-北米地域- |
田中総理大臣は1972年8月31日および9月1日,ハワイにおいてニクソン大統領と会談を行なった。このハワイ会談には日本側より大平外務大臣が同行し,米国側よりロジャーズ国務長官,キッシンジャー大統領補佐官等が参加した。また上記首脳会談と並行して外務大臣・国務長官との間の会談も行なわれた。
今回の日米首脳会談は,田中新内閣成立後間もない7月下旬のニクソン大統領からの呼びかけにより開催されることとなったものである。
会談においては,国際情勢,特にアジア情勢および日米関係等両国が共通の関心を有する諸問題について幅広い意見の交換が行なわれた。会談終了後,日米両国間の緊密な友好関係と協力関係を引き続き維持強化すること,日米安保条約を維持し,同条約の円滑かつ効果的な実施を期するため,密接な協議をしてゆくこと,ニクソン大統領の訪中・訪ソの意義を認め,来るべき田中総理大臣の訪中がアジアにおける緊張緩和の促進に資することを希望すること,日米2国間および多国間の経済問題解決のため緊密な協力をすること,文化,教育,科学その他多岐にわたる諸分野における日米間の幅広い協力関係を維持促進すること,日米両首脳間の緊密な個人的接触を引き続き維持することなどを骨子とする12項目からなる「共同発表」が発表された。また,これと同時に日米両国間の貿易収支不均衡是正に資するためわが国が米国より緊急輸入を行なう具体的内容に関する「鶴見・インガソル会談についての発表」が公表された(資料編参照)。
第2次大戦後27年の長きにわり米国の施政下にあつた沖縄は,昭和47年5月15日午前零時を期して日本本土に復帰した。
沖縄の歴史的な祖国復帰を祝するとともに,これを記念するため,5月15日午前10時30分より,東京においては日本武道館,沖縄県においては那覇市民会館において,内閣主催による沖縄復帰記念式典がそれぞれ盛大かつ厳粛に挙行された。
東京の式典会場の日本武道館においては,天皇・皇后両陛下の御臨席を仰ぎ,閣僚,国会議員,沖縄の関係者,各界代表および青少年代表等が参列し,また,アメリカ合衆国よりはアグニュー副大統領がニクソン大統領に代り出席したほか,インガソル駐日米国大使,ランパート在沖高等弁務官(当時)および在京米国大使館,在日米軍首脳者,在京米国人等多数が列席した。
アグニュー副大統領は席上,沖縄における米国政府の施政を終結する旨の米国大統領布告(Proclamation)を代読するとともに,米国政府および市民に代り沖縄の日本への復帰を祝する旨の挨拶を行なった。
(1) 米国の対外通商政策の動向
(イ) 1970年11月に景気底入れしたあとも米国経済は長らく低迷状態にあつたが,インフレの昂進,高い失業率,国際収支の赤字という,当時米国経済が当面していた三重苦を一挙に解決することを目指し,71年8月にはいわゆる「新経済政策」が発表された。その後,米国経済は次第に回復のテンポを速めていったが,これをGNPの伸びで見ると1972年に入ってからの各四半期の名目GNP成長率は第3・四半期を除いていずれも10%を超え,実質ではいずれも6%を超えている。その結果,1972年の名目GNP成長率は9.7%で,1952年以来20年間で最高となり,また実質GNP成長率は6.4%で1967年以来の高い伸びを記録した。また1969年9月をピークに2年間にわたって低迷状態を続けた鉱工業生産も1971年末以降急上昇し,1972年には前年を7.O%上回った。
こうした急速な景気の上昇,生産の拡大を反映して雇用の増加は1年間で260万人に及び,失業率も1年前の6.0%に比較して1972年末には5.1%へと低下した。1972年初頭に発表された大統領経済諮問委員会による1972年の米国経済見通しによれば,名目成長率9.4%,実質成長率6%程度,失業率は年末までに5%の近傍にまで低下するというものであったが,以上に関する限り政府目標は達成されたと言うことができよう。
(ロ) 1971年8月の新経済政策発表後90日間の賃金・物価凍結を経て,同年11月,米国はいわゆる第2段階(フェーズII)に移行した。第2段階では閣僚レベルの生計費委員会の下にある賃金委員会・物価委員会により,賃金上昇率年5.5%,物価上昇率年2.5%のガイドラインが設定され,賃金・物価の統制は1972年を通じて続けられた。
