-アジア地域-
(あ) 概 説
(イ) 1962年3月のクーデター以来ビルマにおいてはネ・ウィンを議長とする革命委員会が政権を掌握するという政治体制が継続しているが,同政権は民政移管の実施を目指し,与党ビルマ社会主義計画党の育成に努力してきた。その結果,1971年4月には党員数が100万名を越え同党の立脚基盤が拡大したことから,1971年6月に開催された第1回党大会で,同党は,従来の軍幹部の政党という性格を脱して,一般国民に基礎を置いた「国民政党」に移行した。この結果革命委員会が掌握していた政治指導権力は同党が行使することとなつた。また,同党大会直後に,従来軍人だけで構成されていた革命委員会に文官4名が任命された。政府は現在,1973年8月までに新憲法を起草し,その後勤労者代表から成る「人民会議」に国家権力を返還する計画を推進している。
(ロ) タイに亡命中のウ・ヌもと首相一派の反乱軍約500名が,1971年2月から5月にかけタイ・ビルマ国境に近いビルマ南東部に進入し,政府軍に撃滅された。従来ビルマ進攻のかけ声だけを繰返していたウ・ヌ派反乱軍の最初の実力行使として注目される。以上を除いては,国内治安面では顕著な変化は認められない。共産党,少数民族反乱軍は小規模な範囲で反政府工作を続けているが,政府の安定を脅かすほどの活動はできない現状にある。
(ハ) 非同盟および厳正中立を基本とするビルマ外交政策の基調に変化はみられない。しかしながら,1970年10月のビルマ大使任命および1971年2月の中華人民共和国大使任命を契機として中華人民共和国・ビルマ関係がかなりの進展をみたことが注目される。また,ネ・ウィン議長は1971年8月,6年ぶりに中華人民共和国を非公式訪問し,毛主席等要人と懇談した。さらに,1971年10月,1967年以来停止されていた中華人民共和国・ビルマ経済技術協力協定の再開について両国間に合意が成立し,また同11月には中華人民共和国・ビルマ貿易・借款協定の署名が行なわれた。
(ニ) 国内流通面の混乱は依然改善されていない。しかし,1967/68年度以降経済成長は比較的順調に推移しており,1970/71年度の国内総生産は前年度比6%の成長を示した。しかしながら,ビルマ経済当面の最大の問題は国際収支の悪化にある。ビルマは,外貨収入の大部分を米の輸出に依存しているが,最近米の国際価格が低迷しているため,ビルマ米輸出量は1969/70年度以降かなり回復したものの,外貨収入はこれに応じては増大していない。このため,ビルマ政府は,1971年6月に20ヵ年の長期開発計画を策定して,これを5次にわたる4ヵ年計画として実施することにより経済成長を図ることとした。1971年10月にスタートした第1次4ヵ年計画において,輸出農産品の多角化,石油を中心とする鉱物資源の開発,輸入代替産業の育成に力を注いでおり,今後の成果が期待されている。
(ホ) 日本・ビルマ親善友好関係は着実に緊密化しつつある。とくに,ラングーン港外マルタバン湾沖の海底油田開発協力等が現実化するにおよんで,両国間の人的交流も増加すると期待される。また,1971年11月ビルマを訪問した総理府派遣「青年の船」は,ビルマ官民より多大の歓迎を受けた。さらに,1971年12月にはネ・ウィン議長夫妻が英国から帰国の途次わが国を非公式訪問し,佐藤総理,福田外相と会談した。その際日本側から工業開発援助56百万ドル,商品援助15百万ドル合計71百万ドルの借款を供与する用意があることを伝えた。また,1972年2月日本・ビルマ航空協定が調印された。
(い) 経 済 関 係
わが国とビルマとの貿易は,ビルマ貿易の全般的縮小に伴ない減退している。1970年のわが国の輸出は3,872万ドル,輸入は1,257万ドルであつて,日本の大幅出超となつている。ビルマの貿易に占める対日貿易の割合は,その輸入において約20%で第一位,輸出において約5%で5~6位にある。わが国の輸出は重化学工業品が中心であり,特に最近はプラント類の輸出が増加している。ビルマからの輸入は豆類,貴石,木材が大部分である。
(う) 経済協力関係
(イ) わが国はビルマとの経済技術協力協定に基づき,総額1億4,000万ドルにのぼる生産物または役務をビルマに供与することとされており,トラック,乗用車,農業機械等の製造プラントに対する協力を行なつている。1971年末現在の支払済額は7,459万ドルで,履行率は53.2%である。
