-中ソ関係-

 

第3節 中ソ関係

 

中ソ関係は1969年9月以来イデオロギーないし党関係における対立の継続と国家関係改善への志向という二つの面を持つてきたが,1971年11月後半以後の国連の内外での激しい相互非難および印パ戦争を契機に,最近では全般的に若干悪化の傾向がみられている。

 

1. 1969年後半より1971年夏頃まで

 

党,イデオロギー面での対立と国家関係正常化の動きの二つの面をもつてきたとみられる。

 

2. ニクソン訪中発表(1971年7月15日)後9月中旬まで

 

ソ連は,ニクソン訪中発表等中華人民共和国の動きに対し警戒的態度をとり,かつこれに対抗せんとするかの如き行動をみせた。その例として

(あ)8月20日クリミアでルーマニアを除くコメコン諸国会議開催

(い)9月4日プラウダ紙上に理論的な非難論文掲載

(う)前記論文の国連における配布

(え)ブレジネフのユーゴ・仏訪問など一連の訪問招待外交の活発化等

があげられる。

 

3. 9月中旬以降11月中旬まで

 

9月上・中旬に中華人民共和国の国内政治上の異常現象がみとめられ,これと共にソ連は頻度および激しさの点で再び対中非難を若干緩和せしめた。中華人民共和国側も11月7日のソ連革命記念日に際し昨年以上に友好的な調子の祝電を送るなど,ソ連に対し柔軟な態度を示したともみられる行動をとつた。

 

4. 12月以降ニクソン訪中まで

 

国連での中ソ相互非難および印パ戦争を契機として,中ソ関係は悪化する徴候を示した。その例として

(あ)ソ連側はプラウダ,イズヴェスチア両紙などで激しい中華人民共和国非難を行ない,12月22日付プラウダ紙上では周恩来首相を名指しで非難した。

(い)中華人民共和国側も本年の三紙誌共同元旦社説にて近年の元旦社説で最も激しいソ連非難を行なつた。

(う)1969年秋以来平静といわれて来た中ソ国境において,緊張が伝えられ,また新彊省にて中国人がソ連領に逃げこんだ旨報道された。

(え)グロムイコ外相訪日中,中華人民共和国側は日本の総評等の代表団に対して中ソ関係の悪化はソ連の責任であることを示す11項目のリストを発表したなどの事例があげられよう。

 

5.ニクソン訪中以降

 

ニクソン訪中に関してソ連は「米中接近」を激しく攻撃した。その後3月20日ブレジネフ演説において,現時点において中ソ関係を平和共存の諸原則に基づいて築いてもよい旨表明したが,本原則は1969年10月以来中華人民共和国がこれをソ連との関係を律すべき原則として公けに提案してきたものであり,ソ連はこれをこの程暫定的にせよ認めるに至つたことは,中ソ関係における新しい進展ともみられている。

 

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