-中近東・アフリカの情勢-

 

第13節 中近東・アフリカの情勢

 

 

1. 中  近  東

 

 (1) アラブ・イスラエル関係

1972年の中東情勢は,中東戦争後5年間の停戦状態が継続したものの,アラブゲリラの過激な行動,シリア,レバノンに対するイスラエルの頻繁な軍事行動などがあり,いぜんとして緊張が続いた。この間,(i)ソ埃関係の冷却化,(ii)エジプト国内情勢の流動化,(iii)ソ連のイラク,シリア,トルコ等への援助強化などの動きがみられた。

アラブ・イスラエル紛争については,和平の具体的進展の兆候はみられなかった。その理由としては,次の諸点があげられる。

(i) 両当事者間の主張が大きくかけ離れたままであること。

(ii) アラブ陣営内における利害関係が複雑であり,和平に対する共同歩調をとれなかったこと。

(iii) 米国としても大統領選挙の関係上,和平に関する積極的なイニシアティブをとれなかったし,米外交の重点もヴィエトナム間題処理におかれたこと。

(iv) ソ連としても,戦争でも平和でもない状態にとくに痛痒を感じていないことに加えて,農業不振など内政上の課題があって,中東の現情勢を変更する強い動機を持たなかったこと。

(v) イスラエルの軍事的な優位に変更がなく,アラブ側としては武力で問題を解決する立場になかったこと。

 (2) ソ連および米国の動き

コスイギン首相のイラク訪問(72年4月6日~10日)とソ連・イラク友好協力条約調印,ポドゴルヌイ議長のトルコ訪問(同4月11日~17日)など,ソ連は南側隣接諸国との関係緊密化の動きをみせはじめた。このような動きは,その直後のサダト・エジプト大統領のソ連訪問(72年4月27日~29日)にもかかわらず,従来のソ連のエジプト中心の中東政策とは若干異なるものとして注目された。その後のソ埃関係の冷却化もあって,バクル・イラク大統領のソ連公式訪問(同9月)によるソ連・イラク両国の経済・軍事両面における関係の緊密化や,シリアに対するソ連の接近の動きが目立った。ソ連としてはエジプトにおける外交的退潮の影響をも考慮しつつ,中東に対する影響力拡大に引き続き努力していくものとみられる。

他方米国としては,1972年の外交の重点は対ソ・対中関係,ヴィエトナム問題に置いていたといえる。中東においては,北イエーメン・スーダンとの外交関係再開(72年7月),イラクとの利益代表部の相互設置(同8月)など,米・アラブ関係の若干の進展はあったものの,とくに具体的な成果に結びつくものはなかった。

 (3) ソ連・エジプト関係の冷却化

1972年7月18日,サダト大統領はエジプト駐在ソ連軍事顧問団および専門家の引き揚げを発表した。この決定は,武器援助をめぐるソ埃両国の確執を直接の契機としたものである。その背景は,(i)中東情勢の行詰りなどにもとづくエジプト国民の不満,(ii)とくに軍部に反ソ感情があるため,サダト大統領としても対ソ強硬態度を示して,国民感情に対処する必要があったためとみられる。

これによるソ連軍事要員の引揚げの規模は,約15,000~20,000人程度といわれ,約1,000名程度の要員が帰留しただけといわれる。

しかしエジプトとしては,ソ埃関係の冷却化にともない,国際政治上の立場が自己に有利になることもなく,むしろ軍事・経済両面のソ連の援助をいぜんとして必要とする状況が続いた。このためシドキ首相(72年10月),イスマイル顧問(1973年2月)のソ連訪問などを通じて,ソ連との関係の再調整に努めた。その結果,72年7月以前の状態とは比較にならないものの,ソ埃関係は一応正常の関係に復しつつある。

なお1973年3月,ザイヤード・エジプト外相が中国を訪問したが,これとほぼ時を同じくして,ソ連・イズベスチヤ紙はバイカル・アルアハラム紙主幹に対し名差しの非難を行なった。この時期のエジプト外相の訪中もソ連紙の非難も,ソ埃関係の状況をもの語るものといえよう。