(ロ) 1969年2月に合意した3,000万ドルの円借款供与は1971年1月から実施され,上記(イ)の諸プロジェクトの施設拡充等に使用されている。
(ハ) ラングーン港外マルタバン湾沖の海底油田開発を目的とし,1971年8月1,000万ドルのアン・タイドの円借款を供与することが合意され,1971年10月から実施に入つた。
(ニ) ビルマが緊急に必要とする物資のわが国からの輸入を目的として,1972年3月に1,500万ドルの商品援助円借款を供与することが合意された。
(ホ) 技術協力の分野では1954年から1971年末までの間に石油,医療,科学関係の機材供与のほか,わが国より合計99名の専門家を派遣するとともに,ビルマ側から鉱工業,農水産関係の研修員577名を受入れている。
(あ) 概 説
1971年3月の総選挙において与党コングレス党が大勝した結果,ガンジー首相の党内外における指導権が著るしく高まり,ガンジー政権の安定化の基礎がかたまつた。
ガンジー内閣は選挙の際の公約実施の一環として,5月に一般保険の国有化を行ない,6月には国内治安維持法を成立させた。さらに同内閣の重点政策でありかつ公約である社会主義的政策の実施を容易にするため,議会が基本的人権を含めて憲法のいかなる条項をも改正出来ることを内容とする第24憲法改正案および公共の福祉のためには個人の財産権を制限しうることを内容とする第25憲法改正案を成立させたが,他方東パ難民のインド流入,印パ戦争の影響などにより,これらの政策の推進が大きくはばまれる結果となつた。
1972年3月5日から11日にかけてインド21州9中央直轄地のうち16州と2中央直轄地において行なわれた州議会議員選挙で,ガンジー首相のひきいる与党コングレス党は,アンドラ・プラデッシュ,アッサム,グジャラート,ヒマチャル・プラデッシュ,ジャム・カシミール,マディヤ・プラデッシュ,マハラシュトラ,マイソール,ラジャスタン,トリプラおよび西ベンガルの11州およびデリー(中央直轄地)において,それぞれ,総議席の3分の2以上の議席を獲得,ビハール,ハリヤナ,マニプール,メガラマ,パンジャブの5州において,それぞれ,過半数の議席を獲得し,昨年3月の中央下院総選挙を上まわる地すべり的勝利をおさめた。
与党コングレス党勝利の原因としては,(1)ガンジー政権による対パ戦の勝利の実績,(2)貧しい大衆の味方としてのイメージを有するガンジー首相の人気が決め手となつたといつて良いであろう。
対外関係においては,印パ関係は1971年3月の東パ動乱による大量の難民のインド流入および東パ解放勢力に対するインドの積極的支持をめぐつて極度に緊張したが,インドはその立場の強化をはかるため,8月ソ連との間に平和友好協力条約を結び,さらにガンジー首相は各国の理解を求めるため,10月末より欧米諸国訪問を行なつた。しかし,その後も印パ関係は改善の動きをみせず,11月21日インド軍に支援された解放軍が東パ国境で軍事行動を開始し,12月3日には西都国境において印パ両軍が衝突したため,両国は全面的に戦争状戦に入つた。しかし,同月16日東パのパキスタン軍が無条件降伏し,さらに西部国境については,ガンジー首相が17日20時(インド時間)を期しインド軍に停戦命令を出したのに対しヤヒヤ・パキスタン大統領がこれに応じた結果,印パ戦争はインドの勝利の中に2週間で終了した。印ソ関係は,平和友好協力条約の締結および印パ戦争の際のソ連の対印支持などにより一層緊密化した。印米関係は印パ戦争の際の米国の対印非難およびパキスタン支持により悪化した。中印関係では関係改善にとくに見るべききざしはない。対バングラデシュ関係については,印パ戦争後も同国に一部残留していたインド軍は3月12日までにすべて撤兵を完了したが,さらに3月19日にはダッカにおいて両国首相によつて印ソ条約に酷似するインド・バングラデシュ友好協力条約が調印された。
日印関係においては,1972年3月ニューデリーにおいて,事務レベルによる第7回日印定期協議が開催され,国際情勢および日印両国間の諸問題につき意見交換が行なわれた。また日本政府は,インドに流入した東パ難民救済のため,国連を通じて,1971年7月および10月に,それぞれ,250万ドル合計500万ドル(日本米等)を供与したほか,10月末,オリッサ州を中心とするベンガル湾地域に台風被害が発生した際,インド政府に対し見舞金米貨1万ドルを寄贈した。
