(1) 南ヴィエトナムとの関係
(イ) 概 説
南ヴィエトナムにおいては,1970年に引続き,戦闘は鎮静化の方向をたどっていたが,1972年の3月末に至り,共産側は,1968年のテト攻勢以来最大とみられる軍事攻勢をかけてきている。他方,南ヴィエトナムの,国内情勢も全般的に平静に推移している。1969年9月に成立したチャン・ティエン・キエム内閣は,1971年6月,一部改造を行ない,計画開発省を新たに設置したほか教育省については,専任の大臣を任命し,大蔵,情報,少数民族の各大臣を交替させた。
1971年8月29日には下院議員選挙が行なわれ159名の議員が選出されたが,その結果,政府派,中間派,反政府派などの新政治ブロックが下院に形成された。
1971年10月3日には,1967年に選出されたチュウ・キイ正副大統領の任期(4年)が満了となるところから,正副大統領選挙が行なわれた。
当初チュウ大統領のほか1963年11月ジェム政権を打倒したクーデターの指導者であったズオン・ヴァン・ミン将軍およびキイ副大統領が立候補したが,両者が立候補を撤回した結果,立候補者はチュウ大統領のみとなつた。このためチュウ大統領は大統領選挙を国民の信任を問う機会とし,信任票が50%以下の場合は信任されなかったものとして就任しない旨声明したが選挙投票の結果,投票率87.9%,得票率94・3%の信任を得て再選された。
再選後チュウ大統領は71年11月15日,新経済政策を発表するなど長期的経済発展に取組む姿勢を明らかにした。
72年2月26日には米・南越8項目和平提案(同27日パリ会談で正式提案)に関して,チュウ大統領はテレビ・ラジオを通じて演説し,「共産側は,1969年7月11日南越が提案した選挙(解放戦線が暴力を放棄し,選挙の結果を受諾するなら,選挙に参加することが出来,選挙委員会に代表を送ることができる……など)を自分が組織するのでは共産側が不利になると言つているので,われわれの善意を示すため69年7月の提案を補足する新たな提案を行なうものである」として,共産側が今次提案(合意達成後6ケ月以内に大統領選挙を実施し,選挙実施の1ケ月前に現職の正副大統領は辞任し,上院議長が暫定管理政府の首班となるなど)に応ずるならば選挙1ケ月前に辞任する用意があることを明らかにした。
1971年における反政府運動は,単一立候補による大統領選挙の阻止という共通の目標を有していたため,反政府各勢力は一応のまとまりを示した。しかし反政府諸勢力は各派閥の利害の対立,各派内部の分裂,指導者の欠如といつた本質的弱みを内在している上に,反政府派の一部には戦争下の現時点で強力な指導力を発揮しうる人物としてチュウ大統領に代わるべき人物がいないとの認識のもとに,積極的に支持しないまでも当分はチュウ大統領に政権を担当してもらうより仕方がないとする考えがあつたため,1971年を通じ反政府運動は大きな盛り上りをみせず,特に大統領選挙終了後は若干あつた反政府活動も全く鳴りをひそめ,政局の基調には大きな変化がみられなかつた。
さらに,従来から反政府運動の中心であつた仏教徒急進派は70年の上院議員の半数改選においてその支持するグループを当選させ,合法的枠内での政治活動を行なう姿勢をみせたが,このような傾向は71年8月の下院選挙においてもますます強まつてきており,このことは反政府活動全体に影響を与えるものとして注目される。
71年の軍事情勢は総体的には昨年に引続き鎮静化の方向をたどりつつ推移し,治安改善とヴィエトナム化政策が大幅に促進されることとなつた。共産軍の活動は,DMZ・中部高原・東部カンボディアなどの国境地帯において時おり一時的な攻撃を行なうことはあつたものの,南越政権に影響をおよぼすまでに至らなかつた。
かかる傾向は,(あ)南越軍が南ラオス進攻作戦をはじめ国境以遠に積極的に作戦を行なつたこと,(い)平定計画が順調に進展したこと,(う)米空軍のホー・チ・ミン・ルート爆撃により共産軍の補給活動を阻害させたこと,(え)共産軍がカンボディアおよびラオスにおける作戦を重点的に行なったこと,などの理由によるものと見られる。
