-わが国と各国との諸問題- |
わが国は,朝鮮半島における緊張が緩和の途をたどることを強く念願し,韓国の発展と国民福祉の向上にできる限り協力することがこの地域における平和と安全に寄与するとの基本的立場に基づき,1965年韓国と国交を回復して以来両国間の友好協力関係の発展につとめてきた。
過去1年間の日韓両国間の関係をふりかえってみると,定期閣僚会議,貿易会議,漁業共同委員会会議が開かれて,両国の直面する国際情勢,貿易,経済協力,漁業等の問題に関し話し合いが行なわれるとともに,日韓大陸棚の共同開発について実務者間に会議が行なわれた。
(イ) 韓国との関係
(a) 第6回日韓定期閣僚会議
第6回日韓定期閣僚会議は1972年9月5日,6日の両日ソウルにおいて開催された。
会議には日本側からは大平外務大臣,植木大蔵大臣,足立農林大臣,中曾根通産大臣,佐々木運輸大臣,有田経済企画庁長官,後宮駐韓国大使,太田水産庁長官および三宅特許庁長官,韓国側からは太完善(テワンソン)副総理兼経済企画院長官,金溶植(キム・ヨンシク)外務部長官,南ドク(ナム・ドク)財務部長官,金甫(キムポ)ヒョン農林都長官,李洛善(イ・ナクソン)商工部長官,金信(キムシン)交通部長官・李潴(イ・ホ)駐日大使および金東洙(キムドンス)水産庁長が出席した。会議は全体会議および個別会議において国際情勢および両国関係,経済企画および財務,貿易,農林水産ならびに交通運輸の各問題について,率直な意見の交換を行ない,共同コミュニケの採択を行なった。
この会議において両国の閣僚は,アジアの平和と繁栄のために両国が協調し努力することを確認するとともに,わが国が韓国側の要請にこたえて通信施設拡張計画および輸出産業育成計画ならびに韓国第3次経済開発5カ年計画による農林水産部門のプロジェクトにつき資金協力を約束し,両国協力関係緊密化のための顕著な成果を収めた。
(b) 在日韓国人の法的地位問題
日韓法的地位協定に基づく永住権取得のための5年間の申請期間は,1971年1月16日に終了し,申請者総数は351,955名に達した。このうち1973年3月末までに340,966名の者が協定永住を許可されている。
なお,外国人登録による在日朝鮮人数は,1972年12月末現在,629,809名である。
(c) 竹 島 間 題
前年に引き続き1972年8月に行なった竹島周辺の海上巡視の結果に基づき,同年10月26日韓国の竹島不法占拠に対して抗議し,即時撤退を求める口上書を発出したが,韓国側は12月11日同じく口上書をもって同島が韓国領である旨を主張し,従前からの態度を変えていない。
(d) 日韓大陸棚問題
わが国は,日韓間に横たわる大陸棚の境界画定について,1970年以来韓国と話し合いを行なってきたが,1972年9月に,双方の見解が基本的に食い違う区域については,大陸棚資源の早期開発のための現実的方策として,両国の法的主張は棚上げしたまま共同で開発することを検討することとし,その他の区域については境界を画定することについて原則的合意が得られた。この合意に基づいて,同年10月以来6回にわたり,東京とソウルで交互に実務者会議が開催され,共同開発の具体的態様等について話し合いが行なわれた。
(e) 経 済 関 係
1972年のわが国の対韓輸出額は9億7,846万ドルで,韓国はわが国にとり世界第6位の輸出市場となっている。他方,同国からの輸入は4億2,533万ドルとなっている。
韓国側は従来から,日韓貿易の不均衡を是正するため,わが国に対し,関税率の引下げ,特恵関税制度の改善,開発輸入の促進などを要求してきた。このような韓国側の要求に対しては,わが国としてもできる限りの努力を続けており,その結果,わが国の韓国に対する輸出入比率は,1969年の5.7対1から1970年に3.6対1,1971年に3.2対1に,さらに1972年には2.3対1となり,アンバランスはかなり是正されてきている。
(i) 第9次日韓貿易会議
第9次貿易会議は,1972年7月4日および5日の両日ソウルにおいて開催された。この会議においては,両国間貿易を拡大させるための関税引下げ,特恵制度の改善,開発輸入の促進などが討議された。
(ii) のりの貿易に関する会談
(あ) 第9次日韓貿易会議の一環として,のりの貿易に関する会談が1972年4月11日から14日まで東京において開催された。この会談においては,日韓のり貿易のより円滑な実施を期するための諸問題が討議され,1972年度分の韓国産のりの輸入割当につき3億枚とすることに合意をみた。
(い) 1973年度分ののり貿易会談は,同年3月26および27の両日,東京において開催された。同会談においては,72年度と同様日韓のりの諸問題点につき十分な意見交換が行なわれた。その結果,1973年度分の韓国産のりの輸入割当量を3億枚とすることに合意した。
(iii) 韓国との特許権および実用新案権の相互保護に関する取り決めの締結
1973年1月25日,韓国との間に特許権および実用新案権の相互保護に関する取り決めが締結された。同取り決めにより日韓両国民は,他方の締約国内において1974年1月1日より権利の享有に関し,内国民待遇が与えられることになった。
(iv) 第5次日韓農林水産技術協力委員会
1968年8月の第2回日韓定期閣僚会議共同コミュニケに基づき設置された農林水産技術協力委員会の第5次会議は,1972年10月2日から5日まで東京において開催された。この会議においては,農林水産分野における技術情報,技術者および種子種苗の交流等日韓両国間の技術協力を促進するための諸方策が討議された。
(f) 経済協力関係
(i) 無償経済協力
韓国に対するわが国の無償経済協力は,韓国との請求権・経済協力協定(1965年6月22日署名,同年12月18日発効)に基づき,1965年12月18日より10年間にわたり3億ドル,年間3,000万ドルに等しい円の価値を有する日本の生産物および日本人の役務が無償供与されることになっている。1972年12月末現在,供与額は,契約認証額で645億1,791万円(1億8,281万ドル),支払額では,清算勘定残高相殺の8回分計129億3,244万円を含めて754億0,711万円(2億1,340万ドル)で,履行率71.1%となっている。なお,主な供与品目は,農水産開発機材,漁船および関係機材,肥料,繊維品,建設資材,機械類,浦項綜合製鉄所設備などである。
(ii) 有償経済協力
韓国に対するわが国の有償経済協力は,韓国との請求権・経済協力協定に基づいて,1965年12月18日から10年間にわたり,2億ドル(各年均等)に等しい円の額に達するまでの長期低利の貸付けが海外経済協力基金により行なわれており,事業の実施に必要な日本の生産物および日本人の役務の調達に充てられている。
1972年12月17日に終了した第7年度現在までに,27件の事業計画について合意が成立し,全体の67%に当る1億3,389万ドルが供与され,すでに,事業計画のうち21件について貸付を完了している。
援助の対象となった主たる事業は,浦項綜合製鉄所4,290万ドル,中小企業育成3,000万ドル,昭陽江ダム2,165万ドル,鉄道設備改良、2,104万ドル,海運振興817万ドル,高速道路689万ドルなどである。
(iii) 民間信用供与
1965年6月の日韓両国間の交換公文に基づく商業上の民間信用供与状況は,1972年6月末現在,輸出承認べースで,一般ブラント4億9,617万ドル,漁業協力4,002万ドル,船舶輸出2,920万ドルで,総額5億6,539万ドルとなっている。
(iv) 金烏(クモウ)工業高等学校設立計画に対する協力
1970年7月の第4回日韓定期閣僚会議において,わが国は,韓国政府の中堅技術工養成のための金烏工業高等学校設立計画(外資310万ドル,内資324万ドル)に対する援助要請に応え,1965年の請求権・経済協力協定とは別に,経済開発特別援助費で協力することとなり,1971年度においては1億3,000万円相当の電気設備等を無償供与し,さらに1972年度においては3億9,400万円相当の初等訓練用実験設備,教育用資材等を供与することになっている。
なお,同校は,3年制,5学科,15学級(1学級60名)の規模で,慶尚北道善山郡亀尾に建設されるものである。
(v) 円借款供与
わが国は,1970年の第4回日韓定期閣僚会議以来毎年開催されている同閣僚会議等における交渉に基づき,韓国との間にこれまでに5件の円借款供与の書簡交換が行なわれた。すなわち(あ)1971年2月18日,韓国の農水産業の近代化のため輸銀より72億円までの円貨による借款,(い)同年6月29日,輸出産業の育成および中小企業の振興のため輸銀により108億円までの円貨による借款,(う)同年12月30日,韓国の首都圏の交通事情改善のための国鉄電化およびソウル地下鉄建設に海外経済協力基金により272億4,000万円までの円貨による借款,(え)1972年7月1日,国際収支改善のための商品援助として154億円が海外経済協力基金および輸銀(各々77億円)による借款,(お)1973年1月24日,通信施設拡張計画に対し海外経済協力基金により62億円までの借款供与につき各々書簡が交換された。以上円借款のコミット総額は668億4,000万円に達し,1972年末現在における貸付実行額は147億2,000万円となっている。
(vi) 新規円借款
1972年の第6回日韓定期閣僚会議において,韓国側は,新規円借款要請として,浦項綜合製鉄所拡充計画に対し1億3,500万ドル,通信施設拡張計画,輸出産業育成計画およびソウル地下鉄第2,第3号線建設計画に対する資金協力,農林水産業の生産性向上と農業生産基盤造成等プロジェクトに対し4年間に約10億ドルの資金協力さらに同国の国際収支赤字に対処する目的をもって前回に引き続く貸金協力を要請した。これに対し,わが国は(あ)通信施設拡張計画に対し62億円(既に交換公交署名),(い)輸出産業育成計画に62億円,(う)農業基盤整備等に関するプロジェクトに対し,韓国第3次経済開発5カ年計画の農林水産部門における協力の一環としてさらに調査の上246億円までの借款,(え)韓国の国際収支改善等に154億円等計524億円までの借款供与につき協力することとなった。
(vii) 直 接 投 資
民間レベルにおける韓国の外資導入は,従来延べ払い形態によみものが圧倒的な比重を占めているが,近年韓国政府は,延べ払い等の元利金償還問題を考慮して直接投資による外資の受け入れを重視するようになり,外国企業の誘致に努めている。このような背景もあって最近わが国の企業の間に対韓投資の気運がたかまり,1972年12月末までの直接投資累計は,許可べースで309件,1億1,216万ドルに達している。
(viii) 技 術 協 力
韓国に対するわが国の技術協力(政府べース)のうち研修買受け入れ,専門家派遣人数は,1972年末までの実績でそれぞれ1,450名および273名に達している。また開発調査としては,1971年度に実施した済州島観光開発計画調査および農業開発調査を含め8件実施し,農業協力としては農業研究協力予備調査を実施した。医療協力としては,寄生虫対策,成人病(ガン)対策ならびに産業災害対策のための医療器材を供与した。
(ロ) 北朝鮮との関係
わが国は北朝鮮と国交を有していないが,過去の歴史と地理的近接性に基づく事実上の接触は存在している。
(a) 貿 易
わが国と北朝鮮との貿易は,1965年までは輸出入のバランスがほぼ保たれていたが,1966年以降1971年まではわが国の入超が続いた。1972年に入ってからはわが国の出超となっている。1972年末現在における貿易総額は,通関統計で総額1億3,175万ドルで,そのうちわが国の輸出が9,344万ドル,輸入が3,831万ドルとなっている。わが国の主要輸出品としては,染色機械,ポリエチレン・フィルム,ナイロン長織維糸,紡績機械,輸入品は生糸,鉄鉱,銑鉄などがその主なものである。
(b) 北朝鮮との各種交流
北朝鮮との事実上の交流は1971年以降,人道,スポーツ,学術・文化,経済等の分野において徐々に拡大されてきている。殊に1972年度1年間においては南北赤十字会談,政治会談等に見られる朝鮮半島における緊張緩和の傾向をも反映して,北朝鮮との間の人の往来は大幅に増加した。
(i) まず,邦人の北朝鮮への渡航については年間の旅券発給数によれば924名(うち一般旅券888名,公用旅券36名)が渡しており,これは1971年度の年間渡航者数が273名であったのに比べれば飛躍的な増加といえよう。また,その内訳も国会議員日朝友好親善団体,報道関係者,学術・文化・スポーツ関係者,商談関係者等ほとんどあらゆる分野にわたっている。