 (4) 軍事情勢

1972年4月以降の中近東における軍事情勢として,次のような諸点が注目された。

(イ) アラブゲリラの過激な行動に対し,イスラエルが報復軍事行動を行なった。72年5月30日のテル・アビブ空港事件後,イスラエル軍はレバノン・シリア領内のアラブゲリラ基地を攻撃した。また同年9月5日のミュンヘン事件を契機にイスラエル空軍はレバノン・シリア領を爆撃し,さらにイスラエル軍はレバノン南部に進攻した。

(ロ) レバノン領内におけるゲリラ規制の強化などのため,アラブゲリラが一般に弱体化しつつある。しかしそのためかえって,「黒い9月」など過激分子の過激な行動を惹起している。

(イ) イスラエルに対するシリアの応戦ぶりが,他国に比し激烈である。

また1973年に入り,アジアにおいてヴィエトナム和平協定が成立し,中東和平への国際的関心が高まった中で,2月21日イスラエル軍による北レバノンの難民キャンプ奇襲事件およびイスラエル空軍機によるリビア民間機撃墜事件が同時に発生した。アラブ側,とくにリビアが報復的な行動に出ることが懸念され,緊張が高まったが,エジプト・リビアが行動面では慎重であったこと,米国を含む国際世論がイスラエルに批判的であったことから,これらを契機とする軍事衝突は回避された。さらにその後,過激派ゲリラ,ブラックセプテンバーによるカルツーム事件(73年3月1~4日,駐スーダン米国大使ら3名を殺害)が発生した結果,かえってアラブ陣営内部での複雑な関係が表面化したが,こうした一連の事件を契機としたアラブ・イスラエル間の全面的軍事緊張の高まりは一応遠のいている。

 (5) 中東問題をめぐる外交の活発化

1973年に入ったヴィエトナム和平協定の成立にともない,米国の中東問題に関する積極的な外交イニシアティブヘの期待が高まりつつある。こうした中で紛争当事国の要人の米国およびソ連訪問などが相次いで行なわれた(イスマイル・エジプト大統領顧問のソ連,英国,米国訪問,イスマイル・エジプト国防相の訪ソ,フセイン・ジョルダン国王およびメイヤー・イスラエル首相の米国訪問)。

これらは,直接的には来るべき米ソ首脳会談を控えてアラブ,イスラエル双方とも米ソ両国に自己の立場を再確認しておくことをねらったものとみられる。これに対し米ソ双方とも,現段階では当事者の主張を聴取して,将来にオプションを開いておくとの態度にとどまっていたがこうした往来は,基本的には中東問題の解決をめぐる外交活動の活発化への素地づくりに役立つものといえよう。

 (6) 石 油 問 題

(イ) 産油国の経営参加

1972年の,中近東産油国を中心とする石油問題の動きは,前年にも増して活発であり,従来の世界の石油をめぐる環境は大きな変革をとげることとなった。

1972年2月,サウディ・アラビアのヤマニ石油相がアラビア(ペルシャ)湾岸の6つの産油国(イラン,イラク,クウェイト,アブ・ダビ,ーカタール,サウディ・アラビア)を代表して国際石油資本との間で開始した事業参加交渉は,途中イランが交渉から離脱したものの,1973年1月リアド協定として妥結した。従来,産油国は自国内で操業する国際石油会社からのロイヤリティおよび所得税の形で収入を得ていたが,リアド協定はこれを改め,実際に産油国も石油会社の経営に参加しようというもので,今回は石油開発への参加だけで,その流通,販売への参加は除外されている。ヤマニ石油相の言葉を借りれば,産油国と国際石油資本との回教式カトリック結婚(産油国が過半数の51%をとるという意味で回教式,離婚を許さないという意味でカトリック結婚と述べたものと解される)ということだが,リアド協定の主要点は,次の3点である。

(a) 1973年25%参加,76年までそのままで77年から毎年5%ずつ参加率を増し,82年に51%とする。

(b) 産油国から石油会社への補償は,投資の時点から現在までの物価上昇を考慮した帳簿価格で行なう。

(c) 参加によって産油国が自ら販売し得る原油(参加比率と同じ)の一定割合(年とともに減ずるが)を国際石油会社に売り戻し,これを通じて販売することとする(この売り戻し価格については,各国別に油種に応じて決める)。

