-インドシナ半島の情勢- |
北越正規軍を主体とした共産側は72年3月30日,17度線の非武装地帯を越えて大攻勢を開始した。この共産側攻勢は,(i)北越の保有する戦闘部隊の大部分を投入したこと,(ii)戦車,中重砲等を大量に投入した近代戦型の攻撃であったこと,(iii)共産側攻勢の地域が南越北部地区のみならず,ラオス・カンボディア・南越の3国国境地帯(中部高原地帯―コンツム・プレイク周辺)およびカンボディア・南越国境地帯(サイゴン北方約100キロのアンロク周辺)を中心として,ほぼ南越全域にわたったこと,などの軍事的特色を有していた。
この通常戦型の共産側攻勢は6月上旬頃まで続き,この間5月1日には省都クァンチ市が共産側に奪取される事態が発生した(南越軍は5月29日反撃に転じ,9月16日クァンチ市を奪回した)。しかし4月中旬以降6月上旬にかけて再三陥落が予想されたコンツムおよびアンロクは南越軍が確保し続けた。
このような共産側攻勢は6月中旬以降逐次ゲリラ戦に移行したが,これに対し米軍は,72年4月6日北爆を再開,5月8日には北爆強化と北越七港等に対する機雷封鎖措置をとった。この北爆は10月27日の米国防長官発表で20度線以南に限定されている旨が明らかにされた後,12月8日のB-52を含む全面北爆を再開に発展し,さらに12月29日には再び20度線以南に制限されたが,1973年1月15日には全面的に停止された。
なお停戦協定にもとづき在南越外国軍隊は撤退に移り,韓国軍は73年3月23日,米軍は3月29日撤退を完了した。
ラオスにおいては,ジャール平原周辺において共産側の攻勢が例年よりも2ヵ月早く(71年12月17日)開始された。72年1月上旬にはジャール平原およびボロヴェン高原は共産側の支配するところとなった。72年は雨期になっても共産側がジャール平原およびボロヴェン高原から撤退せず,これらの地域を確保し続けた。もっとも戦闘はいずれも小規模なものであり,さしたる変化のないまま終止した。
ヴィエトナム停戦協定調印後約1ヵ月を経た73年2月21日,ラオスにおいても停戦協定が調印された。停戦協定調印直後は小規模ながら戦闘が行なわれたが次第に鎮静化し,事実上の停戦が実現したものとみられている。
共産側による国道1号線の遮断(72年4月8日),プノンペン市南端に対する挺身攻撃(同5月6日),大統領私邸および国防省等に対するロケット砲撃(同6月5日),プノンペン空港および駅付近に対するロケット砲撃(同6月8日),プノンペン市北部に対する挺身攻撃と通称“日本橋"の破壊(同10月6日),ポチェントン空港砲撃(同11月29日)等の攻撃が行なわれたが,いずれも散発的なものであった。
しかし73年2月中句以降共産側は国道1号線に対する攻撃を皮切りに,国道2,3,4号線に対しても攻撃を行い,首都プノンペンに対し軍事的圧力を強めている。こうした共産側の軍事的圧力は,例年のパターンと異なった様相を呈しており,ロン・ノル政権下の政情不安定と相まって,今後の成り行きが注目される。
北越機雷封鎖に関するニクソン声明(72年5月8日),GRP新和平提案(同9月11日),北越政府による米・北越間和平取極案暴露(同10月26日)等の経緯があった後,73年1月23日米・北越間に最終的な和平合意が成立した。この合意成立まで実に68年5月のパリ会談開始以来202回にわたる公式会談と24回の秘密会談が重ねられた。
これに続き「ヴィエトナムにおける戦争の終結および平和の回復に関する協定」(「パリ協定」と略称)および付属議定書の全文公表(73年1月25日),正式調印(同1月27日)があり,同協定に基づく休戦が発効した(同1月27日GMT24時)。
パリ協定は,関係当事者の原則論に関する対立の調整が難しかったことを反映し,次のような問題を含んでいる。(i)北越軍撤退が明記されなかったこと,(ii)北越に対する軍事援助に制限がないこと,(iii)本来ならば休戦にともない早急に決定されるべき敵対勢力の支配地域および軍の駐留態様が未確定であること,(iv)この問題および南ヴィエトナムの政治的将来にかかわる問題が両当事者の協議に委ねられ,その解決が米・同盟軍にかかわる問題から完全に分離されていること,(V)休戦監視機構が完全であるとはいえないことなど。
