(あ) 概 説
1962年にプーマ殿下を首相とする三派連合政府が成立したが,1963年,スパヌウォン殿下のパテト・ラオ(左派)側がヴィエンチャンからサムヌアヘ引揚げ,プーマ殿下の現政権(中立派および右派)と決別したまま現在に至つている。1970年3月,パテト・ラオ側の5項目提案を皮切りにプーマ,スパヌウォン両殿下間に和平交渉のための書簡の往復があつたが見るべき進展はなかつた。その後1971年に入つてからも,数回にわたり書簡往復があつたが,パテト・ラオ側は,会談開始の前提条件として米空軍による爆撃の無条件全面停止を要求しているのに対し,プーマ側は,部分停戦の後,全ラオス問題解決のための会談開催を提案し,双方の主張が対立している。1972年1月2日に実施された第7期国民議会議員選挙においてもパテト・ラオ側は参加しなかつた。いずれにせよ,ラオス問題は,本来ラオス国内勢力2派間の紛争であるが,共産側の補給路となつているホー・チ・ミン・ルートがラオスを縦断していることおよび北ヴィエトナムが直接軍事介入していることから,ヴィエトナム問題と密接に関連しており,最終的解決はインドシナ全体の問題解決にまたねばならないであろう。
ラオス領内の北ヴィエトナム軍は現在約6~7万人といわれ,パテト・ラオに対する支援ならびに,南部ラオスのいわゆるホー・チ・ミン・ルートの確保に当つているとみられる。
経済面においては,国防費を中心とする支出が増大し,財政赤字が累増している。このため,ラオス政府は,IMFの勧告を受け入れて,1971年11月8日,公認自由為替レートを従来の1米ドル500キープから600キープに切下げた。
また外交面では,従来よりプーマ政府は中立政策を標榜しており,1971年2月に行なわれた南ヴィエトナム軍のラオス進攻に際しては,全ての軍隊のラオス領よりの即時撤退の要求を内容とする声明を発表した。これに関し,わが国はアジアの関係国と協議の上,ラオス問題に関し,ジュネーブ会議共同議長国およびICC(国際休戦監視委員会)構成国に対し申し入れを行ない,ラオス政府声明の立場を支持するとともに,ラオス問題解決のためにこれら諸国が適切な措置をとるよう要請した。1971年10月の国連総会本会議における中国代表権問題票決では,ラオス政府はアルバニア案に賛成,逆重要事項指定決議案には棄権した。
わが国とラオスとの友好関係は良好であり,政治,経済両面での協力についてラオスのわが国に寄せる期待は大きい。今後とも,わが国は特に経済協力面での協力を推進するものと考えられ,両国関係は一層緊密化しよう。
(い) 経 済 関 係
わが国とラオスとの貿易関係は,わが国の大幅出超である。わが国の対ラオス輸出は機械類,繊維品を中心に1969年820万ドル,1970年667万7千ドル,1971年620万7千ドルとなつている。わが国の輸入は主として雑貨類で,その額は1969年7千ドル,1970年4万9千ドル,1971年2万5千ドルとなつている(日本通関統計)。
(う) 経済・技術協力関係
(イ) ラオス外国為替操作基金(FEOF)への拠出
ラオスの為替安定,国内インフレ防止等を目的として,1964年米,英,仏,豪4カ国の拠出により設立されたラオス外国為替操作基金に対し,わが国は1965年に50万ドル,66年,67年,68年,69年にそれぞれ170万ドル,70年に200万ドル,71年には230万ドルを拠出した。
(ロ) ナムグム・ダム建設工事
ナムグム・ダム建設計画はエカフェ・メコン委員会によるメコン河流域総合開発のための基幹的事業で,1966年5月,世銀を管理者とする「ナムグム・ダム開発基金」(3,000万ドル)が設立された。わが国はこれに496万ドルを無償拠出した。
本件工事は,わが国の建設業者が請負い,1968年11月から着工し,1971年12月2日の完工式をもつて第1期工事(3万kw発電)を完成した。
(ハ) ワッタイ空港拡張計画
わが国は,首都ヴィエンチャンのワッタイ空港の滑走路を2,000mから3,000mに延長する第1期工事のため120万ドルの贈与を行ない,工事は70年7月に完成したが,さらに第2期工事として,高速離脱誘導路,照明施設等の工事のため100万ドルの贈与を決定し,工事を進めていたところ72年3月末完成を見た。
(ニ) ケネディ・ラウンド食糧援助
