71年の中近東に於ける大きな動きとしてはバハレーン,カタルおよびアラブ首長国連邦が相ついで独立し,長い鎖国から脱したオマーンとともに国連に加盟したことがあげられるが,この他にも,71年9月のアラブ連合,リビア,シリア3ケ国によるアラブ共和国連邦の結成,71年7月のスーダン,モロッコでのクーデター事件,中近東の国々を中心としたOPECの攻勢等々,71年の中近東地域をめぐる政治・経済上の動きは,めまぐるしいものがあつた。このような中でわが国と,中近東諸国との関係は,経済面を中心として着実に伸びており,また中近東各国要人の訪日とりわけ,71年5月のサウディ・アラビアのファイサル国王の公式訪問等の人的交流を通じて相互理解も大きく促進された。これは豊富な石油収入を背景に積極的に経済開発にとりくんでいる中近東諸国からのわが国に対する期待の増大,ならびに石油供給源および輸出市場としての中近東諸国に対するわが国の再認識などの結果にほかならない。
貿易面では,1971年についてみると,わが国の対中近東輸出は対前年比31%増および対中近東輸入額は対前年比28%の増を示した。その為わが国の総輸入に占める中近東地域のシエアは前年の12.6%から15.4%へと増加したが,輸出に関しては我国の総輸出が24%の増を示したこともあり中近東地域のシェアはほぼ前年並の3.61%にとどまつた。しかしながら中近東地域には石油資源をもとに,意欲的な経済開発をすすめている国が多く,今後資本財を中心として,更に一層の貿易の進展が予想される。
経済技術協力面では,中近東諸国は,同じアジアの唯一の先進国である日本に対して,大きな期待を寄せており,わが国に対する協力要請も年々強くなつているが,これまで,中近東地域に対しては地理的遠隔などの理由もあり,わが国より必ずしも十分な援助がなされていたとは言い難い。しかし,この地域がわが国に対して有する経済的・政治的重要性に鑑み,今後経済・技術および広く文化面での協力の一層の拡大が期待される。
中近東をめぐる大きな問題としては石油をめぐる動きがあるが,同問題は70年に引き続き71年もめまぐるしいものがあつた。1970年9月のリビアの西欧独立系石油会社に対する原油公示価格および課税率の引き上げ要求に端を発したOPEC諸国と国際石油会社の間のいわゆる,石油戦争は,71年2月15日にひとまず解決したかにみたが,その後も主要国通貨間調整に伴うドルの購買力低下をカバーする為72年1月20日,8.49%の原油公示価格の再引き上げが行なわれ,更にOPEC諸国の国際石油会社への事業参加をめぐる交渉が72年1月21日から開かれている。OPEC加盟11カ国中8カ国は,中近東の国々であり,わが国は石油輸入の90%をこれら中近東諸国に依存しているうえ,わが国が石油開発に乗り出さんとしている主な地域も中近東であるだけに,石油問題はわが国とも密接な関連を有している問題である。他方わが国の石油開発に関しては,わが国は71年7月イランのローレスタン地区石油鉱区の獲得に成功したが,これは,シベリア・チュメニ油田,サウディ・アラビア・中央アラビア鉱区と並んでわが国が三大石油開発プロジェクトのひとつとしているものであるだけに,大きな意味を有している。この他,日本企業によるアブ・ダビー沖合での試堀も成功し,いよいよ商業油田としての採掘にとりかかる段階に至つた。
ホヴェイダ現内閣は成立以来既に7年になるが,有能なテクノクラート内閣として莫大な石油収入を背景として,着実に経済開発計画を推進しており,流動的で不安定要素の多い中東において着実に安定勢力としての地歩を固めている。わが国とイランとの関係はイランが基本的に自由主義陣営に属し,国連中心主義の外交政策をとつているなどわが国の立場と共通点が多いのみならず近年人的交流,貿易の拡大,企業の進出,経済技術協力の強化などを通じて一段と緊密化しているが,特に両国間の経済関係は飛躍的な伸びを示している。
日イ経済関係について注目される諸点は次のとおりである。第一にイランは中東地域においてわが国最大の輸出市場であり,また,同国の輸入シエアから見てもわが国は,西独,米につぎ第3位を占めている。同国の経済開発計画の進捗に伴い,今後とも引き続きわが国資本財の有力輸出市場となりうるとみられる。第二にイランはわが国に対する最大の原油供給国であり,またイランからみても,日本は,同国輸出原油の半分を輸入する最大の顧客となつている。第三に原油の輸入を加えると両国の貿易関係はわが方の一方的入超となつているにもかかわらず,イランは国際石油コンソーシアムの輸出する石油を両国の貿易バランスに加算せずわが方が出超であるとしている。わが方は大局的見地からイランの一次産品買付け増大を図るためコンペ制を実施しており,現在イランの石油を除く輸出シエア中対目分は第4位を占めるに至つている。第四に1971年中,石油開発,石油化学プラント建設,LNG開発輸入といつたイラン経済の中枢部門を中心に大型の合弁事業協定ないし了解が両国企業間に成立し,両国間の経済関係は新たな段階に入つている。第五に4月経団連使節団の訪イを契機として経団連内に対イラン投資経済協力委員会が設置され,財界を通ずるイラン側との接触のための太いパイプが通ずることとなつた。
