アジア地域

 

3. 各国との関係

 

 (1) 朝 鮮 半 島

(あ) 概     説

わが国は,朝鮮半島における緊張が緩和の途をたどることを強く念願し,韓国の発展と国民福祉の向上にできる限り協力することがこの地域における平和と安全に寄与するとの基本的立場に基づき,1965年韓国と国交を回復して以来両国間の友好協力関係の発展につとめてきた。

過去1年間の韓国情勢をふりかえつてみると,まず1971年4月大統領選挙が行なわれ,朴正煕(パクチョンヒ)大統領が新民党金大中(キムデチュン)候補を約95万票差で破り3選された。1ヵ月後の5月には国会議員選挙が実施され,与党の民主共和党が勝利を収めたが,野党新民党は善戦した。

ニクソン大統領の訪中声明等に見られる世界的緊張緩和の傾向を背景に韓国および北朝鮮の両赤十字社間に離散家族捜しなどを目的とする話合いを行なうとの合意が8月に成立し,9月より板門店において両赤十字社間に予備会談が進められ今日に至つている。

12月朴大統領は,北朝鮮の脅威を強調し,非常事態宣言を発した。韓国は1971年第2次経済開発5カ年計画をほぼ成功裡に終了し,72年より第3次5カ年計画を開始している。

次に過去1年間の日韓両国間の関係をふりかえつてみると,定期閣僚会議,貿易会議,漁業共同委員会会議が開かれて,両国の直面する国際情勢,貿易,経済協力,漁業等の問題に関し話合いが行なわれるとともに,在日韓国人の法的地位問題について当局者間に協議が行なわれた。

(い) 韓国との関係

(イ) 第5回日韓定期閣僚会議

第5回日韓定期閣僚会議は1971年8月10日,11日の両日東京において開催された。

会議には,日本側からは木村外務大臣臨時代理兼経済企画庁長官,水田大蔵大臣,赤城農林大臣,田中通産大臣,丹羽運輸大臣,金山駐韓国大使および太田水産庁長官,韓国側から金鶴裂(キム・ハクユル)副総理兼経済企画院長官,金溶植(キム・ヨンシク)外務部長官,南悳裕(ナム・ドク)財務部長官,金甫(キムポ)ヒョン農林部長官,李洛善(イ・ナクソン)商工部長官,張盛煥(チヤンスンフアン)交通部長官,()ホ駐日大使および金東珠(キムドンス)水産庁長が出席した。会議は全体会議および個別会議において両国関係一般および国際情勢,経済協力,貿易,経済企画および財務,農林水産ならびに交通運輸の各問題について,率直な意見の交換を行ない,共同コミュニケの採択を行なつた。

この会議において,両国の閣僚は,アジアの平和と繁栄のために両国が協調し努力することを確認するとともに,わが国が,韓国側の要請にこたえて韓国第3次経済開発5カ年計画に対して協力することを確認し,とくに農業開発のための調査団の派遣,重工業育成計画および地下鉄建設のための資金協力等を約束するなど両国協力関係緊密化のための顕著な成果を収めた。そして共同コミュニケの趣旨にしたがい,1971年12月に済州島観光開発調査団,72年1月に第3次経済開発5カ年計画調査団をそれぞれ韓国に派遣した。

(ロ) 在日韓国人の法的地位問題

日韓法的地位協定に基づく永住権取得の5年間の申請期間は,1971年1月16日に終了し,申請者総数は351,955名に達した。このうち1972年3月末までに293,095名の者が協定永住を許可されている。

このような状況を背景として1971年4月および10月の2回にわたり,東京において日韓実務者会談が開催され,在日韓国人の法的地位および待遇問題に関して関係者間で意見の交換が行なわれた。

(ハ) 竹 島 問 題

前年に引き続き,1971年7月初めに行なつた竹島周辺の海上巡視の結果に基づき,同年9月6日韓国の竹島不法占拠に対して抗議し,却時撤退を求める口上書を発出したが,韓国側は10月12日同じく口上書をもつて同島が韓国領なる旨を主張し,従前からの態度を変えていない。

(ニ) 経 済 関 係

1971年のわが国の対韓輸出額は8億5,647万ドルで,韓国はわが国にとりアメリカに次ぎ世界第2位の輸出市場となつており,他方,同国からの輸入は2億7,295万ドルとなつている。

