-中国大陸の情勢- |
72年は中華人民共和国にとり外交面で実り多い年であった。ニクソン訪中を受け入れて対米関係を改善したことは,その最大の成果である。また日本,西独を含む15カ国(1972年4月から73年3月まで)と国交を樹立し,国際社会における発言力を強化した。国連における活動も定着しつつある。他方72年10月1日の国慶節社説が当面の主たる敵がソ連であると解釈しうる表現を用いて対ソ非難を行つたことは,公式論評としては初めてのことであり注目された。
内政面では,政局安定と民心の安定のために,現実的な政策が展開され,一種の“雪融け"現象ともいうべき落着きとゆとりを取りもどしつつある。また71年に引き続き,文化大革命で生じたひずみの是正や国内体制の正常化がはかられた。その過程で,非公式にではあるが,7月には「林彪事件」の確認がなされた。ただし懸案の第4期全国人民代表大会は,73年3月末までには開催されなかった。
経済面では,第4次五カ年計画が第2年目を終わり,一般に好調であった。しかし農業は近来まれなひどい天候不良の影響を受け,食糧,棉花が減収となった。
72年においても前年に引続き,「批修整風」(修正主義を批判し,作風を刷新する),「思想・政治路線面の教育」および「党の基本路線」に関連する運動などが行なわれた。これらの運動は,「劉少奇の類のペテン師」(林彪を指す)の罪状を暴露し,批判することに主眼をおくとともに,文化大革命が残した思想・政治・経済面のひずみを是正すると同時に党の「一元化指導」を実現することに主な狙いがあったと解される。
文革以来最大の政治事件である林彪事件については,すでに1年以上を経過したにもかかわらず,現在まで公式には名指しでの批判はみられない。しかし,明らかに林彪を指すような事項についての批判論文が党の機関紙である「人民日報」や党の理論誌「紅旗」などにしばしば掲載されている。たとえば「紅旗」8号に掲載された論文は,1947年の遼寧戦役にさかのぼり,林彪が毛主席に反対していたと批判している。また党中央が林彪批判の資料として「反毛沢東クーデター計画」,「反革命の罪状」など数種の機密文書を下部に回付していたといわれ,それらの文書の内容なるものが外国通信社から報道された。さらに7月下旬には中国政府の要人や在外公館から非公式の形式ではあったが,林彪事件の概要と林彪の死亡を確認する発表が行なわれた。
これによると,林彪副主席は71年9月12日クーデターに失敗して,専用機でソ連に逃亡の途中,モンゴル上空で墜落し,夫人の葉群,息子の林立果とともに死亡したという。
中国の最高指導部は,文革後の1969年に開かれた九期一中全会で選出された党中央政治局(委員および候補委員25名)であるが,その後病死者や陳伯達,林彪らの失脚者などが出て,実際に活動しているものは10数名に過ぎなくなっている。しかし現在までこの欠員補充は行なわれていない。
過去1年間の各種報道に現われた要人の顔振れを綜合的にみると,現在の中国の最高指導グループは,ほぼ次のような人々ではないかとみられており,このグループが最高政策の決定に重要な役割を果しているもようである。(◎印は政治局委員および同候補委員,※印は軍人)
◎毛沢東・◎董必武, ◎※朱徳,◎周恩来,◎康生,◎江青,◎※葉剣英,◎張春橋,◎姚文元,◎※劉伯承,◎李先念,◎※許世友,◎※陳錫聯,◎紀登奎, ◎※李徳生, ◎汪東興,※徐向前,※聶栄臻,郭沫若,王洪文,華国鋒,姫鵬飛,陳雲,李富春,呉徳,耿飆
これらの人々のうち朱徳,陳雲,李富春などの元老は,かつていったん第1線から退いていたが最近再び重用されはじめたものであり,王洪文,華国鋒らは新人の抜擢起用といえる。
また最近の中国指導部の中では,文化大革命の時期に批判され,一時政治活動から遠のいていた党・政・軍関係幹部の重要ポストヘの再起用も目立つ。旧幹部の再起用は70年秋の二中全会以後のことであるが,とくに72年4月24日の「人民日報」社説が文革で批判された旧幹部の救済(再起用)を呼びかけてからは,この傾向が目立って多くなった。
これらのなかには,元共産主義青年団の第一書記胡耀邦,元新華社社長呉冷西,元武漢軍区司令官で1967年夏の武漢事件の責任者といわれた陳再道,元北京部隊司令官の楊勇,元国防委員会委員の李達なども含まれている。
一方,行政機構の中心である国務院は,文化大革命以来,機構の簡素化と人員の少数精鋭化をモットーに整理統合が進められてきた。この動きは1972年においてかなり進捗したとみられ,公安部長,水利電力部長,国家計画委員会主任などの重要な部門の部長(大臣)の氏名も判明した。しかし存在が確認されている部・委員会などの中でも,なお部長の氏名が明らかにされないものとしては国防部,財政部などがある。
