名古屋で開催された第31回世界卓球選手権大会終了直後の4月7日,中華人民共和国による米国卓球チームおよび西側記者団の訪中招請が発表され,10日から米国チーム及び記者団の訪中が実現をみた。その後も米国から報道関係者,学者等の中華人民共和国訪間が続き,米中関係に新しいペ一ジが開かれた。
この一連の動きを通じて,中華人民共和国が「台湾問題が解決するまでは米中間の文化,スポーツ交流などは問題外」との従来の政策を転換したことは事実であり,この意味で,「卓球外交」は中華人民共和国のイニシヤチブで開始されたとはいうものの,他方,中華人民共和国が従来からの米国による関係改善の呼びかけに応えたものとの観方が成り立つ。
米卓球チームの訪中が行なわれていた最中の4月14日,ニクソン大統領は5項目からなる対中貿易制限緩和に関する声明を発表した。5項目はその性質上大別すると
(あ)中華人民共和国からの米国入国査証の取扱い
(い)特定品目に関する中華人民共和国との直接貿易の許可およびそれに伴う輸送面,通貨面での制限緩和,という2種類の措置となつており,これらに関して5月7日および6月10日の2回にわたり実施措置が採られた。
7月15日,ニクソン大統領は全国放送を通じ,キッシンジャー補佐官が7月9日から3日間,北京を訪問したこと,および大統領自身が1972年5月以前の適当な時期に中華人民共和国を訪問することを発表した。
訪中の目的は,中華人民共和国指導者達との間に,米中間係の正常化を求め,両国の関心のある問題について意見を交換することにあるとされ,この発表は北京でも同時に行なわれた。
第26回国連総会における中国代表権問題に関して,米国は北京の参加を歓迎する一方,国府の議席維持を企る政策を採り,いわゆる「逆重要事項」と「複合二重代表制」案を提出したが,結局,「北京招請,国府追放」のアルバニア案が可決された。
この間,キッシンジャー補佐官が2度目の北京訪問を行なう等,米中二国間関係は損われることなく,大統領訪中の準備も着実に進められて行つた。
ニクソン大統領は中華人民共和国政府の招きで1972年2月21日から28日にまで中華人民共和国を訪問し,毛沢東主席,周恩来総理等と数次にわたり会談した。帰国に先立ち,27日,上海において米中共同コミュニケが発表されたが,文中,今後,米中関係の正常化を促進するため,人的,物的交流を増大させることが合意事項として掲げられた。
上記米中共同コミュニケの趣旨を受けて,3月13日および同月20日の二度にわたり米中大使級会談が,場所を従来のワルシャワからパリに移して開催された。同会談は目下のところ,実質的討議というよりは双方大使の儀礼訪問という性格が強く,米中両国の正常化への努力を示す対外宣伝的色彩の濃いものといえよう。