-欧州の情勢- |
過去1年の欧州の東西関係を特徴づけるものとして,欧州の現状を大前提とした東西間の対話がますます具体化したことがあげられる。これを示す主要な出来事には,(i)米ソ首脳会談(72年5月),(ii)独ソ,独ポーランド条約および四大国ベルリン協定の発効(同6月),(iii)両独間基本条約の調印(同12月),(iv)欧州安全保障協力会議(CSCE)準備会議の開始(同11月),(v)相互均衡兵力削減(MBFR)交渉予備協議の開始(73年1月)等がある。
ともかく長い間欧州の東西関係改善の第一の障害となっていたドイツ・ベルリン問題の調整がひとまず落着したので,今後東西欧州間では主としてCSCE本会議,MBFR本交渉を中心とする多角的接触が進められるものと予想される。また2国間の協力関係もさらに促進されることとなろう。
両独間一般交通条約が調印され(72年5月),ベルリン四大国協定およびベルリン協定細目取極が発効した(同6月)後,バール・コール東西両独代表間において懸案の両独国家間の基本関係を規定する条約に関する意見交換が開始された(6月)。その後72年8月から開始された8回の公式交渉を終え,同年11月,両独基本条約が仮調印された(本調印は72年12月)。本条約は両独国家間の基本関係を規整するもので,ドイツ問題の一応の調整をなすものである。この結果東独と外交関係を樹立する国が相次いでおり,73年秋には両独の国連加盟が予定されている。
欧州安全保障協力会議準備会議は,米国,カナダおよび欧州諸国の総数34カ国が参加して72年11月22日からヘルシンキで開かれた。ほとんどの欧州諸国および米,加両国が一堂に会したことは,戦後初めてのことで,その意義は大きく,成り行きが大いに注目された。
準備会議の目的は,73年6月に予定されている本会議の議事手続きおよび議題を決定することにあった。議題としては,(i)安全保障,(ii)経済交流,(iii)人および思想の交流,(iv)常設機関の設置の4点にしぼられつつあり,議事手続きについて東西間で調整が進められている。本会議は73年中に開催される見通しが強い。
欧州の緊張緩和の進展にとって,その実質的側面ともみられる相互均衡兵力削減交渉の予備協議は,東側がなかなか態度を明らかにせず,かつ開始間近かになっても開催地問題で若干もめるなど,さまざまの曲折を経た後,1973年1月31日ウィーンで開始された。しかし開始早々,討議の参加国,削減の対象地域等の問題で東西が対立,73年3月現在全体会議開催にはいたっていない。この交渉は関係国の利害関係が複雑であり,かつ高度に技術的な問題でもあるので,SALT交渉にも匹敵する長期交渉となることが予想される。
1972年におけるソ連の内政上の主要課題は,(a)相変らず不振を続ける農業および工業の立直し,(b)党員証書換えを軸とする党内規律の引締め,(c)諸民族の融和および愛国心の昂揚,(d)イデオロギーの引締めと反体制分子の排除,などである。これらの課題の遂行状況は次のとおりであつた。
農業および工業の立直しについては,まづ農業生産は異常天候のためもあって,ブレジネフ書記長による穀倉地幇督励にもかかわらず,惨たんたるものであった。穀物収獲の実績が,計画の約85%にしか達せず,米国などから2,800万トン以上にのぼる穀物(トウモロコシ,大豆その他飼料用穀物を含む)の大量買付けを行なわざるをえなかったほどである。72年末の最高会議が73年の農業生産目標として,きわめて高い数字を決定したことは,農業生産の立直しに対するソ連指導部の並々ならぬ意欲をもの語っている。
工業生産についても最新技術の導入政策にもかかわらず,72年計画は未達成となり,第9次五カ年計画の遂行が危ぶまれている。
党員規律の引締めについては,党員証書換えを通じてかなりの程度の成功を収めているもようである。