(い) 経 済 関 係
わが国の対印貿易は,1966年にインドの外貨事情の悪化による輸入の抑制およびわが方の信用供与の抑制ならびにわが国のインドからの鉄鉱石,銑鉄等の輸入の急増等を反映して入超に転じて以来,入超傾向が続いている。1971年(暦年)においては,輸出2億900万ドル(対前年比203%増)輸入3億7,600万ドル(対前年比3.6%減)となり,輸出入比は前年の1対3.8から1対1.8と縮小したが,同国のきびしい輸入代替政策等を反映して入超傾向は依然として継続するものとみられる。日本の対印主要輸出品目としては金属品,機械機器,化学品などがあり,また主要輸入品目は鉄鉱石,銑鉄,マンガン鉱石などがある。
(う) 経済技術協力関係
わが国の対印経済協力として1958年世銀主催のもとに結成された対印コンソーシアムに参加して以来,1970年度までに約1,978億円の円借款を供与してきたが,1971年度には第10次円借款として91.4億円,海底石油開発計画円借款として55.4億円,第11次円借款として310億円をそれぞれ供与したほか,74.2億円の円借款債務繰延べを認めたので円借款供与累計総額は,約2,509億円(うち債務繰延べ額308.9億円)となつた。
また,政府は技術協力面においては農業面に重点をおき,1968年模範農場を改組して設置した農業普及センター(4か所現在まで4カ年の協力を了し,うち2センターは1972年3月に3カ年協力を延長した。残りの2センターも12月同様に延長予定)およびダンダカラニヤ,バラルコート地区農業開発計画に対する協力を通じ,近代稲作技術の普及につとめるとともに,農業技術の改善を通じる地域開発に協力しているほか,在アグラ・インド救ライ・センターに対する機械供与,研修生の受入れ,専門家の派遣を通じ技術協力をいつそう進めている。わが国は1971年中に専門家28名,日本青年海外協力隊10名の派遣および研修員53名の受入れを行なつている。
(あ) 概 観
民政移管方式および東パキスタン自治権拡大問題をめぐつて1971年3月15日からダッカで行なわれたヤヒヤ大統領,ラーマン・アワミ連盟総裁およびブットー人民党総裁の3者会談は,結局,不調に終り,3月25日夜半からパキスタン軍はラーマン総裁の逮捕を皮切りに東パに対する武力弾圧に乗り出した。
これに対し,東パ出身の軍人,学生,アワミ連盟党員等は東パ解放軍を組織し,東パ各地において反政府ゲリラ活動を開始し,他方インドに難を逃れたアワミ連盟幹部は4月17日バングラデシュ人民共和国(the Peop1e's Repub1ic of Bang1adesh)の樹立を宣言した。
その後,東パ難民のインドヘの大量流入(インド側発表によれば1,000万人近く)も手伝い,印パ関係は悪化の一途を辿り,11月21日,インド・東パキスタン国境で武力衝突がおこり2月3日からは西パおよびカシミール方面においても両国は戦争状態に突入した。12月16日,東パにおけるパキスタン軍は無条件降伏し,翌17日にはパキスタンがインドの西部戦線での停戦要求に応じたことにより印パ戦争は一応終了した。
12月20日ヤヒヤ大統領は辞任し,後事をブットー人民党総裁に託した。ブットー新大統領は12月23日文民内閣を発足させ,1969年3月以末続いていた軍政に終止符を打つた。
他方,ラーマン・アワミ連盟総裁は1972年1月8日ブットー大統領により釈放され,10日ダッカに帰着し,翌11日バングラデシュ首相に就任した。
ブットー大統領はラーマン首相に対し東西両パの連帯保持を呼びかけているが,同首相はこれを拒否している。
3月31日現在バングラデシュを承認した国は54カ国に上つており(日本は2月10日に承認),パキスタンは建国後24年にして東パを失なうに至つたといえよう。
ブットー政権は軍政時代からの戒厳令を継続したままで思い切つた経済,労働,農地,教育,保健面での諸改革を行なつているが,インドとの間の停戦違反事件の続発,インドに捕われている9万人余のパキスタン軍捕虜およびバングラデシュ在住パキスタン人の本国帰還問題,外貨不足,東パ市場の喪失等による経済の沈滞,憲法の制定,野党からの戒厳令撤廃要求,シンド州,バルチスタン州および北西辺境州の自治権拡大要求等の難問が山積しており,4月14日に新国会が開会される予定にはなつているが,同政権の前途は険しい。
