-インドシナ問題-

 

第6節 インドシナ問題

 

1. 軍事情勢

 

1971年の乾期到来と共にカンボディアで軍事情勢が動き始め,プノンペン市貯油施設(9月20日),ブレクトノット・ダム建設現場に対する共産側の攻撃が行なわれたが,これは,将来の政治解決に際してのカンプチア民族統一戦線の独自性を主張するための布石として従来政府側との間に存在した「なれあい」の状況を破つたものとして注目をひいた。さらに11月には政治的,心理的効果を狙うとともに,カンボディア政府軍の国道6号線作戦の牽制を狙つて首都空港砲撃(11月9日)を皮切りとするプノンペン周辺の攻撃活発化があつた。12月に入るとラオス北部ジャール平原周辺において共産側の攻勢が例年より2ヵ月早く開始された(12月17日)が,今次攻勢については兵員・装備共に充実したものであること,特に防空戦闘力の向上と砲兵の充実ぶりが注目された。1972年1月上旬にはジャール平原およびポロヴェン高原は共産側の支配するところとなり,その後は北部ラオスの政府軍要衝ロンチェンをめぐる攻防が伝えられる。これらに対し米側は共産側の兵站活動阻止を目的とする北爆(9月21日,12月26日~30日)や随時の防禦的反応としての北爆を行なつた。またカンボディアの政局不安に焦点をあわせた共産側のプノンペン市砲撃(3月21日)もあつた。

軍事面については南越は比較的平静であつた。

 

2. パリ和平会談

 

第107回(1971年3月18日)以来2度延期された後ようやく開催された第108回会談(4月8日)以後の会談も特に進展をみせていない模様である。

第119回会談(7月1日)に至り,ビン南越臨時革命政府代表は,従来の10項目(69年5月8日),8項目(70年9月17日)両提案を解明するためとして米軍全面撤退期限明示,チュウ政権排除などを内容とする7項目の新提案を行なつた。米側はこれに対し検討を約しながら対案を示すことなく,ニクソン訪中受諾発表(7月16日)後関係国の反応を見守ることとしたものの如く,この間ブルース首席代表の更迭(7月28日)があつた。ポーター米首表は初参加の第128回会談(9月9日)で秘密交渉の提案を行なつたが,共産側の受入れるところとならず,以後会談は依然として何の進展もみせず,第135回会談(11月4日)頃よりポーター代表の共産側非難の語調が強まるようになつた。

72年1月25日ニクソン大統領は,69年8月以来北越側と12回の秘密会談が行なわれていたことを明らかにすると共に,右交渉の過程で米側より8項目(1月27日第142回パリ会談で米・南越共同正式提案)の,また,北越側より9項目(1月31日北越側公表)の和平提案がなされていることを明らかにした。右8項目提案は米軍全面撤退期限,南越大統領再選挙等共産側提案に歩み寄つた内容をも含んでいるとして,南越臨時革命政府の2項目詳説提案(2月3日)とともに注目をひいた。しかし交渉は,ニクソン大統領の訪中・訪ソの結果待ちという状況もあり,その後も進展をみせないまま第147回会談(3月23日)で米側の発意により会談は中断されることとなつた。

 

3. インドシナ3国の動き

 

 (1) 南    越

1971年10月3日の大統領選挙は,ミン将軍・キイ副大統領の立候補辞退によりチュウ大統領の単独選挙として施行されたが,軍事・治安情勢好転に起因する一般大衆の現状肯定的な心情を背景に圧倒的な支持の下にチュウ大統領が再選された。この間ミン・キイ両候補の去就をめぐる混乱があつたのにもかかわらず反政府グループの動きにはさしたる盛上りもなく,同選挙は南越の政治体制の安定性を裏付ける結果となつた。これに先立つ下院選挙(8月29日)でもチュウ派は過半数を確保している。

 (2) カンボディア

1971年4月20日,ロン・ノル首相の健康上の理由による内閣総辞職があつたものの,後継内閣はロン・ノル首相,シリク・マタク首相代行で発足(5月6日)し,その政治路線には変更はなかつた。その後経済政策失敗を理由にクン・タイ・リー商工相辞任(7月23日),治安不備を理由とするイン・タム第一副首相解任(9月24日)があつたが,政府が暫定的立法権掌握および国家非常事態宣言延長の措置をとつた(10月18日)こともあり,爾後特に政局は波乱のないまま推移していた。72年3月に至り山場にあつた憲法草案審議の過程で政府と制憲議会の対立が頂点に達し,国家元首の交代をみた(3月10日)。大統領制に移行した(3月13日)新政権は,ロン・ノル大統領下にソン・ゴク・タン首席大臣等の構成で発足した(3月21日)。

 (3) ラ オ ス

和平接触の面では,パテト・ラオ側のウォンサック特使が帰来し,(あ)爆撃停止後(い)停戦・連立政府問題を討議するとの2項目の提案を行なつた(5月12日)が,北越がホー・ルートを強化しているとみられることもあり,政府側の応ずるところとならず(5月26日),その後も話合いが行なわれたものの,ウォンサック特使はサムヌーアに帰任し(8月6日),プーマ首相の外遊(8月27日出発)もあつて,その後も進捗をみせていない。1972年に入り,1月2日にはパテト・ラオ不参加のまま総選挙が行なわれた。ニクソン大統領の8項目提案発表後パテト・ラオ側より特使再派遣申入れ(2月1日)が行なわれている。