また九全大会以来の懸案である党組織の再建は,まだ完全には終っていないもようである。73年に入ってから,ハルピン市党委員会の成立などの報道があったが,地方の各級党組織の中にはその機能をまだ十分発揮するに至ってないものがかなりあるものとみられる。その他の重要組織である労働組合,共産主義青年団,紅衛兵,農民,婦人などの諸組織再建については,73年の課題となっているが,ただし共産主義青年団については72年暮れごろから再建の動きが活発となり,第一級行政区である省市,自治区の委員会も,上海市を皮切りに,遼寧省にも成立した。このほか山東,湖北,甘粛,吉林,内蒙,黒龍江,新江などの省,区でも73年の4月から5月にかけて省・区の代表大会を開いて委員会を設立することを決定している。
政治・経済・文化などの面においては,現実的な柔軟路線がとられ,経済の安定成長と一般民衆の生活向上をはかるための諸施策が逐次実施された。その間,文化大革命の過程で一般民衆に課された日常生活における厳しい制限も漸次緩和され,「人民日報」(4月5日)は,サービス業の改善を要求し,衣類,髪型,料理などの多様化を提唱した。
文革後発売中止となっていた古典,専門学術書などのうちの一部が復刊発売され,若干の新しい文学書が発売されたことも,72年になってからの目立った動きである。この中には西遊記,三国演義,紅楼夢,水滸伝なども含まれている。新作劇の発表,積極的な創作活動の奨励なども行なわれた。とくに毛主席の「文芸講話」30周年を記念する三紙誌共同社説(1972年5月23日)が今後の文芸活動について,「勇敢に社会主義の新しさを創造し,誤りを犯すことを許し,また誤りを改めることを許さなげればならぬ……」と述べたことは注目される。
スポーツ活動も活発に行なわれ,陸上競技,五種の球技,体操,水泳など各スポーツ部門の全国大会が開催された。これは毛主席の体育奨励題字発表20周年(1972年)を記念する意味もあったとみられる。
73年1月,パキスタン航空のカラコルム越え北京乗入れ,同2月エティオピヤ航空による南廻り上海乗入れの2定期便が開設された。前者は非共産国による最初の北京乗入れであり,後者は中国とアフリカを結ぶ航路として注目される。
また3月,北京で開かれた英国の産業技術展は,幾多西欧先進国が北京で開催したこの種展覧会の中では最大規模のもので,その機会にロンドン・フィル公演が行なわれたが,中国にとっては建国以来初の西欧第一流交響楽団の演奏であった。
恒例の人民日報などの元旦共同社説は,中国の対内外動向を示唆するものとして重要視されるが,73年元旦の社説は,例年と趣を異にし政治・経済・外交の順に書かれ,しかも内政関係がその大半を占めるなど,内政指向型であった。
この社説が,新しい毛主席の指示である「深く地下道を掘り,至るところに食料を貯え,覇権を求めない」を引用していることは,当面の中国の重要課題が,戦備強化,農業重視,「反超大国」外交であることを示唆しているといえよう。
また新しい年の方針として,「修正主義批判と整風」なかんずく「修正主義批判」を最優先的に行なうようよびかけた。その鉾先は「劉少奇の類のペテン師」に向けようとのべ,名指しではないが,林彪の罪状をかなり具体的に挙げていることが注目される。
経済面では従来と異った政策は打出されていないが力点は農業におかれていた。このほか社説は党の政・軍などに対する一元的指導と「団結」を強調していた。しかしここで過去2年毎年言及されていた全国人民代表大会に付ては今回は言及されなかった。
別の観点からもう一つ注目されることは,中国の台湾に対する統一呼びかけが強まっていることである。73年2月28日,中国人民政治協商会議全国委員会の主催で,「2・28」事件記念座談会が北京で開催されたが,その席で傅作義同全国委副主席らは,台湾省民に対して「祖国統一」の呼び掛けを行なった。その中で傅副主席は「今はまさに祖国統一の絶好の時機である。みんな一緒に話し合おう」と述べた。
また孫文逝去48周年記念日(73年3月12日)にも同様な呼掛けが行なわれた。
経済政策の基本ラインに目立った変化はなく,引き続き・現実的・合理的な政策が進められ,文革時に生じた行き過ぎの除去が行なわれた。たとえば人民公社における生産隊の自主性尊重・自留地存続・適正な分配などが強調され,技術尊重,生産競争も実施された。
生産面では,工業は比較的好調であったが,農業は天候不良のため食糧,棉花が減産となり,総生産額の伸びは数%に止ったと推定されている。
主要品目の生産高は,食糧は2億4,000万トン(前年比4%減),鋼は2,300万トン(前年比9.5%増)と発表された。
一方貿易は輸出が大幅に増加したのに対し,輸入は頭打ちであったとみられ,貿易総額は71年レートで52億~54億米ドル,前年比10数%の増とみられている。
72年の中国外交は,ニクソン訪中の実現,わが国との国交正常化,西欧諸国との関係改善,さらには第三世界諸国との協調にみられるように,きわめて活発かつ柔軟であった。
