わが国は従来とも隣国ソ連との間に善隣友好関係を維持・促進することが日ソ両国関係にとつてのみならず,極東の平和と安全に資するとの基本的立場に立つてソ連との友好関係の維持・促進に努めて来たが,1971年度にはグロムイコ外相の訪日をはじめとする人的交流,貿易経済関係,文化交流等の分野においてかなり進展した。
1972年1月23日から28日のグロムイコ・ソ連外相の訪日は,6年振りのことであり,それ自体意義深いものであつたが,その成果としては,(イ)日ソ平和条約締結交渉を本年中に行なうこと,(ロ)既存の招待に基づく日ソ両国首脳の相互訪問を実現するよう努力すること,(ハ)両国外務大臣間の定期協議を交互に少なくとも年1回行なうこと等が合意されたことなどが挙げられよう。特に平和条約交渉を本年中に行なうことに合意を見たことは,日ソ間の最大の懸案である北方領土問題を話し合う「場」が出来たことを意味するものであり,わが国はこれを歓迎している。またグロムイコ外相の滞日中に福田外務大臣と同外相間で日ソ間の文化交流に関する書簡が交換された。
1971年9月21日から25日にはパトリチェフ・ソ連外国貿易大臣が来日し,1970年で有効期間が満了した日ソ貿易支払協定に引続き,1971年―75年の日ソ貿易支払協定が調印された。なお1971年の日ソ間の貿易高は輸出入計8億7千万ドル(通関統計)であつた。またシベリア開発のための日ソ間の協力については,「広葉樹パルプ長材とチップの開発輸入」に関する基本契約が日ソ関係者の間で取り決められた。
日ソ間の安全操業交渉については,1971年1月の政府間交渉の後を受けて,新関大使とイシコフ大臣との間で話合いが続けられた。
以上のとおり,1971年は日ソ関係の一層の進展のために,ある程度の基礎が出来た年であつたと評価し得よう。
わが方は,1972年1月来日したグロムイコ外相に対し,従来からわが国が一貫してとつてきた立場,すなわち,国後島および択捉島は,歯舞群島および色丹島とともに,わが国固有の領土であり,当然わが国に返還されるべきであるとの立場を十分説明し,この北方領土問題の解決を図り,平和条約を締結するべきであると強調した。この結果,共同コミュニケにあるとおり,「日ソ平和条約締結に関する交渉を本年中に行なう」ことが合意された。この交渉においては当然領土問題が話し合われることになるが,これは,従来ソ連側が領土問題は解決済として話し合いに応じないとの態度に終始していた状況からみると一歩前進したものと言えよう。わが国は,今後とも,国民の強い支持を背景に,あくまでも忍耐強く,ソ連側に北方領土の返還を求めてゆく方針である。
(1) 安全操業問題
71年1月,モスクワにおいて行なわれた本件交渉において日ソ双方は今後とも交渉を継続することに合意した。その後,右合意に則り在ソ連新関大使とイシコフ・ソ連漁業相の間で数回本問題に関する話合いが行なわれたが,日ソ両国間には対象水域の範囲その他に関し,今尚見解の相違がある。
わが国としては今後とも日ソ間の摩擦の要因である本邦漁船の拿捕事件の発生を防止することは人道問題の意味合からも,また日ソ関係の発展上も,必要であるとの見地より,本件に現実的な立場で取組んでゆく方針である。
なお本年1月のグロムイコ・ソ連外相の訪日の際には福田大臣より同外相に本件を提起し,今後引つづき交渉を継続することを確認した。
(2) 漁船の被拿捕状況
北方水域におけるソ連官憲による本邦漁船の拿捕抑留事件は,依然として頻発しており,1946年より1972年1月31日まで,ソ連側に抑留された漁船の総数は1,364隻を数え,抑留漁船員の総数は11,592名に達した。その間ソ連側から返還された船舶は845隻,乗組員は11,560名,拿捕の際または引取りの途中で沈没した船舶は22隻,死亡した者は32名である。
なお,1971年度中における本邦漁船の拿捕件数は28隻,276名であつた。その内22隻が帰還した。また,漁夫に関しては,45年度より残存した8名を含む合計284名が帰還した。すなわち,1月31日現在,ソ側に抑留されている日本人漁夫は1名もいない。
(1) 貿易概況
1971年の日ソ貿易実績は,通関統計で輸出3億7,700万ドル,輸入約4億9,600万ドルであつた。1968年以来大幅な増加を続けてきた輸出も伸び率が落ち,前年比11%となつた。輸入は,ここ数年来の傾向の延長で,横ばい(約3%増)が続いている。入超幅は前年に比べてやや減少し,1億1,800万ドルとなつた。
輸出では,鉄鋼(総額の20%)と機械(同32%),化学品(同15%)は伸びたが,繊維(同25%)は,前年に比べ約10%減少し,とくに衣類(同5%)の輸出は,前年の3分の1に大幅に減少した。