(ロ) 石油供給体系の変化

リアド協定のもつ意味は,従来世界の石油供給の直接の担い手としての役を一手に引き受けてきた国際石油資本のほかに,産油国政府が石油の直接供給者として登場したことで,世界の石油供給体系は大きく変革を迫られている。これによって世界の確認埋蔵量の1/4をしめるサウディ・アラビア,現在日産500万バーレルを越え,中東ではサウディ・アラビアにつぐ大産油国であるイランおよびクウェイト,アブ・ダビ等と,石油消費の80数%を中東原油に依存するわが国との関係は,従来にも増して重要となったといえよう。

このほかイラクは,ほとんど国有化を終え国際石油会社はBPC(バスラ石油KK)を残すのみとなついる。

また北アフリカのアルジェリア,リビア等の産油国は,アラビア(ペルシャ)湾岸産油国とは別個に事業参加をすすめており,アルジェリアはすでに1971年フランスの石油利権を51%国有化し,現在全生産量の約80%を自身で販売している。リビアは1971年,BPを国有化し,その後イタリアのENIと50対50の協定を結び,さらに同国で最大の生産を行なっているオアシスグループに対し,却時50%参加の要求をつきつけ,現在交渉中である。

 

2. ア フ リ カ

 

 (1) アフリカナイゼーションの進展

アフリカ諸国は,少数の一次産品に依存することから生ずる経済困難をかかえ,先進国との経済格差がむしろ広まりつつある。その中で旧英領諸国を中心に,経済を外国人でなく,アフリカ人自身の手で発展せしめようという,いわゆるアフリカナイゼーションの動きが進んでいる。

すなわち,ウガンダの非ウガンダ国籍アジア人追放令(1972年8月),ナイジェリアの同国人企業振興法(1972年2月),ガーナ政府の金とダイヤモンド鉱業への参加布告(1972年12月)などがそれである。程度に差があるものの,いずれもアフリカ資本の企業参加,アフリカ人の雇用指定,特定経済分野のアフリカ人への留保の3つの方法のいずれか,またはすべてが適用される。この動きの成否は,アフリカ側の資本不足,人材不足がいかに解決されるかに大きく依存していると思われる。

旧仏領諸国でも,経済のアフリカナイゼーションの動きはあるが,旧英領諸国におけるほど顕著ではない。しかし別の内容を持つアフリカナイゼーションが進められている。すなわち,旧仏領諸国は独立以来,フランスとの諸協力協定で通貨,財政,文化等広範囲にわたって密接な協力関係を保ってきたが,近年マダガスカル,モーリタニア,コンゴー,ニジェール等がかかる関係を改訂して対仏依存を少なくしようとしており,関係国間で交渉が行なわれている。

旧ベルギー領の独立国ザイールのモブツ大統領は,1971年10月国名をコンゴーからザイールに改名したのを機に,「真正性追求」の運動を一層強力に展開している。地名,人名をアフリカ名に変更するほか,1973年1月には一般商業活動のアフリカナイゼーションを決定した。

アフリカ全般に及ぶ以上のような動きが,下記(2)の内政問題に結果的にいかなる影響をもたらすか注目される。

 (2) アフリカ各国の内政の動き

1972年には1月13日にガーナ,5月25日にマダガスカル,10月26日にダホメで政変が起り,いずれにおいても文民政権に代わって軍事政権が登場した。このほか,2月にコンゴー,3月にシエラ・レオーネ,4月にブルンディでクーデター未遂事件が起きた。またそうした事件のなかった諸国においても部族対立や,経済困難からくる失業,インフレ等の問題をかかえる国が多く,内政の安定は引き続きアフリカ諸国にとって最大の課題の一つである。

この課題解決のため,各国政府は部族間の融和,経済開発に努めているが,アフリカ諸国の多数の国がとるにいたった一党制,または軍事政権による独裁体制の確立は,部族対立から生ずる問題に対する対処方法の一つとも思われ,また上記(1)のアフリカナイゼーションは部族意識を超えた国民意識を譲成する試みでもあるかと思われる。