韓国側は従来から,日韓貿易の不均衡を是正するため,わが国に対し,一次産品を始めとする韓国産品の輸入自由化ないし輸入枠の拡大,関税率の引き下げ,加工貿易の促進などを要求してきた。このような韓国側の要求に対しては,わが国としてもできる限りの努力を続けており,その結果,わが国の韓国に対する輸出入比率は1969年の5.7対1,1970年の3.6対1から71年には3.2対1となり,アンバランスはかなり是正されている。

(i) 第8次日韓貿易会議

第8次貿易会議は,1971年6月24日から26日まで東京において開催された。この会議においては,両国間貿易の不均衡是正問題,関税問題,加工貿易問題,工業所有権相互保護問題などが討議された。

(ii) のりの貿易に関する会談

第8次貿易会議の一環として,のりの貿易に関する会談が,1971年4月12日から14日まで東京において開催され,のり貿易に関する諸問題が討議された。

(iii) 第4次日韓農林水産技術協力委員会

農林水産技術協力委員会の第4次会議は,1971年12月6日から9日までソウルにおいて開催された。この会議においては,農林水産分野における日韓両国間の技術協力を促進するための諸方策が討議された。

(ホ) 経済協力関係

(i) 無償経済協力

韓国に対するわが国の無償経済協力は,両国の間の請求権・経済協力協定(1965年6月22日署名)により,1965年12月18日より10年間にわたり3億ドルに相当する円貨の日本の生産物および日本人の役務が供与されることになつている。1971年12月末現在,供与額は,契約認証額で568億5,673万円(約1億5,793万ドル),支払額では,清算勘定残高相殺の115億2,396万円を含めて620億2,872万円(約1億7,230万ドル)である。なお,主な供与品目は,農水産開発機材,漁船および関係機材,肥料,繊維品,建設資材,機械類などである。

(ii) 有償経済協力

韓国に対するわが国の有償経済協力(海外経済協力基金による長期低利貸付け)は,請求権・経済協力協定により,1965年12月18日から10年間(各年均等)にわたり2億ドルに相当する円貨が供与されることになつている。

これまでに,30件の事業計画について合意が成立し,このうち26件に対し貸付契約が締結され,1971年12月17日に終了した第6年度現在で10,429万ドルを供与し,すでに14件が供与を完了している。援助の対象となつた主たる事業は,中小企業育成3,O00万ドル,鉄道設備改良2,137万ドル,昭陽江ダム2,165万ドル,海運振興817万ドル,総合製鉄所800万ドル,高速道路684万ドルなどである。

(iii) 民間信用供与

民間信用の供与状況は,1971年12月末現在の承認実績で,一般プラント4億8,991万ドル,漁業協力3,193万ドル,船舶輸出2,921万ドルで,総額5億5,105万ドルとなつている。

(iv) 総合製鉄所建設計画に対する協力

1969年8月の第3回日韓定期閣僚会議において,韓国側は,総合製鉄所の建設計画に対する協力をわが国に要請してきた。

この時の合意に基づき,同年9月にわが国から韓国に鉄鋼調査団が派遣され,その後両国政府の事務当局間で技術的,資金的問題について協議が行なわれた結果,同年12月,本計画に対する協力は,請求権・経済協力協定の無償,有償の資金7,370万ドルおよび輸銀べ一スの輸出延払5,000万ドル,計1億2,370万ドルの融資により行なわれることになつた。

総合製鉄所の規模は,粗鋼年産103万トンで,工期は1970年4月に着工,1973年7月末までに完成を予定している。

(v) 金烏(クモウ)工業高等学校設立計画に対する協力

1970年7月の第4回日韓定期閣僚会議において,韓国側は経済開発計画を通じて工業化の促進を推進中であり,これに伴ない重工業分野に従事する技術工および技能工の需要が急増している実情に鑑み,これら中堅技術者の養成を目的とする工業高等学校設立計画における外貨分についての協力(無償)を要請し,わが国はこれに同意した。その後,わが国は調査団を現地に派遣するとともに韓国側事務当局と折衝を行なつた。その結果,わが国は1965年の請求権・経済協力協定とは別に,経済開発特別援助費で協力することになつた。

なお,同校は,3年制,5学科15学級(1学級60名)の規模で,慶尚北道善山郡亀尾に外貨310万ドル,内資324万ドルで建設される計画である。

(vi) 韓国の第3次5カ年計画に対する協力

1971年の第5回日韓定期閣僚会議において,韓国側は,1972年から始まる第3次経済開発5カ年計画における所要外貨資金の協力,とくに同計画中の農業部門開発および重工業の育成(重機械総合工場,特殊鋼工場,鋳物銑工場,伸銅工場の4プロジェクト)に対する協力を要請した。これに対し,わが国は,第3次5カ年計画の所要外貨資金に協力してゆくことを確認し,今後,各種調査団の派遣などを通じて,韓国側と協議して行くことになつた。なお,重工業育成に対する資本協力は通常の民間延払による輸出案件として取扱われることになつた。