ラオスの食糧不足の緩和と農業開発のため,わが国は1967年の国際穀物協定の食糧援助規約に基づき,ラオス政府に対し1968年12月,食糧(米,30万ドル)および農業物資(20万ドル),1969年12月には農業物資(70万ドル),70年1月には食糧(米,50万ドル),の援助を行ない,これまで総計170万ドルを供与ずみであり,さらに72年1月7日には,両国政府間において100万ドル(米)の贈与に関する交換公文の署名が行われた。
(ホ) 専門家および日本青年海外協力隊員の派遣,研修員の受入れ
わが国は,コロンボ・プラン,その他により,1960年から1971年12月末までに専門家152名を派遣し,研修員を186名受け入れている。また上記期間中のラオスヘの日本青年海外協力隊員派遣は183名となつている。
(ヘ) ラオス・タイ間電気通信計画
わが国は,71年2月,ラオス・タイ間の既存の電気通信施設の改善のため,3,200万円の贈与を決定し,工事を進めていたところ72年2月18日に至り工事が完成した。
(ト) タゴン農業開発協力
ヴィエンチャン平野のタゴン地区800ヘクタールに灌漑農場モデルを完成する目的で1968年以来わが国の技術協力により調査,設計を進めてきた。1970年3月アジア開発銀行の融資(97万ドル)が決定し,わが国は本開発計画の一環としてこのタゴン地区内に100ヘクタールのパイロット・ファームを開設するため,すでに専門家の派遣のほか機材の供与も行ない,右の100ヘクタール中35ヘクタールの整地開墾等の整備工事が進捗しており,72年4月中に工事完了の見込みで,ついで直ちにパイロット・ファーム実施の段階に入る予定である。
(あ) 概 説
1969年成立した第3次タノム内閣は,タノム,プラパート両実力者の連繋を中心として,国家の安全保障の確保と経済開発の推進という従来からの二大政策路線を踏襲して来た。
しかるに1971年11月タノム首相は政変を断行し,憲法の廃止,国会及び内閣の解散等を行ない,タノムを首班として設立された革命評議会が実権を掌握した。今次政変は激動する国際情勢と最近の内政不安定に対処するための強力な国内体制建て直し策であり,革命評議会の政策の基本路線は前内閣と変つていない。
国内治安の面においては東北,北部および南部における共産ゲリラ活動があり,その総数は約4千名といわれている。これらゲリラ活動は未だ初期の段階にあり重大な脅威とはなつていないが,事態の改善が急速に行なわれるともみられない。
対外的には米中接近,中華人民共和国の国連加盟,ニクソン・ドクトリンの進展等タイをとりまく国際情勢に新展開がみられたが,タイの対米協調路線に変化はなかつた。またASPACおよびASEAN等の周辺諸国との地域協力も積極的に行なう姿勢を崩していない。
在タイ米軍については両国の話し合いにより第1次および第2次撤兵が行なわれ,現在約3万2千人がタイに駐留しているが,その大部分は空軍である。今後の撤兵計画については未だ何等発表されていない。
また南ヴィエトナムに派遣されていたタイ軍は1972年2月初めに殆んどが引揚げた。
一方中華人民共和国に対してタイは,政変前話し合いの態度を示唆する動きを見せたが,政変後は,中華人民共和国をめぐる国際状勢の変化特にニクソン大統領の訪中,訪ソの成り行きを見守る態度をとつている。ソ連およびその他の共産圏諸国とは従来より貿易促進の動きがあつたが,ソ連との通商協定締結(1970年末)後,特に新らしい動きはない。また北ヴィエトナムとの間で,在タイ,ヴィエトナム難民の送還につき,1970年末交渉が開始されたが,交渉は一時中止され,1971年5月に至りヴィエトナム戦況が難民送還を不可能とした理由で交渉は無期延期となり,その後再開されていない。
カンボディアとは1970年5月に9年振りに外交関係を再開した。タイはカンボディアに対し若干の軍事援助を行ない,1972年1月には両国国境警備に関する協定が署名され,その軍事的協力関係を一層密接化する方向にある。
経済面において,タイの国際収支は米等一次産品の輸出不振ヴィエトナム特需の減少等から悪化傾向にあり,これを改善するため関税引上措置をとり(1970年),また1971年12月の多角的通貨調整の際には,バーツをドルとの同率切下を行なつた。なお,1971年10月より,第3次経済社会開発計画が実施に移され,同計画では農産品の生産向上とその輸出振興を主要目標としている。
