-アジア地域-
(あ) 概 況
1971年4月5日未明,南西部地方の警察署襲撃に端を発した人民解放戦線(Jathika Vimukthi Peramuna)による武装蜂起は,北部および北東部地方を除く全島的規模に拡大したため,政府は3月中旬より発していた非常事態宣言に加え,外出禁止令を全土に施行する一方,米,英,ソ,インド,パキスタン,ユーゴ,アラブ連合の各国から緊急軍事援助を仰ぎこれが鎮圧に当つた結果,政府軍(陸・海・空・警察合せ約2万5千)は2カ月後にはほぼ掃討に成功し一応治安を回復した。その後外出禁止令は徐々に緩和されつつあつたところ,11月15日全面的に撤回された。政府軍に逮捕され,また投降した者は1万6千人と発表された。しかしながら,政府はJVPの主要メンバーとその所在につき正確な情報を把握していない模様で,治安維持の見地から非常事態宣言は依然として解除されていない。
JVP(その数8~10万人と言われる)は,大学生等青年層を中心とし1964年頃から秘かに活動を開始していたとみられているが,綿密な計画と周到な準備に基づき,地方の官公署を襲撃しこれを占拠した上一部地域を2~3週間支配していたといわれる。JVPの蜂起の原因として,セイロンにおける経済的諸困難を挙げるのが一般的な見方である。即ち,近年,増大する失業者(政府のみとめている数字でも50~60万人),物価騰貴,外貨不足による輸入制限等により国民の経済生活は悪化しつつあり,JVPは,これら諸問題の解決のため,1970年5月の下院議員総選挙において革新的綱領を唱えた現政権(バンダラナイケ女史の率いる自由党,トロツキスト系の平等社会党及びモスコー派共産党の三党連合)を支持した。
しかしながら,新政権成立後1年近くを経た後もJVPが期待していたと思われる土地改革,プランテーション・重要産業国有化等新政権の選挙綱領が実施に移されないほか,国民の経済生活が依然改善されないことから,新政権に対する失望,不満が増大し遂に4月の政府覆を目的とする武装蜂起に至つたものと思われる。
他方,バングラデシュの独立に刺激されたことも一つの理由となつて,北部のタミル人(インド系)の間にシンハラ人中心の現体制に対する不満が高まつて来たように見受けられる。
経済面では,1971年のGNPは中央銀行推定によれば前年比1%増で,1970年の成長率4.1%を大幅に下回るものであるが,主たる原因は4月に発生したJVPの武装蜂起により生産活動が停滞したためである。JVP支持者の多くが失業青少年であつたが,セイロンは依然失業,物価高,外貨不足に悩んでおり,これは少くとも当分の間継続するものと思われる。11月発表された72~76年5カ年計画によれば,年平均成長率6%,輸出および貯蓄増強,雇用造出,農・漁業,小規模工業,観光の開発を行なうとしている。またペレラ蔵相は71~72年度(72年12月までの15カ月間)予算演説において配給米,小麦粉,ガソリンの値上げ,砂糖の配給制,土地家屋所有制限等の方針を公にした。前年度より検討されていた企業収用法は10月,資産税法は11月より夫々実施された。
外交面では従来通り非同盟中立を国是としつつ,第26回国連総会においてセイロンはインド洋の平和地帯宣言を提案し,これを可決せしめた。4月中旬北鮮大使館館員全員が強制退去させられたが,これは北鮮がJVPの武装蜂起に密接な関係を有していたからであるとも言われている。また,武装蜂起に関係ありと噂されていた中華人民共和国がJVPの反乱直後2千5百万ドルのアンタイド,無利子の借款供与を申し出,セ政府はその検討に約1カ月を費した後,結局,これを受入れたことが注目された。一方,西側諸国については,4月末世銀主催の第7回対セ援助国会議がパリで開催され,わが国をはじめ,米,加,西独等7カ国及びアジア開銀等の国際機関が参加した。
(い) 経 済 関 係
1971年1~12月のわが国からの輸出は34,528千ドル(FOB),輸入は19,060千ドル(CIF)で約1.8倍の出超である。主要輸出品は機械機器,金属製品,化学製品,繊維品,鉄鋼品等で,輸入品は紅茶,天然ゴム,貴石,半貴石であつた。わが国は6月,紅茶の輸入を自由化したので,セイロンの対日紅茶輸出の増加につながるものとして歓迎されている。わが国の対セ進出合弁企業11社は,輸入外貨割当制の実施による原材料不足から経営高で若干の問題を生じつつある会社もあるようである。
(う) 経済技術協力関係
1970年に供与した第6次円借款500万ドルに加え,71年5月,300万ドルの追加供与が決定されたほか,72年2月,1,000万ドルの第7次円借款が供与された。
