-北米地域-

 

5. 日米科学委員会,日米医学協力委員会

 

 (1) 日米科学委員会

日米両国間の平和目的のための科学上の協力をより一層円滑ならしめる方途を探究することを目的として1961年の池田総理大臣・ケネディ大統領共同声明に基づき設置された日米科学委員会の第11回年次会合は1971年7月6日より4日間東京において開催され,実施機関の報告書をもとに過去1年間の日米科学協力事業の成果を検討し,将来の協力事業の改善および拡大のための方途を検討した。なお,協力事業が十分軌道に乗つてきたので,年次会合は今後隔年開催とすることおよび中間年次には小委員会会合を開催することが決定された。

 (2) 日米医学協力委員会

アジアにまんえんしている疾病について効果的な措置をとる上に必要な基礎的医学研究を目的として,1965年の佐藤総理大臣・ジョンソン大統領共同声明に基づき設置された日米医学協力委員会の第7回年次会合は,1971年7月29日および30日メリーランド州ベセスダ市において開催され,過去1年間の研究活動の進捗状況について検討したほか,5ヵ年報告書を採択した。また,がん,奇型およびその他の異常を引起す環境汚染を研究する新しい部会を設置するとの勧告が承認された。なお,1972年1月ホノルルで行なわれた日米医学協力委員会小委員会において,上記新部会の名称を「環境汚染の突然変異誘発性,発がん性認知方法に関する専門部会」(仮称)とすることが決定された。

 

6. 漁船だ捕問題

 

1971年に米国による日本漁船のだ捕事件は,アラスカ州沖合で1件発生したが,だ捕理由は米国漁業専管水域侵犯容疑であつた。だ捕された漁船は,日本捕鯨の第5龍昇丸で,米側の裁判に付された結果,罰金3万ドルおよび船体,漁具,漁獲物没収の代りに8万5,000ドルの示談金を支払つて釈放された。

この事件に際し,日本側は米側に対し,米国距岸3海里以遠の水域におけるわが国船舶に対する裁判管轄権は日本側にあり,米側の行なつた上記裁判の結果については,日本政府の法律的立場および権利を留保するとの主張を行なつた。

 

7. 日米安全保障協議委員会

 

 第 13 回 会 合

日米安全保障条約に基づき日米間の安全保障上の連絡協議の一機関として設けられている日米安全保障協議委員会の第13回会合は,1971年6月29日外務省で開催され,日本側からは愛知外務大臣(当時),中曽根防衛庁長官(当時)が,米国側からはマイヤー駐日大使,マッケイン太平洋軍司令官が出席した。

同会合では,最近における極東情勢について検討するとともに,復帰後における沖縄の局地防衛のための自衛隊展開についての日本側計画に関連した日米両国の防衛当局間の調整のための討議に関して報告を聴取し,その討議の結果を承認した。

 

8. 日加経済関係

 

カナダがわが国にとつて米国およびオーストラリアに次ぐ第3番目の貿易相手国の地位を占めてから久しいが,1971年においても,日加経済関係は貿易を中心として引続きおおむね順調な発展をみた。

また,同年度には,第6回日加閣僚委員会が開催されたほか,両国が相互に大型経済使節団を派遣する等人的交流も活発に行なわれ,日加関係の発展の基盤が更に強化された。

 (1) 日加貿易の推移

1971年における日加貿易は,対加輸出約8.8億米ドル(前年比約56%増),同輸入約10.O億米ドル(同約8%増)と往復約19億米ドル(同約26%増)に達した。同年のひとつの特色は,わが国の景気停滞とカナダ経済の回復,あるいは米国の港湾スト等の影響を受けて,輸出の著増と輸入の落着きという,1970年とは全く対照的な形をとつたことにあり,この結果例年日本側の大幅入超(1970年は約3.6億米ドル)となつていた貿易バランスがかなり改善され,入超幅は約1.3億米ドルに留つた。(以上は日本側通関統計による。輸出入ともFOB建てのカナダDBS統計によれば,1971年の対日輸出は前年比2.6%減,対日輸入は37.8%増,対日貿易バランスは戦後初めてのカナダ側入超―1千万カナダドル―を記録した。)商品別に見れば,1971年の主要対加輸出品目は自動車,鉄鋼,金属製品,ラジオ,テレビの順であり(推定),自動車および鉄鋼については前年比約2倍の伸びを示した。主要輸入商品は非鉄金属鉱,石炭,小麦,木材,パルプの順であり(推定),石炭が一躍2倍以上伸びて注目されたが木材,パルプは減少,非鉄金属鉱および小麦は小幅な伸びにとどまつた。