しかし,(i)休戦監視機構がジュネーヴ協定に比して相当整備強化された,(ii)南越の政治的将来の決定に関する手続き的規定や両当事者協議機関を置いた,(iii)それに関連して民主的自由の保証に明示的に言及した,(iv)パリ協定成立をもたらす背景には,米中,米ソの間でヴィエトナム紛争を局地化することにつきコンセンサスがあったとみられる,(v)南北両越の力関係が均衡してきている,などの点でパリ協定は54年ジュネーヴ協定よりはるかに安定性を持つたものと考えられる。
その後ヴィエトナムに関するパリ国際会議(1973年2月26日~3月2日)が予定どおり開催されたほか,外国軍隊撤退(同3月23日韓国軍,同3月29日米軍が完了)および米軍捕虜釈放(73年3月29日完了)の面でも一応パリ協定によるスケジュールどおりの進捗をみ,四者合同軍事委員会も解散した(29日)。
しかし米軍撤退後形式面では,二者合同軍事委員会の設置(73年3月15日合意,同3月29日初会合),南越両当事者協議(73年3月19日初会合)等が行なわれてはいるものの,北越軍南下(同3月15目ニクソン大統領警告)を背景に南越における休戦違反が続いている。また,南越の政治的将来についての話し合いも実質的には進んでいない。
南越国民の間にすでに広く存在していた現状肯定的な雰囲気の中で,共産側大攻勢は,チュウ体制に批判的な空気を抑える効果を生んだ。加えて戦局の好転もあり,全権委任法修正案成立(72年6月28日)等チュウ政権は局面乗切りの自信を益々強めたようである。これらを背景にチュウ政権は米・北越間の72年10月合意を再交渉させることおよび休戦後の米国の支援継続取付けに成功した。
チュウ政権はまた政党規制法を公布し(72年12月27日),休戦後の政治闘争に備え政権基盤の強化拡大に努めている(チュウ大統領党首の民主党,73年3月29日発足)。なおパリ協定の予定する民族和解協議等に関するいわゆる第三勢力については,これといった動きはみられなかった。
ソン・ゴク・タン内閣は共和制の諸制度作りに努め,憲法草案についての国民投票(72年4月30日,賛成97%強),大統領選挙(同6月4日ロン・ノル大統領再選),国会議員選挙(同9月3日与党たる社会共和党全議席独占)等が行なわれた。しかし,(i)ロン・ノル大統領の得票(54.9%)が予想をかなり下回るものであったこと,(ii)議員選挙では選挙法に不明瞭な点があるとして民主(イン・タム派)・共和(シリク・マタク派)両党が不参加であったことなどの問題を残した。かわって登場したハン・トゥン・ハック内閣(72年10月15日成立)は,好転しない軍事情勢と深刻な経済問題を抱えつつも,和平問題については比較的楽観的な姿勢で臨んでいる。
パリ協定成立を契機に政府軍は共産軍攻撃を停止した(73年1月29)。しかし和平話合いの可能性はいぜん芽ばえず,一部兵士の給料支払い要求,教員スト,長期停電等の社会不安がみられる。この中でロン・ノル大統領官邸爆撃事件(73年3月17日)が起こり,これを理由に即日非常事態宣言が行なわれた(同3月21日)。
和平交渉は,パテト・ラオ側の5項目提案(70年3月6日)のあと具体的会談は行なわれず,書簡往復による接触が保たれていたにすぎなかったが,ヴィエトナム和平交渉の進展と相まって,72年10月17日には第1回の会談がヴィエンチャンで開かれた。元来ラオス問題の解決はヴィエトナム和平と密接に関連していた。そのためパリ協定が成立したのにともなって,73年2月に入り急進展をみせ,同月21日和平協定が調印された(1973年2月22日正午休戦発効)。
同協定では政府側の譲歩が目立つ半面,(i)現憲法体制を前提としてラオス内当事者で取決められたこと,(ii)パリ協定に比べ政治解決についてより現実的かつ具体的に規定されていることが注目される。しかし協定実施の面ではかなりの遅延がみられ,73年3月23日までに樹立されるべき暫定国民連合政府も期限内に合意をみなかった。
