過去1年間における朝鮮半島の情勢は,北朝鮮からの大規模な挑発事件はみられなかつたのみならず,国際的な緊張緩和への風潮を背景に,特に「卓球外交」以来の米中関係の進展を契機として1971年後半には南北鮮間に対話(南北赤十字会談)が開始されるに至つた。この間,北朝鮮は経済建設の一段の飛躍を期し,米中頭越し取引きを警戒する態度を示しながらも,中華人民共和国との関係強化に一層努力し,他方韓国は社会主義諸国に柔軟姿勢を打ち出すと同時に国内引き締めの政策をとりつつある。
(1) 1970年8月の「8・15宣言」以来非敵性社会主義諸国との交流を緩和してきた韓国は,1971年8月に入って北朝鮮に対し「離散家族さがし運動」を呼びかけ,これに北朝鮮が応じて南北間に対話が開始された。しかしその後の予備会談は遅々として進展していない。
(2) 韓国は大統領選挙(4月),国会議員選挙(5月)を経て,大統領就任式(7月)に至るまで文字通り「政治の季節」に終始した。これらの選挙を通じて野党新民党の予想外の善戦が注目された。
(3) 韓国においては,8月以降広州団地事件,空軍特殊部隊反乱事件,KALビル事件,呉致成内務部長官解任事件等の不祥事件が相ついで発生した。またこれらに先立ち4月頃から逐次活発化してきた学生運動は,10月に入つて反体制的行動を帯びるに至り,朴大統領は衛戊令を発動してこれを弾圧した(10月15日~11月9日)。更に12月に入つて朴大統領は突如北朝鮮の対韓侵略の脅威を強調して国家非常事態を宣言し(12月6日),これに続いて「国家保衛に関する特別措置法」が公布施行され(12月27日),韓国は非常大権体制に入つた。
(4) 経済面についてみると,米国の新経済政策,わが国の円貨の変動為替相場への移行などは,第2次経済発展5カ年計画の最終年度として最近までの高度経済成長による各種の歪み是正への施策を遂行中の韓国経済の諸計画を大きく揺がし,国民はこれを日常生活への圧迫要因と感じ,社会情勢の安定度にも少なからず影響したとみられる。
(1) 北朝鮮は,ニクソン訪中発表,中華人民共和国の国連加盟等の世界情勢の変化を自己に有利とみて活発な外交活動を展開し,特に本年2月から3月にかけて6組の政府代表使節団をソ連,東欧,アフリカ,中近東,アジア,中南米の諸国に派遣し注目された。なお北朝鮮は9月以降,ユーゴスラヴィア(9月),シェラレオネ(10月),マルタ(12月),カメルーン(1972年3月)との外交関係を樹立した。
(2) 北朝鮮と中ソとの関係についてみると,北朝鮮はソ連との緊密な関係の持続をはかる一方中華人民共和国との交流も積極的に行ない,特に9月には朝中無償軍事援助協定を締結し注目されたが,依然として自主独立路線を堅持しているものとみられる。また北朝鮮は,1969年11月の日米共同声明以後目本軍国主義の復活を激しく非難し始めたが,日本軍国主義復活の脅威が朝中接近の共同基盤をなしているものとみられる。
(3) 北朝鮮は,国防建設および経済建設の併進策を推進した。国防建設については,北朝鮮は既に対韓侵攻の準傭を完了したと言われ,韓国ではこれを「7日戦争」あるいは「20日戦争」と呼んでいる。他方経済面については経済発展6カ年計画の初年度として,三大技術革新をめざし,社会主義諸国との経済交流に努めるとともにわが国に対しても活発な働きかけを行なつた。
(4) ニクソン訪中に対する北朝鮮の反応としては,「シハヌーク歓迎平壌市民大会における金日成首相演説」(8月6日),「溺れた者が拳を振り上げなぐろうとしても恐れる者は居ない」(1972年2月20目付労働新聞論評)及び「勝利は正義の偉業をめざす人民の側にある」(3月4日付労働新聞社説)にみられるとおり,北朝鮮はニクソン大統領の中華人民共和国訪問を「敗北者の行脚」という形でとらえ,これは中華人民共和国の大きな勝利であり,世界の革命的人民の勝利であると評価している。