(1) 概 況
中東情勢は1971年3月の停戦切れ以降も事実上の停戦状態が継続し,一方では紛争当事国および米ソ等関係国の間で和平への努力が続けられた。このような情勢の中で,アラブ世界自体においてはエジプトを主軸として「分裂と統合」という相反する動きがみられ,一方で7月のヨルダン内戦,モロッコのクーデター未遂事件,スーダンの革命と反革命等々を契機としてフセイン王制のアラブ世界における孤立が顕著となり,他方9月にはア連合(エジプト・アラブ共和国と改称),シリア,リビアを構成員とするアラブ共和国連邦が正式発足をみるに至つた。
(2) スエズ運河再開提案とロジャーズ調停
サダート大統領は4月2日,スエズ再開を骨子とするエジプトの従来の方針を6項目にまとめ4大国に伝えたが,これより以後,中東和平の努力は,サダート提案をめぐる部分的解決へ向けられ,主として,米国による対イスラエル説得工作が調停の焦点となった。
このような背景の下に,ロジャーズ米国務長官は5月1日から8日までエジプト,イスラエル等,中東5ヵ国を訪問し,部分的解決をめぐる調停工作を行なつたが,両国の主張には,(あ)全面解決との関連,(い)イスラエル軍撤退幅,(う)エジプト軍の運河渡河等の点に関し,依然,大きな開きがあり,何ら具体的成果はみられなかつた。
(3) エジプト政変とソ挨条約
米国の斡旋工作が進捗中の5月2日,サダート大統領はエジプト内親ソ派の領袖と目されていたアリ・サブリ副大統領を解任したが,続いて同月13日には左派の6閣僚の辞任という政変が起つた。この後,5月27日に至り,エジプトはソ連との間に期間15年の友好協力条約を結び,一時,若干対米寄りとみられていた姿勢から,次第に対ソ依存の傾向を強めていつた。
7月23日,サダート大統領は,「1971年を和戦の決着なしには経過させない」との発言を行ない,強硬姿勢を示した。
(4) 国連における中東討議とロジャーズ提案
ロジャーズ米国務長官は10月4日,国連総会においてスエズ再開をめぐる部分解決につき6項目からなる提案を行なつた。
(あ)スエズ再開をヤーリング特使の下の交渉で行ない,全面解決の第一歩とする。
(い)停戦期間について両者間の共通の了解が得られると考える。
(う)撤退区域についても双方の主要関心事項に適合することが可能である。
(え)協定違反の監視機関が必要である。
(お)エジプト軍のスエズ東岸駐屯について双方の妥協が可能である。
(か)スエズ運河の無差別航行の合意は成立し得る。
以上の提案に基づいて,米国は活発な調停工作を試みたが,エジプトは国連総会での討議を重視し,国際世論の支援の下で,イスラエルに外交的圧力をかけることを狙つて米調停に積極的でなくさらにサダート大統領は10月10日から3日間ソ連を公式訪問してソ連依存の姿勢を示した。
国連総会は12月13日,ヤーリング特使の調停再開と同特使の提案受け入れを求めるアジア・アフリカ22ヵ国決議案を可決し,エジプトは同決議の採択により体面を保ち,中東情勢は「和戦の決着」をみぬままに年を越した。この間,イスラエルのメイヤー首相は12月2日,ニクソン大統領と会談し,米国からファントム機を含む武器供与の取り付けに成功した。
(5) サダート大統領の訪ソ
サダート大統領は71年10月のソ連公式訪問に続き72年2月2日,再びソ連を非公式に訪問した。訪ソ終了に際し,ソ連・エジプト共同コミュニケが発表(2月4日)されたが,その内容は,軍事援助に関するソ連の消極的態度を示唆しており,この点,ソ埃関係は前回同大統領の訪ソ時よりも若干,後退した感がある。
(6)フセイン国王のアラブ連合王国構想
フセイン・ジョルダン国王は3月15日,ジョルダン憲法の改定条項として,イスラエルの占領後,ジョルダン川西岸地域およびガザ回廊をパレスチナ自治国とし,ジョルダンと連邦制を以て,アラブ連合王国を作る旨の発表を行なつた。本件構想に対しては,アラブ諸国から,イスラエルとの単独講和に進まんとする「裏切り行為」との非難があり,イスラエルも当面,フセイン構想を受諾する可能性はない。
(1) 概 況
ナイジエリアの内戦が70年1月終了して,アフリカ(サハラ以南)の政情は一応安定したが,11月の外人部隊のギニア侵入事件,71年1月のウガンダのクーデター,数回のポルトガル領ギニアとセネガルの国境紛争事件,6月の在ザイールのソ連など社会主義諸国外交官追放事件,72年1月のガーナのクーデターおよび南ローデシアにおける暴動など一部の国ではなお政情不安が見られた。この間,各国とも国造りに努力を傾注し,経済開発のため先進諸国との経済技術協力の必要性がますます高まつているといえよう。