わが国との関係においては友好関係の強化のため貿易,経済協力等の拡大努力が行なわれている。なお,1937年に発效した日タイ友好通商航海条約は,1971年2月先效したが,同月国内法の範囲内で出来得る限りの好意的待遇を相互に与える旨の書簡が交換され,現在新条約締結交渉開始のための事務的話合が進められている。
(い) 経 済 関 係
日・タイ貿易は,従来よりわが方の大幅な出超を続けており(1971年実績では2億1,600万ドルの出超),タイは機会あるごとにわが国に対し片貿易の是正を強く要請しているが,ここ一両年日・タイ双方の努力により片貿易は多少改善される傾向にある。貿易不均衡是正対策等につき両国政府間で協議するため1968年に設立された日・タイ貿易合同委員会の第4回会議は,1971年11月のタイの政変により若干延期されたが,1972年1月19日より25日まで東京で開催された。他方民間レヴェルにおいては,1971年11月東京で経団連日タイ協力委員会とタイ貿易院(BOT)との間で会議が開催され,一般経済問題,貿易および工業問題につき討議が重ねられた。
(う) 経済協力関係
1968年1月に成立したタイに対する216億円の円借款は1971年1月の期限終了を前に1年間の延長が行なわれたが,なお36億4千万円について貸付契約が締結されていなかつたため,1972年1月7日更に3ヵ月間延長する旨の書簡が両国政府の間で交換された。また,1962年の特別円新協定にもとづく96億円の支払は,1969年5月完了したが,タイ政府勘定には,現在未調達分の29億円と利子約2億4千万円が残つている。
技術協力の分野では,1971年4月より同年10月末までに,135名の研修員を受け入れ,主として農業,医療等の技術訓練を行なつたほか,14名の日本人専門家を派遣し,医療,通信,農業等の技術指導を行なつた。また,1971年5月南部タイのスラータニーに道路建設訓練センターを設立し,専門家の派遣および機械供与を実施した。
(あ) 概 説
(イ) 1971年初頭以降フィリピンの治安情勢が若干悪化したが,マルコス大統領は,1972年1月24日開会の上下両院合同会議における年頭教書をもつて,治安の改善を最重点政策にかかげ,議会に対し刑法の改正および警察制度改革の必要性を訴えた。
(ロ) 1971年6月以降現行憲法改正を審議するための改憲会議が開催された。しかし,議長の選出,委員会の構成などの審議手続および人事問題の審議に手間どり,現在までのところ実質審議は余り進捗していない。しかしながら,本件改正は議院内閣制の採用,二院制の廃止等現行の国政の仕組みを変える内容を持つものとなる可能性がある。改憲会議は1971年6月12日の独立記念日までに改正憲法草案を提出すべく努力している趣である。
(ハ)1971年11月8日,上院議員の三分の一(8名)および地方自治体の首長(州知事,市長,町長)等の改選が行なわれた。上院議員選挙では,野党リベラル党が6名を獲得,与党ナショナリスタ党は2名を得たにとどまつた。この改選の結果上院における与野党の勢力分野は,与党ナショナリスタ党16,野党リラベル党8となつた。なお,下院は定員110名中,ナショナリスタ党は90名を占めている。
(ニ) 1969年末以降の外貨危機を中心に悪化した経済情勢は国際機関,日,米等の先進国の援助の下に1970年2月から実施した経済安定化計画(変動為替相場制の採用,金融引締め,輸出ドライヴ等)が効を奏した結果,輸出の増加と輸入の減少が図られ改善の方向に向かつた。国際収支は1969年は136百万ドルの赤字であつたが,1970年は21百万ドルの黒字を記録した。かかる情勢にかんがみ政府は,経済4カ年計画(1972-75会計年度)においては,GNP成長率を5.5%から7%に引き上げた。