このような情勢を背景として,72年1月13日,ニクソン米大統領は2月1日~5月1日の第7次撤兵計画を発表し,5月1日には在南越米軍兵力は6万9千人になると言明し,(72年3月28日現在在南越米軍兵力は9万9,400名,その他の同盟国軍は同年1月29日現在合計4万8,300人)米軍の撤退を進捗させている。
1972年に入り2月のテトの頃ないしニクソン米大統領の訪中の時期に焦点を合わせて,共産側の大攻勢が噂されていたが,実際には時期的にずれ込んで3月末に至り,南ヴィエトナム北部,中部及び南都に大規模な攻撃が開始された。
パリ和平会談を中心とする和平の動きについては,71年7月1日,南ヴィエトナム臨時革命政府が7項目和平提案を提示した。72年1月25日,ニクソン米大統領が北ヴィエトナムとの間に行なつてきた秘密会談を明らかにすると共に,8項目和平提案を発表し,1月27日,米・南ヴィエトナムの共同提案としてパリ和平会談で正式にこの提案を提示した。他方,北ヴィエトナムは,71年6月26日の米国との秘密会談で提示した9項目提案を公表し,さらに南ヴィエトナム臨時革命政府は前記7項目の主要2項目を詳述した提案を提示した。このように,双方の基本的立場,特にヴィエトナム問題の軍事的解決と政治的解決をめぐり,双方の立場には依然として大きな開きがあるものの,和平実現のためのねばり強い努力が続けられている。
しかし,3月23日の第147回会談ではポーター米首席代表が,「共産側が真面目な交渉に応ずるまで次回会談開催に応じない」と述べ,さらに3月24日にはニクソン米大統領が記者会見でパリ和平会談の停止を指示したことを明らかにするなど,3月31日現在会談は中断状態にある。以上のほかに,1972年2月には,ニクソン米大統領の訪中が実現され,さらに5月には同大統領の訪ソが予定されており,これらがヴィエトナム和平問題に新しい局面を開く端緒になるものと期待されている。
(ロ) 経済関係
1971年の南ヴィエトナム経済は,治安の改善を背景に順調な立直りをみせており,特にインフレの抑制に著しい成果をあげた。年末には,輸出産業の振興等を中心とした長期的な政策を打ち出し,同国経済は新たな発展段階をむかえようとしている。
農業,工業生産は前年に引き続いて拡大を続け,特に米の生産は,72年には自給を達成し得る見通しがついたとさえいわれている。
また,71年において特に注目されるのは,69年,70年とそれぞれ41%,30%の大幅な上昇をみせた物価が,11%程度の上昇にとどまり著しい改善をみせたことである。
1971年11月15日には,新経済政策が発表され,その一環としてピアストルの対ドルレートは70年に設定された「部分的平行為替相場」の範囲内で,為替取引の内容別に3本の異つたレートが設定され,従来よりの公定レートを含めると,南ヴィエトナムでは4本のレートが並存する形となつた。
なお,ピアストルの実勢レートは8月以後安定してきており,改訂後は対1米ドル412~415ピアストルとなり,はじめて公定レートとの乖離を解消した。
莫大な軍事費支出(71年度は歳出の55%)による赤字財政,極端に不均衡な貿易収支,米国援助への圧倒的依存等の基本的な問題は未解決であるが,インフレの鎮静化と生産の順調な回復は,今後の南ヴィエトナム経済にとつて明かるい材料ということが出来よう。
わが国の対南ヴィエトナム貿易については,依然としてわが方の大幅な出超が続いており,71年では,わが国の輸出1億4,937万ドルに対し,輸入はわずか419万ドルにとどまつている。
(ハ) 経済協力
1971年における対南ヴィエトナム経済協力の実績の概要は次のとおりである。
(あ) 無 償 協 力
昭和46年度予算において,ダニム発電所修復に対し6億8,780万円が,また,チョーライ病院改築計画のために7億円,および17億円の国庫債務負担行為(昭和46~47年度)が認められた。また新規の案件としては,戦災孤児を対象とした初級職業訓練センターの建設のため2億2,000万円の支出が認められた。
(い) 有 償 協 力
