-米州の情勢-

 

第11節 米州の情勢

 

 

1. 北     米

 

 (1) 内   政

(イ) ニクソン大統領の再選

1972年は米国大統領選挙の年であった。予備選挙は3月7日のニュー・ハンプシャーを皮切りに23州,1特別区で行なわれた。民主党では当初有力とは考えられていなかったマクガヴァン侯補が意外の伸びを示し,7月の党大会でついに同党大統領候補に選出された。しかし副大統領候補のイーグルトン上院議員が個人的問題のため候補を辞退した際の取り扱い振りをめぐつて同候補が人気をおとしたこと,マクガヴァン侯補の変革を求める政策が必ずしも米国民多数に支持されなかったこと,またヴィエトナム問題についてのハト派のイメージが,対立候補であるニクソン大統領の政策によって影を薄くされてしまったことなどが原因で,民主党大会以後マクガヴァン侯補は,米国民の十分な支持を獲得するに至らなかった。このため予備選挙および共和党大会を通じて圧倒的な強さをみせたニクソン大統領が地すべり的に勝ち,再選された(11月7日,大統領選挙)。

(ロ) 第二次ニクソン政権の新政策

かくしてニクソン第二期政権が発足することとなったが,同大統領はロジャーズ国務長官,キッシンジャー補佐官を留任させ,他方国防長官にはレアード氏にかえてリチャードソン保健・教育・厚生長官を任命した。またシュルツ財務長官に,現職の閣僚として初めて大統領補佐官を併任させ,新設された経済政策会議議長に起用する等意欲的な新人事を行なった。さらに,農務,保健・教育・厚生,住宅都市開発の三長官が新たにホワイト・ハウス顧問に任命され,それぞれ天然資源,人的資源および地域社会開発の各部門を担当することとなった。これは従来よりニクソン大統領が内政面における主要目標の一つとして提唱してきた連邦政府機構改革構想の一環としてとられた措置である。

本年1月20日に行なわれた大統領就任演説で,ニクソン大統領は,長く国論を分裂させて来たベトナム戦争の終結を示唆し,平和の時代への意欲を明らかにするとともに,従来の外交面におけるニクソン・ドクトリンの基礎となる哲学を内政面においても打ち出し,各州等地方自治団体および国民の各々が応分の責任を負うべきであると強く呼びかけた。

(ハ) 経済情勢

1972年の米国経済は物価の比較的な安定,高い実質成長率(6.4%),失業率の低下(年末で5.1%)を実現し,順調な繁栄を謳歌した。賃金・物価の法的統制が行なわれた第2段階のもとで,物価の抑制に一応の成功をおさめた米政府は73年1月には賃金物価の法的統制から自主規制に移行したが(いわゆる第3段階),72年末頃から卸売物価を中心に騰勢のの気配を見せていた物価はこれを機に急激に上昇圧力を高めた。一方,経済成長率も72年第4・四半期に続いて,73年第1・四半期も実質8%を記録し,年初の政府見通しである6.75%を大幅に上回るなど最近の米国経済はインフレを伴った景気過熱の状態を呈するに至っている。

 (2) 外     交

(ニクソン外交の展開)

1972年から73年にかけてはニクソン大統領の訪中,訪ソ,それに劇的な展開をみせたベトナム和平成立により,ニクソン外交の真骨頂が発揮された。その基本をなすものは「強い立場」を基礎としつつ「対決から話し合い」へ,イデオロギーから具体的国益中心への方向転換であるが,同時に大統領選挙に対する配慮も働いたものと考えられる。

まず注目されることは米ソ関係の進展である。ニクソン大統領は72年5月にソ連を訪問したが,これは現職の米国大統領がソ連を訪問した例として戦後初のものである。米ソ首脳会談の結果,SALTをはじめとする諸問題に関して諸取極が結ばれ,世界の緊張緩和に大いに貢献することとなった。(ニクソン大統領の訪中については昭和47年版を参照ありたい。)

欧州方面ではかねてから在欧州米軍の規模縮小が懸案とされていたところ,欧州安全保障会議準備会議の開催(72年11月),相互均衡兵力削減予備交渉の開始(73年1月)等により一層具体化しつつある。