ソ連邦内の諸民族友好については,ソ連邦結成50周年式典においてブレジネフ書記長が強調しているように,かなりの成果を達成しているものとみられる。しかしグルジア共和国においてトビリシ市党委員会が,党中央委員会の批判を受けたこと,および同共和国のムジャワナッゼ党第一書記が,その職および政治局員候補を解任されたことは,いぜんとして民族主義偏向の問題がソ連邦内においてくすぶっていることを示している。
イデオロギー引締めについては,現指導都は,外交面での西欧との緊張緩和政策とは裏腹に,サハロフ博士など反体制分子に対しては喚問,逮捕,メドヴェージェフ等の体制批判的学者グループに対しては国外に出国させる,などの厳しい措置をとった。その結果,この種運動は鎮静化したものとみられる。
ソ連指導部内の大きな異動としては,72年5月,強硬派と伝えられたシェレスト・ウクライナ共産党第1書記の連邦副首相への格下げ(72年5月),ムジャワナッゼ政治局員候補の解任(同12月),ポリヤンスキー政治局員の第一副首相解任および農相就任(73年4月)ならびにポノマリヨフ連邦党書記の政治局員候補兼任(72年5月),シチェルビツキー政治局員のウクライナ党第一書記への選任(同5月),ドルギフ・クラスノヤルスク州党第一書記の連邦党書記への昇任(同12月)が行われた。
これらをはじめ一連の人事を通じて,党指導部内のブレジネフ系勢力が強まってきていることが注目される。
1971年の米中接近の動きや,中国の国際舞台への登場等を背景として始まった世界情勢の激しい流動化の中にあって,ソ連は1972年においても引き続きそれまでの対米協調路線の一層の推進をその外交政策の最大眼目の一つとした。ソ連はニクソン大統領の訪ソ,第一次SALT交渉の妥結,および経済科学技術分野での各種協定の調印(72年5月),穀物輸入協定(同7月),海運協定,貿易3カ年協定,戦時債務返済取極,相互信用供与協定の調印(同10月)など大いに対米の関係の実務的発展をはかった。同時に,ソ連は欧州において緊張緩和外交を推進して欧州問題に対するソ連の影響力の強化に努めた。
しかし,他面同年中には,国際場裡における中ソ対立の一層の顕著化,在エジプト・ソ連軍事要員の引揚げなど,ソ連外交にとってのマイナス要因と思われる事態も発生した。
ソ連が欧州において推進しているいわゆる緊張緩和外交は,ベルリン四カ国協定の本調印・独ソ・独ポ両条約の発効,両独間基本条約の仮調印(12月21日本調印)のあとを受け,欧州安全保障協力会議準備会議の開催と,相互均衡兵力削減交渉予備協議の開始によって,いよいよ重要な局面を迎えた。前者においては西側に若干の歩み寄りの姿勢をみせ,本会議をできるだけ早く開こうとの熱意を示している。しかし後者についてソ連は会議構成国の問題で強硬な態度を示している。この間,東欧首脳クリミア会談(72年7月)および東欧諸国外相会議(73年1月)で,これらの欧州問題に関する東側の意見の調整を行ない,他方ポンピドウ仏大統領をミンスクに招いて(73年1月),意見の交換を行なった。
中近東およびアジア地域に対しても,ソ連は活発な外交活動の展開に努めた。ソ連・イラク友好協力条約の調印およびソ連・トルコ善隣関係の原則に関する宣言の発表(72年4月),ソ連・シリア経済・技術協定の調印(72年7月),ソ連・アフガニスタン経済・技術協力協定の調印(72年7月),ソ連・マレイシア経済・技術協力協定および文化・科学協力協定の調印(72年10月)等によってこの地域における二国間関係の緊密化をはかった。
また,1956年の第20回党大会の際,フルシチョフが提唱し,1969年の世界共産党会議においてブレジネフが再びとりあげて以来,折に触れソ連が宣伝に努めてきたアジア集団安保構想についても,その浸透工作を盛んに展開した。とくにコスイギン首相のイラン訪問(73年3月14日~16日)の際の共同コミュニケでは,今後この構想に関するキャンペーンを中東をも含む広範な地域に対しても展開しようとする意向を明らかにした。