(vii) 新 規 借 款

1970年の第4回日韓定期閣僚会議において,韓国側は,韓国の農業の近代化,輸出産業の育成および中小企業の振興のため日本からの機器資材の輸入確保に要する1億ドルの新規借款の供与をわが国に要請した。これに対し,わが国は前向きに対処することを約束した。その後,両国の事務当局間で協議を行なつた結果,農水産業の近代化のため72億円までの円貨による借款が輸銀により供与される書簡が1971年2月18日に交換され,次いで同年6月29日輸出産業の育成および中小企業の振興のため108億円までの円貨による借款供与の書簡が交換された。

1971年の第5回日韓定期閣僚会議において,韓国側は,同国の首都圏の交通事情改善のための国鉄電化およびソウルの地下鉄建設計画実施に要する8,000万ドルの借款供与を要請し,わが国はこれに同意した。その後両国の事務当局間に折衝が行なわれた結果,同年12月30日海外経済協力基金から272億4,000万円までの円貨による借款供与の書簡が交換された。

(viii) 直接投資

韓国の外資導入は,借款形態によるものが圧倒的な比重を占めているが,近年韓国政府は,借款の元利金償還問題を考慮して直接投資による外資の受入れを重視するようになり,外国企業の誘致に努めている。このような背景もあつて最近わが国の企業の間に対韓投資の気運がたかまり,1971年末現在,約168件,総額約4,833万ドルに達した。

(ix) 技術協力

韓国に対するわが国の技術協力のうち研修員受入れ,専門家派遣人数は1971年12月末までの累計でそれぞれ1,292名および189名に達している。また,1971年度1年間についていえば,工業技術訓練センターに対し,3,460万円の機材供与を行ない,1971年10月をもつて4年間のセンター協定期問を終了した。また医療協力として,寄生虫(フィラリア病)対策,成人病(ガン)対策のための医療器材を供与した。

(う) 北朝鮮との関係

わが国は北朝鮮と国交を有していないが,過去の歴史と地理的近接性に基づく事実上の接触は存在している。

(イ) 貿     易

わが国と北朝鮮との貿易は,1965年までは輸出入のバランスがほぼ保たれていたが,1966年以降は,わが国の入超が続いている。1971年の貿易総額は,通関統計で,総額5,853万ドル,そのうちわが国の輸出が2,892万ドル,輸入が2,961万ドルとなつている。

(ロ) 北朝鮮帰還問題

1959年12月に始まつた在日朝鮮人の北朝鮮帰還事業は,26,050世帯88,611名の帰還をみて,1967年1月所期の目的を達成し終了した。

その後,帰還協定有効期間中の申請ずみ帰還未了者の取扱いおよび新たに北朝鮮向け出国を希望してくる人々の取扱いについて日朝両赤十字間で話合いが行なわれてきたが,1970年12月より・モスクワにおいて開かれた両赤十字会談で,1971年2月5日合意が成立した。この合意文書に基づき,帰還未了者に対し,1971年5月から10月までの間帰還協定と同様の方式により6回にわたる暫定措置が実施され,377世帯1,081名が帰還した。

1971年11月以降の新規出国希望者に対しては,モスクワ会談の会談要録に基づき,一般外国人の出国と同様の手続により出国が認められることとなつた。

 (2) 中     国

(あ) 中華民国との関係

(イ) 中華民国総統府張群秘書長は,1971年7月25日から8月2日の間,非公式にわが国を来訪し,その間佐藤総理等と会談を行なつた。また周書楷外交部長は,リベリヤ大統領就任式参加の途次,同年12月27日わが国に立ち寄り,福田外務大臣と会談した。

(ロ) 1971年のわが国の対華貿易の総額は,12億935万ドル,うち輸出9億2,333万ドル,輸入2億8,602万ドルで,それぞれ前年比31.8パーセント,14.1パーセント増を記録した。

(ハ) 第5回日華貿易経済会議は,1971年5月26日から3日間台北において開催され,両国間の貿易不均衡問題,バナナの入札制による輸入,りんご輸出の拡大,ポンカン輸入の拡大などについて実質的話し合いが行われた。