(ii) 次に北朝鮮からの入国は,従来事実上東京オリンピック等国際的なスポーツ大会参加者に限られていたのであるが,1972年1年間においては,上記のみならず,学術・文化,経済関係者などについても入国が認められ,4件32名が来日した。すなわち,まず1月に札幌冬期オリンピック参加選手団15名,8月末に日本機械学会出席の科学者代表6名,9月末に高松塚古墳総合学術調査の考古学者4名がそれぞれ来日したほか,10月には,金錫鎮国際貿易促進委員会副委員長を団長とする7名の北朝鮮経済視察団が来日した。
なお,この外11月には懸案であった商談関係技術者2件(三井東圧およびクラレの申請に係るもの)の入国が許可され,さらに12月には,初の二国間スポーツ交流である北朝鮮高校サッカーチームの入国が許可された(73年1月来日)。また,73年3月には,北朝鮮TV技術者4名,万寿台芸術団事前調査団5名が入国した。このように北朝鮮からの入国についても,制限が大幅に緩和されてきている。
(iii) また,在日朝鮮人の再入国については,従来,北朝鮮への親族訪問・墓参・病気見舞を目的とするいわゆる里帰りに限り認められてきたが(1965年以降71年末まで5回42名),72年度は上記のほかに,スポーツ,学術・文化,南北赤十字会談参加,商談などを目的とするケースについてもその枠が拡げられた。さらに国際会議参加等を目的とする海外渡航(いわゆる第三国向け出国および再入国)も初めて認められるに至った。72年度の許可数は,第三国向けを含め,10件145名となっている。
また,73年度は3月までで,5件43名が再入国を許可され出国した。
(イ) 日中国交正常化
1972年9月29日中華人民共和国の首都北京の人民大会堂において,日中国交正常化に関する共同声明が調印された。
調印式には日本政府を代表して田中総理,大平外相,中国政府を代表して周恩来国務院総理,姫鵬飛外交部長が出席,日中両国語で作成された共同声明文に署名を下した。
これにより,戦後23年の長きにわたった日中間の不自然かつ不正常な関係は終止符を打たれ,日中国交正常化が実現した。(また,その結果として,台湾とわが国との外交関係は消滅した。)
(a) 経 緯
(i) 1972年7月5日,自民党総裁選挙後の記者会見において,田中新総裁は「日中国交正常化の機は熟していると思う」と言明,続いて7月7日第1次田中内閣成立後,首相は「中華人民共和国との国交正常化を急ぐ」との談話を発表した。
(ii) 上記首相の発言に対し,中国側は直ちに好意的な反応を示した。7月8日,中国の国営通信社である「新華社」は田中内閣の成立を報道するとともに,首相および主要閣僚の中国問題に関する発言を紹介した。翌7月9日には周恩来総理自身「日中国交正常化の実現に努力したいという田中内閣の声明は歓迎に値する」と発言した。
(iii) この時期に中国から孫平化中日友好協会秘書長を団長とする上海舞劇団が来日(7月10日),わが国各地で文化大革命後の中国の新しい京劇を披露した。同舞劇団は一行総数約200人にのぼる大型芸術代表団であり,社会主義諸国以外では最初の海外公演であった。
(iv) 7月22日と8月11日の2回に亘り,大平外相は前記孫平化団長と会見し,話し合いを行なった。
(v) 中国側は8月12日に至り,姫鵬飛外交部長声明の形で公式に「周恩来総理は日本の田中首相が中日国交正常化の問題について交渉し,解決するため中国を訪問することを歓迎し,招請する。」旨発表した。
(vi) その間,在外公館においても中国側はわが方に積極的に接触する姿勢を示した。7月13日ジュネーヴにおいて,ECOSOC日本代表と在ジュネーヴ国際機関日本政府代表部の共同主催で行なわれた各国ECOSOC関係者招待パーティーに中国政府ECOSOC代表部副代表の朴明氏が出席した。
これは,日本政府在外公館の公式パーティーに中国側が出席した最初のケースである。
(vii) 上記のごとき経緯を経て,9月21日,日中双方で同時に,田中総理が周恩来総理の招請により,9月25日から30日まで,中国を訪問する旨内外に公式に発表された。
(b) 田中総理の訪中
(i) 田中総理訪中に先だち,8月31日より外務省々員を中心とする先遣隊が準備事務打合せのため中国を訪問した。
(ii) こうした準備の後,田中総理一行(大平外務大臣,二階堂内閣官房長官他随員49名)は9月25日羽田発日航特別機で中国に赴いた。中国においては,4次にわたり周恩来総理との間で首脳会談が行なわれた。これと平行して,大平外相と姫鵬飛外交部長との間でも4回の外相会談が行なわれた。
その間,9月27日には毛沢東中国共産党主席は田中総理などと北京中南海の毛主席私邸において会見を行なった。
9月29日,日中国交正常化,平和友好関係の樹立をうたった日中共同声明(資料参照)が発表された。
(ロ) 大使館の開設
日本側の在北京大使館の業務は,本年1月10日林祐一公使が,在中国臨時代理大使として着任したことにより開始された。他方,中国側は臨時代理大使として米国鈞参事官を任命し,米参事官は1月31日着任した。
(ハ) 韓叙儀典局長一行の来日
外務省は1972年田中総理一行が日中国交正常化実現のため訪中した際,日中首脳会談および総理訪中を成功に導くため中国政府事務当局において,特に尽力した中国外交部韓叙儀典局長一行(6名)を,外務省賓客として公式に招待した。
中国政府はこの招待を受け入れ,韓叙儀典局長は1973年1月22日より29日まで本邦を訪れた。
この間,韓叙局長は大平外相,二階堂官房長官,小坂経済企画庁長官と会談を行なったほか京都,大阪等を視察した。
(ニ) 大 使 の 交 換
本年3月27日,陳楚駄日中国大使は中国民航の特別機で東京に着任した。他方,小川駐中国大使は,本年3月29日北京に着任し,ここに,日中共同声明第4項にうたった大使の交換が実現した。
(ホ) 経 済 関 係
(a) 1972年の日中貿易は,総額11億24万7,000ドル(対前年比122.1%)に達し,史上最高額を記録した。輸出は6億933万3,000ドルで対前年比105.4%と漸増に終ったが,一方,輸入は4億9,091万4,000ドルで対前年比151.9%と大幅な増加を見せた。その結果,わが国の対中国出超額は約1億1,841万9,000ドルに縮少した。
なお,日中貿易には覚書貿易と友好商社を通ずる貿易の2つの方式があるが,最近は友好貿易が大きな比重をしめており,1972年においても全貿易額の約90%に達している。
日中覚書貿易協定については1973年次の取極が1972年10月29日に1年間の期限で調印された。
(b) 1972年11月24日より12月7日まで東郷外務審議官を団長とし,関係各省庁の代表よりなる政府事務当局訪中団が中国を訪問し,双方の貿易経済制度の実体等について意見を交換した。
(c) 本年3月22日より約2週間の予定で中国の鐘夫翔電信総局長一行は久野郵政大臣の招請により来日し,日中間に海底ケーブルを敷設する問題等について意見を交換した。
(イ) 外交関係の樹立
わが国は,1961年モンゴルが国連に加盟した際同国を承認し,爾来外交関係の樹立が両国間の懸案となっていた。1970年わが国政府の招きによりゴンボジャブ副首相らモンゴル政府代表団が万国博参観のため来日した際,また1971年政府親善使節団をモンゴルに派遣した際等累次の接触において右問題について意見の交換がなされ,これをうけて,1972年1月,日・モ両国のモスクワ駐在大使を通じ話し合いを行なった結果,2月24日,日本・モンゴル間に外交関係が樹立された。
モンゴルは駐ソ・ルヴサンチュルテム大使を初代駐日大使(兼任)に任命し,わが国は駐ソ新関欣哉大使を駐モンゴル大使に任命(兼任)し,ル大使は6月にわが国を訪問,新関大使は8月にモンゴルを訪問して,それぞれ信任状を奉呈した。
(ロ) 人事交流
外交関係樹立と相前後して日・モ間の人事交流も毎年漸増しており,1972年8月には37名の墓参団がモンゴルを訪問したほか,9月にはモンゴル外務省の招きにより外務省関係者がモンゴルに派遣された。また同年11月には,わが国外務省の招待により,ツェー・デミドダグワ・モンゴル外務省第4局次長およびツェー・ハータルスフ事務官が来日した。
1973年3月駐モンゴル新関大使(兼任)はモンゴルを訪問し,ウランバートルにおいて日・モ両国外交関係樹立1周年記念祝賀パーティーを開催した。
(ハ) 日赤のモンゴル赤十字杜に対する医療援助
国庫補助金をもって日本赤十字社からモンゴル赤十字杜に対し,昭和46年度分移動採血車1台,救急車3台,昭和47年度分救急車6台を前者は72年5月、後者は73年2月それぞれ寄贈した。
(イ) 南ヴィエトナム
(a) 政治・軍事の状況
(i) 南ヴィエトナムでは戦局は鎮静化をたどっていたが,72年3月末から開始された北ヴィエトナム軍の攻勢により,5月1日には非武装地帯南方のクアンチが失陥,また中部,サイゴン北方地域でも郡部の一部が失陥するなど,戦局は一時重大な様相を示した。
こうした事態に対してチュウ大統領は戦局の建直しに全力を尽すとともに戒厳令の布告(5月10日),全権委任法の公布(6月28日)などの措置をもって国内体制の強化を図った。
大統領に6ヵ月間,立法上の非常大権を付与することを目的とした全権委任法案は議員立法として国会に提出された。かかる全権委任法案に対し反政府派はチュウ大統領独裁強化に通じるものとして強い反撥を示し審議は長びいたが,非常事態下において国内が一致団結し,北ヴィエトナム軍の攻勢に対処していこうという国内気運の盛り上りもあって,結局,同法案は原案より権限を縮少した修正案(国防・治安・経済,財政に関する事項につき大統領に6ヵ月間立法権を与えるとの内容)をもって成立した。
この全権委任法に基づきチュウ大統領は総動員法の改正,新聞規正法の修正など,治安,国防,経済等の各分野にわたる大統領令をつぎつぎに公布したが,6ヵ月間に公布された大統領令は60件に達した。
北ヴィエトナム軍の攻勢で一時緊迫をみせた南ヴィエトナムの国内情勢も,その後の南ヴィエトナム軍の立直り,反撃による軍事情勢の改善に伴い一般に平静を取り戻したが,こうした軍事情勢の劇的展開に引続き,72年秋頃より米国・北ヴィエトナム間の和平交渉が新たな局面を迎えるに至った。
(ii) ヴィエトナム和平交渉は,パリでの和平会談が実質的進展をみせない一方,72年1月,ニクソン大統領の8項目提案発表の際同大統領によって明らかにされたキッシンジャー米大統領補佐官とレ・ドク・ト北ヴィエトナム・パリ会談代表団特別顧問とによる米国・北ヴィエトナム両者間の秘密会談が(69年8月から開始され,71年9月以降中断)72年5月に入って再び始められ7月,8月と回数を重ねるとともに秘密会談をめぐる動きに大きな関心が寄せられるに至った。
米国は北ヴィエトナムとの秘密会談をすすめる一方(8月14日の,キッシンジャー補佐官とレ・ドク・ト顧問との会談をもって,秘密会談は通算16回目となった),サイゴンにキッシンジャー補佐官(8月16日~18日)を派遣し南ヴィエトナム側との協議に当らせた。
秘密会談は9月に2回(17回目と18回目),10月に2回(19回目と20回目)行なわれ,この間ヘイグ米大統領補佐官代理がサイゴンを訪問したが(10月1日~4日),キッシンジャー補佐官は10月17日の第20回目の秘密会談の直後,サイゴンを訪問し(18日~23日)チュウ大統領と6回にわたり会談した。
従来,4つの拒否(領土の割譲,共産側との連立政権,共産主義寄りの中立主義,南ヴィエトナムでの共産主義者の活動,のいづれも拒否する)の立場を表明してきたチュウ大統領は,和平の動きが活発化するにつれて,機会あるごとに南ヴィエトナムの和平に対するこれまでの立場に変更ない旨を繰り返し強調したが,前記キッシンジャー米大統領補佐官のサイゴン訪問後,同月24日和平問題でテレビ演説を行ない,停戦はインドシナ全域を含み,国際監視を伴うこと,共産側が参加する連合政府は拒否すること等を強調した。
10月26日,北ヴィエトナム側が米・北ヴィエトナム間で合意をみた和平9項目の協定案を暴露し,米国側に10月31目調印を要求したあと,チュウ大統領は11月1日の革命記念日に際し,ラジオを通じて,南ヴィエトナムは北ヴィエトナムと停戦について,また解放戦線とは南ヴィエトナムの内政に関し話し合いの用意がある旨を演説し,さらに12月12日,上下両院合同会議でクリスマス前から新年後にわたる停戦と,この期問に捕虜の相互釈放,南北ヴィエトナム,解放戦線の間で和平達成のための討議に入ることを話し合う,などの提案を行なった。またこの間,10月末にはグエン・フー・ドク大統領補佐官,チャン・キム・フォン駐米大使,ファン・ダン・ラム・パリ会談代表らをアジア・太平洋地域の各国に派遣し,停戦問題に対する南ヴィエトナムの基本的立場の説明に当らせる,などの外交工作を行なった。
わが国にはラム代表が来訪し(10月30日~11月2日),田中総理,三木副総理,大平外相と会談した。
米国・北ヴィエトナム間の秘密会談は,このあと11月(20日~25日),12月(4日~13日),そして73年1月(8日~13日)と行なわれ,73年1月23日,和平協定がキッシンジャー補佐官とレ・ドク・ト顧問との問に仮調印されるに至ったのであるが,この間グエン・フー・ドク補佐官はチュウ大統領特使として米国を訪問,ニクソン大統領と会談し(11月29日~30日),他方米国からはヘイグ補佐官代理がサイゴンを訪問(12月19日),チュウ大統領と会談を行なった。