南ヴィエトナム国内における治安改善を背景として,71年9月には,カントー火力発電所計画に対し,57億6,OOO万円の円借款供与が決定され,その条件は,海外経済協力基金の資金により,年利3%,据置期間7年を含む25年返済となつている。
また,昭和47年2月に,サイゴン首都電話網計画に対し,20億3,000万円の円借款供与が行なわれ,条件は返済期間が18年である他はカントー発電所と同様である。
(う) 技 術 協 力
1971年中に,南ヴィエトナムからコロンボプランに基づき,主として農業関係の研修員を受け入れた他,同年末現在3人の日本人専門家が南ヴィエトナムに滞在し,医療,農業,日本語の各分野で技術指導を行なつている。
(2) 北ヴィエトナムとの関係
わが国と北ヴィエトナムとの間には国交関係はないが,民間べ一スによる人的・経済的な交流はここ2・3年拡大される傾向にあり,特に最近その傾向が強まつている。
また,72年2月には外務省員2名が北ヴィエトナム商業会議所より個人の資格で招待され,北ヴィエトナムを非行式に訪問し,商業会議所を中心とする関係者と一般的意見交換を行なう機会を持つた。
(イ) 民間べースによる交流
本邦人の北ヴィエトナム渡航(旅券発行数)は68年37件,69年50件,70年76件,71年92件と漸増を示している。
一方北ヴィエトナムからの来日者は,68年に48名(歌舞団45名を含む文化関係者のみ),69年には7名,70年には貿易代表団など7名,71年には大幅に増加し炭鉱,農業視察団および数年ぶりの原水禁大会の代表団など計20名,72年2月には14名からなる大型経済視察団などとなつている。
(口) 経 済 関 係
わが国と北ヴィエトナムとの貿易は,これまで概して輸入超過となつている。(ただし,1969年においては輸入は602万ドル,輸出は726万ドルで僅かながら輸出超過であつた)
両国間の貿易額はここ数年間増加せず,1969年のわが国の対北ヴィエトナム輸出は726万ドル,輸入は601万ドル,70年の輸出は502万ドル,輸入は632万ドル,71年は輸出が375万ドル,輸入が1,159万ドルとなつている。わが国の輸出は重化学工業品と軽工業品が圧倒的に大きな比重を占めており,特に軽工業品のうち繊維品の輸出に大きな伸びがみられる(70年は前年の2倍以上の伸び)。
わが国の北ヴィエトナムからの輸入は例年無煙炭(ホンゲイ炭)が大都分を占めており(1971年は82%),その他は原料品および食料品などである。
(あ) 概 説
カンボディアでは,1970年3月18日の政変後共産側との戦闘が勃発し,その後戦火は国内の各地に波及しているが,政府軍の装備充実とともに戦況は膠着状態にある。1971年2月8日ロン・ノル首相は突然心臓発作の病に倒れ,ハワイでの療養後4月12日帰国した。ロン・ノル首相の病気は徐々に快方に向つてはいるものの,首相の激務を遂行できるほどには回復せず,4月20日一応その職を辞したが,同首相に代わつて現在カンボディアの直面している難局に対処し得る適当な後継者がなく,結局国民および軍部の人望厚いロン・ノル元帥が首相として留任し,シリク・マタク前第一副首相を首相代行として5月6日第三次ロン・ノル内閣が成立した。カンボディア両院(国民議会および共和国会議)議員は1971年10月18日で任期満了となつたが,国内の広汎な地域で共産側との戦闘が続けられている現状では総選挙の実施が不可能であるため,政府は両院をそのままの構成で共和国憲法を審議,採択する機関として存続させることを決定し,両院は10月18日以降制憲議会に移行する旨の国家元首令が発出された。この結果,両院の立法府としての機能は消滅し,新憲法が制定されるまでの間暫定的にすべての立法は閣議の承認を経たうえで国家元首令をもつて行なうこととなつた。
制憲議会は政変2周年記念に当る1972年3月18日前に新憲法を制定するための審議を進めてきたが,この時期も差し迫つた2月末から憲法上の大統領選出手続規定等を巡つて政府と議会との対立が頂点に達した。また,同時期にプノンヘン法科大学学長の罷免問題に端を発した学生のシリク・マタク首相代行を非難する運動が起こり,これが益々大きくなつた。この事態を収拾するため,チエン・ヘン国家元首はロン・ノル首相に国家元首の権限を委譲することとなり,同首相は10日国家元首に就任した。