 

4. 米国の動き

 

1971年3月の南越軍のラオス進攻終了(3月24日)後,ニクソン大統領は第5次撤兵計画を発表(4月7日)し,新たに10万人を撤兵させ11月末には南越残留兵力の上限を18万4千とすることを明らかにした。しかしインドシナ介入早期終結への圧力は減ぜず,上院外交委ヴィエトナム公聴会(4月20日開始),反戦デモ(4月24日)等の動きがあり,6月に入るとニューヨーク・タイムスなどにかかわるヴィエトナム問題秘密報告書の漏洩事件が起り(6月13日以降),ヴィエトナム政策につき米国政府の内外に対する威信にかかわる事件にまで発展するに至つた。7月1日の南越臨時革命政府の7項目提案もこの情勢を十分利用して行なわれたとみられる。しかしこの事件についてはニクソン大統領訪中受諾発表(7月16日)により国際的な関心がうすれたかの状況となつた。しかしその後の南越大統領選挙がチュウ大統領の単独選挙となつたこともあつて,結局は収拾されたものの,米国議会での軍事調達法案,対外援助法案の審議等を通じて再びインドシナ介入反対の動きがみられるようになつた。この間第6次撤兵計画(72年1月末残留兵力を最高13万9千とする)が発表された(11月12日)。その後ニクソン大統領は年頭記者会見(72年1月2日)で,南越情勢の安定化を背景に,全面撤兵が米兵捕虜釈放のみにかかつていることを明らかにし,1972年に入り,第7次撤兵計画(4月末に残留兵力を6万9千とする)を発表した(1月13日)。ニクソン大統領は更に前記2.の8項目提案を公表した(1月25日)が,マスキー上院議員はこれを批判し,全面撤退期限明示と南越政府のすべての政治勢力との和解を提唱している(2月2日)。

 

5. 共産側の動き

 

 (1) 北    越

国内的には,対米抗争への志気高揚,国内建設への意欲昂進を狙つたとみられる7年ぶりの第4回国会選挙(71年4月11日),10年ぶりのヴィエトナム祖国戦線第3回大会(12月14日~17日)等の行事があつた。国会選挙で南部代表の議席を今回削除したことは,南越解放勢力の独立性を認めたものとみられる。また8月末には建国以来といわれる大洪水があり,その復興優先が北越の対内・対外政策に影響を及ぼすものとみられる。

対外的には,ニクソン訪中発表後,北越は頭越し取引を惧れて米中接近の動きに警戒的な態度を表明しており,中華人民共和国側は慰撫に努めているものとみられ,李先念副総理の訪越(9月23日~28日),ファン・バン・ドン首相の訪中(11月20日~27日),あるいはニクソン訪中後シハヌーク殿下により明らかにされた(72年3月9日)周恩来総理のハノイ訪問はこのような北越の動きにも関連すると解されよう。対ソ関係では,レ・ズアン第一書記の訪ソ(3月27日~5月9日),ポドゴルヌイ議長の訪越(10月3日~8日)があつた。ニクソン訪中は社会主義陣営分断を狙つたものとしてソ越両国とも警戒的態度を表明していることもあり,ポドゴルヌイ訪越の頃よりソ越緊密化の度合は増しつつあるやにみられ,国際監視委員会の議長国たるインドが北越と大使交換を決定した(72年1月7日)のもかかる傾向に則した動きともみられる。

 (2) 中華人民共和国

中華人民共和国が南越臨時革命政府7項目提案につき異例の早さで全面的支持を表明した(71年7月4日)ことは,同国がヴィエトナム和平交渉に必ずしも反対でないことを示したものとして注目をひいた。キッシンジャー補佐官の2度の訪中でも周総理と米兵捕虜釈放問題が討議されたことが明らかとなっている(72年1月2日ニクソン記者会見)。ニタソン訪中発表後中華人民共和国はインドシナ問題の解決はパリ会談などで当事者間で話合われるべきだとして頭越しの話合いはありえずとして北越の対中不信解消に努めている。

 (3) ソ連

ソ連は,北越の利益の儀牲において米中がアジアの緊張緩和を計ることになつては困るとの北越の警戒心を利用して,インドシナにおける発言権を中華人民共和国との比較において強化することを狙つていると見られ,対北越支援を増強しているのはこのためともみられる。71年末に始まつたラオス乾期攻勢における共産軍の装備充実ぶりや北越向けソ連船舶航行の著増の報道も,これをうら付けるものといえよう。

ソ連とシハヌーク派との関係については,カンプチア民族統一戦線代表団訪ソ(71年9月1日~10日)により表面上一時好転を伝えられたが,その後,シハヌークが白色人種のソ連は黄色人種のインドシナ人民の勝利を望まずと発言した(12月25日)ことをめぐる応酬,国連総会後の中ソ論争の激化の影響もあつて,両者の関係には著しい進展はないものとみられる。

 

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