72年春の攻勢開始後「ヴィエトナム人民はヴィエトナムの場所を問わず米侵略者と戦う権利と義務を持っている」(72年4月11日政府声明)として,戦意昂揚に努めていた。また米・南越側の反撃が強化されるにおよんで「米軍機が堤防・ダム・産業施設に重大な損害を与えた」(72年6月10日外務省声明)と世界世論に訴える半面,全土を臨戦体制下において(72年6月11日政府布告)抗戦に努めた。この状況の中で武力による南越解放の困難性や米ソ・米中関係の進展にともなう中ソの対北越支援の限界についての認識(「溺れつつある強盗に浮き袋を与えるような」との中ソ非難を暗に含んだとみられる8月17日付党機関紙ニャンザン社説)等が生まれたもようでパリ協定成立の大きな原因となったとみられる。
パリ協定成立後は交通網,住宅,産業施設等の戦後復興に本格的な努力が行なわれている。機雷除去作業の完了には時日を要するもようであるが,73年3月中旬には3千トン級船舶のハイフォン港出入が可能になつた。また外交面では,パリ協定成立後カナダ,オーストラリア,ベネルックス諸国など北越承認に踏み切る国が増えてきている。
72年はヴィエトナム問題についても,「強い立場」を基礎としつつ「対決から対話へ」とのニクソン=キッシンジャー外交が華々しく展開された年であった。ヴィエトナムからの米軍撤兵も第8次,第9次,第10次の各計画どうり順調に進み,米国内政治に占めるヴィエトナム問題の重要性は相対的に低下してきていたといえる。この状況に立って北爆再開(72年4月6日),北越機雷封鎖(同5月8日),全面北爆再開(同12月18日)等の強硬措置に出る一方,訪中(72年2月)・訪ソ(同5月)外交を通じてヴィエトナム問題を局地化するとの米中ソ間には暗黙のコンセンサスを造り出すことに努めた。その結果,ヴィエトナム和平交渉を劇的な進展に導いた。パリ協定の成立(73年1月27日)により,ニクソン大統領が大統領侯補指名受諾演説(72年8月23日)で打出した,(i)米軍捕虜を見捨てない,(ii)南越に対する共産政権押付けは認めない, (iii)米国の名誉を傷つけない,との3点の公約は貫ぬかれたものといえよう。
パリ協定成立後,米国はインドシナ諸国の政治的安定と経済復興に力を注ぐとともに,在タイ基地や周辺海域にある程度の海空軍力を維持し休戦状況を見守っている。キッシンジャー補佐官のハノイ訪問(73年2月10日~13日),米・北越合同経済委員会の設置(3月15日初会合)など,米国の対北越新関係の設定は,北越に対する中ソの影響力を薄めるとともに,パリ協定の遂行を促進し,北越の関心を平和的な国内再建の方向に向わしめるためのものとみられる。
米国による「ヴィエトナム化」の動きに対応して,社会主義諸国の側からもヴィエトナム間題を局地化しようとする気運が表面化してきた。機雷封鎖・北爆強化の状況下でニクソン訪ソが予定どおり実現したことは,かかる傾向を端的に示すものであった。これに対する北越側の反発はポドゴルヌイ訪越(72年6月15日~18日)の際の必ずしも暖いとはいえない接遇振りにも表わされている。しかし,72年12月の米軍による北爆の際に相当数のB52が撃墜された事実は,ソ連が新型兵器の供与等で北越側の対ソ不信感解消に努めたことを示すものともいえる。
パリ協定成立後,ソ連は対北越支援の戦争終結への貢献ぶりを強調する(73年1月27日付プラウダ社説)とともに,ヴィエトナム和平を契機にアジア平和の恒久化に努めようとの趣旨のもとに,アジア集団安保に関するいわゆるブレジネフ構想を推進する傾向を強めている。
「ヴィエトナム問題は中国自身の台湾問題よりも緊急に解決を要する」(71年11月19日タイムス紙記者会見における周総理発言)との立場から北越支援に努めたが,その貢献度についてはソ連に比べきわめて謙虚な言及ぶりを示している(73年2月1日毛主席のレ・ドク・ト顧問会見)。しかし米軍による機雷封鎖により,ソ連の対北越援助の実施が困難を来たした結果,中国の対北越影響力が相対的に増大したことと,米中接近という国際情勢の変化が,ヴィエトナム和平実施のための重要な背景をなしていることは見逃せない。
中国の控え目な態度は民族解放闘争における自力更生を説く中国の原則から出たものともみられる。これに関連して中国がGRP支援に意を用いていることが注目される(72年12月27日~73年1月1日ビンGRP外相訪中時の接遇ぶり,1月28日人民日報社説等)。またカンボディアについては依然シハヌーク政権支持の姿勢を少くとも表面的には変えていない。