ロン・ノル元首は同日制憲議会で審議中の憲法草案廃棄を宣言し,更に11日付国家元首令をもつて制憲議会の解散を行つた。
カンボディアの国家機構は,1970年10月9日の共和制移行後も従来通りの体制であつたため,ロン・ノル元首は3月13日国家元首制度を廃止して大統領制にすること及びこれに伴なつて国家機構の改革を行なう旨発表し,14日ロン・ノル元首がカンボディア共和国初代大統領に就任し,大統領は三軍の司令官及び内閣の首班を兼ねることになつた。また21日にはソン・ゴク・タン元首相を首席大臣とする新内閣が発足した。
他方,シハヌーク殿下は,1970年5月5日北京でカンボディア王国民族連合政府を樹立したところ,セネガルは1971年8月同政府を承認し,現在22カ国がシハヌーク政府を承認している。
1970年3月からの戦争は,その後の戦闘地域の拡大とともに生産,流通等の面で,脆弱なカンボディア経済に深刻な影響を及ぼしているが,同政府は直面する経済的困難に対処するため,1971年10月29日,変則的な変動為替相場制度の採用,輸出入制度の改革を中心とする財政,金融,通貨など経済全般にわたる新経済政策を実施した。
更に,カンボディア政府はかねてより生活必需品の円滑な輸入を確保して民生の安定を図るため,為替支持基金の設立を検討してきたが,1971年11月のパリ会議及び1972年1月のプノンペンにおける準備会議において,IMF及び友好国の協力により総額約3,500万ドルの規模で基金設立が決まつた。基金にはカンボディア自身が,1,500万ドルを拠出しその他に米国1,250万ドル,日本500万ドル,豪州100万ドル,英国52万ドル,タイ25万ドル,ニュージーランド12万ドル,マレイシア10万ドルの拠出意図が表明された。カンボディア政府は3月1日付の国家元首令をもつて基金の設立を行ない,現在,同国政府と各国政府との間で拠出に関する二国間取極締結の準備が進められている。
わが国は,難民の流入あるいは戦闘に起因する輸送難によるプノンペンの食糧難を憂慮し,カンボディア側の要請にもとづき,日本赤十字社よりカンボディア赤十字杜に対して2万トンの米を贈与した。
(い) 経 済 関 係
わが国とカンボディアとの間の貿易取決めは1960年2月10日に署名され,以後累次にわたつて延長されているが,1972年1月12日この取決めの有効期間を更に一年間延長した。戦争によるカンボディアの生産力の低下,輸送難等により,両国間の貿易は大きく影響を受け,わが国のカンボディア向け輸出は1969年の2,350万ドルから1970年には1,078万ドルに激減し,1971年も略々同額の1,184万ドルであつた。カンボディアからの輸入も1969年の733万ドルから1970年には599万ドルに,更に1971年は223万ドルに激減している。
(う) 経済・技術協力関係
(イ) プレクトノット計画
戦争によりダム建設工事現場附近の治安が悪化したため,1970年7月以降は10名程度の邦人技術者がプノンペンでカンボディア技術者を指導し,小規模ではあるが工事を継続してきた。しかし,1971年9月25日工事現場が共産側の攻撃を受けたためその後現場における工事は事実上中断されている。
(ロ) メーズ・開発に対する協力
わが国は1968年11月の両国間取決めに基づいて,カンボディアのとうもろこし開発に協力するため専門家の派遣,機材の供与などの技術協力を行なつてきたが,カンボディア側の強い要望に応え,この取決めの有効期間を1974年11月まで延長し,この協力を今後更に3年間続けることとなつた。
(ハ) その他経済・技術協力
わが国は,カンボディアの治安が回復するまで研修員の受入れを中心とした技術協力を行なっており,1971年(12月末現在)に受入れた研修員は農林関係9名,運輸関係9名,郵政関係4名,行政関係11名,その他1名の合計34名である。専門家の派遣については必要最少限度に絞つており,現在派遣している専門家は日本語関係2名,経済関係1名およびメーズ関係1名の合計4名である。