アジア地域

 

 (9) マレイシア

(あ) 概説

(イ) 1970年9月ラーマン前首相からラザク現首相への政権交代が行なわれたが,1971年2月に2年振りに国会が再開され,以後マレイシアの内政は比較的安定した状態にある。しかしながら,同国は,人種問題,失業問題,国境周辺の共産ゲリラ等の問題を依然としてかかえており,これら諸問題を解決するとともにマレイシア経済の発展を図ることを目標として,政府は国会の議決を経て1971年より第2次マレイシア計画を実施するにいたつた。同計画において,政府は複合民族国家であるマレイシアにおいて最優先とされるべき事項は国家統一であるという認識のもとに,人種融合およびより衡平な所得の分配に政策の重点をおくべき段階に達したとし,(i)人種の如何にかかわらずすべての国民の所得水準を引上げ,雇用の機会を増大させることにより貧困をなくすることおよび(ii)一定の人種が経済の一定の機能と結びつくという状態をなくする如き方法でマレイシア社会を再構成し,経済的不均衡を是正することを二大目標に置いている。

(ロ) 安全保障問題については従来の英国との防衛相互援助取極を終了せしめ,1971年11月に英国,豪州,ニュージーランド,シンガポールとの5カ国防衛取極が発効した。この結果,マレイシアの防衛は,シンガポールとともに,新しい5カ国共同防衛体制に依存し,英,豪,ニュージーランド軍が駐留することとなつた。

(ハ) 外交面においては,ラザク首相はかねてより東南アジア地域の平和維持の方策として東南アジア中立化構想を提唱していたが,1971年11月クアラ・ルンプールにおいて行なわれたASEAN5カ国外相会議は,「東南アジアが域外大国の如何なる干渉にも影響されないところの,平和,自由,中立の地帯として域外大国から尊重され承認されることを確保するよう必要な努力を行なう」旨の宣言を行なつた。その後もラザク首相はこの中立化構想を各国に説明するため,1971年12月プーマ・ラオス首相を招待し,さらに1972年2月ビルマを訪問した。

中華人民共和国との関係については,ラザク首相就任以来対中接近の姿勢を示している。1971年5月,マレイシア貿易使節団は初めて中華人民共和国を非公式訪問し,同年8月中華人民共和国貿易使節団がマレイシアを訪問した。また,マレイシアは1971年国連総会において中華人民共和国の国連加盟に賛成票を投じたが,現在のところ政経分離の方針をもつて同国との交流を行なつている。また,同国は,1971年中にポーランド,モンゴル,チェコスロヴァキアとの外交関係をそれぞれ樹立した。

(ニ) マレイシア経済は豊かな天然資源に恵まれ概して順調な発展をとげてきた。1971年の経済成長率は約5%(1970年6.5%)と見込まれている。これは一部の一次産品の国際価格が低調であつたためである。マレイシア経済は,ゴム,すず,木材等の一次産品の輸出に大きく依存している結果,これら一次産品の需要状況による価格変動が同国経済に大きな影響をおよぼす点に問題がある。政府は,この対策として,第2次マレイシア計画において,漸進的工業化を計るとともに農業の多角化をめざし,パームオイル,米等の増産を積極的に進めつつある。

(ホ) わが国とマレイシアとの関係は従来とも友好関係にあり,1971年5月クアラ・ルンプールで開催された第6回東南アジア開発閣僚会議に出席のため愛知外相(当時)がマレイシアを訪問し,同年10月にはラザク首相夫妻がわが国を公式訪問するなど両国間の友好関係はさらに緊密化した。ラザク首相訪問の機会に,政府は第2次マレイシア計画に対し360億円の借款を供与することを約束した。

(い) 経 済 関 係

わが国とマレイシァの経済関係は従来より緊密な関係にあり貿易も年々上昇してきた。1971年の対マレイシア貿易額は輸出2億406万米ドル,輸入3億7,203万米ドルとなつており,前年度に比較し輸出は23%増加したが輸入は11%の減少となつた。しかし,日・マレイシア貿易は依然としてわが国の入超となつている。輸入減退の理由は主要輸出品であるゴム,すず,木材等の値下りおよび輸出量の減少にある。わが国の対マレイシア輸出の中では機械類が最も多く,次いで鉄鋼,化学品,繊維品等であり,輸入品は木材,すず,ゴム,鉄鉱石等の一次産品が主なものとなつている。なお,西マレイシアの対外貿易をとつてみると,わが国の地位は1971年10月現在貿易総額において第1位,輸出においては12%を占め米国に次いで第2位,輸入においては20%を占め第1位であつた。