この結果,まず総合的な物価指標としてのGNPデフレーターは,1972年第1・四半期に5%を超える上昇率となったが,年間では3.0%にとどまっており,消費者物価上昇率も3.3%で,1967年以来の低率であった。また賃金(民間非農業時間当り)も1971年の7%から1972年には6.2%へと上昇率の鈍化が見られた。
これらの指標から見ると賃金・物価統制は一応その効果を発揮したとも考えられる。しかし卸売物価上昇率は4.6%と最近20年間で最高の上昇率となった。以上のとおり,第二段階はインフレ期待感の抑制という心理的な効果を含め相当の成果を達成したと認められるが,物価安定という最終目標は未だ達成されるには至っていない。さらに1973年には,(イ)1972年後半から上昇率を高めている卸売物価が小売物価に波及する懸念があること,(ロ)1972年を約2百万人上回る約480万人の労組の賃金協約改定を控えていることなどから,1971年よりは格別に,賃金・物価上昇圧力が強まると一般に予想されている。
こうした情勢の中で,ニクソン大統領は1973年1月12日に第2段階における賃金・物価の法的統制を食品,医療,建設の3業種を除いて解除し,民間の自主的な協力に基礎を置くいわゆる第3段階(フェースIII)への移行を発表した。
ここで第3段階に移行した背景としては,(イ)強制的な統制はインフレ抑制策としての効果を出し尽し,これ以上の統制の継続は需給関係等経済のゆがみを拡大する恐れがある,(ロ)労組に対しては賃金引上げについて多少の弾力性付与を約束し,その協力をとりつける方がインフレ抑制上良策であるといった判断が働いたものと云われている。
第3段階が今後インフレ抑制に成功するかどうかは,財政金融政策の運営いかんと,シュルツ財務長官のいう「押入れの中の棒」(インフレ抑制上必要と判断した場合には政府が介入する権限)を政府がどの程度利用するかによるところが大きいといえよう。
(ハ) 経済政策の柱の一つであった景気の回復とそれに伴う雇用の増大については上述のようにほぼ達成され,インフレ抑制についても卸売物価に幾分の懸念はあるものの,一応の成果を収め得た現段階で,残された最大の問題は国際収支,特に貿易収支の問題である。
1972の米国国際収支は,6月のポンドフロートはあったものの,通貨情勢が1971年に比して相対的に安定していたため短期資本収支の改善により,総合収支(公的準備取引収支)では前年の298億ドルの赤字から1972年には101億ドルの赤字へと約200億ドルの改善をみた。
しかしながら,米国にとって最大の関心事である貿易収支は1972年には前年に比して40億ドル以上の大幅悪化を示し,68億ドルの赤字(国際収支ベース)を記録した。1971年末の通貨調整や主要貿易相手国の景気回復にもかかわらず輸出は14.2%の増加にとどまり,他方,米国の急速な景気拡大により輸入は前年比22.4%増加となったことが,赤字幅の大幅拡大の主因であった。
(ニ) 国際収支および貿易収支の悪化も手伝って,米国内には労働組合等を中心に貿易の規制を求める声が強まってきている。しかしながら,米政府は従来より自由貿易体制の維持を標榜してきており,所得政策によるインフレの抑制,DISC(米国国際販売会社)等による輸出拡大,技術開発,生産性向上等,米国産品の国際競争力強化,東西貿易の拡大等,貿易拡大の方向で国内の貿易規制的な主張に対処する姿勢をとってきた。
同時に,米政府は,(i)現在の国際経済情勢に有効に対処する為には通貨面の問題と通商面の問題とを同時に解決する必要がある。しかし,(ii)現行のガット・IMF体制は,この必要性に必ずしも十分には応ええないものになってきているとの判断に傾いており,国際通貨制度については,昨年9月のIMF総会においてシュルツ財務長官が外貨準備の増減をレート調整の指標とすること等を中心とした改革を提案し,その後11月の20カ国蔵相代理会議においてヴォルカー財務次官が右提案につきさらに詳細な説明を行なう等,その実現に熱意を示している。
また,国際通商問題については,米国は本年9月に東京開催が予定されるガット閣僚会議を皮切りに発足が期待される次期国際ラウンドをひかえ,近く交渉権隈を得るため包括的な通商法案を議会に提出するとしている。
(2) 日米貿易経済関係の現状と問題点
(イ) 最近の日米貿易の伸びは著しく,1968~72年の4年間で貿易額は倍増し,米国の対外貿易に占めるわが国のシェアは10.5%から13.4%へ上昇した。現在,日米貿易は二国間の貿易規模としては米加貿易に次ぎ,また海を超えた貿易としては最大の規模となっている。
