-中国大陸の情勢-

 

第5節 中国大陸の情勢

 

1. 概     況

 

中国共産党第九回全国代表大会(九全大会)以来の課題である国内体制正常化が引き続き進められた。なかでも重要な党組織再建については,省レベル(一級行政区)党委員会が,8月には全国にわたり完成したことにより一段落した。一方,経済建設の第4次5ケ年計画の初年度も一応順調なすべり出しをみせ,国務院の人事,機構両面における再編成も更に進んだ。9月に入ると指導者層に「異変」が生じた。また予定されていた第4期全国人民代表大会は開催をみるに至らなかつた。

他方,対外的には柔軟,現実路線がとられ,4月の卓球外交にはじまつて,ニクソン大統領の訪中,国連参加,あらたに15ケ国との国交樹立(1971年中)などがあり,中華人民共和国の国際的地位は飛躍的に高まつた。

具体的な主要国内,外動向をみると次のとおりである。

 

2. 国 内 諸 動 向

 

(1) 党組織再建は,九全大会で中央指導部が成立して以来,地方組織再建に努力が払われ,1970年にはほぼ末端組織が出来上り,平行して県,専区,省レベルの再組織にも力が注がれていた。71年8月にいたり全国の一級行政区に省レベル党委員会が成立した。このことは,全国に党の指導中枢が完成したことを意味し大きな意義があつた。もつとも,省レベル党委員会の再建に当つては県党委員会などの下級機構の完成をまたず行なわれたこともあり,省レベル以下末端組織までの各級委員会が全部揃つて完成している地区は,湖南,江西,安徽,北京,広西,湖北(広東,江蘇,天津,上海はほぼ完成)などに過ぎないようである。

省レベル党委員会完成を記念した8月27日の人民日報社説では,党の一元的指導(国家機関,軍,共産主義青年団,大衆団体などすべて党の指導を受ける),指導幹部の独断専行への戒め,党内の団結などが強調されていた。

これら省レベルの29委員会の最高指導部である書記処メンバー158名の構成をみると,軍関係94名(約60%),旧幹部52名(約33%),大衆代表12名(約7%)となつており,9全大会により選出された党中央委員会メンバーの構成比率(軍46%,旧幹部28%,大衆26%)と比較すると軍関係者の進出,旧幹部の復活,大衆代表の後退が顕著である。

省レベル党委員会第一書記29名のうち,生粋の軍人は21名であり,これらのうち,その地方の軍医の司令官であり,かつその地区の党第一書記と革命委員会主任を兼ねる者には許世友(江蘇),陳錫聯(遼寧),李徳生(安徽)など8名がある。

(2) 中央指導者の動静

(イ) 毛主席,林副主席,周総理につぐ要人である陳伯達は70年9月以来消息不明である。陳伯達は,文化革命中に起つた英国大使館焼打ちなどの極左的な行き過ぎ行為や,「5・16」兵団(紅衛兵の1極左グループ)との関係などについての責任が追求されて,70年夏の二中全会で失脚したとみられている。

党の理論雑誌「紅旗」(71年3号)や人民日報論文の中に,以前陳伯達の書いた論文の文句をそのまま引用して批判したものが現れたことは,暗に陳伯達を批判したものとみられた。

(口) 9月中旬に,国慶節天安門パレードの突然の中止決定,軍用機の飛行停止,13日~15日の間に政治局員が1人も姿を現わさなかつたこと,黄永勝総参謀長ら林彪直系の軍要人の一部が姿を見せなくなつたことなど一連の異常事態が発生した。このため,毛主席(または林彪副主席)の死亡(または重態)説,劉少奇の国外逃亡説など種々の憶測が流れた。さらに,中華人民共和国飛行機のモンゴル領内墜落事件が発生し,また10月1日国慶節に当つての恒例の人民日報などの共同社説が発表されなかつたことも加わり,中華人民共和国の指導者層に大きな政治事件があつたとする推測が有力となつた。

