-中近東地域- |
わが国とエジプトとの関係は従来,政治面における懸案はなく,経済面に関しては69年の日・エ間債権繰延協定締結によって改善の兆がみえたが同協定に基づく,エジプト側の支払は70年10月以降とどこおり,同協定によって正常な状態に復しつつあった両国間貿易関係も停滞気味となった。
わが国はエジプトに対し,両国貿易関係正常化のため,再三支払方督促したが,1972年3月に至りエジプトは外貨事情の悪化を理由に再度弁済期限の延長および借款の供与を要請越した。わが国は,サダート政権の経済再建政策の遂行により,最近のエジプト経済は若干回復の兆を見せているとはいえ,苦境にある同国の経済状態を考慮し,右要請に応じることとし,現在交渉中である。
このような経済関係に比し,技術研修生の受け入れ,専門家の派遣等を通ずるわが国の技術協力は年々活発になっており,その成果の一つとして,帰国研修生が中心となり,エジプト・アラブ友好協会が発足している。
カッダーフィー革命評議会議長を中心とするリビア・アラブ共和国の現政権は革命後3年を経過し,漠大な石油収入を背景に新国家建設にまい進しているが,マン・パワーの絶対的な不足が大きな障害となっており,このため各国からのあらゆる面での協力を必要としている。このようにして日本に対する関心も昂まり,種々な分野での日本との関係強化の希望が強くなっている。その現れとしてリビアは1971年,わが方に先駆けて在京大使館を開設したが,これにこたえてわが国も1973年1月に在リビア大使館を開設した。
各種使節団のリビア訪問等人物交流もひんぱんとなり,またわが国企業によるマイクロウェーブ建設等わが国企業の活動もめざましく,またリビアから日本への技術研修生・私費留学生の派遣も始まっている。
イエメン・アラブ共和国は1962年の共和革命以来8年にわたる王党,共和両派間の内戦を1970年漸く終結した。
当国外交の基調は非同盟中立であるがサウディ・アラビアとの友好関係を軸としている。
わが国は当国内政の安定に伴い1970年外交を樹立し,在サウディ・アラビア大使館が兼轄している。通商関係では,従来より大幅にわが国の出超であったところ,さらに1972年より,当国の主要輸出品たる岩塩の対日輸出が国際競争力低下のため事実上不可能となった結果,片貿易幅はさらに拡大している。技術協力の分野では,去年4月0TCA(海外技術協力事業団)より国際調査団が派遣され,鉱物資源開発および農業面における協力の可能性について重点的に調査した。
サウディ・アラビアにおいては社会開発が促進され,民生が一段と安定してきたこともあり,国内情勢は一段と安定してきている。
当国経済は前年に引き続き好況を呈し,石油収入は原油公示価格の上昇と増産の相乗効果により著しい増加をみせ,これに伴う濶沢な政府支出等に刺激されて民間消費支出も活発化した。
他方,当国は既に1970/71年度を初年度とする総合開発5カ年計画(総経費見積410億リヤル=約91億ドル)を推進しており,主要目標は(あ)GDPの成長,(い)人的資源開発,(う)経済多様化による石油依存度軽減である。各種建設プロジェクトに対する政府予算も1972会計年度で全予算額の46.7%に当る50.4億リヤルであり,プロジェクト投資は活況を呈している。財政的には石油収入の急増により不安はなく,逆に当国外貨保有高は1971年末の16億ドルから1972年8月現在で約23億ドルと毎月1億ドル程度増加を続けており,当国は国内需要を上回る豊富な資金の有効的運用に腐心しているのが実情である。
わが国官民とも,世界最大の石油埋蔵量を有し,世界最大の石油輸出国たるサウディ・アラビアとの経済技術協力関係の確立に大きな関心を有し,1971年中山素平海外技術協力事業団会長を団長としたアラビア湾経済使節団がサウディ・アラビアをはじめとするこの地域を訪ずれたのに続き,1972年にも海外技術協力事業団より開発調査団が派遣され,積極的にわが国が協力し得る具体的プロジェクトの発掘に努めた。また政府は両国間協力の基礎として経済技術協力協定締結交渉を進めている。他方,サウデイ側も政治色のないわが国の進出を歓迎し,既に日・サ協力促進委員会を発足(委員長ヤマニ石油大臣)させてわが国との協力への関心を示している。
