万国博が開催された前年ほど多くはなかつたが,1971年にも多くの要人がアフリカから来訪した。特にザイール(旧コンゴー・キンシャサ)のモブツ大統領の来日はわが国とザイールとの協力関係拡大の基礎を作るものであつた。このほかカメルーンのムナ副大統領はじめ各国から多くの閣僚が来日し,わが国との関係増進について政府および財界の首脳と会談した。
他方政府は,1970年2月に河野文彦氏を団長とする経済使節団をアフリカ9ヵ国に派遣したのに引続き,1971年10月に市川忍氏を団長とする経済使節団をマダガスカル,中央アフリカ,カメルーン,チャート,リベリアの5ヵ国に派遣し,これら諸国との友好協力関係の増進をはかつた。
またわが国とサハラ以南諸国との貿易関係をみると,輸出は1971年には19億4千8百万ドルで対前年比46%の増加をみたが,輸入は鉱産物の輸入が伸びず9億9百万ドルで前年に比して10%減少した。わが国と一部の国との間には依然として片貿易問題があるが,一次産品の開発輸入および関税引下げなど解決のため地道な努力を続けている。また一部のアフリカ諸国は旧宗主国から引継いだ対日ガット35条援用を未だに撤回しないでいるが,この撤回申し入れのため政府は1971年4月に鶴岡前国連大使を団長とする使節団をセネガル,モーリタニア,ガンビア,ダホメ,トーゴー,中央アフリカ,カメルーン,ガボンに派遣した。1971年にはチャードとガンビアが35条の援用を撤回した。
貿易関係の拡大と平行して企業進出も進んでおり,1972年3月現在69件を数えている。
アフリカ諸国は政治的独立を達成してから経済開発と貿易促進に努めているが,市場の狭隘性および通信,運輸手段の不足が大きな壁となつている。アフリカ経済委員会(ECA)はケニアのモンバサとナイジェリアのラゴスを結ぶ大陸横断道路建設構想をとり上げ,1971年6月アディスアベバでトランス・アフリカン・ハイウェイ委員会の第1回会合を開いたが,わが国はこれに参加するとともに,同年8月から9月にかけてザイールおよび中央アフリカに事前調査団を派遣し,またECA内に新設されたハイウェイ事務局に専門家1名を派遣するなど本計画の推進に努力している。
エティオピアとの関係は1971年に入り大きな進展をみせた。エティオピア政府の同国地下資源の開発に対する協力要請に応え,わが国関係企業は北部アスマラ地区で探鉱調査を続けてきたが,本格的なボーリングが開始された。結果は良好であり,銅鉱開発の見通しは明るいといわれる。従来から各国企業の鉱物資源開発事業がみな失敗しているなかで,わが国企業が収めつつある成果はエティオピアで高く評価されている。この銅開発が実現されれば,停滞するエティオピア経済発展の重要なきめ手となり,わが国と同国の経済交流を一段と促進させるものと期待されている。一方同国の基幹産業である農業分野においても前年に続き飼料作物の開発輸入を目的とする企業調査団が派遣された。また,1971年11月にわが国青年海外協力隊の派遣に関する取極が締結され,これに基づき1972年中には第1回目の協力隊員が派遣される予定である。現在第3次経済開発計画を実施中のエティオピアはわが国の経済協力を強く期待し,1971年1月正式に円借款の供与を要請してきた。エティオピア政府から提示があった関連プロジェクトが現在検討されている。
ソマリアとは従来わが国の一方的な小規模の輸出とごく少数の技術研修員の受け入れ程度でみるべき関係はなかつた。しかし,1971年3月にはファラー商工大臣を団長とするソマリア政府経済使節団が来日し,貿易協定の締結と技術協力問題に関する会談が行なわれた。このフォーローアップとして更に同年6月ソマリアで話し合いが進められたが,貿易協定については若干の技術的困難により未だ締結されるに至つていない。
ウガンダでは1971年1月25日,オボテ大統領が英連邦会議出席のため不在中アミン参謀長の指揮する軍事クーデターが発生し,2月2日アミン新政権が発足したが,タンザニアが新政権を否認しオボテ前大統領を保護したため,両国関係は緊張を続け,アフリカ統一機構でも新政権の承認について意見の対立をみた。わが国は従来の経済・技術協力を継続するとともに新政権との接触を次第に深め1971年10月9日独立記念式典の一環として行なわれたウガンダ中小規模工業技術訓練センターの開所式に田付海外技術協力事業団理事長を派遣した。その後ウガンダとタンザニアの関係は鎮静化し,1972年1月25日に行なわれた革命一周年記念式典には多数の国が代表を参加させたが,わが国からも駐ケニア中根大使(ウガンダ兼轄)がこれに出席した。またタンザニアは1971年12月9日,独立十周年記念式典を挙行したが,わが国は加藤常太郎衆議院議員を特派大使として派遣した。わが国とケニアとの関係では片貿易が大きな問題となつている。このため,わが国はこれの是正のため緑茶等開発輸入方式のプロジェクトを推進するとともに,ケニアの輸出関心品目たるソーダ灰について特恵を供与したほか,除虫菊,ソーダ灰について関税引下げ等の措置を講ずる予定である。