-朝鮮半島の情勢- |
国際的緊張緩和の傾向を背景として,南北朝鮮の自主的平和統一をめざす南北共同声明が発表された(72年7月4日)。また71年9月から開始された南北赤十字社間の対話は,約1カ年を経過した72年8月末には本会談に移行した。このように南北間の対話は紆余曲折を経ながらも,徐々に進行している。
国内情勢については,韓国は1972年10月17日特別宣言および非常戒厳令を布告して憲法改正を行ない,他方北朝鮮も憲法改正および党員証の書き換えを行なう等,南北双方とも国内体制固めを行なった。
1971年8月12日崔斗善大韓赤十字社総裁の提唱により,同年9月20日第1回南北赤十字予備会談が開始された。その後25回の予備会談と16回の実務者会談の計41回の会談を重ねた結果,72年8月30日に第1回南北赤十字会談が開催された(8月30日~9月2日,於平壤)。次いで第2回(72年9本月13日~16日,於ソウル),第3回(同10月24日~26日,於平壤),第4回(同11月22日~24日,於ソウル),第5回(73年3月21日~22日,於平壤)と本会談が開催された。
第1回および第2回本会談は儀礼的色彩が濃く,第3回本会談から実質討議に入った。しかし合意議題の第1項である離散家族および親戚の住所と生死を確認し通知する問題についてすら今のところ解決されず,実質的進展はみられていない。
韓国および北朝鮮政府は72年7月4日南北共同声明を同時発表した。同声明では,祖国の統一について,(i)外部の干渉を排除して自主的に解決し,(ii)武力行使によらず平和的な方法で実現し,(iii)思想,理念,制度の差異を超越して民族的団結をはかる,という原則で合意し,これら問題を解決するために南北調節委員会を設置することを唱っている。
その後この南北共同声明にもとづき第1回南北調節委員会共同委員長会議(韓国側共同委員長・李厚洛中央情報部長,北朝鮮側共同委員長・金英柱朝鮮労働党組織部長代理,朴成哲第二副首相)が3回開かれた結果,72年11月30日には南北調節委員会が正式に発足した。
この間南北間で合意された事項のうち注目される点は,次のとおりである。
(i) 11月11日O時を期して対南,対北放送と休戦ライン上での拡声機による対南,対北放送および相手方地域に対するビラ配布を止めること。
(ii)調節委員会の進展にしたがって,政治・軍事・外交・経済・文化の5つの分科会を設けることとなっていること等があげられよう。
しかし,73年に入ってから北朝鮮の報道機関等による対韓非難が激化してきた。しかも3月に入ってからは牛島スパイ事件(3月4日),非武装地帯内韓国軍人射殺事件(3月7日)等が発生した。このような情勢下で第2回南北調節委員会が開かれ,韓国側はまず経済・文化交流を実施することを主張し,北朝鮮側は軍縮,平和条約締結を主張したが,依然として双方の意見には大きな差異があった。
一方国連における朝鮮問題は,国際的緊張緩和の傾向,南北間の対話の開始,中国の国連参加等,従来と異なる種々の要素が加わって波乱含みとみられていた。しかし72年9月23日の第27回国連総会本会議において,第28回国連総会まで朝鮮問題の審議を延期することが,賛成70,反対35,棄権21をもって決定された。これで朝鮮問題は2年連続審議延期となった。
韓国の政情は,非常事態宣言(71年12月6日布告)下で比較的平静であったが,朴大統領は72年10月17日,南北の対話の進展に対処するための国内体制の改革が必要であるとの理由で,国会の解散と政党の政治活動の禁止を内容とする特別宣言を発表するとともに,非常戒厳令を布告した(72年12月13日,非常戒厳令は解除)。
引き続き72年10月27日には憲法改正案を発表したが,同改憲案は11月21日国民投票によって確定された(12月27日新憲法公布)。次いで統一主体国民会議代議員選挙が行なわれ(72年12月15日),第8代大統領に朴正煕前大統領を選出(12月23日,就任式は27日),朴大統領を中心とした国家体制固めが行なわれた。
対外政策については,日・米との緊密な協力関係の維持に努める一方,72年12月30日韓国政府は貿易取引法を改正し,共産圏諸国との貿易の道を開いた。また73年2月10日金溶植外務部長官が「韓国政府は非敵性共産国に対しても韓国の国家利益に寄与する場合,積極的に外交関係を樹立して行く方針である」と述べた。これは内政面では引締めを行ないつつも,対外面では新しい国際情勢に適応せんとする韓国の基本姿勢を示すものとして注目される。
経済面についてみると,1972年は第3次五カ年計画の初年度であった。韓国経済は過去2回の五カ年計画期間を通じ目覚ましい成長を記録したものの,国際収支の逆調,企業経営の悪化,物価上昇,農業部門の立遅れなどなお解決されるべき問題点も少なくない。第3次五カ年計画はこれらの問題点を克服し安定した基盤の上で成長をなしとげることを目指している。
1972年は輸出の大幅増加と輸入の抑制を通じ国際収支の著しい改善が見られた。また昨年は農村の意欲的な開発を意図する新しい村づくり運動(セマウル運動)が具体化された。さらに私債の凍結,物価や為替レートの安定を主たる内容とする大統領緊急命令が発動された(72年8月)ことも注目された。
北朝鮮は1972年4月15日金日成首相還暦祝賀行事を盛大に催したが,これは変化する国際情勢のもとで北朝鮮が金日成首相に対する個人崇拝的傾向を強めるものとして注目された。
引き続き4月20日の朝鮮人民革命軍建軍40周年祝賀式典は中国,ソ連等30カ(国組織団体を含む)の軍事代表団の参加のもとに盛大に行なわれた。
同年10月23日から26日の間開催された労働党中央委員会第五期第五回総会において,北朝鮮は憲法改正および党員証の書き換えを行なうことを決定した。次いで同年12月28日には新憲法を公布したが,その特色は,(i)国家主席制を新設し,金日成前首相が就任したこと,(ii)中央人民委員会を新設して党と国家機構の一体化を図ったこと,(iii)首都をソウルから平壌に変更したこと,などである。
対外政策については,中国,ソ連に対してともに自主独立路線を堅持し,中ソ双方との緊密な関係を維持することに努めた。また諸外国との国交樹立にも努めた結果,72年4月以降ルワンダ,ウカンダ等13カ国との国交樹立に成功した。
73年3月末日現在における北朝鮮との国交樹立国数は49カ国である。なお韓国との国交樹立国数は,73年3月末日現在86カ国である。
経済面については北朝鮮は1972年は三大技術革命を標榜する経済六カ年計画の2年目であった。従来のような主体思想あるいは共産圏諸国を主体とした経済交流では目標達成が困難な状況にあるともみられ,わが国を始め英国,フランス,西独等自由圏諸国との間にも経済・技術交流を促進する動きを示した。