフリカナイゼーション」が強力に進められており,外交面でもモブツ大統領が1973年1月北京を訪問するなど新たな展開がみられるが,わが国は1971年モブツ大統領訪日の際の両国共同声明に基づき,バナナ=マタディ鉄道建設計画に対する協力を進めており,同計画に円借款を供与する方針でザイール政府と具体的内容・条件などについて折衝をつづけている。SODIMIZA(わが国企業とザイール政府の合弁会社)による銅鉱山の開発事業は順調に推移し,1972年10月ムソシ鉱山の開所式がモブツ大統領出席のもとに盛大に行なわれた。ムソシ鉱山の年間銅産出目標は5万トンである。そのほかザイール政府はキンシャサの放送センター建設計画についてもわが国の協力を要望しており,このため政府は,1972年10月事前準備調査を実施する目的で,専門家3名を現地に派遣した。また1972年5月にキンシャサで開催されたMPR(革命人民運動,ザイール唯一の政党)第一回党大会には各国政界要人が招待されたが,わが国からは,池田清志および丹羽久章両衆議院議員,平島敏夫参議院議員の3名が政府代表として出席した。
ガボンでは,同国の鉄鉱石開発を目的とする国際コンソーシャムが形成されており,わが国業界は参加することを検討しているが,この問題につき関係業界との打合せのため,鉱山大臣一行が1972年12月に来日した。またその機会にガボンの対日ガット35条援用撤回問題を中心に両国の経済貿易関係,各種協力問題につき話し合いが行なわれた。
中央アフリカは1968年に在京大使館(実館)を開設しており,相互主義の建前から,かねてよりわが国に対し,在バンギ日本大使館の開設を強く要求しており,わが国としてもその実現に積極的に努力している。なお1973年3月にはポト口外務大臣夫妻一行が台湾,韓国訪問の帰途わが国を訪問した。
ブルンディでは,1972年4月国内の部族対立を要因として大規模な内乱が発生し,多数の死傷者を出すとともに国民の食糧や医薬品が極度に欠乏した。このためブルンディ政府は主要先進国に緊急援助の要請を行なったが,わが国は早速これに応え,1万ドル相当の医薬品をブルンディに送付した。なおブルンディ政府は,1972年7月これまでわが国に対し行なっていたガット35条の援用を撤回した。
コンゴーにおいては同国のレコード工場建設運営につき,コンゴー政府よりわが国に対し技術援助についての強い要請があったので,政府は昭和48年度予算で専門家3名を技術指導に派遣すべく準備を進めている。
カメルーンのアヒジョ大統領は,1973年4月上旬,中国公式訪問の帰途,4日間わが国を非公式に訪問した。
ナイジェリアは原油の輸出好調を基礎に経済開発を進め,また外交面でも西アフリカの近隣諸国への働きかけを活発化している。わが国のナイジェリア石油開発株式会社が49%出資するJapan Petroleum Co.(Nigeria)は,1973年1月16日,同社が探鉱権・採掘権を有する4鉱区のうちの沖合の1鉱区において日産3,500バーレルの油層を発見し,試掘に成功した。
わが国は1966年にナイジェリアに108億円の第1次円借款供与を約束したが,これは紡織工場の設備増強2件,ナイジェリア国鉄のディーゼル機関車12両の購入のために,すでに約40億円使用されている。残額の使用方法についても消化見通しがついたところから1972年9月わが国はナイジェリアに62億円の第2次円借款を供与することに決定し,交換公文に署名を行なった。本借款使用対象プロジェクトとしてはダム発電機,紡績工場などが予定されでいる。なお永年の問題であった片貿易(わが国の大幅な出超)は,1971年から始まったナイジェリア原油の輸入のその後の大幅な伸長により,是正されつつある。
ガーナでは1972年1月,アチャンポン大佐の率いるクーデターが発生し,新政権は対外債務の支払いを部分的に拒否する声明を発表したため,わが国を含め英・米など債権国は声明後3回にわたって協議を開き,債権問題解決のための方針を検討中である。現在ガーナ政府はボーキサイト開発に積極的に取り組んでいるが,わが国の業界も1972年1月ボーキサイト開発のため国際コンソーシアムに参加した。同コンソーシアムは同年6月ガーナ政府より試掘権の認可を得た。また,ガーナ政府は0peration Feed Yourse1fなる運動を展開しつつ,経済発展のための方策を探求しているが,わが国はガーナ政府の要請に応えて1972年10月宍戸経済企画庁審議官をガーナ政府の顧問として1ヵ月間派遣した。
1973年初頭リベリアのモンロビアにわが国の大使館が開設された。世界最大の船腹を保有するリベリアとわが国は海運を通じての関係も深く,リベリアに進出するわが国海運企業も少なくない。また,アフリカ最大の産出量を誇るリベリアの鉄鉱石開発に対するわが国企業の参加も検討されており,この問題についてわが国の業界と打ち合せるために1973年3月トルバート大蔵大臣(大統領の実弟)一行が来日した。
副大統領時代2度来日したことのあるトルバート大統領はじめリベリア政府は,最近とくに対日関心を強めており,わが国大使館の設置を契機に両国間経済交流の拡大が期待される。
ガンビアのジャワラ大統領は夫人,副大統領らを伴い1972年10月来日し,田中総理大臣はじめ関係方面と会談した。安定した政情のもとに近年鋭意経済開発を進めているガンビアはとくに農漁業振興のためわが国の経済技術援助を期待している。これに応えてわが国企業によりバサーストに設立された水産会社の成果が注目される。
ギニアは従来モスクワ駐剳大使をしてわが国を兼轄せしめていたが,1972年12月27日に東京に大使館を開設しママデイ・コンデ大使が着任した。また1973年3月30日にはイスマェル・トーレ大蔵・経済大臣(セクー・トーレ大統領の実弟)が来日し,鉄鉱山の開発および鉄道建設について業界と話し合った。ダホメより1972年6月農業不作による緊急援助要請があったので,わが国は3,000ドルを見舞金として贈与した。またダホメは1972年6月6日対日ガット35条援用を撤回した。
わが国と象牙海岸との関係は経済面のみならず文化面でも72年6月より11月にかけて日本各地で象牙海岸文化展が開催されるなど密接化しつつあり,またわが国は同国政府の要請により1972年10月水産専門家を派遣した。モーリタニアは1972年7月領海を30海里に拡大したため,わが国トロール業界が大きな影響を受け,同業界とモーリタニア政府との話し合いが1972年12月に行なわれたが妥結にいたらなかった。
上ヴォルタに対し1973年2月食糧援助として3,000ドルを贈与した。ニジェールのアコカン地区における日・仏・ニジェールの3国のウラン鉱床開発調査は順調に進捗しているが,本件事業推進のため1972年11月ニジェールのノマ・カカ鉱山大臣が来日した。
マリからは1971年同国のテレビ放送網設置計画に関し予備調査を実施する目的で,わが国に対し専門家の派遣方要請があったので,これに対し1973年12月0TCAより専門家3名を同国に約1ヵ月派遣した。