こうした和平協定案をめぐっての米国と南ヴィエトナムとの交渉過程で,南ヴィエトナム側が最も強く主張したのは,非武装地帯の再確認,北ヴィエトナム軍の南ヴィエトナム領内からの撤退,連立政権拒否の3点であったとみられた。
(iii) こうした経緯のもとに,73年1月27日,和平協定の調印によりヴィエトナムには平和が回復されることになったが,和平協定は南ヴィエトナムの政治解決の問題は南ヴィエトナムの両当事者間で協議して和平協定発効後90日以内に政治問題に関する両者間の協定を締結するよう努力することを規定しており,これに基づき2月5日からパリにおいて両者の予備会談が開催され(8回),ついで3月19日からパリ郊外のラ・セル・サンクールで公式会談が開始された。
南ヴィエトナム政府側からはグェン・ル・ヴィエン副首相が,また,臨時革命政府側からは,グェン・ヴァン・ヒュー国務相が,それぞれ首席代表として出席,両者間には3月末までに4回にわたつて会談が開催された。
同会談では,和平協定に定められた南ヴィエトナムの両当事者による和平協定の実施,民族和解の達成,民主的自由の保障の促進の任務を有する「民族和解全国評議会」(評議会は将来の総選挙を組織する)の設立,南ヴィエトナム内の両当事者の兵員削減問題などの諸問題がとりあげられることとなるが,これらの問題に対する南ヴィエトナム政府,臨時革命政府の双方の基本的立場が異なるところから,会談は進捗せず,3月末までの会談では議題の決定もみるに至っていない。
他方,和平協定を承認し,ヴィエトナムにおける戦争の終結と平和の維持,ヴィエトナム人民の基本的な民族的諸権利の尊重,南ヴィエトナム人民の自決権を保証し,インドシナにおける平和に寄与し,これを保証するため2月26日から5日間パリで開催された国際会議には,南ヴィエトナム政府からはチャン・ヴァン・ラム外相,臨時革命政府側からはグェン・チ・ビン外相がそれぞれ首席代表として出席した。
こうした動きの一方,南ヴィエトナム内部においては,協定成立後も内政面においてはとくに大きな変化もなく,政情は平静に推移し,チュウ大統領は,2週間にわたり米国を始めとし,英・伊・西独・韓国および台湾を歴訪のため3月31日,最初の訪問国である米国へ向け出発した。
(iv) 72年3月末に開始された北ヴィエトナム軍の攻勢は,その保有する戦闘師団,戦車部隊,砲兵部隊等の大部分を投入した正規戦闘の方式を採用し,攻勢地域も北部,中部,南都と三正面におよぶ決戦の様相を呈した。
一時はユエ,コンツム,サイゴンに迫る勢いを示したが,米国は,南ヴィエトナム軍に対する航空支援と5月8日の北ヴィエトナム諸港湾に対する機雷封鎖ならびに北爆の再開によって,中ソの海上輸送による戦略支援物資を遮断するとともにスマート爆弾等の開発により陸上交通路をも分断するほか諸軍事施設の破壊を図った。
一方,航空戦力を伴わない北ヴィエトナム軍の攻勢は,兵站補給上の制約とようやくにして態勢を建直した南ヴィエトナム軍の7月ごろからの反撃等により,逐次鈍化し,南ヴィエトナム各戦線の戦局はこう着状態となった。
この間,米国は中国,ソ連との話し合いを通じてヴィエトナム戦争の局地化を図りつつ,第8次(4月26日),第9次(6月28日),第10次(8月29日)と米軍の撤兵を発表し,12月末には約2万5,000人とし,南ヴィエトナム軍と地上戦闘の肩代わりを完了させ,米軍将兵の損害の減少を図った。
一方,北ヴィエトナムが和平9項目の協定案を暴露したあとの10月27日にはレアード米国防長官が北爆を20度線以南に限定する声明を発表したが,12月18日突然北爆の全面再開を発表し,B-52戦略爆撃機約100機,戦闘爆撃機約4~500機(1日あたりの延べ出撃機数)の規模をもってハノイ周辺,ハイフォン地区を重点とする爆撃を連日行ない,北ヴィエトナムに対し軍事的・心理的圧迫を加え,同時に南ヴィエトナムに対する精神的支援を与えた。
73年1月27日和平協定の調印に伴い,27日24時(GMT)南ヴィエトナム全域に及ぶ休戦が発効した。
しかしながら南ヴィエトナム内の両当事者の支配地域および両当事者のそれぞれの軍隊についての駐留態様,兵員削減,動員解除等は,両当事者の今後の交渉によることとなっているため,また,長年抗争を継続してきた両当事者相互間の不信感は一挙に解消しがたく,支配地域の拡大をめぐる武力衝突が随所で続けられた。
一方国際管理監視委員会(カナダ,インドネシア,ポーランド,ハンガリーの4カ国)は,2月5日に7地域班が設置され,3月19日現在には末端組織である地区班が,南ヴィエトナム全土28カ所に派遣されて両者の競合地域,臨時革命政府側の支配であるクアンチ,アンロック等を除きおおむね配置を終了し,停戦監視の任についている。
4者合同軍事委員会(米国,北ヴィエトナム,南ヴィエトナム,臨時革命政府の4者)は,国際管理監視委員会のように末端組織の配置には至らなかった模様であるが,米軍および同盟軍の撤退とこれと関連する米国軍人捕虜および外国人抑留者の釈放を管理維持する任務を達成し,パリ協定に基づく最終期限に一日遅れ,3月29日,同委員会は解散した。したがって同日をもって在南ヴィエトナム米軍は完全に撤退を完了し,同時に米軍等の捕虜の釈放も終了した。
この4者合同軍事委員会の解散に伴って,2者合同軍事委員会(南ヴィエトナムと臨時革命政府の2者)が3月29日,初めて発足し,今後の両者の停戦の履行および支配地域と軍の駐留の態様等を決定するため協議されることになろうが,両当事者の協定遵守が期待されている。
(b) 経 済 の 状 況
南ヴィエトナム経済は,69年以来ゆるやかながらも順調に破壊から回復への過程をたどった。とくに71年11月の経済財政改革を契機に経済は好転し,72年初期においては各種の経済活動が好調で,戦争を継続しながらも同時に自由私企業制を基調とした経済発展を図るという政策が順調に成功するのではないかと期待されていた。
しかしながら,3月末の北ヴィエトナム軍の攻勢のためすべての経済活動が沈滞化し,これまでの回復,発展への流れに一時頓座を来したが,その後次第に回復の兆をみせている。
南ヴィエトナム経済の最重要産物である米の生産は69年以来着実に増加し,72年には自給の達成が可能になるものと期待されていたが,治安情勢の悪化,天候の影響もあって生産量は610万トン(71年633万トン)にとどまった。
また,これまで唯一の輸出産品であったゴムの生産もゴム園が破壊された結果,71年3万7,000トンから72年には2万トンとほぼ半減した。
消費者物価の上昇は71年は15%であり,72年には10%以下におさえることが目標とされていたが,生活必需品の価格上昇等の結果,25%となった。
休戦が実現した現在,世界各主要国はインドシナ地域の経済復興援助を行なう意思を表明しており,各国の援助と相まって南ヴィエトナム国民の経済自立・発展への努力が期待される。
(c) わが国との関係
(i) 貿 易 関 係
わが国の対南ヴィエトナム貿易については,依然としてわが方の大幅な出超が続いているが,木材,冷凍エビの輸入が増加した結果,72年では,わが国の輸出1億467万ドルに対し,輸入は1,384万ドルとなり,輸入は前年の約3倍となった。
(ii) 経 済 協 力
1972年における対南ヴィエトナム経済協力の実績は概要次のとおりである。
(あ) 無 償 協 力
○チョーライ病院の全面改築…70年度予算で3億円が計上され調査工事等を行ない,71年度予算27億円,72年度予算17億円をもって現在建設工事を実施している。
○孤児職業訓練所建設…戦争孤児を対象として職業訓練を行なうための訓練所を建設する計画で,71年度2億2,000万円,72年度2億7,240万円が計上され,現在建設工事が進んでおり73年12月完成の予定。
○ダニム・ダム発電所修復…70年度,71年度,72年度予算計9億8,790万円をもってダニム・ダム発電所修復が行なわれ,72年12月に完工した。
なお,緊急援助として3月末から生じた難民約100万人を救済する日本赤十字杜の事業に対し,補助金として約3億円を予備費から支出し,南ヴィエトナム赤十字社あて食糧品,医療品,綿布,カヤ等が9月から12月までに送付された。
(い) 有 償 協 力
○ダラト・カムラン間送電線計画…72年11月29日書簡交換し,金利3%,7年据置を含む25年償還の円借款10億7,000万円(約347万ドル)が供与された。
(う) 技 術 協 力
わが国の南ヴィエトナムに対する技術協力のうち大きな比重を占めているのは医療協力があげられるが,70年からは研究協力の一環としてカントウ大学農学部に対する協力を行なってきている。
72年には南ヴィエトナムから0TCAべ一スで56名の研修員を受け入れたほか,医療,日本語等の専門家66名を派遣した。
(ロ) 北ヴィエトナムとの関係
わが国と北ヴィエトナムとの間に団交関係はないが,民間べースによる人的・経済的な交流は近年拡大の傾向をたどってきている。
(a) 交 流 状 況
本邦人の北ヴィエトナムヘの渡航(旅券発行数)は,69年50件,70年76件,71年92件と漸増してきたが72年は米国の北爆再開等の影響もあって,67件となった。
なお,72年2月には,外務省員2名が北ヴィエトナム商業会議所より個人の資格で招待され,北ヴィエトナムを非公式に訪問した。
一方,北ヴィエトナムからの来日者は,69年7名,70年には貿易代表団など7名,71年には炭鉱,農業視察団および数年ぶりの原水禁世界大会の代表団など20名,そして72年には経済視察団,宗教者世界集会代表団,原水禁世界大会代表団,教育労働者・組合代表団,北ヴィエトナム婦人代表団など総計30名となっている。
(b) 経 済 関 係
わが国と北ヴィエトナムとの貿易は,これまで概して輸入超過となっている。
両国間の貿易は,70年の輸出502万ドル,輸入632万ドル,71年は輸出375万ドル,輸入1,159万ドルとなっているが,72年は5月以降の米国による北ヴィエトナム港湾機雷封鎖の影響を受けて,輸出は305万ドル輸入は254万ドルとなっている。
わが国の輸出品の主要なものは合成繊維織物等の繊維品,化学肥科,鉄綱,機械等の重化学工業品であり,輸入品の主要なものは,無煙炭(ホンゲイ炭)が大部分を占めているが,その他生糸,落花生,黄麻等の原料品がある。
(イ) 政治・軍事の状況
カンボディアは1970年3月18日の政変後インドシナ戦争に直接巻き込まれることになり,戦火は急速に国内各地に拡がっていった。その後1971年末頃まで戦闘は激化する傾向にあつたが,1972年3月,ヴィエトナムにおいて共産軍の大攻勢が始まって以来カンボディアの戦闘は相対的に低下し,時折共産軍のプノンペン市に対する奇襲攻撃があったものの大勢としては膠着状態を続けてきた。
政府は1970年10月9日の共和制宣言以来新憲法の制定を急務としていたが,憲法の審議採択にあたる両院(国民議会・共和国議会)が1971年10月18日任期満了となったためこれを制憲議会として存続せしめ,憲法起草混合委員会により起草された憲法草案を同議会に付することになった。制憲議会は1972年3月18日以前に新憲法を制定すべく審議を進めてきたが,病気療養のためロン・ノル首相がコンポンソムに滞在している間,議会主導型の政体を主張する議会と米国型の大統領制を主張する政府との間の対立が尖鋭化し,一方で3月に入り,法科大学々生を中心とするシリク・マタク首相代行追い出し運動が昂まりを見せたため,チェン・ヘン国家元首は事態収拾のため3月10日ロン・ノル首相に国家元首の権限を移譲した。ロン・ノル首相は同日審議中の新憲法草案を廃棄し,翌11日制憲議会を解散し,さらに14日には国家元首制を廃止して自ら大統領に就任した。大統領は3軍司令官,内閣の首班を兼ねることになり,新内閣の組閣に着手したが,首席大臣の人事で難行した末,21日ソン・ゴクタン元首相を首席大臣とする新内閣が成立した。一まず政局の安定を得た政府はいよいよ懸案の新憲法の制定,空白となっていた両院再開の準備にとりかかり,4月8日新憲法草案を発表し,30日に国民投票を実施した上,5月11日共和国新憲法を公布した。続いて6月4日には新憲法の下で大統領選挙が実施され,ロン・ノル大統領がイン・タム,ケオ・アン両候補を破って当選した。7月には両院議員の選挙を9月に実施する旨の大統領令が出され,これと前後して新憲法に認められた政党結成の動きが活発化し,社会共和党,民主党,共和党などの政党が結成された。しかし,9月の両院議員選挙は政府の決定した選挙法を不満として民主,共和両党が不参加を表明したため,与党の社会共和党が両院の全議席を占めることになった。