アジアにおいては,ヴィエトナム停戦がついに実現した。しかし停戦にいたるまでにはかなりの迂余曲折を経たことは事実であり,ニクソン大統領は強い国内世論の圧力を背景に,一方において5月には北越海上封鎖を行い,また他方においてパリで北越・臨時革命政府側と交渉を続けた。72年10月初めいったん合意に達したかにみえたが,その後交渉は難航し,12月中旬には北爆が再開された。しかし,73年1月23日に米・北越間にヴィエトナム和平に関する協定の仮調印が行なわれ,同月27日には関係当事者によりヴィエトナム和平協定がパリで調印された。この間,米国は北越・臨時革命政府と南越との間にあって困難な交渉をまとめ上げたが,米国としては強い立場を維持し,また名誉ある撤退を確保しつつ,ヴィエトナム和平を達成したものである。

さらに米中関係では,1973年2月中旬のキッシンジャー補佐官訪中の結果,米中両国が,実質的には大使館に準ずる連絡事務所を相互に相手国首都に設置することになったことが注目される。

 

2. 中  南  米

 

 (1) 多様,かつ多角的な動き

1972年度における中南米諸国は,米国の過大な政治的・経済的影響力からの脱却を目指すナショナリズム的気運の高まりを背景に,きわめて多様,かつ多角的な動きを示した。すなわち,(i)カリブ海地域4カ国と外交関係を樹立し,またソ連との結びつきを一層強めたキューバ,(ii)米国との関係を悪化させつつも,国内の政治危機を切り抜け,総選挙で予想以上の国民の支持を集めたアジェンデ社会主義政権下のチリ,(iii)ペロン元大統領の一時帰国もあり,総選挙でペロニスタ解放戦線が勝利をしめたアルゼンティン・(iv)軍事政権の下に国家社会主義的政策を遂行するペルー,(v)米国との良好な関係を維持することにより,自国の経済発展を達成しようとしているブラジル,コロンビアなど各国独自の動きが従来にも増して顕著に看取された。

またソ連は,引き続きキューバ,チリ,コスタリカなどを拠点として中南米に対する影響力の増大をはかり,中国も,南北問題,領海漁業問題あるいは経済技術協力を通じ浸透をはかる兆しを示した。このような中で米国は,中南米の現実と多様性に即し,中南米諸国の自主性と自助努力を尊重し,パートナーとしての応分の関係を維持するという,どちらかといえば受け身の政策を基本としつつ,米国にとっての重要性に応じた重点的政策を展開し始めた。

 (2) 個別的動向

1972年を通じて中南米各国の内外動向の中で注目を集めたおもな出来事は次のとおりであった。

(イ) キューバをめぐる動き

ペルーとの外交関係再開(72年7月)に引き続き,キューバとカリブ海地域4カ国との外交関係樹立交渉は72年12月に妥結した。また米国との関係改善の兆しかと注目を浴びたのは,キューバがハイジャック問題に関して米国との交渉を行なう用意がある旨発表したことである。同交渉は73年1月にまとまり調印をみたが,たとえハイジャック防止という限定された分野に関する協定であるとはいえ,米・キューバ間の関係にとって,重要な意義を有する動きと評価されよう。

他方,ソ連との経済関係の強化は,ここ2,3年の傾向であるが1972年にはカストロ首相の2度にわたる訪ソ(6月,11月),コメコンの正式加盟(7月)等,ソ連との経済面における関係の深まりが注目された。

(ロ) チリの動き

チリでは72年10月下旬,陸運業の国営化問題に端を発して,たちまちのうちにチリ全土を巻き込むゼネ・ストが発生,アジェンデ政権発足以来最大の政治危機が起きた。しかし軍部指導者を閣内に入れた新内閣の発足により(11月2日),一応収拾された。この暫定内閣の下で3月に総選挙が行われたが,アジェンデ政権の与党・左翼連合が,野党連合の拙劣な選挙政策・運動もあって,辛勝した。今後アジェンデ政権は,絶対多数の野党の存在,悪性インフレの継続,閣外には出たもののいぜんとして無視できない影響力を持つ軍部の存在などからみてその前途は多難とみられる。

(ハ) アルゼンティンの動き

ラヌセ政権は民政移管のための総選挙を実施(73年3月)し,その結果ペロニスタ解放戦線が勝利を収めた。選挙に先だちベロン元大統領は17年ぶりに亡命地スペインより一時帰国(72年11月一12月)し,「ベロン時代」に築き上げた実績を有権者達に想い起こさせた。これが7年にもおよんだ軍事政権の施策,とくに経済政策などに対する批判的な空気と相まって,ペロニスタ戦線の予想以上の勝利のともなった原因にあげられよう。カンポラ氏を次期大統領とする政権(5月25日大統領就任)は,民族主義的かつ労働者優先主義的路線を打ち出そうが,7年間も実権を握ってきた軍部の今後の動きは,従来,軍の支持なしには政権が永続きしなかった例が多かったことからみても,注目すべきであろう。

 

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