経済協力の分野においては東アフリカ3国に対する現行円借款の完全実施を図つており,1971年にはケニアのモンバサ港桟橋の建設・タンザニアのラジオ・タンザニア放送網拡充計画用機材の供与およびウガンダのテレビ網拡充計画用資材の供与に関するローン・アグリーメントが締結された。技術協力の分野においては1971年9月タンザニアにキリマンジャロ地域開発を重点的なテーマとして第2次調査団を,同年11月には南岸道路計画の第2次調査団を派遣した。わが国はケニア,ウガンダ,タンザニアの3国で構成されている東アフリカ協力機構との間で航空協定および租税条約の締結交渉を行ない,すでにそれぞれ実質的合意に達しているが,ウガンダの軍事クーデター発生以来,東ア協力機構が円滑に動かなくなつたこともあり,その後進捗していない。
マラウイからは1971年2月にチザンジャ農業大臣を団長とする政府親善使節団が来日したが,この使節団の要請に応えて,同年5月専売公社からマラウィに葉たばこ調査団が派遣され,この結果わが国は試験的にマラウィ産葉たばこの買付を行なつた。また同年7月青年海外協力隊の派遣に関する文書の署名交換が行なわれ,9月には第1回目の隊員がマラウィに派遣された。
ザンビアとは青年海外協力隊派遣取極(1970年4月署名)に基づき,現在12名の協力隊員が派遣されているが,先方の要請に応えて更に3名の協力隊員を3月に派遣することとした。
わが国とマダガスカルとの友好関係は1971年10月の経済使節団の同国訪問によつて急速に盛上つた。マダガスカル政府は使節団に対しナモロナ河電源開発および,タマタブーディエゴ・シュアレス間マイクロウェーブ施設計画に対するわが国の協力を要請するとともに,大使館を通じて正式申入れを行なつてきた。
モーリシャスからは1971年6月デュヴァル外務大臣が来日し,国際情勢および経済協力問題について政府当局と話し合つた。
南アフリカは内外の反対を無視してアパルトハイト政策を推進し,また1971年6月に国際司法裁判所は南アフリカのナミビア統治は違法であるとの勧告的意見を出したが,これを無視してナミビア統治を継続し同地域にもアパルトハイト政策を適用している。わが国は一連の国連安全保障理事会決議に従つて南アフリカに対する武器・弾薬等の輸出を禁止しているほか,自発的に南アフリカに対する投融資活動を規制し,1971年7月に対外直接投資を自由化したさいも南アフリカは例外として残した。このため,これまで南アフリカに対する直接民間投資は行なわれておらず,わが国と南アフリカの経済関係は通常貿易の枠内にとどまつている。しかし,わが国の対南アフリカ貿易は年々増大し,1971年には往復7億3155万ドルとなつた。このような対南ア貿易の増大のためわが国は欧米諸国と並んで国連等の場においてアフリカ諸国から非難されることもあり,例えば第26回国連総会においては貿易立国であるわが国は南アフリカとの貿易以上にアフリカ諸国および世界各国との貿易拡大に努めている旨の説明を行なつた。
南ローデシアのスミス政権が1965年に英国から一方的独立宣言を行なつたことから生じた「南ローデシア問題」の解決のため,英国政府はスミス政権と交渉を行なつて来たが,1971年11月,本件の解決案について合意が成立した。解決案が発表されたのがちようど第26回国連総会開催中であり,また解決案に対する民意確認の作業中現地において激しい反対連動が展開されたこともあり,アジス・アベバで開かれた国連安保理事会においては白熱した論議が展開された。わが国は解決案に対する南ローデシア人民の意志が明らかになるまでは予断を行なうべきではないとの態度を採ったが,安保理事会においては英国の拒否権行使により本件に関する決議は何ら成立しなかつた。解決案発表と前後して米国は南ローデシア産クロームの対米輸入を認可する法律改正を行なつた。南ローデシアとの貿易は1968年5月の安保理事会による全面的制裁決議により特定品目の輸出を除き全面的に禁止されており,第26回国連総会は米国の措置を非難する決議を採択したが,わが国もこれを支持した。経済制裁についてはこれまで安保理事会制裁委員会が決議違反容疑のケースについて関係国の調査を要請しており,わが国も要請に基き調査結果を報告した。
ザイール(旧コンゴー(キンシャサ))のモブツ大統領は1971年4月6日から15日までわが国を公式訪問した。同大統領は佐藤総理との会談において,同国の今後10年間の開発計画に入る種々のプロジェクトについて説明し,特にシャバ州(旧カタンガ州)とバナナ港を結ぶ鉄道の建設を重視している旨強調した。これに対し佐藤総理は,日本政府がこれらのプロジェクトの実現に関心を有しており,とくに「バナナ=マタディ間の輸送力増強計画に対して適当な方法により協力する用意があると述べた。これに基いて,同年6月および12月にわが国から鉄道・橋梁・港湾の各分野の専門家から成る調査団が現地に派遣された。また同国のシャバ州における日本とザイールの合弁会社SODIMIZA(旧名 SODIMICO)による銅鉱山開発事業は順調に進捗し,1972年10月から生産を開始する運びとなつた。この事業の外,銅鉱山開発については英米の会社とわが国の会社によるコンソーシアムは,同地区の隣接地帯に鉱区権を取得して1971年から開発を開始した。またわが国の会社が参加した石油開発会社はザイールの大西洋沖で石油を発見するなど,この国の豊富な資源の開発を通じて,わが国とザイールの関係は発展をつづけている。