その後も,林彪およびその直系軍人の一部は姿を現わさず,他方林彪副主席の地位に大きな変化のあつたことを示唆する事象がつづいたため,上述の「異変」は林副主席を渦中の人とした政治事件であると推定されるに至つた。すなわち,中華人民共和国の新聞,放送が林彪の名をあげなくなつたこと,文化革命以来,マスコミの慣用句となつていた「毛主席を統帥とし林副主席を副統帥とする党中央の下に……」,「偉大な毛主席とその最も親密な戦友林副主席……」といつた表現から林副主席の部分が削除されたことなどである。

一方,党の理論雑誌「紅旗」第12号掲載の一論文が,かつて林彪が作つた「幹部選抜の3条件」をとりあげ,「劉少奇のたぐいの政治ペテン師」が毛主席の「革命後継者の5条件」を勝手に作りかえたと非難するといつた間接的ではあるが林彪批判が始まるにおよんで林彪失脚説が有力となつた。

(ハ) 中国共産党中央政治局の5名の常務委員の1人である康生も,1970年末頃から動静不明であつたが,6月ルーマニアのチャウシェスク書記長訪中の際に姿を現した。その後,再び姿を現していないが,陳毅外相告別式には康生名儀の花輪が供えられたことなどもあり病気療養中とみられている。

同じく政治局員で動静不明であつた副総理兼公安部長,北京市党委員会第一書記などの要職にあつた謝富治については,癌で3月26日死亡したと公表された。

(ニ) 上述の如く,政治局員のうちで林彪およびその連累者や,陳伯達が失脚したとみられることのほか,老令や病気などのため,事実上活動を停止しているものはその半数近くに達している。このため,九全大会後出来上つた中央指導部には異動が生じ,現在のところ,毛主席,周総理を中心とした葉剣英,張春橋,姚文元,李先念,李徳生,紀登奎らがハイラーキーを構成しているようである。解放軍では林彪,黄永勝,兵法憲,李作鵬,邱会作らの姿が消えて葉剣英,李徳生,劉賢権,粟裕,蕭勁光,彭紹輝,王新亭,張才千らが現われるようになつた。

(3) 人民日報などに現われた主要論調をみると次のとおりである。

(イ) 7月1日の中国共産党創立50周年記念日には,人民日報など3紙誌共同の記念論文「中国共産党の50周年を記念する」が発表された。

論文の内容は,(あ)武力で国家権力を奪取する道の堅持,(い)プロレタリア独裁下で引き続き革命を行うことの堅持,(う)重要な問題はよく学ぶことにあるの3部分からなつており,50年にわたる党の歴史と当面の党員の心得うべき8項目を挙げたものであつた。

(ロ) 8月1日建軍記念目の3紙誌共同社説「八・一建軍節を記念する」は,その半分を対外関係に当てていること,および軍はあくまで党の指導下にあるべきことを強調していることが注目をひいた。

(ハ) 1972年元旦の3紙誌共同社説「団結して一層大きな勝利をかちとろう」は,国際情勢を分析して,昨年全世界は激動し,各種の基本的矛盾が激突したとし,特に,「米帝」,「ソ修」と米・ソ人民を含む全世界人民との間の矛盾,世界の覇権争奪,勢力範囲の分割をめぐる米・ソ2「超大国」の間の矛盾が尖鋭化したと指摘した。一方対内的には「団結」を強調したことが特徴的であつた。

(4) 中華人民共和国は1971年11月18日に続いて本年1月7日と3月18日にも大気圏外で核実験を行つたがいづれも小型核の実験で,実験は通算14回となつた。

 

3. 経 済 情 勢

 

(1) 第4次5ケ年計画の初年度である1971年度の実績は良好であつたといわれる。公表されたところによると,1971年の工農業総生産額は前年に比して約10%の増加,農業生産は,かなりひどい災害に遭つたにも拘らず,前年よりもよく,食糧生産高は2億4,600万トンに達した。また粗鋼の生産は,前年比18%増加して,2,100万トンとなつている。

(2) 1971年の貿易については,推計によると貿易総額は44億6,600万ドルで,前年比7%増で史上最高を記録したとみられている。また貿易額の増大は主として輸出の伸長によるとみられる。すなわち,輸入額が21億4,800万ドルで,前年比1%の増に過ぎなかつたのに比して,輸出額は23億1,800万ドルで前年比13%増になつたとみられている。