他方,わが国から見ても,対米貿易は輸出31%,輸入25%を占めており,わが国の貿易相手国としての米国の地位は際立って大きい。
日米貿易の内容を見ると,対米輸出では自動車,オートバイ等の輸送機械,テレビ,ラジオ,テープレコーダー等の家電製品,または金属製品衣類等の商品が米国市場に大きく依存している。また対米輸入では航空機,電算機などの技術先端商品や,大豆,とうもろこし,こうりやんなど重要原材料において米国に依存するところが非常に大きい。
(ロ) 1972年の日米貿易をみると,対米輸出90.6億ドル,対米輸入49.4億ドル,往復では140億ドルの規模に達している。
対米輸出は,前年比24.8%増(1971年23.6%)となったが,月別に見ると8月(前年同月比70%増)を例外として1972年の後半には,輸出伸率はかなりの鈍化を示し,輸入の伸率を下回るに至っている。
輸出の伸率鈍化の原因としては一般に,(i)円切上げ効果の浸透,(ii)わが国の景気拡大による輸出意欲の減退,(iii)西欧地域への市場分散化(通関統計によれば西欧地域への輸出は前年比40%増に対し,対米輸出は18.2%にとどまっている)等が挙げられている。
品目別では,1971年に40%以上の伸びとなった機械機器の伸びがかなり大幅に鈍化し(25%増),特にテレビは前年実績を下回ることになつた。
他方,対米輸入は,わが国の景気の拡大を反映して特に1972年後半から順調な伸びを記録し,前年比21.8%増(49.4億ドル)となった。
輸入がこのように大幅に増大した背景としては,(i)わが国の景気拡大の本格化や,(ii)海外市況の高騰による原材料,食料の輸入増大と並んで,(iii)消費材の輸入が著増していることが注目されている。
(ハ) 貿易面と並んで日米間の資本交流もますます増加している。わが国に進出している外資系企業のうち62%(546社)が米国系企業で占められ,その投資残高は1971年末において約18億ドルに達している。
他方,わが国の対米直接投資は,1972年末で約11億ドルに達しているが,米国の対日投資に比較して金額的に少なく,また投資の主体も商業・金融保険業に偏っている。しかしながら最近は,(i)米連邦・州政府の積極的な勧誘,(ii)対先進国投資のネックであった人件費格差が平価調壁の効果もあって縮少していること,(iii)対外投資の金額規制の撤廃1971年7月),(iv)外貨貸し制度の実現(1972年8月)などによりまた,(v)米国内の輸入制限的動きを回避する配慮から,今後は製造業を含めた対米投資が増大して行くものと予想される。
また技術取引においては,これまでに締結された技術援助契約の6割近くが米国との間に結ばれたものである。最近では,わが国から米国への技術輸出も増えており,一方的な対米技術導入から真の日米技術交流へと進みつつある。
(ニ) 日米経済関係における最大の懸案は貿易収支の不均衡の存在であろう。
日米の貿易収支は1965年を境にして,日本側の黒字に転じ,1968年~1970年には10億ドル強の規模であったが,1971年には32億ドルに上り,さらに1972年には41億ドルに拡大した。
米国のグローバル・べースでの貿易収支は伝統的に黒字を示してきたが,日米の貿易収支が大幅に拡大した1971年に,米国のグローバル・べースでの貿易収支も83年振りの赤字(27億ドル)に転じ,さらに1972年には68億ドル(国際収支べース)に拡大した。かかる貿易収支の悪化がみられた為,米国内には諸外国の「不公正」な貿易制度乃至慣行がその原因なりとの考えが強まっており,それに伴い米国貿易収支赤字の2/3を占める日本の貿易制度乃至慣行に対する批判も厳しさを増してきている。
かかる背景にあって日米両政府とも貿易収支の大幅不均衡の存在は,日米友好関係にとって好ましいものではなく,出来るだけ早急にその是正にそれぞれ努力する心要があると云う点で意見の一致をみており,ハワイにおける田中総理とニクソン大統領の会談に際しても,ニクソン大統領よりは,「貿易および国際収支を改善するため米国によってとられた諸措置を説明し,また,米国政府が生産性の向上と市場調査の改善を通じ,特に日本に対して,輸出量を増大するよう米国企業に勧奨している」旨の発言があり,田中総理からも「米国からの輸入を促進するよう努力する意向であり,また,日本政府は合理的期間内に不均衡をより妥当な規模に是正する意図である」ことを指摘している。