技術協力関係については,70年10月締結されたデワフワ農業協力協定を引続き実施し右に関連して専門家7名が派遣されている。また,わが国は2月25日より3月15日まで,ネゴンボ漁業訓練センター拡充に関する調査のため,5名からなる調査団を派遣した。わが国は,71年1月から同年12月末までの期間に専門家(調査団を含む)27名をセイロンに派遣し,研修員50名を受入れた。3月31日現在,13名の専門家がセイロンに滞在している。
わが国は1965年9月モルディヴを承認以来同国と友好関係を保つており,1971年10月にはわが国3代目の同国駐在大使(駐セイロン大使兼任)として松井佐七郎大使がナーシル大統領に対し信任状を捧呈した。1971年(1月~12月)のわが国の対モルディヴ貿易は,輸出11万3,000ドル(輸入なし)である。主要輸出品はラジオ,乾電池,繊維品等である。
経済,技術協力関係においては,わが国は46年度に5名の研修員(洋裁)を受け入れ,かつお釣針5万本を供与した。また,かつお・まぐろ合弁企業設立についてわが方の協力方要請があり,関連民間企業が検討中である。
(あ) 概 説
ネパールはマヘンドラ国王が政党政治による議会制民主主義を廃止し,国王親政に基く現行パンチャーヤト制度を導入(1960年12月)して以来11年目を迎え,徐々に定着しつつある同制度のより一層の強化のため地方分権制および村落復帰運動を強力に推進している。マヘンドラ国王はこの第1の10年を以てパンチャーヤト制度の基礎作りの時代は終ったとして,第2の10年を「経済開発の10年」とする旨宣言した。しかし,他方現体制批判の声も高まつてきている。1971年1月の全国パンチャーヤト議員選挙の結果4月に成立した第2次ビスタ内閣は,8月R.P.シン議員(旧ネパール・コングレス党員)の現体制批判をめぐり4カ月の短命にして崩壊した。同内閣崩壊後3日目に第3次ビスタ内閣が成立したものの,10月ラウタットおよびバラ地区における回教徒とヒンドゥー教徒間の大規模な衝突事件,1972年1月31日マヘンドラ国王の崩御およびビレンドラ新国王の即位と,ネパールにとつて波乱に満ちた1年であつた。
経済面では,1971年-72年度予算においても外国援助の占める割合は39.3%(外国援助中78.7%が無償援助)と依然大きかつた。現在実施中の第4次経済開発計画(1970-75)の初年度における各分野の設定目標は達成されず,年間国民所得増加率は2.2%と推定され,目標の4%を大幅に下回つた模様である。
対外関係においては,従来の非同盟中立主義の原則を堅持し,マヘンドラ国王自ら積極的な訪問外交を展開した。中国との関係は,1971年3月全国パンチャーヤト議員団の訪中,5月シャラダ第2王女夫妻の訪中,7月および8月タライ地方のそれぞれ綿花栽培基礎調査協定および鉱物資源調査協定締結,10~11月ネパール卓球チームの訪中等によつて友好裡のうちに推移した。1970年軍事連絡団の引揚げ,貿易通過交渉の決裂等に伴つて冷却化したインドとの関係は,1971年8月新貿易通過協定の成立,9月シン・インド外相のネパール訪問,インドによる道路,発電所に対する援助の進展等によつて著しく改善された。
(い) 経 済 関 係
ネパール経済はその対外貿易のほとんどがインドとの取引きにより占められており,わが国とネパールとの貿易規模はきわめて低い水準にある。しかし,近年ネパールの外国貿易先の多角化政策によつて対策3国貿易も漸増傾向にあり,わが国との貿易も漸次増大しつつある。1971年(1~12月)のわが国の対ネパール貿易総額は684.6万ドル(輸出586.2万ドル,輸入98.4万ドル)で,輸出入比は約6対1と,わが国の大幅出超となつている。わが国の対ネパール主要輸出品は織物,鉄鋼,化学工業生産品,ゴム製品,乗用自動車,機械類,電気機器で,主要輸入品はじや香,黄麻,雲母,合金くずである。
(う) 経済協力関係
技術協力の面では,現在わが国から,和紙,竹藤細工の専門家2名,協力隊員21名を派遣しているほか,1971年度25名の研修員を受入れた。また,10月第3次農業協力調査団を派遣し,東部ネパール・ジャナカプル地区における農業協力について調査を行なつた結果,本件協力に関しとりあえずコロンボ・プランベースによる協力を開始した。
1971年9月の第26回国連総会においてブータンの国連加盟が正式に認められた。わが国はブータンの国連加盟にあたつて安全保障理事会及び総会でブータン加盟決議案の共同提案国となつた。
かかる外交面での進展と共にブータン国内では1971年7月から第3次5ヶ年計画が開始され,運輸,道路建設,教育,農業等インフラストラクチャーの整備が進められている。
現在わが国からは農業園芸専門家1名が派遣され農業開発に協力している他,農業及び行政面での訓練を中心として1971年度には10名の研修員がわが国で研修をうけた。