他方国際政治の場において,アフリカ諸国はその比重を高めており,中ソの働きかけが依然活発であるほか72年1月28日より2月4日まで国連史上初めて安保理がアフリカで開催され,中華人民共和国の参加もあつて南部アフリカ問題が活発に討議され注目された。なお,コンゴー民主共和国は1971年10月27日,国名を「ザイール共和国」と改称した。
(2) 中華人民共和国,ソ連の進出
アフリカ諸国においては英,仏など旧宗主国との関係が依然強いが,中ソ特に中華人民共和国の進出が最近活発となつてきた。中華人民共和国は,文革終了以後,平和五原則の柔軟路線に従つて対アフリカ外交を次第に活発化してきた。特に注目されるのはタンザニアとザンビアの間を結ぶ延長1,860キロのタンザン鉄道建設計画であり,70年10月ダレサラムにおいて起工式を行い,その完成を急いでいる。同鉄道の完成の暁には,ソ連のアスワン・ダムに匹敵し,アフリカにおける中華人民共和国の諸活動の象徴としてその政治的意義は少なくないであろう。中華人民共和国はさらにその他の諸国に経済技術協力を行なうなど,関係の緊密化に努めたこともあつて,過去1年余の間に赤道ギニア,エティオピア,ナイジェリア,カメルーン,シエラレオネ,トーゴーなどのアフリカ諸国が中華人民共和国承認に踏みきり,71年の国連総会に際しては,42のアフリカ諸国中26ヵ国(サハラ以南36ヵ国中20ヵ国)がアルバニア案に賛成した。なおガーナは72年2月29日中華人民共和国と外交関係の再開に踏み切つた。他方ソ連は近年モーリシャス,ナイジェリア,コンゴー(ブラザビル)との関係を増進しているが,特にインド洋進出の一環として,積極的にモーリシャスに接近しており,漁業協力協定を締結する(70年7月)など関係国の注目をひいた。
(3) 南部アフリカ問題
南部アフリカをめぐる対立は依然厳しい状況にある。南ア政府はその伝統的アパルトハイト政策と南西アフリカに対する支配権主張のため,国連,OAU,非同盟会議などにおいて激しい非難を浴びており,特に国連では南アに対する各種の制裁,勧告などの決議が行われている。また南部アフリカ地域と密接な貿易関係にある欧米諸国および日本に対するアフリカ諸国の非難も,依然厳しく,71年6月の第8回OAU元首会議では,NATO諸国と並んで,わが国も南アに対する投資を増大しているとして名指しで非難された。(注.わが国は南アに投資していない)。なお同会議で象牙海岸大統領が提唱した「南アとの対話」による平和的解決を促進しようとする提案をめぐつて,急進派諸国と穏健派諸国とが対立紛糾した。また同会議中,南アによる南西アフリカ統治は不法であるとする国際司法裁判所の勧告的意見が発表された。
対南ア武器輸出再開問題については,71年1月シンガポールで開催された英連邦首脳会議では,本問題が論争の焦点となつて英連邦崩壊にもつながりかねない状況となつたが,8ヵ国のスタデイ・グループの設置によつて一応事態は収拾された。同会議終了直後1月25日ウガンダで起つたクーデターによつて,対南ア武器輸出強硬反対論者であつたオボテ大統領が失脚した結果急進派の一角が崩れ,その後,英国は自らの判断によつてスタディ・グループを無視して2月ワスプ型ヘリコプター7機を南アへ供給することを決定した。ウガンダのクーデターは他の対南ア武器輸出強硬反対論者であつたタンザニアのニエレレ大統領およびザンビアのカウンダ大統領にも大きな影響を与え,その後,対南ア武器輸出反対論は大幅に後退した観がある。
1965年に英国から一方的に独立を宣言し,その人種差別政策のために68年5月以降国連の全面的経済制裁を受けている南ローデシアについては,71年11月ヒューム英外相とスミス南ローデシア首相との間に問題解決案について合意が成立し,その合意に基づいて,南ローデシア国民の民意調査のため英国調査委員会が72年1月ソールスベリに到着した。この機会をとらえて起された現地住民の反対運動が各地で暴動に発展し,政府側の弾圧によつて犠牲者が出たため,アジスアベバで開催中であつた安保理は,南ローデシア問題を優先討議し,同問題に対する英国の政策変更が強く要求された。しかし調査委員会の即時引揚げを含む南ローデシア問題決議案は英国の拒否権によつて不成立に終つた。
ポルトガル領アンゴラ,モザンビクおよびギニアについては,依然アフリカ人ゲリラ部隊の解放運動が続いている状況であり,アフリカ諸国はポルトガルに対する武器援助停止および経済貿易関係の断絶などを強く要求している。