(う) 経済協力関係

(イ) マレイシア政府は第2次マレイシア計画達成のため先進各国に対し経済援助を要請している。1971年10月,わが国は本件計画援助のため360億円の借款を供与する意向を表明し,1972年2月本件借款取極に関する両国政府間の交渉が行なわれ,3月29日クアラ・ルンプールにおいて借款供与に関する書簡交換が行なわれた。

(ロ) わが国は,マレイシアに対する技術協力として,研修員600名の受入れ,専門家234名の派遣,海外青年協力隊員169名の派遣を行なつているほか,稲作機械化訓練センターを設立し稲の二期作化に協力している。

(ハ) わが国民間企業がマレイシア政府機関,現地企業等と合弁し,資本,技術等を提供しマレイシア経済の発展に寄与している事例は多く,1971年11月現在60件を越えている。その業種も鉱業,農業,漁業関係をはじめ製鉄,電気製品,化学製品,パルプ,繊維関係,機械,車輌等の製造等広い分野に及んでいる。

 (10) シンガポール

(あ) 概    説

(イ)1971年のシンガポールの内政・社会情勢は引続き安定していた。政治面で注目される事象としては,1970年から1971年にかけ人民戦線,工人党等4つの新政党が誕生したことがあげられる。これは既存の野党たるバリサン・ソシアリス(社会主義戦線)が弱体化している関係から,政府に批判的な新しい勢力の出現という意味で注目される。現在,リー・クァン・ユー政府の与党人民行動党(PAP)は,議会の全議席を有している。また,1971年5月には,政府による新聞弾圧が行なわれ,内外の注目を集めたが,本件は外国共産勢力がシンガポール内に勢力を扶殖することを阻止するためであると説明されている。一時事態は紛糾したが,社会的混乱を生ずるほどには至らなかつた。

(ロ) 安全保障関係については,従来の英国との防衛相互援助取極を終結せしめ,1971年11月1日英国,豪州,ニュージーランド,マレイシアとの間の5カ国防衛取極が発効した。この結果,シンガポール,マレイシア地域の防衛は新しい5カ国共同防衛体制に移行した。

(ハ)外交面においては,リー首相は,10月から11月にかけて西欧諸国,東欧諸国(ブルガリア,ルーマニア,ユーゴスラヴィア)およびインドを訪問した他,1972年3月にはシンガポール独立以来の懸案であつたマレイシア訪間を行なう等可能な限り広範囲の国との友好関係保持に努めている。中国問題については,中華人民共和国の国連加盟に対し従来通り賛成投票し,10月には中華総商会より独立後初の訪中使節団を派遣したが,政府は現在のところ国交開設の考えはなく,その対中態度は依然として明確な政経分離政策をとつている。

(ニ) 経済面については,1971年も順調な経済発展を遂げた。貿易収支は大幅赤字となつているが,これは外国からの投資,各種サービス業観光業等の収入でカヴァーされ,71年の国民総生産は22億9,500万米ドルで前年比14%の成長率を達成した。外貨保有高13億米ドル,1人当り国民所得1,176米ドルと,他の東南アジア諸国に比しきわめて高い水準を維持している。

(ホ) わが国との関係は友好裡に推移しており,とくに経済分野における関係の緊密化に対応し,両国間の人の交流は活発化している。1971年4月シンガポールで開催された第4回アジア開発銀行総会に福田大蔵大臣(当時)が出席し,同年5月には愛知外務大臣(当時)がマレイシアに赴く途次シンガポールを訪問した。シンガポールからは同年4月に軽工業使節団および貿易使節団が来日し,また1972年3月ゴー・ケン・スイ国防大臣が訪日した。