まず72年度中には日本,メキシコをはじめ15カ国と国交正常化を行ない,これによって中国承認国は90カ国となった。また中国の招待外交もきわめて活発で,72年中に国家元首,政府首脳を含む180余の各国政府代表団が訪中しており,他方中国側からも150余の政府,経済,スポーツ代表団が世界各国を訪問している。
このような中国の外交活動は,中国の国際的地位の向上を背景として,多極化した現国際勢下において,米ソに対する闘争姿勢を堅持しつつ,第三世界に属する中小国家群との連帯を強化し,両大国に対抗せんとする外交戦略にもとづくものであったといえよう。しかしこの対抗姿勢は72年中において若干変化をみせた。米国に対する闘争姿勢を軟化させた半面,ソ連を米帝国主義に代る主要敵であるとの態度を示した。またわが国ならびに西欧諸国など西側先進国に対する積極的な外交姿勢も注目された。他方,ソ連以外の社会主義諸国との連帯強化については,北朝鮮,北越を除いては具体的な進歩はみられなかった。
1971年のピンポン外交に端を発した中国の対米政策はニクソン訪中の実現によって実質的な転換をとげ,両国の政府間関係は進展した。パリ大使会談,キッシンジャー補佐官の2回にわたる訪中もあって第2の米中共同声明が発表され,外交特権を持つた連絡事務所を相互に設置することとなった。
さらに経済,文化,人的交流の面で顕著な進展がみられた。米国からは科学者,医師,中国研究者,政治家,ジャーナリスト等の訪中が活発となっている。中国側からも卓球代表団,科学者代表団,曲芸代表団等数団体が訪米している。
しかし国連においては米ソ両超大国に対する非難を続け,またヴィエトナム支援活動にみられるように,対米非難のトーンは軟化しながらも,反米闘争の姿勢は依然堅持している。
対ソ関係では国境交渉の難航,国境地帯における緊張の継続が伝えられている。さらに対中攻勢を念頭においたとみられるソ連のアジア外交の展開など,関係改善の徴候がみられなかった。
米中関係の新展開はソ連に大きなインパクトを与えており,ソ連は中国に対して厳しい姿勢を変えていない。とくにソ連はアジア集団安保,マラッカ海峡問題に関する提唱等,従来中国外交が手薄であった東南アジア諸国に対する働らきかけを活発化しているが,これに対し中国は,対米関係の調整,日本およびEC諸国との関係改善によりソ連からの脅威をある程度減殺することをはかっている。また国連等を主たる舞台に厳しい対ソ非難を行ない,あわせて第三世界諸国との提携を強化しようという動きを示している。
中国はソ連に対する対抗勢力としてのECの意義を高く評価すると同時に,自らの経済的利益の観点からも欧州諸国との関係改善に大きな力を注いだ。
対英関係では,72年3月の英中大使昇格交渉の妥結にはじまり,ヒューム外相の訪中,喬冠華次官,白相国対外貿易相の訪英,英中経済関係の顕著な発展等にみられるように大幅な改善をみせた。
また西独とはシェール外相の訪中の結果,両国間の国交関係を樹立させた(10月)。
フランスとの関係もシューマン外相訪中にみられるように,ドゴール以来の伝統的な友好関係が維持されている。
このほかマルタ首相の訪中招待など中小国に対する働らきかけも活発である。
中国の対アジア,大洋州外交も活発である。まず中国のインドシナ3国左派勢力に対する支援は従来どおり活発に継続されている。ただその中で印パ紛争直後における北越・インド間の大使交換決定,北越のバングラデシュ承認など,中国の路線と相反する政策を北越がとったことは注目された。
また北朝鮮については,70年の周恩来訪鮮にはじまる中朝間の関係改善の動きが引き続き顕著である。南北鮮統一会談,UNCURKの解体など北鮮の主張を全面的に支持しているほか,陳錫聯を団長とする軍事代表団,外相就任以来初の外国訪問である姫鵬飛の訪鮮等にみられるように両国間の関係は大幅に改善されつつある。
これに比ベフィリピン,タイ,マレイシア等ASEAN諸国に対しては中国はこれまでのところは慎重に対処している。これら諸国からのスポーツ,経済等各種団体の訪中招請にみられるように,ASEAN諸国との関係正常化を打診する動きが漸次顕著となりつつある状況である。こうした動きを反映して,これまで積極的に支援していた反政府ゲリラ活動に対しても,これを大々的に評価することを控えるとともに,これらの諸国の政府に対する非難の調子を落している。
一方豪州,ニュー・ジーランド両国は,昨年末の労働党政権の誕生により,いち早く中国との国交正常化に踏み切った。
さらに一昨年の印パ紛争以来,一層冷却化した中印関係については,印パ両国間の交渉等を反映して徐々に緩和される動きを示している。
中国は一昨年の国連加盟以降,超大国にならないと宣言し,次いで自らをいわゆる第三世界に属するとして,第三世界諸国との提携を強化することをおもな外交方針としている。
モーリシャス,スリ・ランカ,ネパール,ギニア等諸国首脳の招待外交,さらにはメキシコ等12カ国との国交正常化にみられるように,対第三世界外交はかなりの成果をあげた。他方,国連においても超大国に対する第三世界諸国擁護の立場から,これら諸国との協調に努めた。