両院の復活とともに新内閣の組閣が行なわれ,10月15日ハン・トウン・ハック元地域開発相を首席大臣とする新内閣が発足した。政府は折からのヴィエトナム和平の動きに対応し,11月5日「平和と和解のための民族行動委員会」を設置し,さらにパリ和平協定発効2日後の1973年1月29日に一方的停戦宣言を行なった。右宣言の直後戦闘は一時低下したが,1週間後には共産側は再び各地で攻勢を開始し,政府側と反政府側との間での話し合いの糸口がつかめないまま情勢は再び流動的となった。3月に至り,軍事情勢は悪化し,プノンペン市内では物価上昇に抗議する教員ストが発生した矢先,17日反政府分子による大統領官邸爆撃事件が起った。政府は同目直ちに全土に非常事態を宣言し,反政府分子取締りを強化した。
一方,北京在住のシハヌーク殿下は2月から約1ヵ月半に亘りカンボディアの解放区を訪問したと伝えられており,カンボディア情勢は益々混迷の度を深めている。
(ロ) 経済の状況
戦争の勃発はカンポディア経済に深刻な影響を与えてきた。政府は1971年10月29日,変則的な変動為替相場制度を採用し,経済全般の建直しを図るために新経済政策を実施し,更に生活必需品の輸入を確保し,民生の安定を図るために為替支持基金の設立を検討してきたが,1971年11月のパリ会議および1972年1月のプノンペンにおける準備会議において,IMFおよび友好国の協力により基金の設立が決定し,3月1日正式に発足した。基金の規模は約3,449万ドルで,カンボディア自身が1,500万ドル拠出し,そのほかに米国1,250万ドル,日本500万ドル,豪州100万ドル,英国52万ドル,タイ25万ドル,ニュー・ジーランド12万ドル,マレイシア10万ドルの拠出が行なわれた。基金の存続期間は,当初1972年12月31日に終了することになっていたが,カソボディアの困難な経済状況に鑑み,各国ともこの期間を1973年12月31日まで1年間延長することに合意し,カンボディア政府と基金の存続期問延長に関する取決をすることとなった。
(ハ) わが国との関係
(a) 難 民 救 済
わが国は難民の流入あるいは戦争に起因する輸送状況の悪化と天候不良により俄かに深刻化した米不足を憂慮し,カンボディア側の要請にもとづき・1972年9月20日,KR援助により約6,200トン(80万ドル相当)のタイ米を無償供与した。
(b) 貿 易 関 係
わが国とカソボディアとの間の貿易取極は1960年2月10日署名され,以後累次にわたって延長されているが,1973年1月13日この取極の有効期間を更に1年間延長した。両国間の貿易は戦争により大きく影響を受け,わが国のカンボディア向け輸出は1969年の2,350万ドルから1970年には1,078万ドルに激減し,1971年には1,184万ドル,1972年もほぼ同額の水準にとどまっている。一方,輸入も1969年の733万ドルから1970年には599万ドル,1971年には223万ドルに激減し,1972年は10月現在で156万ドルと71年と同額程度となっている。
(c) 技 術 協 力 関 係
(i) プレクトノット計画
戦争によりダム建設工事現場附近の治安が悪化したため,1970年7月以降は10名程度の邦人技術者がプノンペンでカンボディア人技術者を指導し小規模ではあるが工事を継続してきた。しかし,1971年9月25日工事現場が共産側の攻撃を受けたためその後現場における工事は事実上中断されている。
(ii) メーズ開発に対する協力
わが国は1968年11月の両国間取極に基づいて,カンボディアのとうもろこし開発に協力するため専門家の派遣,機材の供与などの技術協力を行なってきたが,カンボディア側の強い要望に応え,この取極の有効期間を1974年11月まで延長し,この協力を今後さらに2年間続けることとなった。
(iii) その他の技術協力
わが国は,カンボディアの治安が回復するまで研修員の受け入れを中心とした技術協力を行なっており,1971年には農林,運輸,郵政,行政関係など合計34名の受け入れを行なった。1972年6月現在の累積受け入れ数は農林関係127名,運輸関係18名,郵政関係53名,行政関係22名となっている。専門家派遣については必要最少限度に絞っており,現在派遣している専門家は日本語関係2名,メーズ関係1名合計3名である。
(イ) 政治・経済の状況
1962年にプーマ殿下を首相とする三派連合政府が成立したが,1963年,左派(パテト・ラオ)および中立左派はヴィエンチャンからサムヌアヘ引揚げ,プーマ殿下の現政権(中立右派および右派)と決別したまま現在に至っている。1970年3月に至りパテト・ラオ側の5項目和平提案があり,それ以降,プーマ,スバヌウオン両殿下間に和平交渉のための書簡の往復があったものの実質的進展は見られなかった。しかし,1972年10月に入って,双方の和平交渉が本格化し,ヴィエンチャンにて双方代表団による定期的和平会談が続けられた。この間1973年1月27日,ヴィエトナム和平協定の成立によりラオス和平交渉の進展が期待された折,2月3日ヴォンヴイチット・パテト・ラオ書記長がヴィエンチャン入りするに至りいよいよ和平交渉は大詰を迎えることになった。同書記長の参加により実質的な交渉は秘密会議で行なわれることとなり従来問題となっていた外国軍隊の撤退,暫定連合政府の構成等につき交渉が行なわれた結果,2月20日ヴィエンチャンにて仮調印が行なわれ,翌21日ペン・ポンサヴァン政府代表とプーミ・ヴォンヴイチッド・パテト・ラオ代表の間で正式調印が行なわれた。これによりラオス和平は大きな前進を見せたが,暫定連合政府の構成,軍の統合問題等今後解決さるべき問題を若干残している。
一方,内政一般においては,1972年1月の総選挙の結果,若手議員の抬頭があり,経済情勢の悪化とも相俟って政府と国会が対決した。
経済面においては,国防費を中心とする支出は依然増大傾向にあり,財政収入が支出を大きく下回っている。また,国内生産は乏しく,輸出総額と輸入総額の比率はほぼ1:9となっている。これに伴う外貨不足は,わが国も参加しているラオス外国為替操作基金(通称FEOF)により均衡を保っている。大規模な財政赤字は1971年11月,キープ貨切下げを余儀なくした。それ以来一般物価は上昇を続けている。
他方,外交面では,従来よりプーマ政府は中立政策を標榜しており,1972年においても中立政策の堅持に変化はなく,特に目立った外交活動は見られなかったが,米・中会談の後,1972年12月にラオスは,北京に新任大使を派遣した。
(ロ) わが国との関係
わが国とラオスとの関係はきわめて良好であり,1972年においても,ラオスは,日中関係正常化を無条件に観迎するなど,アジアにおけるわが国の役割りを大きく評価している。それと同時に政治・経済・文化等各方面での協力についてラオスのわが国に寄せる期待は大きい。今後とも,両国間の経済協力分野における協力を中心に両国関係は一層緊密化しよう。
(a) 貿 易 関 係
わが国とラオスとの貿易関係は,わが国の大幅出超である。わが国の対ラオス輸出は機械類,繊維品を中心に1970年667万7,000ドル,1971年622万ドル,1972年364万8,000ドルとなっている。これに対し,わが国の輸入は主として木材,雑貨類で,その額は1970年4万9,000ドル,1971年2万5,000ドル,1972年29万4,000ドルとなっている(日本通関統計)。
(b) 経済・技術協力関係
(i) ラオス外国為替操作基金(FEOF)への拠出
ラオスの為替安定,国内インフレ防止等を目的として,1964年,米・英・仏・豪4カ国の拠出により設立されたラオス外国為替操作基金に対し,わが国は1965年に50万ドル,66年,67年,68年,69年にそれぞれ170万ドル,70年に200万ドル,71年に230万ドル,72年には260万ドルを拠出した。
(ii) ナムグム・ダム建設工事
ナムグム・ダム建設計画はエカフェ・メコン委員会によるメコン流域総合開発のための基幹的事業で,1966年5月,世銀を管理者とする「ナムグム・ダム開発基金」(約3,000万ドル)が設立された。わが国は,これに496万ドルを無償拠出した。
本件工事は,わが国の建設業者が請け負い,1968年11月から着工し,1971年12月に第1期工事(3万kw発電)が完成した。さらに7万ないし10万5,000kwの電力供給を可能にする発電施設の増設を目標とする第2期工事についてもわが国は1972年12月所要資金の約50%の借款供与を行なう用意がある旨ラオス側に通報した。
(iii) ケネディ・ラウンド食糧援助
ラオスの食糧不足の緩和と農業開発のため,わが国は1967年の国際穀物協定の食糧援助規約に基づき,ラオス政府に対し1968年,食糧(米,30万ドル)および農業物資(20万ドル),1969年に農業物資(70万ドル),70年に食糧(米,50万ドル),72年には米,100万ドルの援助を行なった。
(iv) 難民収容村建設計画
ラオスにおいては,長年の戦火により,全人口の1/4を超す70万人以上が難民状態にあると言われており,わが国は,ラオスの民生安定に貢献する立場から昭和47年度予算で1億4,200万円の予算を計上して難民収容村を建設し,併せて,農耕地を開墾するための無償協力を実施する段階にある。
(v) 専門家および日本青年海外協力隊員の派遣,研修員の受け入れ
わが国は,コロンボ・プラン,その他により,1960年から1972年9月30日までに専門家172名を派遣し,研修員を1972年3月末までに189名を受け入れている。また,1965年4月より1973年1月末までのラオスヘの日本青年海外協力隊員派遣は217名となっている。
(vi) タゴン農業開発協力
ヴィエンチャン平野のタゴン地区800ヘクタールに灌漑農場モデルを完成する目的で1968年以来,わが国の技術協力により調査,設計を進めてきた。1970年3月アジア開発銀行の融資(97万ドル)が決定し,わが国は本開発計画の一環としてこのタゴン地区内に100ヘクタールのパイロット・ファームを開設するため,すでに専門家の派遣のほか機材の供与も行ない,右の100ヘクタール中35ヘクタールの整地開墾等の整備工事が72年5月に完了し,引き続きパイロット・ファーム実施の段階に入っている。
(イ) 政 情
1971年11月より革命評議会による政治が続いたが,1972年末暫定憲法が公布され,第4次タノム内閣が成立した。
かくして民主政治復活への第1歩が踏み出されたといえよう。
暫定憲法は1959年サリット政権の革命の際に公布されたものと略々同様の内容であり,このサリット暫定憲法は約10年間続き,新憲法が公布された経緯がある。今次暫定憲法の主な内容は国王の地位権限,立法議会の設置,右議員の任命,内閣首班の任命,緊急事態における国王の緊急勅令の公布,強力な首相の権限等を規定している。また立法議会は国王の任命による299名の議員をもって構成する旨規定されており,翌16日軍人を主体とする(200名,その他高級官僚等99名)議員が任命された。右立法議会は憲法草案の発議権は付与されておらず,発議権は内閣に委ねられている。唯内閣から提出された憲法草案を審議し,通過した場合,国王の裁可を経て公布されることとなっている。
第4次タノム内閣は,立法議会設置後,12月18日国王臨席の下に初会議を開催し,シリ・シリヨーテイン前下院議長が国会議長に選出され,新議長の奏上に基づき国王よりタノム元帥が新内閣首班に任命され,翌19日新閣僚が決定し,国王の認証式が行なわれ,誕生するに至った。
タノム首相は組閣後,議会において新政権の施政方針は革命評議会のそれを踏襲する旨発表した。
新閣僚の顔振れは第3次タノム内閣および革命評議会の主要メンバーが多く入閣している。
しかしながら,これまで所謂る文官派或はテクノクラートとして活躍したポット・サラシン前副首相,10年以上外相の職にあつたタナット・コーマン,また対日経済問題で名をあげたブンチャナ前経済相等が新内閣の顔振れに加わっていないことが注目される。ポット前副首相は組閣後タノム首相の特別顧問となり,またタナット・コーマン前外相,ブンチャナ前経済相,サガー前外務副大臣(タノム首相の実弟)等の前有力閣僚はそろって立法議会議員に任命されている。
新タノム内閣の顔振れとしては,タノム首相が国防相および外相を兼任し,プラパート大将が副首相兼内相に留任,スーム蔵相留任,サアウェーン総理官邸付国務大臣留任,プラシット前経済副大臣が商務相に昇格等々で,他の閣僚についても留任或いは配置転換等が行なわれ,軍部を中心とする政治体制に基本的変化はみられない。
1972年中にあらわれた最も顕著な外交面における変化は対中国姿勢であったと云える。
すなわち,タイは戦後ほぼ一貫して台湾を承認し,中国との国交関係を持たないという外交姿勢を示していた。