 (2) 第6回日加閣僚委員会

第6回目加閣僚委員会は,9月13日および14日トロントにおいて開催された。(日本側からは福田外務大臣,赤城農林大臣,田中通産大臣,木村国務大臣兼経済企画庁長官および近藤駐加大使が出席し,カナダ側からはシャープ外務大臣,ベンソン大蔵大臣,ペパン通産大臣,グリーン・エネルギー・鉱山・資源大臣,オルソン農業大臣,バスフォード消費者法人大臣およびモラン駐日大使が出席した。)

本委員会における討議は,国際情勢,日加両国経済の現状,国際貿易経済に関する諸問題(発展途上国の問題を含む),日加貿易経済関係等をめぐつて活発に行なわれた。

(イ)国際貿易経済についての討議は,今回の閣僚委員会が8月15日に米国が新経済政策を発表したあとを受けて国際経済関係の再調整が行なわれようとしていた時期に開催されたこともあつて,特に活発に行なわれた。そして,日加双方は,(あ)「米国経済の安定と成長は世界の安定と経済成長にとつて不可欠」であるが,「米国の輸入課徴金は多角的な貿易体制を危くするものである」こと,(い)通貨情勢の安定は世界貿易拡大の必要条件であり,日加両国は「多角的な枠内において当面の諸困難を克服するための国際的努力に充分協力すべきであること」,(う)「なるべく早い現実的な時期に貿易自由化の新ラウンドヘ移行することを目標とすべきであること,およびこのためガットおよびOECDにおいて主要貿易国が協力すべきであること」等について意見の一致をみた。

(ロ)日加二国間の経済問題については,まず,両国間の貿易は引続き拡大しており,見通しも明るいことについて両国の意見が一致した。カナダの対日輸出との関連においては,カナダ側は食料品および原材料と並んで加工品および製造品の輸出を拡大したい,また,日本の輸入自由化の一層の促進が希望される,との立場をとり,日本側は,わが国の輸入自由化の進展ぶりについて説明を行なつた。日本の対加輸出との関連においてはカナダ側より・オーダリーマーケッティングおよび他の市場からの市場転換回避の必要性を指摘し,日本側より,輸出規制は暫定的措置であるべきであり,可能な限り速やかに撤廃されるべきである旨指摘した。

(ハ)以上の諸点のほか,今回の会合においては農産物の虫害,病害および衛生の問題について両国の専門家が随時話合うことが望ましいこと,エネルギーおよび資源問題についてさらに話合いを行なうために本件委員会の下部機構として事務レベル委員会を設けることについて意見が一致した。また,カナダ側より,経済使節団および科学技術使節団をそれぞれ近くわが国に派遣する旨明らかにされた。(本委員会が採択した共同声明は本書第3部I3.(5)参照)

 (3) 日加貿易上の諸問題

(イ) 対加輸出自主規制

わが国は1958年以来一部の繊維製品等について対加輸出自主規制を行なつている。これは日加関係全般に配慮したわが国の自主的判断に基づくものであるが,規制品目の選定およびその規制水準等についてはわが国の決定の際参考に資するため日加両国政府間で話合いを行なつており,本年は4月および6月にそれぞれオタワおよび東京で話合いを行なつた。右話合いにおいてカナダ側は,1970年に発表した新繊維政策(繊維産業の体質強化のため,有望な分野に限つて保護措置等を講じるとの政策であり,このため輸入数量制限法と後述の「繊維および衣料委員会」等が新設された)との関連もあって自主規制品目の追加を強く主張したが,結局,1970年に実施した規制を若干手直しすることとしてシャツ,ブラウス等の綿および化合繊製品と真空管の9品目を規制することとした。

(ロ) 「繊維および衣料委員会」

新繊維政策の一環として,輸入制限的措置の要否を判定することを主目的として設立された本委員会は1971年本格的活動を開始し,わが国関心品目としては現在アクリル糸,ニット生地,ポリエステル織物について調査を行なつており,シャツについては本委員会の勧告に基づいて輸入数量制限が実施に移された。わが国としては,不当な輸入制限等が行なわれないよう今後とも本委員会の動向を注視する要があろう。

(ハ)ダンピング問題

1971年においては,カナダにおけるダンピング調査件数が増加し,テレビ,サーキットブレーカー,ローラーベアリング等のわが国商品に対して調査を行なつたが,わが国としては調査が公正に行なわれるよう慎重に対処する要があろう。

 (4) 経済使節団の派遣

1971年6月,外務省は,経済面を中心とする日加友好関係を一層強固なものとするとともに,今後の日加協力のあり方を探求するため藤野三菱商事社長を団長とする大型経済使節団をカナダに派遣した。また,1972年1月にはペパン通産大臣を団長とする経済使節団が加工製品の対日輸出拡大等の目的のためわが国を訪問したが,このような人的交流は今後の日加協力を推進するうえで大きな意義を有するものである。

 

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