(ホ) 外交面では,対米関係には大きな動きはみられなかつた。基地協定,ラウレル・ラングレー協定等既存の条約関係の再検討のための政府間交渉の開始については,1969年来両国政府間において合意を見ているが,未だ開催されるに至つていない。東南アジア諸国との協調はフィリピン外交の一つの基本方針であるが,政府はASEAN諸国の協力強化を重視しており,1971年11月,クアラルンプールで開催されたASEAN外相会議において東南アジアの中立化のための宣言に署名した。さらに,1972年1月外交政策審議会と国家安全保障会議との合同委員会において,ルーマニアとユーゴースラヴィアとの外交関係の設立を正式に決定し,1972年3月10日これら両国との外交関係を正式に樹立した。これにより,フィリピンははじめての共産圏の国と外交関係を開始した。さらに,本年2月にソ連および中華人民共和国とも通商関係を開設する方針が決定され,ロムアルデス・レイテ州知事(マルコス大統領の義弟)およびラウレル上院議員の中華人民共和国訪問(前者は1972年2月後者は同年3月),イメルダ・マルコス大統領夫人のソ連訪問(1972年3月)等これら両国との接触も行なわれるにいたつている。
(ヘ) 日比両国の関係は貿易,経済協力,投資等の経済関係を中心に逐年緊密化の度合を加えつつある。しかしながら,1971年夏以降フィリピン海域を航行する日本船舶が盗賊に襲われる事件が数件発生したことおよび1971年11月マカテイ市において住友商事マニラ支店長が射殺される事件が起こつたことが不幸な出来事として記録される。前者についてはその後両国政府間で話合いが行なわれ,フィリピン側では警護措置を一段と強化することとなつた。後者については,現在捜査が行なわれている。これらの事件はあくまで偶発的な事象であると考えられる。他方,日比両国親善関係の進展を示す事例としては,フィリピン政府によるカリラヤ日本庭園建設計画および1972年1月のフィリピンにおける比日協会の設立を挙げることができる。前者は太平洋戦争により同国で戦没した日本人約50万人のための日本側の慰霊碑建設計画につき,フィリピン政府においても協力を行ない,カリラヤ地域に同慰霊碑を含む日本式な慰霊園を建設せんとするものである。1972年1月比日協会発会式を兼ねて同国を訪問した岸信介日比協会会長が,同庭園建設の鍬入れ式を行なつた。また,1972年1-2月,大慈弥嘉久(前通商産業次官)を団長とする経済協力調査団が訪比した。
(い) 経済関係
(イ) 比上院外交委員会は1972年3月1日日比友好通商航海条約(1960年署名)の批准拒否勧告決議を採択した。本件条約の帰趨については,当面明らかではないが,日比間の経済関係は,両国が地理的に近接していること,および両国経済に大きな相互補完関係があることにより,逐年進展している。1971年には日本の対比輸出4億6,479万ドル,輸入5億1,381万ドルを記録し,わが国は米国に次いで比国第二の貿易相手国であつた。日本の主要輸出品はプラント類等機械類,金属・化学製品であり,主要輸入品は木材,銅,鉄鉱石である。しかし,1971年には,比側の国際収支対策と日本側の原材料需要の減退等から両国貿易は前年を若干下回つた。
(ロ) わが国の対比投資は,現在約20社が合弁の形で進出しており,直接投資の総額は1971年末約15百万ドルに達した。投資分野は商業,鉱業,金属業等である。
(う) 経済協力関係
(i) 1956年締結の賠償協定(総額5億5,000万ドル,20年支払い)にもとづく援助として,引続き機械類,輸送用機器等を贈与した。1971年末までに3億8,523万ドルの履行を了した(履行率70%)。
(ii) 1971年11月,政府は234億円(うち商品援助144億円,プロジェクト援助90億円)の円借款を供与することを約束した。現在商品援助を実施中であり,プロジェクト援助については両国間で対象プロジェクトを協議中である。
(iii) 1971年5月,フィリピンの米不足解決の一助としてKR援助による100万ドル相当の日本米の贈与を実施した。また,同年11月,両政府は日本米1万トンの延払輸出を行なうことに合意した。
(iv) 1971年5月,わが国の市中銀行団(為替銀行15行より成る)は,フィリピン中央銀行に対し総額5,000万ドルのスタンドバイ・クレディット(期間1年)を供与した。これは前年に続き2度目のものである。
(v) その他1969年2月締結された日比友好道路建設のための借款(総額3,000万ドル)にもとづく援助は現在実施中である。
(vi) 政府べースの技術協力としては,1971年末までに研修員1,120名の受入れおよび専門家122名の派遣を行ない,また青年海外協力隊員213名を派遣した。そのほか,家内小規模工業技術開発センターおよびパイロット農場2箇所に対する技術協力を実施している。