(3) 日米箱根会議
(イ) 通商問題に関する日米事務レベル会議(いわゆる「箱根会議」)は,7月25日から4日間にわたり,箱根で開催され,米側からは,インガソル駐日大使,エバリー通商交渉特別代表等はじめ国務,財務,農務,商務,労働各省の局長クラス,日本側からは,鶴見外務審議官はじめ外務,大蔵,農林,通産,経企各省の関係局長が出席した。
(ロ) この会議は,日米両国が随時協議し,問題を先取りして,両国経済関係の円滑化を図ることを目的としたもので,5月にエバリー代表が来日した際,関係各大臣と会談した結果,その開催が合意されたものである。
(ハ) 会議では,まず多国間の経済問題について,主として,(i)次期国際ラウンドのあり方,交渉の対象範囲,各国が必要とする交渉権限等,(ii)次期ラウンドの準備の意味も含めてのガット,OECDでの作業計画,(iii)拡大ECについての問題が討議された。
二国間の経済問題については,(i)日米間の貿易不均衡の見通しと,(ii)如何にこれを是正していくかについて意見交換が行なわれた。
1972年のわが国の対米貿易収支の見通しについては,日米両国の予測に多少の食い違いが見られたが(米側は38億ドル,日本側は36億ドルの日本の黒字とそれぞれ予測),とくに米側は日米貿易のトレンドが構造的要因もあって,日本側の黒字が拡大する傾向にあるとし,短期的,即効的な貿易アンバランス是正措置に加えて,より長期的な日米貿易の構造にも反映される措置,具体的には米国が比較優位にある産業分野の自由化―競争原理の貫徹―を要望した。
これに対し,日本側は日米の貿易不均衝は横ばい乃至縮少の傾向にあると述べるとともに,これをさらに縮少すべく今後とも経済政策の運営を通し,また去る5月に発表された「対外経済緊急対策」の実施をとおして対処する旨説明した。
(ニ) また,日本側から鉄鋼等日本が比較優位にある分野で対米輸出規制を行なっていること,相殺関税調査の開始やダンピング規則適用強化の動きは貿易拡大と逆行する措置であり,国際ラウンドを控えきわめて不適当であること等を指摘した結果,相殺関税についてはガットの工業品委員会において討議すること,ダンピング問題については従来よりも高いレベルでの2国間会議を開催することが合意された。(これに基づき,9月11,12日の両日,ワシントンでダンピング専門家会議が開催された。)
(4) ハワイ首脳会談
(イ) 1972年8月31日,9月1日の両日,ホノルルでニクソン大統領と会談した田中総理は,「日本政府は合理的な期間内に不均衡をより妥当な規模に是正する意図である」(共同発表第7項)旨指摘したが,会談後の記者会見では,「両三年の間に日本のグローバルな経常収支黒字をGNPの1%程度にすることが望ましく,日米間の貿易収支の不均衡もその枠内で均衡をとるように努力する」旨述べている。
(ロ) 鶴見外務審議官とインガソル大使との間で「箱根会議」以降,そのフォロー・アップにつき数次に亘り会談が行なわれてきたが,首脳会談の共同発表と同時に10億ドルを超える米国製品および役務の購入を含む次のような作業の結果が発表された。
(i) 農 林 水 産 物
1972会計年度において,農林水産物の対米輸入自然増が約3億9.000万ドルおよび特別穀物購入が約5,000万ドルと見込まれる。
(ii) 航空機等
日本政府は,米国から2,000万ドル相当のヘリコプターおよび航空関連施設を購入する予定であり,民間航空会社は約3億2,000万ドルの航空機購入を計画中である。
(iii) ウラン濃縮役務
日本の電力会社は,米国からウラン濃縮役務3億2,000万ドルを購入する予定である。
(iv) ウラン濃縮施設
日米両国政府は,総額約10億ドルの投資を伴うウラン濃縮施設を米国に建設するための合弁事業実現の可能性を検討するため,作業グループの早期設置を促進すべく努力する。
(5) エバリー通商交渉特別代表の来日
(イ) エバリー代表は,2月7日から11日まで来日し,8,9の両日,鶴見外務審議官はじめ外務,大蔵,農林,通産,経企の各関係局長と意見交換を行なったほか,関係各省幹部とも個別に会談を行なった。
(ロ) 全体会議では,まず,多国間の経済問題につき,主として,(i)次期国際ラウンドおよび米国の新通商法案,(ii)拡大ECについての問題がとりあげられた。