ヤヒヤ前大統領は米国,中国,ソ連3国との友好関係の維持を外交の基本としていたが,1971年3月の東パ動乱の発生後12月の印パ戦争に至るまでソ連は終始東パおよびインド側を支援する態度をとつたのに対し,中国はパキスタンの立場を支持した。米国は印パ戦争中,反印的行動に出た。パキスタンとしては,中国及び米国との友好関係を維持しつつ,ソ連との関係再調整を目指していると思われる。ブットー大統領の訪ソ(72年3月)は,この試みとみてよいであろう。
(い) 経 済 関 係
1971年におけるわが国の対パキスタン貿易は輸出1億1,339万ドル(対前年比18.1%減),輸入5,807万ドル(対前年比37.1%増)で,パキスタンの外貨不足による年初からの厳しい輸入制限,3月からの東パ動乱の発生,5月からのパキスタンによる2国間政府借款の一方的返済停止およびこれに伴なうわが国の対パ輸出保険の引受停止,及び新規円借款供与の見送り,12月の印パ戦争等に影響され,わが国の対パ輸出は前年に比しかなり減少したが,西パからの原綿買付増により対パ輸入は大幅に増大した。
(う) 経済技術協力関係
わが国は世銀による対パキスタン債権国会議への参加国として,パキスタンに対し1961年から1970年まで9回にわたり総額2億5,500万ドルの円借款を供与した。
技術協力面においては,わが国から1971年1月イスラマバード水道調査団,同年2月西パキスタン鉱物資源調査団及びフイッティ・クリーク港建設計画調査団が派遣された。また1971年中に海外技術協力事業団により専門家(5名,いずれも前年よりの継続)の派遣・研修員(36名)の受入れ,および電気通信研究センターに対する1,400万円の機材供与が行なわれた。
1971年末の印パ戦争における在東パ・パキスタン軍の全面敗北を契機として,東パキスタンはバングラデシュ人民共和国として独立を達成した。
年が明けて72年1月10日に,西パキスタンに捕えられていたムジブル・ラーマン・アワミ連盟総裁が釈放されてダッカに帰り,翌11日,暫定憲法令が布告され,12日,ムジブル・ラーマンを首相とし非同盟,世俗主義(secu1ar-ism),ナショナリズム,社会主義にたつ新政権が発足するに至つた。
バングラデシュは72年3月末までに我国を含む50ケ国以上から承認を受けた。ただし,パキスタンは3月末現在バングラデシュを承認しておらず,分離独立に伴う両国間の話し合いも始められていない。
ムジブル・ラーマン首相は既にインドのガンジー首相と三回にわたって会談し,3月19日にはインドとの間に印ソ条約とすこぶる類似点の多い友好協力平和条約の調印をおこなつた。インドはまた大規模な援助約束を行つたと伝えられている。他方,3月始めにはソ連を訪問したが,バングラデシュ・ソ連共同宣言において,両国間友好関係が確認されると共にソ連の広汎な対バングラデシュ援助が約束された。
我国は2月10日にバングラデシュを承認したのち,3月中旬には福田外相のサマド外相宛親書を持参した外相特使としての早川衆議院議員及び他3名の議員がダッカを訪れ,また3月下旬には政府事務レベルのバングラデシュ実情把握のための調査団が派遣された。
一方,バングラデシュからは2月中旬,ラーマン首相の命を受けたパニ特使が来日し,3月初めには東京にバングラデシュ大使館が設置され,3月末にはクドス官房副長官及びアラムギール大蔵次官補がわが国の行政機構調査のため来日した。
こうした人的交流が行われる一方,戦乱により甚大な損害を被ったバングラデシュに対する緊急人道援助もおこなわれている。71年3月の東パ紛争勃発以来,既に我国は,インドに流入した難民及びこの地域の住民に対し600万ドル以上の人道的援助を国連を通じ供与してきたが,さらに72年3月17日にはバングラデシュに対し百万ドル相当の尿素肥料を国連を通じ供与する旨の閣議決定をおこなつた。バングラデシュは食糧不足,国内運輸交通手段の破壊,工業施設の遊休等により深刻な経済的社会的困難に直面しており,国際社会の一層の救援の努力が必要であると考えられる。