タイ国内においては国境周辺の共産分子による反政府活動があり,その活動の背後には中国および北越等の共産勢力の支援があるとの見解を示し,これに対処するため反共法を制定し,軍隊および警察より成る共産活動鎮圧対策本部を設立して強力な活動を行なっている。然るにニクソン大統領の訪中にみるが如く最近の米中接近傾向,日中国交正常化等・中国をめぐる国際情勢の変化に対応するが如く,タイは昨年9月北京で開催された第1回アジア卓球選手権大会に選手団を派遣した。これは戦後初めての中国訪問であり選手団顧問には現プラシット商務大臣(当降は革命評議会経済財政工業委員会副委員長)が当てられプラシットはこの機会に周首相その他中国側要人と会談した。その際中国側は常に門戸を開いて,平等の立場でのタイとの友好を観迎する,国交関係はタイとしては台湾問題があり難かしい点があることを認め可能な時期まで待つとの態度を示し,当面文化,スポーツ面での交流,あるいは貿易関係をすすめるとの柔軟な考えを示したと伝えられている。
しかしながら,タイ側の最大の関心事であるタイ国内の共産分子による破壊活動に対する中国の支援問題について周首相は中国は他国の内政に干渉しないが,自由のため闘う人民は支援する旨述べたと伝えられている。
タイはさらに昨年10月広州見本市に初めて代表団を派遣した。この代表団はプラシットを長とし,商務省等政府関係者および実業家等17名から成り,プラシットを除く団員は引き続き北京を訪問し中国側貿易関係者と会談を行なった。
その後3月下旬にラオスを訪問したチャートチャイ外務副大臣は,同地においてラオス駐在中国大使に対しタイ国訪問方招請した旨を発表したが,その真意等は必ずしも明らかでない。しかしながら,いづれにしてもタイが対中関係調整への動きを示し始めたことだけは確かであろう。
一方,ヴィエトナム停戦への東南アジア情勢の変化に対し,タイとしてはアジアの緊張緩和を基本的には観迎するも,国内共産ゲリラ活動もあり,またヴィエトナムをはじめとするインドシナに全面平和が確立されていない現在,タイ米軍の撤退には危惧を感じている。タイとしては今後しばらくは米軍の駐留をのぞみ,かつ引き続き米国の軍事経済援助が与えられることをのぞむ態度を見せている。
(ロ) わが国との関係
日・タイ関係は基本的には緊密な友好関係の下にあるが,昨年11月タイ学生グループによる日本商品不買運動が行なわれ注目をひいた。
これら学生は両国間片貿易の是正,日系企業の姿勢,借款条件の緩和等の諸問題につき,わが国が何等かの措置をとることを求めている。この様な考えはタイ朝野に強く底流として存在しており,わが国としても十分留意しなければならない点である。
(a) 貿 易 関 係
日・タイ貿易は,従来よりわが方の大幅な出超を続けており(1972年約2億7,000万ドルの出超),タイは機会あるごとにわが国にたいし貿易不均衡の是正を要請してきている。これを受けて日本側も是正に鋭意努力を払ってきているが,これの解決は結局両国間の貿易の拡大と多角化の過程で長期的かつ漸進的に図るほかない。1968年に設立された日・タイ貿易合同委員会の第5回会議は,1973年1月22日より25日までバンコックにおいて開催され,(i)タピオカでんぷん,パイナップル罐詰,皮製品および葉タバコの輸入増加をはかること,(ii)タイ米その他の外国米をKR食糧援助計画に利用するよう最大限の努力を払うこと,(iii)日本政府がインドシナ援助を行なうにあたってタイ産品を利用するよう最大限の努力を払うこと,(iv)タイ国におけるエビの養殖,家畜の病疫予防を促進するため協力すること,などについて両国政府間で合意をみた。
(b) 経済・技術協力関係
タイにたいし第1次円借款として216億円を供与する書簡が1968年1月に署名されたのに引き輝き,1972年4月12日,第2次円借款として640億円を供与する旨の書簡が両国政府間で交換された。第2次円借款はタイの第3次経済・社会開発5カ年計画の一部に協力するものであって,クアイ・ヤイ・ダム,首都圏電話施設の拡張,首都圏水道工事などが対象候補プロジェクトとなっている。第2次円借款は第1次円借款に比し,金利,期間とも条件はかなり緩和されたものとなった。
なお,本年1月第5回日・タイ貿易合同委員会がバンコックで開催されたが,わが国から政府代表として出席した中曾根通産大臣は,わが国の供与した640億円にのぼる第2次円借款のうち基金,輸銀のプロジェクト部分についてはアンタイ化することを表明した。
技術協力の分野では1971年4月より同年9月末までに83名の研修員の受け入れを行ない,主として農業,医療等の技術訓練を行なたつほか,94名の日本人専門家を派遣し,医療,通信,農業等の技術指導を行なつた。
無償資金協力の分野ではキング・モンクット工科大学設立,AIT(アジア工科大学院)センター建設が昭和47年度予算に,口蹄疫ワクチン製造センター調査費が昭和48年度予算に計上されている。これら援助のうち,とくに農業開発にたいする援助はタイの一次産品の輸出増大に一役買うことになりタイの国際収支改善にとって不可欠な条件であることから有効な援助となっている。
(イ) 政 情
(a) 1972年9月22日,マルコス大統領はフィリピン全土に戒厳令を布告した。戒厳令の目的は,フィリピンを共産主義反乱分子から守り農地改革,綱紀粛清,組織犯罪一掃などの政治社会改革を断行するためであるとされ,以後,反政府分子の逮捕,報道機関の管理,銃刀剣所持取締などが実施されている。
(b) 1971年6月1日以降開催されていた憲法改正会議は,戒厳令下において審議が進捗し,同年11月29日新憲法草案を可決した。マルコス大統領は,当初憲法の改正規定により1973年1月15日国民投票を実施する旨公示したが,野党および言論界等の間に戒厳令下における早急な国民投票に対する批判とマルコス政権の恒久化を認める新憲法案に対する批判が高まるに至り,12月23日国民投票の実施延期を発表した。しかし,12月31日付大統領命令をもって,全国約36,000カ所に「市民会議」を設置し,「市民会議」に新憲法草案を諮りその結果全国民の圧倒的多数の賛成を得たとして,マルコス大統領は,1973年1月17日新憲法の採択を宣言した。
新旧憲法の大きな相違点は,従来の大統領制を議院内閣制に変え,また,議院を二院制から一院制に変えたことである。たお,マルコス大統領は新憲法経過規定により,当分の間大統領と総理大臣を兼任することとなった。
(c) 外交面では,1972年初頭以降とくに大きな動きは見られなかった。対米関係についても,目立った変化は見られず,基地協定改定交渉およびラウレル・ラングレー協定関係の交渉はとくに進展しなかった。
ソ連および中国との間においては,人的往来(1972年2月ロムアルデス知事訪中,3月マルコス大統領夫人訪ソ,1973年1月ソ連インツーリスト総裁訪比等),経済面での交流が徐々に進展した。これらの点を含めて,1972年初頭以降,かつての反共的態度が修正されていることが跡付けられる。
(d) 1972年の経済活動は,上半期には比較的順調な推移をたどったが(経済成長率6.5%),下半期には,ルソン島の大水害および戒厳令の発動により鈍化を余儀なくされた。
(ロ) わが国との関係
日比両国の関係は,貿易,経済協力,投資等の経済関係を中心に逐年緊密化の度合を加えつつある。1972年10月フィリピンからパテルノ投資委員会委員長を団長とする経済使節団(14名)が訪日した。また,同月,日本政府は,日中国交回復に関する説明のため,愛知揆一特派大使をフィリピンに派遣した。
1972年7~8月発生したルソン島大洪水の際には,わが国は4億5,000万円相当の米の緊急贈与を含め,現金,医薬品,食糧品等の援助を実施した。また,わが国戦没者の遺族の多年の念願である慰霊碑がフィリピン政府の積極的な協力によりルソン島のカリラヤに建設され,その除幕式が3月28日,岸信介日比協会会長(元総理),マルコス大統領他日比両国要人等の参加の下に執り行なわれたが,これは1972年10月始められたルバング島での小野田元少尉の救出活動に対する比政府および島民の全面的な協力とともに,最近の日比親善関係の進展を示す事例である。
(a) 経 済 関 係
(i) 日比両国の経済関係は,両国が地理的に近接していること,および両国経済関係が相互補完関係にあることにより,貿易関係を中心に近年進展していたが,1972年の日本の対比輸出は4億5,852万ドル(対前年比98.7%),輸入は4億7,025万ドル(同91.5%)といずれも伸び悩みを記録した。しかし,同年日本は米国に次ぎ第2の貿易相手国となっている。日本の輸出はプラント類等機械類,金属・化学製品などであり,輸入は木材,銅,鉄鉱石であるが,最近ではバナナの輸入の急増が注目される。
(ii) わが国の対比投資は,現在約20社が合弁の形で進出しており,直接投資の総額は1972年3月末現在で4,600万ドルと他東南アジア諸国に比し低い水準となっている。わが国の投資分野は商業,鉱業,金属業等である。
(b) 経済・技術協力関係
(i) わが国は1956年締結の賠償協定(総額5億5,000万ドル,20年支払い)に基づく援助として,引き続き機械類,輸送用機器等の贈与を行ない,1972年末までに4億1,743万ドルの履行を下した(履行率76%)。
(ii) 1972年9月,わが国はフィリピンの水害被災者救援のため4億5,000万円(予備費3億円,KR援助1億5,000万円)相当の米の緊急贈与を約束し,実施した。また,食糧不足解決に協力するため日本米10万トンを延払輸出により提供した。
(iii) 1972年10月,123億2,000万円の円借款(全額商品援助)供与につき合意し,現在実施中である。
(iv) 1972年6月,わが国の市中銀行団(外国為替銀行14行より成る)はフィリピン中央銀行に対し総額5,000万ドルのスタンドバイ・クレディット(期間1年)を供与した。これは1970,71年に続き3度目のものである。
(v) 政府べースの技術協力としては,1972年末までに研修員1,241名の受け入れおよび専門家285名の派遣を行ない,また青年海外協力隊員237名を派遣した。そのほか,センター協力協定に基づき家内小規模工業技術開発センターおよびパイロット農場2箇所に対する技術協力を行なっている。
(イ) 政 情
(a) 1972年のマレイシア政情は比較的安定していた。ラザク首相は,国内の人種問題,失業問題,国境周辺の共産ゲリラなどの問題に対処しつつ,第2次5カ年計画を達成することを至上目標とした。このため,ラザク政権は,国民戦線の結成を目標として,与野党の提携を推進した。これらの結果として,ラザク内閣は,1972年12月小規模な内閣改造を行なった。このような努力の結果,下院議員144名中,野党勢力は21名を残すのみとなり,ラザク政権は一層安定した基礎の上に議会を運営することとなった。
(b) 外交面においては,引き続きASEAN協力の重視,非同盟中立主義を基調としつつ,自国をめぐる周辺地域の平和と安定の確保を目標としている。安全保障については引き続き英連邦五カ国の防衛取り決めに依存しているが,マレイシアが首唱している東南アジア中立化構想については,ASEAN諸国間の中立化に関する高級官吏委員会(1972年7月於クアラ・ルンプール,同12月於ジャカルタ)に参加し,同構想実現の方途につき検討している。さらに本年に入って,ヴィエトナム和平成立を受けてASEAN外相会議(2月15日)をクアラ・ルンプールに主催した。その後,ASPACからの脱退(3月12日),北越との外交関係樹立(3月30日)を発表する等非同盟中立主義に沿った外交政策を実践している。
ラザク首相は,1972年9月~10月,スイス,オーストリア,ポーランドおよびソ連を公式訪問し,経済・技術協力協定(ポーランド),経済技術協力協定および文化協力協定(ソ連)を締結した。
中華人民共和国との関係については,ラザク首相就任以来対中接近の姿勢を示しているが,具体的措置はとられなかった。他方,広州交易会への貿易使節団の参加,マレイシアのバドミントン・チームの訪中など民間・非公式レベルでの接触が続けられている。
(ロ) わが国との関係
わが国とマレイシアとの関係は従来から友好関係にあり,1972年も要人の往来が多く見られた。日本政府は,1972年10月日中国交回復に対する説明のため,愛知揆一特使をマレイシアに派遣した。また,MSA(マレイシア・シンガポール航空)の分裂にともない必要となった1965年日・マ航空協定の付表の修正に関する公文交換が1972年10月に行なわれた。
(a) 貿 易 関 係
1972年の貿易額は輸出2億6,394万米ドル,輸入3億9,500万米ドルとなっており,前年度に比し輸出29%増,輸入は6%増となった。輸入が伸びたかった理由は,主要輸入品であるゴム,すすなどの値下り,木材の輸入減によるものである。
わが国の輸出は機械類,電気機器,輸送機器,鉄鋼,化学品等であり,輸入品は木材,すず,鉄鉱石,ゴム等である。まず,西マレイシアの1972年1~9月の対外貿易において,わが国は輸入国としては第1位,輸出国としてはシンガポール,米国に次いで第3位,また,貿易額全体においては依然として第1位を占めている。