二国間の経済問題については,エバリー代表より1972年の日米貿易の不均衡が,1971年の32億ドルをさらに上回り,41億ドルに拡大したという事実を背景に,対日貿易赤字が米国内に惹起している諸困難につき指摘があった。
これに対し,日本側は,1972年10月に発表された「対外経済政策」の主要項目につき説明するとともに,これらの効果は今後でてくるものであること,また,1972年度補正予算,1973年度大型予算による総需要拡大は日本の輸入増大に貢献するであろうことを指摘し,さらに,世界貿易の拡大均衡を指向する立場から,今後とも資本,貿易の自由化等にできるだけの努力をするので,米側においても対日輸出拡大に努力すること,米国内にある丸太の輸出規制等の動きに対しては充分慎重を期することを要望した。
(1) 日米科学委員会第1回小委員会
日米両国の平和目的のための科学上の協力推進を目的として,1961年の池田総理大臣・ケネディ大統領共同声明に基づき設置された日米科学委員会の第1回小委員会会合は,1972年6月29日および30日米国ノース・カロライナ州チャペル・ヒル市において開催された。
この小委員会会合は,1972年の第11回委員会年次会合において,以後年次会合は隔年とし,その中間年次に両国の委員長および少数の委員による会合を開催することが決定されたことに基づくものである。この会合においては,本事業実施のための両国の予算増額の必要性,第2次五カ年報告書の作成および第12回年次会合を1973年7月にワシントンで開催すること等が合意された。
(2) 日米医学協力委員会
アジアにまんえんしている疾病について効果的な措置をとる上に必要な基礎的医学研究を目的として,1965年の佐藤総理大臣・ジョンソン大統領共同声明に基づき設置された日米医学協力委員会の第8回年次会合は,1972年8月24日および25日東京において開催された(これに先立ち8月21日からコレラおよび結核に関する日米合同部会が開催され,シンポジウムを行なった)。
この会議においては,過去1年間における研究活動に関し,日米各部会より報告書が提出され,その進捗状況,今後の研究計画等について検討された。
また,従来の6部会(コレラ,結核,低栄養,ウィルス性疾患,らいおよび寄生虫疾患)に加え,新たに「突然変異およびがん原部会)の設置が決定された。
第14回会合
日米安全保障条約に基づき日米間の安全保障上の連絡協議の一機関として設けられている日米安全保障協議委員会の第14回会合は,1973年1月23日外務省で開催され,日本側からは大平外務大臣,増原防衛庁長官が,米側からはインガソル駐日大使,ガイラー太平洋軍総司令官が出席した。
同会合では,極東における最近の国際情勢を検討するとともに,安保条約第6条の実施に関する交換公文に規定されている事前協議制度の運用に関連する事項を討議し,同制度の運用上の基本的枠組みと姿勢に関する両国の合意を確認したほか,現在の国際情勢の下にあっては米国による事前協議が必要とされる事態は予想されないことに留意した。
在日米軍による施設・区域の使用に関する事項についても討議し,関東平野地域における空軍施設・区域の整理・統合計画と那覇空港を含む沖縄の施設・区域の返還,移転計画について合意した。
また,委員会は,安保条約およびその関連取極の円滑かつ効果的な運用についての両国の協議と調整を一層促進するのに資する目的で新たに安保運用協議会が設置されたことを歓迎した。
カナダはわが国にとって米国に次いでオーストラリアに比肩しうる貿易相手国として,また,わが国はカナダにとって米国に次いで第2位の英国に迫る貿易相手国として,ともに相互にとって第3番目の重要な貿易相手国となっており,1972年においても日加経済関係は引き続き順調な発展を遂げた。
日加間の経済関係は数量的に見ても極めて順調な発展を続けてきているが,今後はこの太平洋をはさむ両国間の経済関係を量的面のみならず質的側面においてもさらに緊密化し充実させていくことが期待される。
(1) 日加貿易の推移