しかし,他方エジプトとの関係においては,サダト大統領(72年4月),サデク国防相(同年6月),シドキ首相(同年7月)等,エジプト側要人の相次ぐ訪ソにもかかわらず,ソ連の対エジプト武器供与問題をめぐつて両国の折合いがつかず,結局事態は在エジプト・ソ連人軍事要員の引揚げ(同年7月)まで悪化するにいたった。もっともその後,シドキ首相の訪ソ(72年10月)およびハーフィズ・イスマイル大統領顧問ならびにアフマド・イスマイル国防相の訪ソ(73年2月)等で両国関係調整の動きもみられた。
また中国に対しては,国家関係の改善には言及しながらも,いささかの妥協をも許さないとの厳しい態度を堅持する基本的立場を継続している。とくにソ連共産党首脳の意見表明といわれる,アレクサンドロフ論文(72年9月)による激しい中国非難以後はさらに若干対中非難を激化している感がある。国連総会における軍縮論争,ソ連邦結成50周年式典に際してのブレジネフ書記長の演説(72年12月)でも,断固たる姿勢を示しているなど,中ソ和解はいぜん困難な状態にあるものとみられる。
1972年における東欧の動向は,ソ連の対欧州政策―東西間のいわゆる緊張緩和―の進展と,それに対処するものとしての各国の体制引締め措置が特徴的である。すなわち,欧州における緊張緩和政策は,東欧諸国の対西欧交流(主として,経済・貿易,科学・技術の交流)を拡大させ,ソ連の東欧統制を弱める可能性をはらむに至ったことに対し,ソ連としては,この可能性を危倶し,クリミヤにソ連・東欧首脳会議(72年7月)を召集,イデオロギー引締め,対西欧(主として対西独)接近策の調整,コメコン統合計画の強化等,一連の措置を決定した。「社会主義共同体」の団結強化,とくにイデオロギー引締めキャンペーンは,各国の実情に応じて変化はあったものの,ほとんどすべての東欧諸国において実行されたのが注目された。
チェッコスロヴァキアにおいては,「共和国転覆帯助」容疑者に対する裁判(72年7月中旬~8月下旬)が行なわれた。ハンガリーにおいては,「経済改革」の行き過ぎを抑制する行政措置がとられたほか,ハンガリーの祖国愛を称揚する著作物の発禁等の措置がとられた。さらに,ブレジネフ書記長の同国訪問(72年11月)に先立って開かれた党中央委総会でも,イデオロギー引締めの強化を再確認した。また,ルーマニアにおいても,党全国会議(7月)でイデオロギー強化を確認,ブルガリアでもイデオロギー統制のための大臣会議付属出版物委員会の設立(4月),その他東独,ポーランドにおいても,同様に,西側に対処するためのキャンペーンが強化された。
ホネカー政権は,両独間基本条約の調印(72年12月21日)と,これに前後する西側諸国との外交関係設定により,その最大の外交課題を達成した。外交面でのこの成果は,東独の国際的地位の向上とともに,ホネカーの党内における地位の安定度を増したものとみられる。
しかしながら,西独をはじめとする西側諸国との交流の増大が国内におよぼす影響を意識して,ホネカー政権の対国内政策は,ウルブリヒト時代より一段と硬直したものとなった。すなわち,社会主義国としての東独を繰り返し国民に強調するとともに,資本主義国に対する平和共存政策は,帝国主義ならびに西独の社会民主主義とのイデオロギーの共存を意味するものではなく,むしろ,これらとのイデオロギー闘争が不断に必要であることをキャンペーンしている。
一方,消費物資の供給増大,社会保障の拡充等,国民に対する生活水準の向上面にも,ウルブリヒト時代よりは一層意を用いている。
国民の生活水準の改善向上を第一とするギィエレック政権の第二年目であった1972年度は,前年度以来,党・政府内において確立した立場を背景に,比較的安定した年であった。経済面でも年度計画をほぼ達成し,かなり好調であったといえる。また,ニクソン大統領のポーランド訪問(5月),西独との外交関係設定(9月),ギィエレック第一書記の訪仏(10月)等,国内経済開発のため西側諸国との関係改善にも実績がみられた。