政府べースの経済技術協力も1958年同国との間に締結された経済技術協力協定を柱として逐年拡大強化されている。
わが国とアフガニスタンは,1930年11月修好条約締結以来,常に友好関係にあつたが,第2次世界大戦中もこの友好関係は変りなく,特に1969年4月には同国国王および王妃両陛下が訪日され,また1970年の万国博覧会開催中,同国皇太子および同妃両殿下が訪日され更に緊密となつた。次いで1971年6月にはわが国皇太子および同妃両殿下がアフガニスタンを御訪問され両国の友好関係は一層緊密となつた。
このような両国間友好関係の増進に伴い,わが国の経済協力に対するアフガニスタンの要請も年々大きなものとなつているが,上記友好関係の増進に較べ,わが国と同国の貿易および経済技術協力関係の伸長は鈍い。
貿易関係では,同国産品はわが国の輸入に適するものが少く,長年わが国の大幅な出超となつているが,1970年の日ア輸出入比率は114対1であつた。
経済協力においては,1968年11月,アフガニスタン4都市の水道建設のため,総額200万ドルの円借款協定の公文交換を行なつたが,その後アフガニスタン政府が1971年9月末終了予定の同借款の使用期限延長方要請越したので,1971年9月右使用期限を1973年12月末とするための公文の交換を行なつた。またKR食糧援助として1969年50万ドルの化学肥料,1970年30万ドルの米に次いで1971年30万ドルの水および20万ドルの化学肥料をを贈与した。
その他同国の2年来の旱ばつに対する同国政府の援助要請にもとづき,浅井戸掘削設備8台を技術協力の機材供与として贈与した。
なお1969年4月両国間の文化協定の公文交換が行なわれ,1971年6月同協定の批准書交換が行なわれた。
エジプト経済は,国家予算の半分近くを軍事費にさいているにもかかわらず,その経済開発計画を通じ,1960年以来,67,68年を除き,おおむね実質経済成長率6%を維持している。然しながら他方人口増加率も年2.5%と可成り高く,経済成長率の伸びは,そのまま生活の向上には結びついてはいない。現在エジプトは第3次経済開発5カ年計画(1970/71―74/75)を実施中であるが,1971年10月本計画とは別に所得倍増新10カ年計画を決定するなど意欲的に経済発展にとりくんでいる。
わが国の同国に対する経済協力については,同国の政治的重要性に鑑み,わが国としても積極的に推進しなければならないが,次の様な問題にも妨げられている。1965年頃よりエジプトの外貨事情が悪化し,1958年および65年にわが国が供与した計4千万ドルの延払い信用の返済が遅れがちとなり,エジプト政府は上記延払信用による輸出代金の繰延べを要請越した。右要請に対し,両国政府間で交渉が行なわれ,1969年6月,交渉は合意に達し,69年4月末現在のこげつき債権約2千万ドルについて債権繰延協定が成立した。
本協定の実施に伴い,わが国はエジプトの返済振りをレビューし,返済額を限度として中期延払信用を供与することとなり,また,わが国は1971年8月本協定の枠外としてスエズ・アレキサンドリア間のパイプライン敷設計画に対し,返済を着実に履行することを条件に,9百万ドルの延払信用を供与することとなつた。
しかしエジプト側は1970年1月より9月までは支払いを順調に行なつたが,同年10月以降現在迄,外貨繰り困難を理由に支払いを行なつていず,このため現在対エジプト延払輸出は皆無となつている。
以上のようにエジプトはここ数年極度の外貨不足におちいつている為,わが国との貿易関係についてもここ数年わが国の大幅な入超(1971年には対エ輸出15百万ドル,輸入40百万ドル)となつている。
他方,技術研修生の受入れ,専門家の派遣等を通ずるわが国の技術協力は年々活発となつていることは今後のわが国のエジプトに対する経済技術関係をうらなう上で心強い。