(b) 経済・技術協力関係
(i) 1972年3月29日,第二次マレイシア計画に対する援助360億円の円の借款供与が合意され,(内訳は基金180億円,輸銀分180億円)引き続き同年9月貸付契約が調印された。テメロー橋梁,電気電話施設拡充,テレビジョン・放送施設,ラジオ中継施設などのプロジェクトの実施が決定されている。
(ii) わが国はマレイシアに対する技術援助として1972年末までに研修員666名の受け入れ,専門家178名の派遣,海外青年協力隊員217名の派遣を行なっている。また,1970年12月以降,稲作機械化センターにより稲の二期作化に協力している。
(iii) わが国民間企業がマレイシア政府機関,現地企業等と提携,資本・技術等を提供しマレイシアの経済発展に寄与している事例としては,1972年6月現在,約90件,約5,000万米ドルに達している。その業種も鉱業,農業,漁業などの開発関係,製鉄,電気機器,化学製品,繊維関係,機械,車輪,パルプ,木材加工等の製造企業,金融,商業,サービス関係等広い分野に及んでいる。
(イ) 政治・経済の状況
(a) 1972年のシンガポールは,内政,社会情勢とも引き続き安定していた。政府は,1972年8月16日に予定を繰り上げて議会を解散し,9月2日に独立後2度目の総選挙を実施した。今回の選挙には,社会主義戦線,人民戦線等の野党が候補者を立てて闘ったが,人民行動党(PAP)が前回同様65の全議席を獲得し,今後さらに5年間政権を担当することとなり,リー・クァン・ユーが引き続き首相に就任した。政府は,内政面においては,経済発展の推進,各人種間の融和,シンガポール国民としての国民の一体感育成等に重点を置いている。1973年1月,政府は,華字紙「南洋商報」が政府の方針に反してシンガポールの種族問題を煽り,共産主義の宣伝をしたとして同紙社主を逮捕したが,この事件は再度にわたるシンガポール政府による報道規制問題として内外報道関係者の注目を集めた。政府は現地大新聞の公共企業化および新聞理事会の設立を計画している旨声明を発表した。
(b) 外交面においては,特に目新らしい政策上の展開は見られなかった。リー首相は,1972年11月下旬から約1ヵ月間西欧諸国を訪問した。また,1973年1月,タイを,更に3月下旬からは米国を訪問した。安全保障については,引き続き英連邦五カ国防衛協定に依存しているが,米軍の東南アジア地域におけるプレゼンスにも強い関心を有している。
中華人民共和国との関係については,政府レベルでは具体的措置はとられなかった。民間レベルでは卓球チームの相互訪問等の交流がえられた。
(c) 経済面については,1972年も著しい経済発展を遂げた。国内総生産は28億700万米ドルと推定され,これは前年比13%の伸びを示し,1人当りの国内総生産も推定1,307米ドルと,他の東南アジア諸国に比しきわめて高い水準を維持している。また,国際金融市場としての発展が著しい。
(ロ) わが国との関係
わが国との関係は友好裡に推移しており,特に,経済分野における民間の交流が活発であった。日本政府は,1972年10月,日中国交回復についての説明のため,愛知揆一特派大使をシンガポールに派遣した。また1973年2月には,ジュロン工業団地の一角に建設中であった日本庭風「星和園」が完成した。
(a) 貿易関係
1972年の日・シンガポール間貿易は,輸出7億150万米ドル,輸入1億2,094万米ドルと依然としてわが国の大幅出超であった。
シンガポールの対外貿易に占めるわが国の地位は,輸入においては,第1位,輸出においては西マレイシア,米国に次いで第3位となっている。
わが国の輸出品目は化学繊維製品,鉄鋼製品,機械,自動車等であり,輸入は石油製品,ゴム,金属くづ等である。
(b) 経済・技術協力関係
(i) 1973年2月9日,90億円の円借款の供与が合意された。
(ii) 技術協力については1972年12月末まで研修員334名の受入れ,専門家127名の派遣等を行なった。なお,1972年6月,原型生産訓練センターによる協力期限到来とともに,その運営を完全にシンガポールに移管した。
(iii) わが国民間企業がシンガポール政府機関,現地企業等と合弁し,資金,技術等を提供し,シンガポールの経済開発に寄与している事例は多く,1972年6月現在投資件数は100件,投資額は約3,800万米ドルに達している。その業務分野も造船,製鉄,化学,繊維,非鉄金属,機械,電機,輸送機,パルプ,食糧等の製造業,建設,商業,金融保険,レストラン,百貨店等のサービス業等広い分野に及んでいる。
(イ) 政治・経済の状況
(a) 1965年のいわゆる「9月30日」事件後スハルト大統領を中心として樹立された現政権は,スカルノ政権時代の容共政策に大幅の修正を加え,近隣諸国と国交関係を調整するとともに,国連,IMFその他の国際機関に復帰し,欧米諸国との関係も緊密化し,壊滅に類していた国家財政の建直しや経済の復興に努力を集中した結果,同国の経済の安定と復興は見るべき成果をおさめてきている。
(b) インドネシア国民協議会は,1973年3月,スハルト大統領を再選,ハメンク・ブオノ候を副大統領(従来空席)に選出した(任期いずれも5年)。
再選に伴い,スハルト大統領は,内閣改造を行なったが,アダム・マリク外務大臣,ウィジョヨ国務大臣等主要閣僚を含む閣僚の大部分は,留任若しくは横すべりの形で閣内に留まった。なお,新内閣は,「第二次開発内閣」として,同月正式に発足した。
(ロ) わが国との関係
日本・インドネシア両国問の関係はきわめて友好裡に推移しており,特に経済関係の緊密化に応じ,両国問の人の交流が活発化している。
1972年5月には,スハルト大統領夫妻がわが国を非公式訪問した。
また,日本政府は,日・中国交回復に関する説明のため,同年10月愛知撥一特派大使をインドネシアヘ派遣した。
(a) 経済関係
(i) 1972年の貿易総額は18億1,300万ドルであって,1971年比40%増となった。近年,特に輸入の増加は著しく,1972年輸出6億1,500万ドルに対し,輸入11億9,800万ドルとなった。かかる傾向はインドネシアにおける資源開発の進捗とわが国の需要増大とが相まって,石油,木材などの輸入が著増したことによるものであって,他方,わが国の輸出は対インドネシア経済協力を通じ機械,金属品などが主体となっている。
(ii) わが国の民間投資については,当初PS方式(生産分与方式)により,1960年4月以来10件の企業が進出し協力を行なってきた。しかし,1967年1月の外資導入法の制定により外国人の投資が認められることになり,同法に基づきわが国からの企業進出(目録の証券取得許可べース)は1972年3月現在79件に達している。投資分野は,石油,林業,繊維,水産,鉄鋼等である。
(iii) インドネシアには約40のわが国商社駐在員事務所があるが,1957年の工業省・商業省共同省令および1970年12月の商業省令にもとづき,商業活動は原則として認められていない。インドネシア政府は1971年7月にこれの施行細目ともいうべき「外国商社代表の許可申請に関する規則」を発表し,民族企業の商業活動を保護育成するための各種措置を定めた。これに対して,わが国は,かかる規制措置があまり性急に実施に移される場合には日イ間の貿易関係のみならず,従来わが国企業がインドネシアの経済開発に果してきた積極的役割に好ましくない影響を与えることが危惧されるとしてインドネシア側と協議を行なっている。
(b) 経済・技術協力関係
(i) わが国は1966年以来インドネシア経済の安定と復興のため,わが国は他の欧米諸国とも協力して対インドネシア援助国会議(IGGI,Inter-GovernmentalGroup on Indonesia)の一員として積極的な経済援助・技術援助を行ない,同国の政治および経済の安定に協力している。米国とならんで最大の援助国となっているわが国のインドネシアに対する経済援助は,1969年に発足した同国の経済開発5カ年計画の実施に大きな役割を果たしており,わが国とインドネシアとの関係は,ますます緊密化しつつある。他方,スハルト政権の積極的な外資導入政策に応え,わが国民間企業のインドネシアに対する進出も目覚ましく,これらわが国資本の進出が,上記政府援助と相まって,同国経済の繁栄と安定に貢献することが期待される。
(ii) 1972年度援助については,1972年7月,わが国は,新規分として,(あ)商品援助170億円,(い)プロジェクト援助76億円の両借款と,(う)KR食糧援助(贈与)800万ドルの供与を約束するとともに,294億4,000万円の信用供与(日本米購入のための78億4,000万円の延払信用供与を含む)を将来行なう旨の意図を表明した。このほか,1969年度以降3年間に意図表明を行なっていた信用供与のうちから合計390億円のプロジェクト援助の供与を具体化することとした。また,1972年8月以降のかんばつに起因する食糧不足問題に対処するため,日本は緊急食糧援助としてさらに73億9,000万円相当の日本産玄米の延払い輸出を実施した。
(iii) 1972年5月スハルト大統領訪日の機会に,インドネシア側は,現在の商業チャンネルを通ずる供給とは別個に,10年間に5,800万キロリットルの低硫黄石油を日本に供給することを約束し,日本側は,対インドネシア援助国会議の枠外で石油開発を目的とする620億円のアンタイドのプロジェクト借款を供与することを約束した。その後,借款対象プロジェクトの現地調査を行ない,借款取極細目に関する交渉を行なった結果,3月30日,本件借款の初年度分として230億円を供与すること等につき合意した。
(iv) わが国は1972年度の技術協力として,73年3月までに221名の研修員を受け入れ,および69名の専門家の派遣を行なつたほか,医療器具,漁具などの機材を供与し,河川計画,資源開発,農業開発,家族計画,医療協力のための調査団を派遣した。なお,現在わが国がインドネシア政府との取決めにもとづいて行なっている技術協力には,(あ)西部ジャワ州における米の種子生産,農業機械化のための訓練ならびにそれらの普及活動に対する協力,(い)西部ジャワのボゴールにおける農業研究協力,(う)西部ジャワのタジュムにおけるパイロット農場への協力,(え)南スマトラのランポン州における農業開発計画のための技術協力,(お)医療協力等がある。
(イ) 政治・経済の状況
(a) ビルマにおいては,1962年3月の軍によるクーデター以来すでに11年の長きにわたり,ネ・ウィンを議長とする革命委員会が政権を掌握するという政治体制が継続している。しかし,ネ・ウィン政権は,ビルマ社会主義計画党を国民政党化する等かねてから民政移管の実現を目指した施策を推進していたが,その一環として,1972年4月に,ネ・ウィン議長をはじめとする政府要人の大部分が軍籍を離れた。さらに,1971年10月以降,国民の意見を聴取しながら新憲法草案の起草作業を進めていたが,1972年4月に「ビルマ社会主義共和国連邦」の憲法第1次草案を発表した。このようにして,ビルマの民政移管計画は着実に進展している。政府は,1973年なかばまでに憲法の第3次草案を作成し,同年後半にはこれを国民投票によって採択した後,1974年初頭に,労働者・農民代表から成る「人民会議」に国家権力を返還することを計画している。
(b) 他方,1971年ごろより,タイに亡命中のウ・ヌもと首相一派のビルマ国内進入活動が,やや活発化した点が注目される。1972年4月には,同派のものと目される飛行機1機が首都ラングーンをはじめ,ビルマ南東部の各都市に飛来し,反政府宣伝ビラを撒布した。引き続き,1972年9月頃から,ウ・ヌ派反乱軍は,小グループでイラワジ・デルタ地区,中部ビルマ,ビルマ南東部に進入し,政府軍に撃滅された。このほか,ウ・ヌ派の破壊工作要員が,ラングーンなどの各都市に潜入し,破壊活動に従事しているが,大部分は逮捕された模様である。以上を除いては,国内治安面で大きな変化はない。共産党,少数民族反乱軍はビルマ北部地域で小規模な範囲で反政府活動を続けているが,政府の安定を脅かすほどの活動はできない現状にある。
(c) ビルマ政府は,1973年1月26日発表したヴィエトナム停戦に関する声明において,東南アジアの恒久的平和確立のための地域諸国の会合を呼びかけた。従来非同盟・中立主義外交政策を厳守し,東南アジアにおける地域協力にも冷淡であったビルマが,話し合いの場に出る動きを示したこと自体,画期的なことと言えよう。
(d) ビルマ経済は引き続き困難の度を深めている。1972年には,意欲的な第1次四カ年計画がスタートしたが,その成果は芳しいものではなかった。すなわち,1971/72年度の国内総生産は,基幹産業である,農業および工業の不振を理由として,前年度比3.1%の成長を示したにすぎない。他方貿易面においては,米の国際的な需給がひつ迫し輸出増大の好機であったにもかかわらず,ビルマの輸出能力が低下していたため,ビルマ米の輸出は減少した。このため,国際収支がさらに悪化した。また,国内流通面の混乱も依然改善されていない。政府は,このような経済困難を乗切るため,1972年末に,政府買上げ米価および預金金利の引上げなど,経済刺激を目指した一連の施策を実施した。