(ヘ) 1971年1月29日両国間で署名された新しい「所得に対する二重課税の回避および脱税の防止に関する条約」は,所要の国内手続を了し同年8月3日発効した。本条約は,既存の同趣旨の条約にシンガポールが独立した事態をもふまえ若干の手直しを加えたものである。

(ト) 同年12月1日,両国は相互査証免除取極を締結し1972年1月1日同取極は発効した。この結果,両国国民は観光等の目的で3カ月以内滞在する場合には査証を要しないこととなつた。

(い) 経 済 関 係

わが国とシンガポールとの経済関係は従来より極めて密接な関係にあり,貿易額も年々上昇している。1971年の貿易は,わが国よりの輸出5億882万6,000米ドル,輸入1億1,387万500米ドルとなつており,前年に比し,輸出20%,輸入32%と,それぞれ大幅な増加を示した。日・シ貿易は,1971年においても4.5対1と引続きわが国の大幅な出超を記録した。

シンガポールの対外貿易に占めるわが国の地位は輸入において第1位,輸出においては西マレイシア,米国に次いで第3位であつた。貿易額全体においても西マレイシアを抜いて最大の貿易相手国となつた。

わが国の輸出品目は化学繊維および織物,鉄鋼一次産品,モーターサイクル,プラスチック,家庭電気製品等であり,輸入品は石油製品,非鉄金属クズ等である。

(う) 経済協力関係

(イ) 1966年10月わが国政府はシンガポール政府に対し2,500万シンガポールドル相当の円借款供与を約束したが,これにもとづく貸付契約が1971年1月署名され,造船資材,通信衛星地上局アンテナ建設資材等を供与することとなり,衛星地上局アンテナについては1971年9月末完成した。

(ロ) 技術協力関係についてはこれまでに研修員266名の受入れ,専門家121名の派遣等を行なつた。また,両国政府の協力による原型生産訓練センターを通ずる技術協力を実施している。

(ハ) わが国民間企業がシンガポール政府機関,現地企業等と合弁し資金,技術等を提供しシンガポール経済開発に寄与している事例は多く,1971年11月現在約80件にのぼつている。その業務分野は造船,鉄鋼製品,機械,化学製品,繊維,家庭電気製品,食料品,木材パルプその他各種製造事業を始め金融,百貨店,レストラン,観光,プラント設計会社等のサービス関係等広い分野にわたつている。

 (11) インドネシア

(あ) 概    説

(イ) 1965年のいわゆる「9月30日」事件後スハルト大統領を中心として樹立された現政権は,スカルノ政権時代の容共政策に大幅の修正を加え,近隣諸国と国交関係を調整するとともに,国連,IMFその他の国際機関に復帰し,欧米諸国との関係も緊密化して,壊滅に頻した国家財政の建て直しや経済の復興に努力を集中した結果,同国の経済の安定と復興は見るべき成果をおさめてきている。

(ロ) このようなスハルト政権の努力に対し,わが国は他の欧米諸国とも協力して対インドネシア援助国会議の一員として積極的な経済援助・技術援助を行ない,同国の政治および経済の安定に協力している。米国とならんで最大の援助国となつているわが国のインドネシアに対する経済援助は,1969年に発足した同国の経済開発5カ年計画の実施に大きな役割を果たしており,わが国とインドネシアとの関係は,ますます緊密化しつつある。他方,スハルト政権の積極的な外資導入政策に応え,わが国民間企業のインドネシアに対する進出も目覚しく,これらわが国民間資本の進出が上記政府援助と相まつて,同国経済の繁栄と安定に貢献することが期待される。

(ハ) 1971年7月,インドネシアは,スハルト政権発足後最初の総選挙を実施したが,その結果,同政権の実質的与党たる職能グループ連合(ゴルカル)が全投票数の65パーセントを獲得し,スハルト政権の政治的基盤の強固さが確保された。