カメルーンからは,1971年8月,ムナ副大統領がボーイスカウト世界大会出席のため来日したのを機会に佐藤総理と会談して,経済・文化面におけるわが国の協力を要請した。そのさいの要請に応え,わが国は,72年2月,同国の首都ヤウンデで開催されたアフリカ・サッカー大会開会式の際に行なわれた集団体操の指導と花火の打上げのため専門家を派遣した。
ガボンは既に東京に大使館を開設しており,わが方に対しても大使館の設置を求めていたが,1972年1月にわが国の大使館が首都リーブルヴィルに開設された。
中央アフリカは,かねてより同国のウラニウムなどの資源開発についてわが国の協力を要請していたが,わが国は1971年12月に地質調査の専門家2名を派遣した。これは中央アフリカに対するはじめての技術協力である。
チャードからは1971年6月にトンバルバイ大統領の特別補佐官グーダン巡回大使が来日し,わが国との関係の緊密化について政府および財界と話合つた。
ナイジェリア連邦軍事政府は,1971年4月1日輸入制度を抜本的に改め,かつ輸入制限品目を大幅に削減した。この輸入制度の改正に伴つて,わが国産品の輸入に対する差別的取扱いも廃止された。この結果,1971年のわが国の対ナイジエリア輸出は,前年比53%増の9,597万ドルに達し,他方ナイジェリアからの輸入は,原油の輸入が緒についたため,前年比111%増の2,712万ドルになつた。原油の輸入は,今後更に増大することが予想されるので,両国間の貿易のアンバランスは,漸次,是正されると考えられるが,ナイジェリア側は,目下の貿易のアンバランスを重視しているので,わが国としてはナイジェリアが差別的輸入制限を復活させないように引続き努力を行なつている。ナイジェリア政府は,1970年2月沖合石油鉱区27鉱区の入札を告示したが,1971年10月,わが国のナイジェリア石油開発が49%出資するJapan Petro1eum Co.(Nigeria)が4鉱区の探鉱・採掘権を獲得した。わが国が,ナイジリェアに供与を約束した総額108億円の円借款については,紡織工場の設備増強2件,ナイジェリア国鉄のディーゼル機関車12両の購入のために,すでに約40億円が使用されている。なお,ナイジェリア側からは,有力な円借款使用プロジェクトが提示されているので,残額の使用方法についても,遠からず,政府間で合意に達する見込みである。
1968年および1970年の対ガーナ債権国会議の合意議事録に基づくわが国とガーナの債権繰延べならびに債務救済の交渉はようやく妥結し,関係文書の署名を待つ段階にあつたが,1972年1月にアチャンポン大佐の率いるクーデターが発生し,かつ新政権は対外債務の返済条件などを一方的に変更する方針を発表したため,解決は更に引延ばされることとなつた。わが国は他の債権国と協調して問題の解決をはかることとしている。また,わが国の業界は1969年に引続き1971年の1月に2回目のボーキサイト開発調査団をガーナに派遣し,同年6月ボーキサイト開発およびアルミナ工場建設について国際コンソーシアムに参加するとの意思表示を行なつた。
リベリアに対するわが国の輸出は1971年にはほぼ10億ドルに達したが,その殆どは米国,ギリシャ系船主が買付た船舶の船籍をリベリアに登録する,いわゆる便宜置籍船である。また1971年4月にはわが国企業と米国企業との間で鉄鉱開発計画が合意され,現在探鉱調査が進められている。
首都モンロビアで1971年1月に挙行されたトルバート大統領の就任式典には,衆議院議員吉田重延氏が特派大使として派遣された。
ポルトガル領ギニア(ビサオ)に隣接するセネガルでは一連の地雷爆発事件があり,セネガルの提訴に基き,国連緊急安保理事会が開催されたが,その決議により現地に派遣された調査団にわが国は代表を参加させた。
モーリタニアはさきにわが国に対し最低税率を適用することとしたが,ガット35条援用撤回申入れに対し,貿易取極の締結を希望したので,このための交渉が1971年4月に開始された。
マリは,ギゼ駐モスクワ大使を初代の駐日大使(兼任)として任命したが,1971年10月来日して同大使はわが国との経済関係増大の希望を政府および財界に対し表明した。わが国と象牙海岸との経済関係は密接化しつつあるが,わが国は象牙海岸政府の要請により1971年11月に5人からなるパルプ工場建設計画調査団を派遣した。
上ヴォルタでは北部地方の旱魃が続いているのでわが国は1971年12月,見舞金を贈与した。