フサーク政権の「正常化」路線は,知識人・学生等の逮捕と裁判等でかなりの振幅がみられたが,全体として平穏に推移した。フサーク書記長は,ソ連と忠実に連携することにより,ソ連の一定した支持を確保した。とくに「二月勝利」25周年祝賀行事にブレジネフ書記長を迎え(73年2月22日-24日),その相互信頼関係を誇示し,スボボダ大統領の再選(同3月22日)について,党内一部の反対を抑えてこれを実現させたことは,フサーク現体制維持の成功といえよう。
1971年後半から経済改革の弊害(投資の過熱,貧富の差の拡大,貿易収支の赤字等)が顕著になったこと,社会主義的民主主義(自由化)政策および経済改革の影響で,国民のイデオロギー軽視の傾向が強まったことなどが1972年度には目立った。この現象に対して党・政府は,経済改革の行き過ぎの是正,イデオロギー引締めの努力を行なった。ブレジネフ書記長の訪問(72年11月末)に際し,イデオロギーの統制強化,対外政策面でのソ連との共同歩調等が約された。しかし自粛を事前に行なっていたハンガリーの経済改革についての基本的変更は加えられなかった。
国際面ではハンガリーは,ポーランドとともにヴィエトナム国際管理監視委員会のメンバーになる(73年1月)等の堅実な動きを示した。
1972年はとくに経済問題について集中論議が行なわれた。すなわち,2月の経済関係会議を経て,7月の党全国会議では現行五カ年計画の期限前達成の決議が採択され,11月の党中央委総会では,現行計画を補完する最大限の計画が決定された。これは,ルーマニアが先進国の水準に一刻も早く到達するには,ルーマニアの国際競争力を強化せねばならず,それにはまず国内の経済地盤強化が焦眉の急であるとの認識にたったものといえる。外交面では,コメコンとの協調を若干強める動向をみせた(7月,党会議)ものの,IMF,世銀への加盟,CSCE,MBFR問題における独自の主張等にみられるように,自主独立路線はいぜんとして同国の外交の基調となっている。
セルビアとクロアチア両共和国の民族的対立を露呈した71年のクロアチア指導部退陣事件による動揺は,72年1月の党年次協議会で一応収拾されたかにみえた。しかし72年には自由主義的傾向を強く示したセルビア指導部を切らざるを得なくなり,内政面では多くの問題が存在することが明らかとなった。72年10月チトー大統領は「書簡」を発表し,このことも国内における否定的現象ないし傾向が根強く存在することを示しており,いわゆる「チトー以後」に備える体制の確立は未だしといえよう。対外政策面では,非同盟・積極的平和共存の建て前を維持している。
ジフコフ政権は,国内のイデオロギー引締め(72年7月,党中央委,特別会議)を行なう一方,生活水準の向上の諸施策の決定(同12月,中央委総会)を行なうなど,硬軟両戦術をとっている。国内情勢は,引き続き安定的に推移した。しかし経済面では,1971年に導入された新経済機構(農工コンプレックス,国家企業合同)がまだ充分には稼働しておらず,経済活動の非能率,官僚化が目立っている。
72年2月のニクソン訪中に対するアルバニアの沈黙は,同国の対中姿勢の変化とも憶測された。しかし表面上はこれまでと変らず,中国との友好関係を維持しており,中国はアルバニアにとっていぜんとして重要かつ最大の友好国である。また「米帝」,「ソ修」に対する非妥協的攻撃にも変りなく,CSCEに対しても,二超大国が支配する会議は無意味として出席を拒否している。ホッジヤ指導部の国内把握はいぜんとして強いものがあるが,72年において注目されることは,同指導部が内政により多く目を注ぎ始めたことであろう。
1972年および73年前半においては,英国において北アイルランド問題が引き続き懸案となっており,またフランスではシャバンデルマス内閣に対する内政面での批判を契機に首相交代(7月,メスメル内閣発足)が行なわれる等,不安定な動きもみられた。しかし概して各国とも国内情勢は平隠に推移したといえよう。