1972年の日加貿易は,対加輸出約11.1億米ドル(前年比26.1%増),同輸入約11.6億米ドル(同15.1%増)と往復約23億米ドル(同22.7%増)に達した。このように,カナダ側の活発な需要を反映して対加輸出が前年(56%増)ほどではないにせよ順調な伸びを示したため,同輸入がわが国景気の回復本格化を反映して前年(8%増)に比しかなり大幅な伸びを示したにもかかわらず,従来日本側の入超を続けていた日加貿易収支はほぼ均衡するに至った。(なお,輸出入ともFOB建てのカナダ側統計速報によれば,1972年の対日貿易収支は,対日輸出約9.6億カナダ・ドル,同輸入約11.0億カナダ・ドルと,既に約1.4億カナダ・ドルの対日赤字に転じている。)商品別に見ると,1972年1~10月の実績から見た主要対加輸出商品は,自動車,鉄鋼,テレビ,ラジオ,オートバイの順であり,オートバイ,テレビが前年比100%近い伸び率を示したほかラジオ,自動車も同,60%前後の伸び率を示したが,鉄鋼は同17%近い減少を示した。主要輸入,商品は,非鉄金属鉱,石炭,小麦,パルプ,木材の順であり,鉄鉱石,木材,小麦が若干減少を示し,反面,機械機器が前年比90%を越える大幅な伸びを示した。
(2) 対加直接投資の動き
日加貿易の構成を見ると対加輸入のほとんど(97%)が原材料で,同輸出のほとんどが製品という,カナダにとっては典型的な原料輸出・製品輸入型の貿易となっているため,カナダ側は対日輸出加工度の向上に強い期待を表明している。こうした要望およびカナダ政府の国内産業高度化政策,あるいは対加製品輸入の増大による経済的摩擦の発生の可能性に対処する意味で,近年対加直接投資による現地加工輸出あるいは輸入の動きが出始めたことは注目される。現在までわが国からの直接投資によりカナダに合弁その他の形で設立された工場は,乗用車組立1件,テレビ組立3件,ファスナー製造1件,プレハブ住宅設立1件,ポンプ組立1件,ワイヤー等製造1件の合計8件となっており,今後ともこうした日加間資本交流が増大し,両国間経済関係を促進するとともに,カナダ産業構造の高度化および地域開発に貢献することが期待されている。
(3) 日加間の交流
1972年には,同年1月のペパン通産大臣を団長とするカナダの経済使節団に続いて,3月にはギレスピー科学技術大臣を団長とするカナダ科学技術使節団が来日し,日加両国間の科学技術面での協力と理解の促進についてわが国関係者と意見を交換した。
これに続いて同年中には,ローヒード・アルバータ州首相を団長とする同州経済視察団を始めとして,カナダ各州から多数の経済使節団あるいは要人の来日を見たほか,わが方からは上級事務レベルの使節団を派遣して初の日加資源委員会をヴァンクーヴァーにおいて開催する等,日加間の経済交流は活発な動きを見せた。
(4) 日加貿易経済上の諸問題
前述のカナダ側の対日輸出加工度向上の要望が一般的問題としてあるほか,従来からの問題として対加輸出自主規制およびダンピング問題があり,今後の問題としてカナダの新外資規制法案がある。
(イ) 対加輸出自主規制
わが国は1958年以来一部の繊維品および真空管等について対加輸出自主規制を行なっている。これは日加関係全般に対する配慮からするわが国の自主的判断に基づくものであるが,規制品目の選定およびその規制水準等については,わが国の決定の際参考とするため日加両国政府間で話し合いを行なっており,1972年は4月および5月に各々オタワと東京で話し合いを行つた。カナダ側は従来の規制品目に加えて2・3の新規規制を強く主張したが,結局,1971年の規制を若干適当な伸び率とともに修正し,シャツ等,綿・化合繊製品と真空管の11品目を規制することとした。
(ロ) ダンピング防止税
わが国の対加輸出商品がダンピング調査の対象となったのは,1969年のカナダ・ダンピング防止法施行以来12件に達し,1972年中には,スチール・ワイア・ロープおよびスチール鋼板の調査が開始された。わが国としては,日加両国間の円滑な経済関係のため公正な調査が行なわれるよう要望している。
(ハ) カナダの新外資規制法案
カナダ産業は米国を始めとする外国資本により高度(非製造業の40%近く,鉱業および製造業では60%前後に及ぶ。)に支配されており,近年こうした外資による支配の規制に関し活発な議論が行なわれていたが,カナダ政府は1972年5月新外資規制法案を提案し,同法案の審議未了による廃案に伴い1973年1月再度新外資規制法案を提案した。同法案は議会審議中であるが,これによれば今後一定基準以上の新規設立および既存企業に対する対加直接投資は政府によるカナダ経済に及ぼす影響等の基準に則った審査および許可の対象とされることとなる。