-インド亜大陸の情勢-

第8節 インド亜大陸の情勢

 

1. 概     況

 

1971年のインド亜大陸情勢は,東パ自治運動に端を発して印パの武力衝突が起るなど概して不安定な様相を呈した。印パ紛争は,印パ両国の永年の紛争関係を背景としているばかりでなく,インド亜大陸をめぐる米,中,ソ三国の利害が錯綜しているため,国連その他の調停工作も奏功せず,戦火を阻止できなかつたのみならず,今後のインド亜大陸三国間の関係調整にも少なからぬ困難が伴なうものとみられる。

このほか,セイロンにおいても,71年4月上旬以降極左分子による,テロ活動が全土に広がつたといわれたが,11月15日以降は全面的に外出禁止令も解除され,一応治安は平常に復した模様である。この動きとの関連で,70年6月以来外交関係を保持してきた北鮮の在セイロン大使館員が国外退去された事件が注目された。

 

2. 印パ紛争の経緯

 

インド,パキスタン間の紛争の歴史は古く,1947年の独立直後に第1回の,次いで1965年に第2回目の大規模の武力衝突が,主としてカシミール問題を原因として起つたが,今次の紛争は東パキスタンを舞台とするものであつた。

1970年12月に行われたパキスタンの総選挙においてアワミ連盟(総裁ムジブル・ラーマン)は,軍事・外交のみ中央政府が管轄し,その他は地方政府の管轄とするべきであるとの東パキスタンの自治権の拡大を主張して,大勝し,第1党となつた。これに対し,強力な中央政府の維持を主張する軍部および第2党となった人民党(総裁,ブットー現パキスタン大統領)との話合がつかず,ヤヒヤ大統領自らダッカに赴きラーマン総裁と会談した。この間,多年にわたる西パによる東パ支配に対する東パ人の不満が高まり,各種の反政府サボタージュが行なわれた。ヤヒヤ大統領,ラーマン,ブットー両総裁による三者会談も最終的には決裂し,1971年3月25日の深更,東パ駐屯軍による大規模な東パ民衆に対する弾圧が開始された。これと同時にアワミ連盟は非合法化され,ラーマン総裁は逮捕された。この武力弾圧開始後インドヘ流入した難民の数は12月3日の開戦直前までに約1,000万人に近づいたといわれ,インドの経済,社会,政治に深刻な不安を与え,印パ関係は次第に悪化し,避難民問題は戦争の直接原因となるに至つた。1971年4月17日バングラデシュ人民共和国政府がインド領内において樹立され,インドは同政府を公然と支持し,ゲリラの訓練,武器供与などを行い積極的な支持を与えたといわれる。インドは,対外的には東パ問題は東西パキスタン間の政治的解決による以外解決の方法はないとして印パ間の交渉を拒否し続ける態度をとつていた。雨期(6月-10月)のため不活発であったゲリラ活動は,雨期明けと共に活発化し,時局が緊迫する中でガンジー首相は10月24日より20日間欧米6ヶ国(白,墺,英,米,仏,独)を訪問しインドの立場について各国の理解を求めた。この間,ブットー人民党総裁を団長とするパキスタン政府代表団は11月5日より3日間中華人民共和国を訪問した。わが国を始め米ソ英仏などの主要国の努力及び国連による調停工作もさしたる効果を上げぬまま,11月21日東パ国境地帯全面にわたつて,インド軍に支援された解放軍の本格的攻撃が開始された。これに対し,パキスタン空軍は12月3日,スリナガル,アムリッツアル,パタンコートなどのインド空軍基地を爆撃するとともにカシミール停戦ラインを越えてインド側に進撃し,インド軍もこれに対し反撃に出て(12月4日安保理に提出された国連カシミール停戦監視団報告)印パは遂に全面戦争に突入した。

東パ駐屯の政府軍は優勢なインド軍に抗し得ず12月16日無条件降伏し,続いて西パにおいてもインド側の呼びかけに従がい12月17日停戦が成立し,戦闘は開戦後2週間でインド側の圧倒的優勢の下に終了した。

 

3. 停戦後の情勢

 

(1) 停戦後の印パ関係調整に際し,西パに抑留されていたラーマン総裁の処遇が最大の焦点となつていたところ,1972年1月8日ラーマン総裁は釈放され英国,インドを経由して10日ダッカに帰還したが,到着直後国民に対し「パキスタンとの絆は断たれた。バングラデシュは社会主義,民主主義および脱宗教主義を基本原則とする」旨を声明した。1月12日には,ラーマン総裁は首相に就任し,解放軍の武装解除を指令するなど国造りの第1歩を踏み出したが,この頃より本紛争の直接の原因となった東パ難民の帰国は急速な進捗を見せ始めた。ラーマン首相は首相就任後初の外国訪問として2月6日から2日間カルカタを訪問しガンジー首相と会談した結果,バングラデシュに残留するインド部隊は3月25日までに撤兵することが声明された。(その後撤兵の時期は早まり,3月16日に撤兵は一応終了した)。ラーマン首相はインド訪問に次いで,ソ連を訪問し(3月1日~5日),ソ連がバングラデシュに対し各種の経済援助を約したことが共同宣言により発表された。その後面国の間に貿易協定も締結され(3月31日),ソ連との関係緊密化が注目された。バングラデシュ最初の独立記念日(3月26日)に際し,ラーマン首相はラジオを通じて,銀行,保険会社,各種産業の国有化,新憲法の制定などの方針を明らかにし,対外的には非同盟および平和共存の外交方針を堅持する旨を発表した。