(ニ) 日本・インドネシア両国間の関係はきわめて友好裡に推移しており,特に経済関係の緊密化に応じ両国間の人の交流が活発化している。

(ホ) インドネシア水域における漁業は,1970年7月日本側漁業者とインドネシア政府との暫定取決(2年間有効)に基づく合意の線に沿つて実施された。

(い) 経 済 関 係

(イ) 1966年以降わが国とインドネシアとの貿易は輸出入とも増加しているが,1971年の貿易総額は13億741万ドルを記録し,1968年比3倍に達した。この3年間に特に輸入の増加は著しく,1971年は輸出4億5,352万ドルに対し,輸入8億5,389万ドルとなり,入超額は4億38万ドルに達した。これはインドネシアにおける資源開発の進捗とわが国の需要増大とが相俟つて,石油,木材などの輸入が著増したことによるものであつて,他方,わが国の輸出は対インドネシア経済協力を通じ機械,金属品などが主体をなした。

(ロ) わが国の民間投資については,従来PS方式(生産分与方式)により,1960年4月以来10件(うち1件廃業)の企業が進出し協力を行なつてきたが,1967年1月の外資導入法の制定により外国人の投資が認められることになり,同法にもとづくわが国からの企業進出(日本の証券取得許可べース)は,1971年3月現在48件に達している。投資分野としては,PS方式によるものでは,石油,林業が中心であり,その他の企業進出は繊維,水産,鉄鋼等におよんでいる。

(ハ) インドネシアには約40のわが国商社駐在員事務所があるが,1957年の工業省・商業省・共同省令および1970年12月の商業省令にもとづき,商業活動は原則として認められていない。インドネシア政府は1971年7月にこれの施行細則ともいうべき「外国商社代表の許可申請に関する規則」を発表し,民族企業の商業活動を保護育成するための各種措置を定めた。これに対して,わが国は,かかる規制措置があまり性急に実施に移される場合には日イ間の貿易関係のみならず,従来わが国企業がインドネシアの経済開発に果してきた積極的役割にも好ましくない影響を与えることが危倶されるとしてインドネシア側と協議を行なつている。

(ニ) インドネシア政府は,1968年7月同国にあるわが国主要商社の駐在員事務所に対し,これらの事務所が事実上商業活動を行なつていることを理由に,同年7月以降総取引高のO.5%をとりあえず納付するよう申し渡してきた。これに対しわが国商社代表は毎年度の納付額につきインドネシア税務当局と話し合いを重ねているが,1971年7月,前年度の法人税課税の根拠とすべき各商社の利益額については,各商社の総営業収入から営業費用を控除した額を各々のグローバルな取引に対するインドネシア取引の比率により按分した額とすること等につき合意が行なわれた。

(う) 経済協力関係

(イ)わが国は1966年以来インドネシア経済の安定と復興のため,IGGI(Inter-Governmental Group on Indonesia すなわち対インドネシア援助国会議)のフォーラムを通じ,他のインドネシア援助諸国と協調しつつ,同国に対する経済援助をおこなつている。わが国は米国とともに対イ援助の中で主要な役割を果たしてきている。

1971年度援助については,1971年6月,わが国は,新規分として(1)商品援助5,500万ドル,(2)プロジェクト援助1,200万ドルの両借款と,(3)KR食糧援助(贈与)1,000万ドルの供与を約束するとともに,7,800万ドルの信用供与(日本米購入のための2,000万ドルの延払信用供与を含む)。を将来行なうとの意図を表明した。このほか1968年度以降3年間に意図表明を行なつていた信用供与のうちから合計4,300万ドルのプロジエクト援助の供与を具体化することとした。その後,日本,インドネシア両国政府は2,000万ドル相当の日本米の延払輸出についての合意を取決め,実施した。さらに1970年4月パリにおいて開催された援助国会議において合意のみられた債務救済策を実施に移した。

(ロ) わが国は1971年度の技術協力として,同年12月までに132名の研修員の受入れ,および92名の専門家の派遣を行なつたほか,医療器具,漁具などの機材を供与し,河川計画,資源開発,農業開発,家族計画,医療協力のための調査団を派遣した。

なお,現在わが国がインドネシア政府との取決めにもとづいて行なつている技術協力には,(1)西部ジャワ州における米の種子生産,農業機械化のための訓練ならびにそれらの普及活動に対する協力,(2)西部ジャワのボゴールにおける農業研究協力,(3)中部ジャワのタジュムにおけるパイロット農場への協力,(4)漁業に関する研究・教育協力がある。

 

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