マグレブ3国のうち,アルジェリアについては,1967年以来わが国の大幅出超を不満として,対日輸入につき共通税率の3倍にあたる一般税率を適用しており,わが国も1970年からアルジェリアを便益税率適用国から除外したことにより,両国間貿易の正常な発展が妨げられていた。しかし,同国の経済開発4カ年計画の第2年目にあたる1971年には,同計画に関連して,わが国の資本財の輸出は同年上半期で22百万ドル(対前年比20%増)と大幅な伸びを記録し,今後一層の拡大が期待される。
モロッコについては,わが国の輸入しうるのは,燐鉱石のみであり,今後飛躍的な貿易の拡大は望めない。一方技術協力の分野では,青年海外協力隊が現在約30名派遣されているが語学上の問題もあり,必ずしも効果があがつているとはいえない。
テュニジアとの関係については,往復の貿易額は71年には83万ドルと,微々たるものであるが,低硫黄の石油増産の可能性もあると伝えられており,今後の発展を見守る必要がある。
トルコ経済は1971年3月の政変により若干停滞したが,71年は第2次5ヵ年計画の4年目に当り,工業部門への投資と東部地方の農村開発に重点をおいて種々の大型プロジェクトを盛り込んだ経済開発が進められた。
日土経済協力については,68年より頻繁となつた日土間の要人往来を契機として両国間に協力の気運が高まり,種々検討が進められた結果,71年に至り,円借款2件3,600万ドル,延払輸出2件2,300万ドル総額5,900万ドルの借款供与について次のとおり合意をみた。
(1) ハサン・ウールル・ダムおよび水力発電計画(旧アイヴァジュック計画)に対し,2,700万ドル相当の円借款(条件―据置5年を含む20年,年利5%)の供与を決定したがこれはわが国よりトルコに対する始めての円借款供与となつた。
(2) ゴールデン・ホーン架橋計画
3,000万ドルの円借款供与を約束していたボスフォラス架橋計画についてはわが国企業は70年落札に失敗したが,同計画の一部を成すゴールデン・ホーン橋建設に対し,わが国企業による落札に伴い,900万ドルの円借款供与を決定した。
(3) カプロラクタム(ナイロン原料)製造プラントに対し,1,700万ドルの延払輸出(条件 - 12年,6%)が承認された。
(4) フェロクローム製造プラント
近く上記(3)と同条件で600万ドルの延払輸出が承認される見込みである。貿易面では,71年のわが国の対トルコ輸出23百万ドル(対前年比43%増)対トルコ輸入22百万ドル(対前年比22%減)であつたが,今後,わが国の経済協力に伴い,さらに貿易関係が緊密になることが予想される。
サウディ・アラビアは潤沢な石油収入と国王の積極的な外交を背景にアラビア湾からの英軍撤退後ますますアラビア半島のみならずアラブ諸国内の保守派の重鎮としての地位を固めている。
ファイサル国王はアラブ諸国の元首としては初めて国賓として,5月20日より25日までわが国を公式訪問された。滞日中,同国王は天皇・皇后両陛下を始め,佐藤総理など政・財界要人と会談された。両国首脳は,両国間経済技術協力の一層の緊密化などについて合意したがこの訪問を機に両国間関係の一層の拡充が期待される。わが国との貿易については,サウディ・アラビアは中近東地域におけるわが国輸出市場としてはクウェイトを凌駕し(71年度134百万ドル)イランにつぐ大きな市場である。他方サウディ・アラビアの輸出相手国としてはわが国はその2割強を占め第1位であり(71年度は597百万ドル)輸出のほとんどが原油および石油製品である。わが国は輸入原油の86%を中東に仰いでいるがこのうちサウディ原油の占める比率は1970年で19.7%である。他方,サウディ・アラビアにとり,わが国は同国産油の16.5%を輸入する最大の顧客である。
アラビア湾岸首長諸国連邦結成構想は,1968年以来断続的に進められてきたが,英軍の同地域撤退時期である1971年を迎え,8月15日にバハレーンが,9月3日にはカタルがそれぞれ英国よりの単独独立に踏切つた。一方,ラアス・アル・ハイマを除く6首長諸国はアラブ首長国連邦を結成し,12月2日独立を達成したが,わが国はこれら新独立国をすべて承認し,新生の意気にもえるこれら諸国のわが国に対する期待とあいまつて今後その関係の緊密化が期待される。なお,1972年2月10日には,ラアス・アル・ハイマが参加し,アラブ首長国連邦の構成国は7ヶ国となつた。
これらアラビア湾岸諸国には豊富な石油資源を有している国が多くわが国からも既に石油開発の為に4つの企業が進出しており,特にアブダビ石油(株)に関しては72年末原油を搬出出来る予定である。わが国との貿易関係については,同地域でのわが国の輸出は71年には83百万ドル,輸入は252百万ドルと順調な伸びを示しており,同地域諸国の独立ならびに潤沢な石油収入に鑑みて今後ますます増進してゆくことが予想される。