一方輸入は,総額も横ばいであり,品目構成も全て変つていないし,主要品目の占める比率も,ほとんど前年と同じである。そのなかで,白金・パラジウムがやや増加し,銑鉄が大幅に減少したのが目立つた変化である。
輸入のなかで最大の品目は木材で総額の40%を占め,以下白金・パラジウム11%,石炭9%,原重油7%,棉花7%,銑鉄2%,アルミニウムとニッケルを合わせて5%,鉄鉱石が4%である。当分この比率は大きく変ることは考えられていない。
(2) パトリチェフ外国貿易大臣の来日と1971年~75年貿易支払協定の締結
政府は,1970年をもつて有効期限が満了した5カ年間の日ソ貿易支払協定に引続き,新たに5カ年間(1971年~75年)の日ソ貿易支払協定を締結することとし,1971年2月15日~26日モスクワで,4月13日~28日東京において交渉を行なつた結果,4月28日協定内容につき実質的な合意をみた。
9月21日,パトリチェフ外国貿易大臣が来日し,9月22日福田外務大臣との間で本件協定に署名したが,右とともに,日ソ間の消費物資等の貿易(いわゆる沿岸貿易)に関する書簡およびウランゲル湾における港湾建設協力に関する書簡が交換された。新協定は,旧協定とほぼ同一の内容のものであつて,前文のほか9条からなつており,金額,数量を含まない輸出入品目表が付属している。協定は署名の日に効力を生じ,1971年1月1日に遡つて適用される。
1971年~75年の日ソ貿易総額は52億ドルになるものと見積もられている。
パトリチェフ大臣は,滞日中に日ソ経済委員会の主な委員と懇談したが,その際同大臣は,過去3年間日ソ・ソ日経済委員会が推進してきた北サハリン天然ガスの対日供給計画は,資源量が不確実という理由で,なお検討の要ありと述べたので,この計画は,事実上棚上げとなつたと見られるに至つた。
(3) 日ソ経済委員会の活動
1971年に開催予定であつた日ソ・ソ日経済委員会第5回合同会議は当初の予定4月開催がソ側の都会(第24回党大会の直後となる)で延期され,次の予定7月開催も,ソ側でチュメーン石油輸出問題検討のためという理由で延期され,1971年中にはついに開催されなかつた。
日ソ経済委員会石油委員会は,9月改組されて今里広記氏(日本精工株式会社杜長,ノーススロープ石油株式会社杜長)が委員長に就任,イルクーツク・ナホトカ間原油パイプライン建設によるチュメーニ原油輸入問題と取組むことになつた。
1971年12月6日,日ソ経済委員会の推進していたいわゆるシベリア開発協力第3号である「広葉樹パルプ長材とチップの開発輸入」に関する基本契約が,日本チップ貿易株式会社と全ソ外国貿易公団エクスポルトレス(木材輸出公団)との間で締結された。日本が開発資材を約5,000万ドル輸出し,ソ連がパルプ材とチップを輸出(10年契約)するもので,この契約により1972年から1977年までの価格は固定された。この6年間に輸入される額は約1億ドルとなる。
1972年に入り,日ソ関係者の間で合意が成立し,日ソ・ソ日経済委員会第5回合同会議が2月21日より同24日まで東京において開催された。
ソ側からは,セミチャストノフ外国貿易省第1次官を団長とし,産業各省,ゴスプランから次官,局長級が多数参加し,日本側からは,植村経団連会長,永野日商会頭その他財界多数が出席した。
合同会議の主要議題は,(1)チュメニ石油の対日供給とナホトカに至る送油管の建設,(2)南ヤクート石炭鉱床の開発,(3)サハリン大陸棚の石油とガスの探査の3件であり,また(4)ウランゲル港湾建設に関する基本契約,(5)工業用チップと広葉樹パルプ長材の対日供給とその開発資材の対ソ供給に関する基本契約の実施状況についても報告が行なわれた。
なお(5)の基本契約については,日ソ両国政府がその円滑な実施を希望して,その実施に協力する趣旨の公文を交換することになり,(極東森林資源開発とウランゲル湾港建設についても同様の趣旨の公文がすでに交換されている),2月23日外務省において森事務次官とセミチャストノフ外国貿易第1次官との間で書簡が交換された。
1972年1月27日福田外務大臣と来日したグロムイコ外務大臣との間で日ソ両政府間の文化交流に関する書簡が交換された。
この取極は,公の刊行物の交換,政府派遣の科学者,技術者その他の専門家および研修生の交換,政府機関による映画祭の実施,政府機関発行の広報資料の配布等の分野における相互主義の原則に基づく両政府間の協力について定めており,交換の日から2年間効力をもつ。