(ニ) 政府べースの資金協力については,1965年4月日本政府は1億5,000万ドル相当の円借款供与を約し,1971年12月末現在1億498万ドルが支払われた。また電信電話拡充計画,砂糖工場,製塩工場のプロジェクトについて新規円借款2,624万ドルを供与することを1971年8月9日付交換公文によつて合意した。

民間べースの資金協力については,民間投資(証券投資)が1971年3月末現在359件7,290万ドル,延払い輸出が1970年度で170百万ドルとなつている。

(ホ) 中華民国に対する技術協力の面については研修員の受入れ,専門家の派遣などを行なつた。なお一昨年10月台北に開所された職業訓練センターにはわが方が派遣した15人の専門家が引き続き活動している。また,アジアそ菜センターの設立に当り,わが国も71年6月23日憲章および了解覚書に署名し,構成員の一員となり,第1年度分として4万ドルの資金を拠出した。

(ヘ) 二重課税防止のための日華租税協定の締結については,中華民国側の協定草案について事務当局で検討中である。

(ト) 1970年頃より,日華間の懸案として,尖閣諸島領有権問題および東シナ海大陸棚問題が表面化したが,日本政府としては,前者については,尖閣諸島がわが国の領土であることは議論の余地のない事実であるので,いかなる国の政府とも交渉する考えはないとの基本的立場を堅持しており,また後者については,日華間の円満なる話し合いにより解決したいとの方針をとつている。

(い) 中国大陸との関係

(イ) 1971年7月以降12月までの間に,中日友好協会など北京政府側の団体と公明党,日中国交回復促進議員連盟など日本側の5つの訪中団との間に共同コミュニケが調印された。これらのコミュニケにおいては,いずれも日中関係正常化に関する問題がとり上げられたが,北京政府側のこの問題に対する見解はおおむね従来の原則論を確認するのに止つた。たとえば,同年12月に調印された覚書貿易のコミュニケは,日中間の「政治原則」として,(i)中華人民共和国政府は,中国人民を代表する唯一の合法政府であること,(ii)台湾省は中華人民共和国の領土の不可分の一部であること,および(iii)日華条約は不法であり無効であつて廃棄されなければならないことを挙げている。

(ロ) 中華人民共和国を渡航先とする旅券の発行件数は,1970年(暦年)には,3,020件であつたものが,1971年には5,825件となり,文化革命以前を含めこれまでにおける最高の数字となつた。中華人民共和国への渡航者の中には,上記(イ)に述べた訪中団のほか,自民党若手議員団,美濃部東京都知事一行,関西財界代表団および東京経済人訪中団など多様な顔触れが見られたが,その大多数である約3,700名は広州交易会参加者により占められていた。なお,1972年4月には,民社党初の訪中代表団が北京を訪れた。

他方,1971年において中国本土から日本に入国した者の数は依然として少なく,9月に故松村謙三氏の葬儀に参列するため来日した王国権中日友好協会副会長を含め74名であつた。

(ハ) 1971年の日中貿易は,総額9億136万ドル(前年比9.6%増)に達し,史上最高値を記録した。輸出は5億7,819万ドルで,前年比1.6%増と伸び悩み,一方,輸入は3億2,317万ドルで,前年比27.3%増と大幅に増加し,その結果,わが国の対中華人民共和国出超額は約2.5億ドルに縮小した。

なお,日中貿易には,覚書貿易と「友好」商社を通ずる貿易の2つの方式があるが,最近は「友好」貿易の比重が一段と大きくなつてきており,1971年においても約90%に達している。

(ニ) 「日中覚書貿易」協定については,1972年次の取決めが,71年12月25日に,1年間の期限で調印された。

(ホ) 1970年12月以降,新華社報道,北京放送などは,累次,尖閣諸島の一部を構成する魚釣島,黄尾嶼,南小島,北小島などは中国領であると主張してきたが,1971年12月30日,中華人民共和国政府は外交部声明を発し,上記趣旨を初めて公式に主張した。さらに,72年3月,国連の海底平和利用委員会でも同様な主張を行なつた。

 (3) モンゴル

1971年2月,モンゴル政府は,1970年の万博への招待の返礼として,わが国の親善使節団を招待したところ,わが国政府は,右招待を受け,1971年9月10日から9月15日までの間,中島茂喜衆議院議員を団長とする6名の政府派遣親善使節団を同国に派遣した。同使節団は,モンゴル訪問中,ルブサン第1副首相,リンチン外務大臣等モンゴル政府要人と会見した。

 

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