 

4. 対 外 関 係

 

(1) 1971年は中華人民共和国の外交にとり画期的な年であつた。すなわち,「卓球外交」に始まつた対米柔軟路線はニクソン訪中発表(7月)という劇的な展開をみせ,ニクソン訪中実現により結実をみた。また,71年中にあらたに15カ国と国交を樹立し,国連参加を果して(10月),宿願の国府追放を実現した。

他方,70年にもまして数多くの国と活発な招待・訪問・援助外交をくりひろげ,平和五原則に基づいて中小国との関係改善につとめ,反「超大国」の立場に立つた外交を精力的に行なつた。

72年の三紙誌共同元旦社説が現在の国際情勢を「天下大動乱」と規定し,米・ソの「苦境」を指摘するとともに激しい「超大国」批判を行なつていることは,世界が今や流動化・多極化の時代に入つたとの認識に立ち,上述のような成果に対して,中華人民共和国が自信を深めていることを示唆するものであろう。

しかし,中華人民共和国の外交がすべて順調だつたわけではなく,例えば印パ戦争に際してパキスタン支持の態度を明らかにしながら,何ら有効な援助を与え得なかつた事例もあった。

一方,平和五原則と並ぶ中華人民共和国外交のもう一つの基本路線である被抑圧人民,民族の解放闘争支援に関しては,世界人民の反米闘争の強化,日本軍国主義に反対するアジア人民の闘争およびアジア・アフリカ・中南米諸国並びに北アイルランドの民族解放闘争支援のよびかけを行なつた。また,北鮮およびインドシナ三国左派勢力との連帯強化を図つた。

これを要すれば1971年は,総じて交渉方式による戦術原則が適用され,柔軟路線が表面に出た年といえよう。

(2) 「卓球外交」は,「人民外交」展開により文革イメージ払拭の効果をもたらし,国際的イメージ・アップに役だち,ひいては国連代表権問題に関しても中華人民共和国に有利に作用することとなつた。卓球外交はその後,各国との幅広い人的交流に拡大していつた。同国卓球チームの海外派遣,北京におけるアジア・アフリカ卓球大会(11月)のほか,男女バスケットチームの中南米,アフリカ派遣(7月),バドミントンチームのカナダ派遣(10月)などが続き,他方,諸外国からも各種チームの招待を行なつた。スポーツのほかにも,舞劇団のアルバニア,ルーマニア,ユーゴスラヴィア派遣,ジャーナリスト代表団の北欧,スイス,オーストリア派遣(72年1月)などがあつた。

卓球外交は米中関係の発展について特に大きな意義があつた。4月の米国卓球チームと同行記者団の訪中に続いて,著名記者,学者,科学者,医師,青年グループなどへと招待の範囲が広がり,ニクソン訪中発表への前奏となつた。

(3) キッシンジャー訪中(7月),ニクソン訪中受諾発表(7月16日),キッシンジャー再度の訪中(10月),ニクソン訪中の日程発表(11月30日)などの準備段階を経て実現をみたニクソン訪中(2月21日~28日)は,米中関係にとり画期的な出来事であつた。従来,中華人民共和国は,米国との間では台湾問題の解決なしにはいかなる人的交流もあり得ないと主張していたが,卓球外交はかかる対米対決姿勢の大幅な手直しであつた。それに続くニクソン大統領の訪中決定は,周恩来首相が米国のブラック・パンサーとの会見(10月5日)で明らかにしたところによると毛沢東自身が決定したとされており,国内的には,同国当局が「交渉することも正面からの対決」であり,米中首脳会談はワルシャワ米中会談の延長であるとの説明を国民に行なつているといわれる。