(ロ) わが国との関係
日本,ビルマ関係は,とくに開発援助の分野を中心に着実に進展した。1972年9月には,日本・ビルマ航空協定が発効した。
(a) 貿易関係
1971年に,わが国とビルマの貿易はやや増加した。同年のわが国の輸出は5,861万ドル,輸入は1,746万ドルで,日本の大幅出超となっている。ビルマの貿易に占める対日貿易の割合は,その輸入において20%内外で第1位,輸出において約5%で5~6位にある。わが国の輸出は機械,金属が中心であり,ビルマからの輸入は豆類,木材,鉱物が大部分である。
(b) 経済・技術協力関係
(i) わが国はビルマとの経済・技術協力協定に基づき,12年間にわたって総額1億4,000万ドルにのぼる生産物または役務をビルマに供与することとなっており,トラック,乗用車,農業機械等の製造プラントに対する協力を行なっている。1972年末現在の支払済額は8,999万ドルで,履行率は64.3%である。
(ii) 1969年2月に合意した108億円の円借款供与は,1971年1月から実施され,上記(イ)諸プロジェクトの施設拡充等に使用されている。
(iii) ラングーン港外マルタバン湾沖の海底油田開発を目的とし,1971年8月36億円の円借款(アン・タイド)を供与することに合意し,同年10月から実施している。
(iv) 1972年3月には,46億2,000万円の商品援助円借款供与に合意し,同年4月から実施している。
(v) 1972年8月,さらに,ビルマの重工業開発を目的とする201億6,000万円の円借款供与に合意した。
(vi) 1973年2月,海底油田開発を目的とする30億8,000万円の円借款(アン・タイド)供与に合意した。
(vii) 技術協力の分野では,1954年から1972年末までの間に石油,医療・科学関係の機材供与のほか,わが国より合計118名の専門家を派遣するとともに,ビルマ側から鉱工業,農水産関係の研修員320名を受け入れている。
(イ) 政治・経済の状況
与党コングレス党は,1971年の総選挙に続き,1972年3月の地方選挙においても大勝し,その結果同党は中央,地方双方において政治上の主導権を掌握することとなり,インドの政情は安定度を高めた。
しかし,他面,経済情勢の悪化,特に食糧の減産と各地における政治社会問題の顕在化等コングレス党政権の前途に大きな影響を及ぼすものと思われる要因が現われ始めた。すなわち,1972年のモンスーン期(6月~9月)において広範囲にわたりインドを襲った旱魃は,食糧生産の大幅な減産をもたらし,このため,インド政府は多量の緊急食糧輸入の必要に迫られた。旱魃はまたインド各地において電力不足をもたらし,工業原材料の不足と相まって工業生産を停滞させるとともに失業者を増大させた。この食糧の減産と工業生産の停滞は,1971年末の印パ戦争に伴う財政の散超により昂進していたインフレ傾向に一層拍車をかける結果となり,コングレス党の「貧乏追放」の公約実現を困難なものとしている。
他方,内政上の問題としては,1972年夏以降アッサム州における言語問題,アンドラ・プラデーシュ州こおけるムルキー・ルール(同州の後進地域であるテレンガナ地方の住民に対し政府機関への雇傭の優先的待遇を認めたもの)をめぐ“る対立の激化がみられた。とくにアンドラ・プラデーシュ州におけるアンドラ地方とテレンガナ地方の対立は,アンドラ地方出身のコングレス党閣僚の辞任とアンドラ独立州の設置要求にまで発展し,遂に中央政府は1973年1月に州内閣の総辞職を求めるとともに同州を中央直轄下に置き事態の収拾を図ったが,未だ解決をみるに至っていない。
かかる情勢において,1973年3月10日に行なわれたインド最大の市会たるボンベイ市会(定員140名)議員選挙において,コングレス党は改選前の65議席より大幅に後退し45議席を確保したにとどまり,注目された。
(ロ) 対 外 関 係
パキスタンとの関係については,1971年末の印パ戦争の戦後処理問題に関し,1972年6月末からインドのシムラにおいて印パ首脳会談が開催され,7月3日いわゆるシムラ協定が調印された。右協定は,(イ)紛争の二国間交渉または両国が合意するその他の平和的手段による解決,(ロ)漸進的に国交正常化を図るために運輸・通信等の再開のための措置,(ハ)両国軍隊の撤退等につき規定している。その後,両国軍隊の撤退は,ジャム・カシミールにおける支配ラインの画定に長時間を要し,12月20日に漸く完了したが,シムラ協定が次の措置として規定している運輸・通信等の再開を手始めとして外交関係の正常化を図ることのほか,9万人余のパキスタン人「捕虜」(軍人,官吏およびその家族等)の釈放等が未解決のまま残されている。印ソ関係は1971年の印ソ平和友好協力条約に基づき経済合同委員会が1972年8月に発足するなど引き続き緊密に推移した。1971年の印パ戦争を契機に冷却化した印米関係については1972年秋頃以降関係改善への動きがみられた。なお,米国は,1973年3月印パ両国に対する武器禁輸緩和を発表するとともに(パキスタンの項(ホ)参照),印パ戦争に際して停止していた封印経済援助を再開する旨発表した。印中関係については,インド側において関係改善を期待する意向の表明がみられたが未だ大使の交換をみるに至っていない。
(ハ) わが国との関係
わが国との関係では,チャバン大蔵大臣が1972年10月3日から8日まで外務省賓客として,またスワラン・シン外務大臣が1973年1月6日から10日まで公賓としてそれぞれ来日し,わが国政府首脳と会談を行なつた。
(a) 貿易関係
わが国の封印貿易は,インド外貨事情悪化による輸入の抑制およびわが国のインドからの鉄鉱石等の輸入の急増を反映して1966年入超に転じて以来,わが国の入超傾向が続いている。
1972年(暦年)においては,日印貿易総額は,6億4,733万ドル,そのうちわが方の輸出2億3,975万ドル(対前年比14%増),輸入4億758万ドル(対前年比8%増)で,1億6,782万ドルのわが方入超となった。
わが方の入超傾向はインドのきびしい輸入抑制政策等により今後も継続するものとみられる。日本の封印主要輸出品目は金属(その大部分が鉄鋼),機械機器,化学品などがあり,また主要輸入品目は鉄鉱石,銑鉄,マンガン鉱石などがある。
(b) 経済・技術協力関係
わが国は1972年度にはインドに対し第12次円借款として商品援助約102億円,プロジェクト援助約30億円の供与をコミットしたほか約118億円の円借款債務繰延べを認めた。この結果,1958年第1次円借款以来現在までのインドに対する円借款供与累計総額(コミットメント・べース)は約2,759億円(うち債務繰延べ額445億円)となった。
また,わが方政府は封印技術協力においては農業面に重点をおき,1968年模範農場を改組して設置した農業普及センター4カ所(それぞれ既に当初4カ年の協力期間を下したが,事業継続に関する先方の要請に基づき1972年3月および12月取決めによりそれぞれさらに3カ年の協力期間の延長を行なった)およびダンダカラニア,パラルコート地区農業開発計画に対する協力を通じ,近代稲作技術の普及につとめるとともに,農業技術の改善を通じる地域開発に協力している。そのほか在アグラ・インド救ライ・センターに対する機材供与,研修生の受入れ,専門家の派遣等を通じ技術協力を進めている。
わが国は1972年度において海外技術協力事業団を通じ専門家31名,日本青年海外協力隊員10名を派遣し,また,65名の研修員を受け入れた。
なお,わが国政府は,1972年10月31日から約2週間にわたり,民間べースでの産業協力促進の可能性を調査するため,「封印産業協力スタディ・グループ」をインドに派遣した。
(イ) 政治・経済の状況
(a) 1971年末の印パ戦争および東パキスタンの分離独立後,ヤヒヤ軍事政権に代って登場したブット新大統領は,1972年4月戒厳令の継続に反対する野党の動きに対し暫定憲法の承認を条件に戒厳令の撤廃に応じることで収拾をはかり,政治的危機を乗りきった。他方同大統領は国家再建をめざし「回教社会主義」,「大衆のための政治」などのスローガンを掲げ,経済,労働,土地,教育,保健等各分野において次々と改革案を打ち出したが,資金の不足,資本家や地主の非協力,労使間のあつれきなどにより所期の成果は挙げえなかったとみられている。
(b) 新憲法制定作業については,1972年4月17日暫定憲法が成立し,以後各党代表者からなる新憲法起草委員会が設立されたが,大統領制とするか連邦議会制とするか,また州政府の権限をどうするか等憲法の基本的性格をめぐり与野党間に激しい意見の対立が生じ,作業は難航した。かかる各党間の意見の不一致を調整するため1972年10月各党代表による会議が行なわれ,この結果2院制に基づく連邦議会制を骨子とする合意が達せられた。1973年2月国会に提出された新憲法草案は4月10目採択され,8月14日から新憲法が施行される事になっている。
(c) 他方,地方においては1972年7月シンド州において公用語法案をめぐり大規模な騒動が発生し,また1973年1月バルチスタン州における騒擾に続き,2月10日に在パ・イラク大使館から大量の武器が発見された事件を契機にブット大統領が野党勢力の強いバルチスタンおよび北西辺境両州の知事を解任するとともに「バ」州を大統領直轄統治下に置く等の強硬措置をとったため,野党側との対立は深まった。
(d) 経済面では輸出が綿花,綿製品,米などの大幅輸出増により好調であった(1972年1~10月の輸出は対前同期比42%増の5億3,900万ドル),ことを除いては,全般的に労働争議の頻発,工場の大幅操短,企業家の投資意欲の減退,物価の急騰等の事態が続き,東パ動乱,印パ戦争などにより疲弊したパキスタン経済は未だ十分に立ち直りを示していない。
(ロ) 対 外 関 係
まずインドとの間にシムラ協定(1972年7月3日)を締結して,印パ戦争の戦後処理問題解決の手がかりを得たが,その後において印パ戦争の際バングラデシュにおいて捕虜となったパキスタン人9万人余の釈放問題は解決せず,またインドとの国交正常化の措置も進展するに至らなかった(上述インドの項(あ)(ハ)参照)。他方バングラデシュとの関係においては,パキスタンは上記捕虜の即時釈放を求め,バングラデシュはパキスタンの同国承認を話し合いの前提としているため,両国間の対話も始まっていない。印パ戦争以来米国との関係は良好であり,1973年3月米国は印パ戦争以来の印パ両国に対する全面的武器輸出禁止を緩和する旨発表し,この結果パキスタンは印パ戦争前に契約済の装甲兵員輸送車300台等を含め,約1,400万ドル相当の武器購入が可能となった。中国との関係は,1972年1月のブット大統領の中国訪問に続き,1973年1月にティッカ・カーン陸軍参謀長が,また1973年2月にブット夫人が訪中するなど引き続き緊密であった。他方ソ連に対してもブット大統領は中国訪問に続いて訪ソする(1972年3月)など関係維持の努力を払っている。このほかパキスタンは1972年秋以降北越,北朝鮮,東独および在北京シハヌーク政権を承認するとともにSEAT0から脱退するなど一連の動きを示し,その意図が注目された。
(ハ) わが国との関係
わが国との関係においては,1972年3月末にブット大統領特使としてジャトイ政務・通信・天然資源相が来日し,また10月末にはイフテイカル・アリ外務次官が来日し,わが方との間に日・パ間の定期協議が行なわれた。
(a) 貿 易 関 係
1972年におけるわが国の対パキスタン貿易はわが方の輸出6,343万ドル(対前年比44.1%減),輸入1億1,030万ドル(対前年比89.9%増)となり,1959年以来13年ぶりでわが国の入超となった。右はパキスタン経済の沈滞に伴う輸入需要の減退,対パ新規円借款供与の遅延などによりわが国の対パ輸出が前年に比し大幅に減少したのに反し,パキスタンから大量の原綿および綿製品の輸入によりわが国の対パ輸入が前年に比しほぼ倍増したためである。
(b) 経済・技術協力関係
東パ動乱,パキスタンによる政府借款債務についての一方的な支払停止(1971年5月1日,ただし,民間債務は支払継続),印パ戦争などに影響され,パキスタンに対する円借款の供与は1970年2月の第9次円借款以降保留されていたが,1972年10月わが国は,5月にパリで開催された対パ債権国会議においてきめられたパキスタンの広務救済のためのわが国分担額約129億円のうち約116億円につき債務繰り延べを行なうとともに,差額の約13億円分の新規商品援助の供与をコミットし,さらに12月には第10次円借款として82億5,300万円の商品援助の供与をコミットした。