イラン経済は,豊富な石油収入と政情の安定を背景として,引き続き高度経済成長を続けている。71年9月組閣された第3次ホヴエイダ内閣は,65年初め以来8年の長期にわたり,有能なテクノクラート内閣として皇帝の厚い信任の下に政権を担当しており,国内社会経済体制の発展を指向する,いわゆる「白色革命」を意欲的に推進している。72年は,第4次経済開発五カ年計画の最終年度であったが,同計画期間中の投資実績は,全体として,当初目標額の30%増が予想されるという順調な進捗振りで,中近東において着実に安定勢力としての地歩を固めている。
他方,71年末の英軍のペルシャ湾撤退,印パ戦争等はイランの従来よりの防衛態勢に大きな変革を促す要因となり,皇帝は,最近軍備の拡大,強化をとくに強調している。またペルシャ湾の安全保障に関連し,インド洋の安全保障もイランの重大なる関心事であることが明らかにされている。事実予算面でも,軍事費は,武器購入借款法によるものを含め,総額約20億ドルに達しており,装備の近代化による軍の強化が急速に進められている。
わが国とイランとの関係は近年人の交流,貿易の拡大,企業の進出,経済技術協力の強化などを通じて一段と緊密化している。とくにイランは,わが国に対する最大の原油供給国であり,かつイランからみても日本は,同国輸出原油の半分を輸入する最大の顧客となっている。またイランは中東地域において,わが国最大の輸出市場であり,同国の輸入シェアから見ても,わが国は,西独,米につぎ第3位を占めている。合弁事業についても,石油開発,石油化学プラント建設,LNG開発輸入といったイラン経済の中枢部門を中心とする大型のものが,最近相次いで発足している。
8月,テヘランにおいて第1回日本・イラン投資会議が開催され,経団連植村会長を始めとする財界有力者多数がイランを訪問しているが,これは,新たな段階に入っている両国間の経済関係を象徴するものであった。同会議終了後発表された共同声明によれば,第2回日本・イラン投資会議は73年,東京で開催される予定である。
農牧畜業を主要な産業とするアフガニスタンは,灌漑施設の貧困のため,天候に左右されやすい脆弱性を有しているが,72年はとくにその被害が甚大であった。72年6月には一都地方で豪雨のため,水害に見舞われる一方,2年来の旱魃による被害に厳寒等の悪条件が重なり,多数の死者と約20万人にのぼる難民を生じた。わが国は前記水害に対しては,72年6月に現金1万ドルを贈り,また,旱魃による難民救済に対しては,72年末に現金2万ドルを贈った。このほかわが国は70年,71年と米,および肥料を対象とするKR食糧援助を供与してきたが72年も,前述のようなアフガニスタンの窮状にも鑑み,35万ドル相当の肥料をKR食糧援助として贈与した。一方わが国の技術協力は,その規模において(71年末現在研修生受け入れ120人,専門家派遣58人)中近東諸国の中では比較的順調に増大している。
1972年には,イスラエルに対するアラブ過激派ゲリラによるテロ事件が頻発した。とくに5月9日イスラエルのテル・アヴィヴ空港におけるサベナ航空機乗取り未遂事件に引き続き,5月30日,同空港において,アラブ・ゲリラ組織PFLPに協力する日本人青年3名による無差別殺傷事件が発生した。この事件による犠牲者は,死傷100名余に達し,その国籍は,イスラエル,米国(特にプエルトリコ人),西ドイツ,フランス,ドミニカの5カ国におよび,世界に大きな衝撃を与えた。本事件に対し,わが国は何ら法的責任はないが,人道的見地より,イスラエル政府に対し,わが国政府ならびにわが国民の遺憾の意を表する為,福永健次衆議院議員を特派大使として,イスラエルに派遣するとともに,各国の犠牲者に対する弔慰金,見舞金等として総額150万ドルを日本赤十字杜を通じて関係各国赤十字社宛送金することとした。本事件によってわが国とイスラエルとの友好関係には何らの支障も生じなかった。
1972年のイスラエル経済は,GNPの伸びが1971年より始まった経済発展5カ年計画における目標の年7.5%を上回り,9.5%と,順調な発展をみせたが,わが国との関係でも,貿易量は,近年着実に増大している。(71年のわが国の輸出約3,000万ドル,輸入約1,OOO万ドル)