(4) 米国のニクソン大統領は2月21日から28日にかけて中華人民共和国を訪問し,その間毛沢東主席と会見(21日)したのをはじめ,周恩来首相と数次にわたる会談を行ない,27日には上海において米中共同コミュニケが発表された。上記毛沢東主席との会見はあらかじめ予定されておらなかつた由であるが,この会見が行なわれたことは,北京空港での歓迎ぶりが儀礼的で,比較的冷たいものであつたといわれていただけに,中華人民共和国側の真の歓迎ぶりを示すものとして,あるいは首脳会談に対する中華人民共和国側の熱意を示すものとして注目された。共同コミュニケには,米中両国に関係ある問題とあわせて種々の国際間題について見解が述べられているが,双方が合意した点として,「平和共存」,「米中関係正常化」の問題が上げられ,合意しなかつた台湾問題,インドシナ問題などについては双方の見解が並記されたかたちとなつている。中華人民共和国はニクソン・毛沢東会見の翌日(2月22日)から,人民日報が大々的にニクソン大統領訪中の模様を報じたほかには何ら論評を加えていないが,2月28日の北京放送が上海市革命委の張春橋主任の挨拶として,「中米両国人民の共通した願いに合致する積極的行動を歓迎する」と報道していることが注目された。

(5) ニクソン大統領訪中に先立ち,第26回国連総会においてアルバニア案が採択され,中華人民共和国の国連参加が決定した(10月25日)が,人民日報社説(10月28日付)は,国連参加の意思を明らかにするとともに,中華人民共和国は「超大国」にならず,中小国の側に立つて民族独立,国家主権,平和の擁護,人類の進歩のため共同して奮闘する旨表明した。喬冠華代表の総会演説(11月15日)も上記社説と同様の趣旨のもので,従来からの外交路線を再確認するものであつた。

中華人民共和国の国連参加は,70年秋以来の同国承認国の増加と相まつて同国の国際的地位向上を示す大きな出来事であるが,国際政治の面では,「多極化」現象の度合いを更に強める結果をもたらした。

(6) ルーマニア共産党チャウシェスク書記長の訪中(6月1日~9日)は,フルシチョフ以来久々の東欧共産圏第一書記の来訪であり,ルーマニアの対ソ連関係が微妙だつたときだけに注目をひいた。引き続いてユーゴスラヴィアの外相が訪中(6月8日~15日)したが,これは両国の国交樹立以来最初の要人の訪中であつた。

中華人民共和国軍事代表団のアルバニア,ルーマニア訪問(8月)は,折から対ソ関係が微妙になつていたルーマニアの周辺においてワルシャワ条約軍の演習問題が起きていたときだけに注目された。

アジアの社会主義圏諸国のうち北越については,9月に李先念副総理が経済,軍事援助協定調印のため訪越したほか,11月には北越のファン・バン・ドン首相が訪中し,中華人民共和国の北越支援と両国の連帯が再確認された。北鮮とは無償軍事援助協定が締結(8月)されたほか,年間を通じて両国間に活発な交流がみられた。また,モンゴルに許文益大使を派遣し(8月),社会主義圏13カ国全部に大使を派遣し終つた。

(7) フランス,イタリア,カナダなど西欧先進国との間では,閣僚級代表団の交流があり,相互の関係は一層深くなつた。特に英国とは,代理大使を大使に昇格する交渉が妥結し(3月),英国は台湾の淡水にある領事館を引きあげ,両国間の長年の懸案が解決した。

中南米諸国との間ではペルー,メキシコ,アルゼンチンと国交を樹立し,エクアドルとの間でも交流が始まり,同国は中華民国との外交関係を断絶した。

中近東,アフリカ諸国との関係も中華人民共和国の積極的な招待援助外交,スポーツ交流などを通じて一層緊密化した。すなわち,クウェート,トルコ,イランなどの9ケ国と国交を樹立したほか,イラン王女(4月),エティオピア皇帝(9月),リアド・エジプト大統領顧問(3月)の訪中などがあり,多くの経済援助協定が締結された。

ビルマのネ・ウィン首相の訪中(8月)やマレイシアとの経済使節団の交流,フィリピンからの青年,婦人文化代表団および上院議員などの訪中,シンガポールの経済代表団の訪中などの動きが東南アジア諸国との関係においてみられた。これら東南アジア諸国については,各国に国内ゲリラの問題,華僑問題などがあり,従来中華人民共和国との関係正常化は必ずしも容易でないとみられていただけに,ようやくこれらの諸国との関係改善の動きがはじまつたものとして注目される。

 

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