技術協力面においては,わが国からウラン資源開発調査団(1972年5~6月),フィッティ・クリーク港建設計画調査団(1972年9~10月),およびイスラマバード水道調査のため専門家1名(1973年1~3月)を派遣した。またわが国は1972年度中に海外技術協力事業団を通じパキスタンから研修員22名を受け入れた。
(イ) 政治・経済の状況
(a) 1972年1月10日バングラデシュに帰国したラーマン首相は,国民の絶大な信望および4月10日召集された制憲議会における圧倒的な与党勢力を背景として鋭意国造りを開始した。しかしながら,同国の根源的な貧困に加えて,1970年末から相次いだ台風禍,東パキスタン時代の動乱および印パ戦争が残した深刻な傷痕により同国各分野における復興作業は容易に進まず,工業生産についてみても1972年半ばにおける生産高は1969/70年度中の水準の約6割という状況であった。また農業生産基盤の破壊と混乱に加え,1972年のモンスーン期(5~10月)における異常なかんばつにより,バングラデシュの食糧生産は大幅に減少し,1972年中には約200万トンの主食の不足を来たし,これを補うため海外からの食糧確保の必要に迫られた。かかる生産全般の不振を反映して失業,特に農村における不完全雇用も深刻化し,これに伴う都市への人口流入は大きな社会問題ともなっている。
(b) 制憲議会は1972年11月4日,民族主義,社会主義,民主主義および非宗教主義を基本原則とする憲法を制定し,同憲法に基づき初の総選挙が1973年3月7日に行なわれた。その結果ラーマン首相の率いるアワミ連盟は300選挙区(うち1区は候補者死亡のため投票延期)のうち291区を制するという圧倒的勝利を得た。
(ロ) 対 外 関 係
バングラデシュは非同盟中立の政策をかかげつつもインドとの間に1972年友好協力平和条約を締結し,またインド,ソ連,東欧諸国との間に貿易協定等を締結した。他方バングラデシュを承認した国は1973年3月末までに98カ国に達した(未承認国はパキスタン,中近東回教圏の大半,中国等である)。またバングラデシュはこれまでに世銀,IMF,UNCTAD,IL0,WH0,UPU,GATT等の国際機関への加入を認められたが,国連への加盟は中国の拒否権行使により実現するに至らなかった。
(ハ) わが国との関係
わが国との関係については1972年2月10日,わが国のバングラデシュ承認,同月11日両国間の外交関係の樹立に続き,バングラデシュは3月3日在京大使館を開設し,わが国は7月1日夜ダッカ総領事館を大使館に昇格した。
(a) 貿 易 関 係
1972年におけるわが国の対バングラデシュ貿易は輸出4,412万ドル,輸入635万ドルであり,右はバングラデシュの外貨不足およびジュート輸出の不振を反映するもので,これまでのわが国の対東パキスタン貿易額を下回った。
(b) 経済・技術協力関係
(i) わが国は1971年の東パ動乱発生以後,同地域住民救済のため合計108万ドル相当の日本米6,770トンの援助を行ない(1971年10月および1972年2月),さらにわが国のバングラデシュ承認後,100万ドル相当の尿素肥料16,500トン(3月),800万ドルの現金拠出(4月)による援助を行なったほか(以上いずれも国連経由),同国政府に対し1,199万ドル相当の繊維製品,河川用船舶およびトラック等の無償供与(12月)および200万ドル相当の日本米約12,500トンのKR援助(1973年1月)を行なった。このほか,有償協力として,1972年8月に日本米5万トン(約721万ドル相当)の延払輸出を行なつており,以上援助合計総額は約3,128万ドル(96億1,300万円)となる。
(ii) また政府は技術協力の一環として経済技術協力調査団(1972年4月),農業協力調査団(8月),鉄道改善調査団(11~12月),ジャムナ河架橋予備調査団(12月),農業協力調査団(1973年1月)および放送調査団(2~3月)を派遣した。
(イ) 政治・経済の状況
(a) セイロンは1972年5月22日,新憲法を公布し,エリザベス英国女王を元首に載く英連邦内の自治領の地位から,ゴパッラワ大統領(前総督)を元首とする共和制に移行するとともに,国名をスリ・ランカ共和国と改称した。共和制への移行は歴代内閣が標榜していたもので,150年にわたった英国の植民地支配の最後の絆を断つものとして国民一般の観迎を受けた。しかしながら,新憲法は仏教の保護・育成,シンハラ語を公用語とすることを謳っているため,タミル語を母国語としヒンドゥー教を信奉するタミル人はこれを不満としてタミル人政党たる連邦党を中心としてタミル統一戦線」を結成し新憲法反対運動を展開した。
他方政府は1972年4月,1971年の「人民解放戦線」の武装蜂起に参加し,政府軍に投降,ないしは逮捕された16,000人にのぼる反徒を裁くため,刑事特別裁判所法を成立させ,右により本特別裁判所の設置期間を5年間とし,上記反徒のほか治安を乱した者,為替法違反者をも対象とするなど強い態度で臨んだ。また8月に政府が新聞統制法案を発表するや,野党はじめ新聞界,宗教界,法曹界,労働組合,学生等の強い反対を受けたため,一旦同法案をとりさげたが,その後に修正案を議会に上程し,違憲審査裁判所より合憲である旨の裁定を得て野党議員欠席の下で成立せしめた(1973年2月)。
他方,1972年12月には現政権成立後,初の国会議員補欠選挙が実施されたが,与党自由党は4議席のうち1議席を得たにとどまった。
(b) 経済面では,1972年のGNP成長率は中央銀行発表によれば前年比2.5%で,1971年の成長率(0.9%)に比し僅かながら増加したとはいえ,依然として低く,国際収支の不均衡,失業者増加,物価騰貴および食糧不足に悩んでいる。かかる事態に対処するため,農地改革法(1972年8月)および所得制限・強制貯蓄法(1972年12月)を成立させるとともに,1973年度(73年1月~12月)予算においては,所得税納税者およびその扶養家族に対する無償米穀配給を停止し,FEECS(外貨取得権証明書制度)レートを55%から65%に引き上げ,かつ同レート適用品目を拡大する等,実質的な平価切下げの措置をとった。また,1972年7月,英ポンド変動相場制移行を機にスリ・ランカはそれまでのルピーのドル・リンクから再度ポンド・リンクヘ移行した。
(ロ) 対外関係
バンダラナイケ首相は1972年5月末より13日間中国を公式訪問し,中国政府より約5,700万ドルの経済援助の約束を得るなど中国との関係は緊密であった。第27回国連総会において,スリ・ランカは他の26カ国と共同で「インド洋平和ゾーン」決議案を提出し,右が採択された結果,本件を具体的に検討するため日・中・スリ・ランカ等15カ国より成るad hoc委員会が設置された。
なお,1972年10月,韓国通商代表部がコロンボに設置された。
(ハ) わが国との関係
(a) 貿 易 関 係
1972年におけるわが国からの対スリ・ランカ輸出は2,856万ドル,輸入は2,280万ドルで,約1.3倍の出超であった。主要輸出品は機械機器,金属製品,化学製品,繊維品,鉄鋼品等で,輸入品は紅茶,天然ゴム,貴石等である。
(b) 経済・技術協力関係
わが国は1973年2月,対ス援助国会議において第8次円借款として35億円の借款供与をプレッジした。
技術協力においては,わが国より海外技術協力事業団を通じ活餌調査団(1972年10月)および工業開発調査団(1973年2月)を派遣したほか,デワフワ村落開発計画協定の下で専門家6名が引き続き派遣されている。1972年度にはわが国はスリ・ランカより研修員59名を受け入れた。
(イ) 政 情
モルディヴにおいては,1972年8月1日より改正憲法が施行され,これに伴って新たに総理大臣が大統領により任命された。
対外関係においては,1972年10月14日,中国との間に外交関係を設立した。
(ロ) わが国との貿易関係・技術協力関係
1972年のわが国の対モルディヴ貿易は,輸出3万ドル,輸入1.7万ドルで,主要輸出品は繊維品,ラジオ,乾電池,主要輸入品は魚介類である。
技術協力関係においては,わが国水産業界団体が,かつお・まぐろ漁業合弁事業設立に関する事前調査のため,6名から成る調査団を派遣した(1972年10月)。
また,技術協力の一環として前年度より引き続き研修員(洋裁)5名がわが国に滞在している。
(イ) 政治・経済の状況
(a) ネパール独自の民主主義体制たる国王親政に基づく「政党なきパンチャーヤト民主体制」を確立しネパールの近代化に努めてきたマヘンドラ国王は,1972年1月31日急逝され,26才のビレンドラ皇太子が国王に即位された。ビレンドラ国王は,同年2月18日の王政復古記念式典において,即位後初の所信表明演説を行ない,故マヘンドラ国王の内外基本政策,経済政策を踏襲するが,同時にパンチャーヤト体制は時代の要請に応じて改善し得るものである旨述べられた。これを契機に,従来から政党政治,議会制民主主義の復活を主張しているB.P.コイララに代表される旧ネパール・コングレス党関係者および現行パンチャーヤト憲法の枠内での改革を主張するS.B.ターパ元首相に代表される反ビスタ首相派国会議員らは,国会内外において現状改革を要求する運動を展開し,この結果,同年3月国会内におけるビスタ首相の最大支持勢力の領袖R.デブコータ議長は辞任し,続いて政府は4月内閣改造を余儀なくされた。この運動は学生も参加し,一時はかなりの高まりを見せたが,ビスタ政権は公安法によりS.B.ターパ等の指導者の逮捕,言論統制を行ない事態の鎮静化に成功した。このほか1972年においては,小規模な回印両教徒衝突事件,東部ネパール国有林入植者と警官隊との衝突事件,異常天候による丘陵地帯の食糧不足とこれに伴う暴動等種々の社会不安の発生を見た。
(b) 経済面では,運輸通信,農業および工業開発に優先順位を置く第4次開発計画(1970~75)を実施中であるが,1972/73年度予算においても外国援助は,開発予算中48%(そのうち71%は贈与)と,高い比率を占めている。また国内総生産の2/3以上を占める農業生産は天候不順のため不振で,山岳地帯は食糧不足に見舞われた。かかる事態に対処して,ビレンドラ国王はいち早く国家開発事業に取り組み,6月国家計画委員会を改組し,国家開発会議を新設された。国王は,また全国を4開発地域に分割し,ダンクタ,カトマンズ,ポカラ,スールケートにそれぞれの開発センターを設置するとともに,自ら陣頭に立って経済開発の推進に努められている。
(ロ) 対 外 関 係
故マヘンドラ国王によって指導されたネパールの非同盟・中立政策が,ビレンドラ国王によっても継承されることが確認された。インドとの関係では,若干の紆余曲折はあったが,1972年1月故マヘンドラ国王の御葬儀へのパータク副大統領の派遣,インドの経済援助の増進,同年4月ビスタ首相の訪印,1973年2月ガンディー首相の訪ネ等によって,両国の友好関係は維持された。中国との関係は,11月ビスタ首相の訪中,中国の援助による発電所,橋の完成等経済援助の増進,文化交流等により,これまた友好裡に推移した。
(ハ) わが国との関係
日ネ関係は,わが国の対ネ経済技術協力,人的交流等により,引き続ききわめて友好裡にある。
(a) 貿 易 関 係
ネパールの対外貿易のほとんどはインドとの取引きにより占められており,わが国とネパールとの貿易規模は低い水準にあるが,近年ネパールの貿易先の多角化政策によってインド以外の国との貿易も漸増傾向にあり,わが国との貿易も漸次増大しつつある。1972年におけるわが国の対ネパール貿易総額は887万5,000ドル(輸出773万6,000ドル,輸入113万9,000ドル)で,わが国の大幅出超となっている。わが国の対ネパール主要輸出品は織物,鉄鋼,化学工業生産品,乗用自動車で,主要輸入品はじや香,黄麻,牛黄である。
(b) 技術協力関係
技術協力の面では,1972年度中にわが国から海外技術協力事業団を通じ和紙,農業関係専門家5名,協力隊員17名を派遣したほか28名の研修員を受け入れた。また,医療協力調査団を派遣し,東部ジャナカプル地区においては,コロンボ・プランに基づく農業協力を行なつている。
(イ) 政治・経済の状況
1972年7月21日ジグメ・ドルジ・ワンチュク国王が急逝され,同7月24日16才のジグメ・シンゲ・ワンチュク皇太子が国王に即位された。同国王は8月20目即位後初の記者会見で,インドとの特殊関係の継続を再確認し,インド,バングラデシュ等隣接国を除き外国と外交関係を樹立しない旨表明された。経済面では,引き続きインドの全面的な援助を得て,インフラストラクチャーの整備に重点を置く第3次五カ年計画の実施を推進している。
(ロ) わが国の技術協力
1972年度にはわが国は,海外技術協力事業団を通じ,農業園芸専門家1名を派遣し農業開発に協力したほか,農業および行政面での訓練を中心として,1972年度には5名の研修員を受入れた。