-大洋州地域- |
(1) わが国と豪州の関係は,戦後まず,貿易・経済関係を軸として発展してきたが,近年両国関係は政治・外交を含む全般的関係において緊密化の一途をたどっている。すなわち,豪州は,アジアをめぐる国際情勢の新たな展開の下で,アジア・太平洋国家としての認識を強めており,他方,わが国側においても,ともにアジア・太平洋地域の先進国として,同地域の平和と繁栄の確保につき日・豪両国は共通の利益と責任を有するとの認識を強めており,このような基盤に立って,両国は,主要な国際問題について,緊密な協議・協力を行なうに至っている。
1972年12月の総選挙の結果発足した労働党新政権は,中国との国交樹立を初めとして,意欲的な対アジア・太平洋外交政策を展開しており,その一環として,あらためてわが国との政治外交関係を重視し,その緊密化を図ろうとしていることが注目される。
(2) わが国と豪州の全般的関係は,1972年に飛躍的発展をとげた。これを象徴するものとして,第1回日豪閣僚委員会が開催されたことがあげられる。1971年5月,アンソニー豪副首相兼貿易産業大臣来日の際,日豪両国は,経済・貿易上の諸問題につき意見交換を行なうことを目的として,両国間に閣僚レベルでの合同委員会を設置することに合意したが,これに基づき,第1回日豪閣僚委員会が1972年10月12,13の両日,キャンベラで開催された。会議には,日本側から,大平外務大臣,足立農林大臣,中曾根通産大臣,佐々木運輸大臣,有田経企庁長官,豪側からは,ボーウェン外相,アンソニー副首相兼貿易産業相,スネツデン蔵相,シンクレア第一次産業相,シュウオーツ国土開発相,ニクソン運輸相,コットン民間航空相,ホールデン復員担当相兼貿易産業副相,ピーコック海外領土相およびパプア・ニューギニアのソマレ首席大臣が参加した(肩書はいずれも当時)。両国閣僚は,両国関係一般,内外経済金融問題,多数国間貿易問題,2国間貿易および関連問題,運輸問題,エネルギー・天然資源問題およびパプア・ニューギニア問題の各議題に関し,率直かつ自由な意見交換を行ない,22項からなる共同コミュニケを採択した。本件委員会の開催は,日豪関係史上,1957年の日豪通商協定締結に勝るとも劣らない重要な意義を有するものといえる。なお,第2回会議は1973年度中に東京で開催される予定である。
(3) 日豪閣僚委員会は,主として貿易・経済問題を討議することを目的としているが,両国閣僚の間に常設的な意見交換の場が設置されたことは,両国の政治・外交関係においても重要な意味をもつものといえる。たまたま,第1回閣僚委員会は日中国交正常化の直後に開催されたこともあり,閣僚委員会出席のために訪豪した大平外務大臣は,マクマーン首相,ボーウェン外相,ウィットラム労働党党首(現首相)等の豪側首脳と会談し,アジア情勢を中心に国際問題一般につき有意義な意見交換を行なつた。一方,1972年6月には,豪外務省高官の来訪の下に,東京において,第6回事務レベル定期協議が開催され,2国間問題のみならず,アジアにおける地域協力機構問題,国連問題等両国が共通の関心を有する国際問題につき討議が行なわれた。なお,豪州では1972年12月に下院総選挙が実施されたという内政上の理由もあり,1972年には,豪側要人の来日は例年に比べ,比較的少なかった。新政権が発足してからは,1973年2月,スチューワート観光・リクリエーション相が来日した。
(4) 日豪関係全般の緊密化を背景に,日豪貿易も着実に伸長した。1972年(1~12月)の両国間の貿易総額は29億3,356万米ドルで前年比18.7%増を示し,わが国にとって豪州は米国についで第2位の貿易相手国という地位を堅持した(豪州にとっては,わが国は第1位の貿易相手国)。対豪輸出(7億2,843万ドル)に関しては,豪国内の不況による需要減退に基づく全般的な輸入の伸び悩みを反映して,対前年比1.3%の微増にとどまつた。他方,輸入(22億0,517万ドル)に関しては,わが国の景気後退に基因する鉄鉱石,銅等の買控え問題,1972年12月の豪ドル切上げおよび1973年2月の米ドル切下げによる為替差損補償問題ならびに1973年1月の豪産鉱物資源輸出規制強化政策の決定等により,日豪間の資源貿易に若干の摩擦が生じたが,両国とも,両国が資源の需要供給について補完関係にあり,また,産業構造についても相互依存関係にあるとの基本的認識に立ち,両国間の長期的な貿易・経済関係の増進という観点から,問題の解決に努力したことが注目される。