(2) バングラデシュの承認問題については,インド(12月6日),ブータン(7日)の承認に引続き,停戦成立後1972年1月に入ると東欧諸国を始めビルマ,ソ連,英国,西独などの承認が続き,わが国も2月10日承認に踏み切つた。その後承認国は増加し,3月末で54カ国に達した。

(3) 停戦後のパキスタンにおいては,ヤヒヤ大統領が退陣し,ブットー人民党総裁が大統領兼戒厳総司令官に就任した(12月20日)。ブットー大統領は,バングラデシュとの関係調整については,「東パはパキスタンの1部である」と強硬姿勢を固持し,各国に対し東パとの話合いがつくまで承認を待つよう要請すると共に,1部の承認国に対しては,報復措置として断交し,英連邦諸国のバングラデシュ承認を見越して1月30日英連邦を脱退した。その後,ブットー大統領はトルコ,モロッコ,アルジェリア,チュニジア,リビア,エジプト,およびシリアの回教諸国を訪問した(1月24日-28日)のに引続き,北京を訪問し(1月31日-2月2日),インドを非難した両国共同声明が発表された。内政面においては,ブットー大統領は,時局にかんがみ,軍の機構改革と人事異動を発表し(3月3日),3月6日にはラジオを通じて,国会の開会(1972年4月14日)と戒厳令の撤廃(1972年8月14日)を約した。外交活動も引続き活発で,ブットー大統領はソ連をも訪問した(3月16日-18日)。この間,ヒューム英外相のパキスタン訪問も行なわれた(3月20日)。

(4) インドにおいては,ガンジー首相はバングラデシュを公式訪問し(3月17日-19日),両国首相間に期間25年の友好協力平和条約と共同宣言が調印され,両国関係は一層緊密となった。印パ戦争後,初めての選挙として注目されたインドの州議会議員選挙(3月5日-11日)で,与党コングレス党(R)は71年3月の連邦下院総選挙を上まわる大勝利を収めた。一方,シン外相はアフガニスタンおよびソ連を訪問した(3月31日-4月3日)。このようなインド亜大陸3国要人の相次ぐモスコー訪問により印パ会談開催の可能性は強くなったものとみられる。

 

4. 印パ紛争をめぐる米・中・ソの動き

 

(1) 国連においては,1971年12月4-6日にかけて印パ紛争問題を討議したが,米,中,ソ三大国の利害と思惑が激しく対立したため安保理に提出された決議案はいづれも否決され,本問題に対する常任理事国米,中,ソ間の見解の相違を調整することが不可能となり,12月6日の安保理の決議によつて問題は総会に付託審議されることとなつた。同決議に基づき,12月7日の総会は印パ紛争に関する審議を行い,わが国など33カ国共同提案になる決議案が絶対多数で可決されたものの,印パ両軍武力衝突収拾のための効果的措置をとることができず,結果的には東パにおけるインド軍の勝利によつて停戦がもたらされた。

(2) 米国は印パ問題には,当初から中立の立場を表明し西パ軍による武力弾圧当時には若干東パに好意的な態度をみせていたが,1971年夏以降漸次西パ支持の態度を明らかにし,12月15日には米第7艦隊の1部をベンガル湾へ派遣した。ソ連は東パにおいてパキスタン軍により武力弾圧が開始された後間もなく,4月2日付をもってポドゴルヌイ最高幹部会議長よりヤヒヤ大統領あてに書簡を送り,パキスタン政府軍の弾圧を非難し,東パ問題の政治的解決を要求してインドの立場を支持した。更に8月9日,インドとの間に期間20年の平和友好協力条約を締結し,他方,国連における印パ問題の討議においては終始インドの立場を支持し特に中国との間に激しい応酬が交わされた。中華人民共和国は1962年の中印戦争以来パキスタンと親密な関係にあり,西パ軍による東パ武力弾圧に際しては一切の公式表明を行なわず注目された。今次印パ紛争に際しても終始パキスタン支持の立場をとつて,国連においては激しいソ連,インド非難を行い注目された。また中華人民共和国は在ダッカ中華人民共和国総領事館を71年12月閉鎖し館員は全員72年1月に引揚げた。またニクソン大統領の中華人民共和国訪問(2月21日-28日)に際し発表された共同声明においても,中華人民共和国はパキスタン支持を明らかにした。

 

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