 (3) アフリカ諸国間関係

1972年にはウカンダヘの武力侵攻事件(9月)から生じたウガンダ,タンザニア紛争,および赤道ギニア,ガボン国境紛争があったが,いずれもアフリカ統一機構および近隣諸国の伸介で一応の収拾をみた。またザイール,コンゴー間,ギニア,セネガル間の関係が好転した。

アフリカ諸国間の協力の必要性は,独立以来指摘されているところであるが,近年西アフリカでは地域協力の再編成の動きが活発であり,セネガル,象牙海岸を中心とするものと,ナイジェリアを中心とするものとがある。さらにザイールのモブツ大統領も近隣諸国との新な関係の発展を求めて訪問外交を展開している。

 (4) 外部諸国との関係

文革の終了,国連への参加によって国際場裡へ再登場した中国は,その援助外交の重点をアフリカに置いていると見受けられる。1972年11月にはナイジェリアと経済技術協力協定を締結し,1973年1月にはザイールと同様の協定を締結,1億ドルの借款供与を行なったほか,他のブラックアフリカ諸国にも好条件の借款,地道な技術協力を提供している。こうした中国の援助外交は,中国のゆき方がアフリカ人の関心を引いていることとも相まって,今後アフリカにおける中国の影響力増大をうながす要因になるとも思われる。しかし中国は,過去の経験から政治工作を活発化するようなことは,当分ないとみられる。

一方,米国,ソ連も,アフリカに対しても多大の関心を有しており,今後ともかなりのレベルの援助外交を続けていくものと思われる。旧宗主国のうちフランスは上記(1)のような交渉を行なっているが,永年の間につちかった経済社会全般にわたる緊密な関係が簡単に崩れ去るようなことはないであろう。

こうした列国の対アフリカ政策に対して,アフリカ諸国の多くは,非同盟中立の原則のもとにいかなる国からの援助も歓迎する半面,援助受け入れについていずれの国にも片寄ることがないよう配慮することによって,独立性を維持しようとしている。

 (5) 民族解放運動

ポルトガル領ギニア,モザンビク,アンゴラにおける民族解放運動は,最近激しさを増していると伝えられている。とくにポ領ギニアでは独立宣言も間近いとされていたところ,同地域の解放運動指導者カブラルの暗殺(1973年1月)という事件が起り,成りゆきが注目される。

南ローデシア問題については,いわゆる「解決提案」が1972年5月のピアス報告によって住民全体にとって受け入れられない旨が明らかにされ,解決への道が中断された。こうした中で南ローデシアはザンビアを拠点とする民族解放運動のゲリラ活動が激化したとの理由で,1973年1月ザンビアとの国境を閉鎖した(ただし,ザンビアの銅輸出の南ローデシア経由の輸送は例外とされていた)。これに対しザンビアは,報復措置として南ローデシア経由銅輸送を禁止したので両者間の緊張が一段と高まった。その後南ローデシアは国境再開の意思を明らかにしたが,ザンビアは閉鎖を続けるとともに,従来南ローデシアを経由していた輸送を他のルート(とくにタンザニア経由のルート)にふり向けるべく,それに必要な経費について各国に援助を要請している。ザンビアのこのような対決姿勢が,この地域の状勢にいかなる進展をもたらすかは,南部アフリカ民族解放運動の今後の成り行きにも多大の影響を及ぼすものであり,注目される。

 (6) 南アフリカの人種差別問題

南アフリカにおける人種差別政策は,いまやバンツースタン政策(バンツーは黒人を,スタンは国家を意味する。すなわち黒人を8つの別個の民族(Nation)と想定し,これら民族を全国土の七分の一を占める地域で民族ごとに国家を建設させようとする政策)の推進に至っている。これに対してブラックアフリカ諸国のうち,従来「対話政策」(南ア政府との話し合いを通じて徐々に人種差別を解消せしめようとする政策)に同調していたガーナとマダガスカルは,政変を機に強硬派に転じ,南部アフリカ問題全般についてもアフリカ統一機構は全体として強硬派にまとまりつつある。

 

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