(5) 現在豪州の施政下にあるパプア・ニューギニアは,1973年12月1日(もしくはそれ以降のできるだけ早い時期)に自治を達成し,現労働党政権の在任期間である1975年11月までに独立する予定となっているが,1972年には,日豪関係とならんでわが国とパプア・ニューギニア関係が緊密化されたことが注目される。パプア・ニューギニアは,自治・独立を間近かに控え,わが国に対する期待を強めつつあるが,これを裏づける如く,第1回日豪閣僚委員会にはソマレ首席大臣が出席し,他方わが国は,委員会の席上,パプア・ニューギニアの国造りにできる限り協力するとの好意的態度を示した。ソマレ首席大臣は,友好・親善関係の促進を目的として,1973年2月,外務省賓客として来日し,大平外務大臣を初めとする政府首脳および関係業界指導者との接触を通して,わが国とパプア・ニューギニアの将来の発展のために重要な役割を果した。一方,経済協力の分野においては,1972年2月,東京において日豪漁業協定に基づき,パプア・ニューギニアにおける漁業協力問題に関する協議が行なわれたが,同年8月本件に関する合意議事録が署名され,その結果,同年11月から12月にかけてわが国水産専門家がパプア・ニューギニアに派遣された。さらに,1973年3月には,パプア・ニューギニアより使節団が来訪し,わが国関係者との間で,水産問題および経済開発問題一般について討議を行なった。
(1) わが国とニュー・ジーランドとの関係は,貿易・経済関係を中心にして着実に緊密化されている。1972年(1月~12月)の両国貿易総額は4億1,380万米ドル(前年比42.1%増)で,対ニュー・ジーランド輸出1億16,530万ドル,輸入2億4,850万ドルを記録した。わが国にとっては,ニュー・ジーランドとの貿易は必ずしも大きな割合を占めていないが,ニュー・ジーランドにとっては,わが国は,第4位の輸出相手国,第3位の輸入相手国であり,他方,これまでニュー・ジーランドの最大の貿易相手国であった英国のEC加盟に伴い,ニュー・ジーランドは,農林・水産物を中心とする対日貿易促進に大きな関心と期待を寄せており,この意味からも,ニュー・ジーランドは1972年10月の足立農林大臣のニュー・ジーランド訪問に重要な意義を認めている。
(2) ニュー・ジーランドは,英国のEC加盟,アジアの緊張緩和等国際情勢の変化に伴い,豪州と同様に,アジア・太平洋地域の諸問題に大きな関心を示し,わが国との接触,協議を求めている。ホリオーク外相は,1972年6月来日した際,佐藤総理および福田外務大臣と会談し,他方,大平外務大臣,有田経企庁長官は,足立農林大臣とともに,日豪閣僚委員会に出席した後,ニュー・ジーランド政府の招待により同国を訪問し,マーシャル首相を初めとする政府首脳と会談した(肩書はいずれも当時)。なお,第6回事務レベル定期協議が1972年6月,東京で行なわれ,両国が共通の関心を有する国際問題について意見交換が行なわれた。
南太平洋地域には,現在,フィジー,ナウル,トンガ,西サモアの4つの独立国が存在するが,1972年は,わが国とこれら南太平洋諸国との関係が強化されたことで注目される。
フィジーは,人口・面積等の面からも,これら4カ国のうち最も重要な地位を占めているが,わが国は,1972年9月,わが方駐豪大使をフィジー国大使(兼轄)として任命した。また,同年11月の同国におけるハリケーン被害に対して,見舞金5,000ドルを贈与した。
ナウルは,1971年8月,東京に同国領事館(実館)を開設したが,わが国は,1972年11月,わが方駐豪大使をナウル国大使(兼轄)として任命した。
一方,ナウルの国営航空会社であるナウル航空は,1972年12月より,ナウル―鹿児島間に定期航空路を開き,その開設を記念してデロバート同国大統領が同年12月来日し,田中総理を初めとする政府関係者と会談し,日本―ナウル両国の友好親善関係の促進に大きく寄与するところがあった。
わが国は,西サモアに対し,1972年11月,日本青年海外協力隊員を派遣し,また,1973年3月には,トンガに対しても同隊員を派遣した。他方,これら両国から,中堅指導者各1名を招待し,わが国実情を視察させた。さらに,1973年3月には,わが方駐ニュー・ジーランド大使がこれら両国大使(兼轄)として任命され,今後,わが国と西サモア,トンガとの友好・親善関係が促進されることが期待される。
南太平洋地域のこれら4つの独立国は,いづれも親日的な国であり,アジア・太平洋地域の先進国たるわが国が,これら諸国の国造りに協力することが,今後のわが国外交の課題のひとつといえよう。