過去1年を通じて注目すべきは,東西関係の発展と,拡大ECをめぐる動きであろう。
経済面では,物価と賃金の上昇傾向がみられたものの,堅調な消費と好調な輸出に支えられきわめて順調であった。内政面では,EC拡大条約承認国民投票(72年4月),シャバンデルマス首相の更迭とメスメル内閣成立(同7月),国民議会総選挙(73年3月)などが行なわれ,総じて激しい動きがみられた。
とくに72年秋以降73年3月までは,上げ潮に乗る社共連合とドゴール派を中心とする与党連合により活発な選挙戦がくりひろげられ,総選挙に関心が集中した。選挙結果は,社共連合が議席数を倍増させたにとどまり,与党連合は過半数の確保に成功した。この選挙を通じて表明された,変化を求める国民の声を今後ポンピドゥー政権がいかに反映してゆくか注目されよう。
外交面では,従来の独自な外交路線を推進したが,大統領のアフリカ諸国訪問(72年11月,73年1月),ソ連訪問(73年1月)等の首脳外交のほか,拡大EC首脳会議(72年10月,パリ開催),全欧安保協力会議準備会議等の場で積極的な外交活動を行なった。
内政面において特記すべきことは,6月の第2次アンドレオッチ内閣の成立とともに,過去10年来の中道左派政権に一応の終止符が打たれたことであろ。しかし,中道政権がこのまま定着する可能性は少ないとみられている。
外交面では,同内閣の成立まで国会解散や総選挙等のため,とくに顕著な動きはみられなかった。72年後半にいたって,7月末のレオーネ・ポンピドゥー会談を皮切りに,ローマにおける拡大EC外相会議(9月),パリにおける拡大EC首脳会議(10月),アンドレオッチ首相の訪ソ(10月),メディチ外相のルーマニア訪問(11月)等を頂点に外交活動の活発化がみられた。共産国訪問は緊張緩和という新らしい国際情勢を背景として行なわれたものである。
内政面の最大の課題は,インフレ,失業,労働問題および北アイルランド問題であった。英政府は数年ぶりの国内経済拡大基調を背景に,賃金物価の悪循環を断ち切り,産業活動を刺激して経済の成長をはかる,との積極的姿勢を打ち出し,その一環として賃金,物価の一時的凍結という思い切った措置をとり,並々ならぬ意欲を見せている。北アイルランド問題は,白書の発表により解決の方向が示されたが,根本的な事態の改善にはなお日時を要しよう。
一方外交面では,73年1月,拡大ECに正式加盟し,欧州中心の外交政策が相当の成果を収めたといえよう。
1972年の西独は,両独間基本条約(11月8日仮調印,12月21日本調印)の締結という西独史(ひいては戦後の欧州史)を通しての最大の出来事を中心として活発な東方外交を展開した。内政面では西独史上初めての連邦議会解散およびこれに続く総選挙におけるブラント政権(SPD-FDP連立政権)の勝利(11月19日)という出来事が焦点であった。
また同政権の国内政策,とくに経済面・治安面については,かなりの政府批判もみられた。
1972年から73年にかけて,西側諸国間の連帯はさらに強化・拡大された。
とくに欧州共同体においては,72年1月22日,原加盟6カ国と,英国,アイルランド,デンマーク,ノールウェーの加盟申請国間で加盟の条約が調印され,その後新規加盟国は批准のための国内手続きを行なった。この段階でノールウェーは国民投票の結果(投票率77.5%,うち反対53.6%)当面加盟を断念したが,73年1月1日を期し,英国,アイルランド,デン・マークの3カ国は加盟手続きを完了,73年1月1日を期し,これら3カ国を加えた9カ国で構成される拡大ECが発足した。
9カ国による拡大ECは人口2億5,340万人,GNP6,260億ドル(1970年度)世界貿易の約40%を占める巨大な経済圏を構成する。さらに残留EFTA諸国,アフリカ諸国,地中海沿岸国等60余ヵ国に達する国が拡大ECとの間に特殊関係を有し,拡大ECの世界貿易,経済体制,国際政治に及ぼす影響はきわめて大きなものがある。