(1) 概 況
1971年は,米国史上画期的な年であり,ニクソン政権としても,外交,内政ともに多事な年であつた。なかでも,注目すべき出来事は,外交面で,大統領訪中の発表により中華人民共和国との対決の時代に終止符がうたれたこと,内政面において,積年にわたる米経済の三重苦であつた緩慢な景気回復,執拗なインフレ,慢性的な国際収支逆調を一挙に解決するため新経済政策がとられたこと,および,これと関連して12月に実現したドルの切下げを含む通貨調整であつた。
(2) 内 政
(イ)米政府は,1971年の米国経済について当初年率12%程度(名目)を見込んだが,景気回復は予想以上に緩慢で,失業率はおおむね6%という高水準にあつて情勢改善は遅々として進まなかつた。
一方,インフレ抑制の面では物価上昇率はようやく鈍化の方向にむかいつつあつたものの,賃金上昇率はいぜん高率で推移していた。また,71年に入つて米国国際収支の赤字幅は急速に拡大した。このような背景の下で,米政府は,8月15日,新経済政策を発表し,これは米国民の圧倒的支持を得るとともに,景気回復の面で,かなりの成果をもたらしつつある。
(ロ)社会問題については,麻薬,犯罪対策の強化,都市交通援助法の成立,学園における黒白統合の進展,老人福祉対策の改善等の面で着実な施策が行なわれ,一応,黒人暴動,学園紛争は影をひそめ,ヴィエトナム反戦運動も社会的に大きい問題とはならなかつた。
(ハ)議会との関係をみれば,大統領が新経済政策,訪中,訪ソの発表等により,民主党の行政府批判を封ずることに成功したこともあり,少数党の下での議会工作としては,まず成功であつた。ニクソン大統領が年頭にかかげた6大目標分野は,ほとんど立法が実現せず72年に持ち越されたという失点はあるものの,内政上最大の懸案であつた新経済政策実施が国民,議会の支持を受けたこと,さらに徴兵制延長,ABM研究開発予算,最高裁判事任命等に関して,一応,所期の目的を達成している。
(ニ)72年は大統領選挙の年であり,その前哨戦として3月7日のニュー・ハンプシャーを皮切りに,フロリダ(3月14日),イリノイ(3月21日)の各州で予備選挙が行なわれた。共和党は,ニクソン大統領がはやくも独走態勢を固めているが,一方,民主党は,当初,最有力と目されていたマスキー上院議員の不振もあり,混戦の様相を呈している。
(3) 外 交
(イ)ニクソン大統領は「対決から対話」へというニクソン・ドクトリンの基本理念の実現に努め,71年7月15日中華人民共和国訪問発表を行ない,72年2月21日から一週間にわたり,北京,上海,杭州を訪問した。この間,毛沢東,周恩来との会談を行ない,2月27日には米中共同コミュニケが発出された。ニクソン大統領の訪中により,米中関係は新しい局面を迎えたものと云える。
(ロ)中華人民共和国訪問発表に続いて,10月12日,ニクソン大統領は72年5月後半にソ連訪問を行なう旨発表した。対ソ外交の面では,SALT交渉の前進,ベルリン協定の締結に加え,スタンズ米商務長官の訪ソ等を契機として両国経済・貿易関係促進の話し合いが行なわれた。
(ハ)対社会主義圏外交の進展を企る一方,同盟国との間には,国際通貨問題の調整,また,71年末から72年初頭にかけて一連の首脳会談を行ない,従来,対米依存的色彩の濃かつた同盟国との関係をよりバランスのとれた協調関係へ改善する努力を行なつた。
(ニ)ヴィエトナムについては,とにかく,71年中にニクソン大統領の就任時の3分の1以下の兵力にまで撤兵を実現し,和平に関する8項目の提案を行なつた。(72年1月27日)
中東では,スエズ再開をめぐる部分解決は実現しなかつたもののロジャーズ国務長官が5月初め中東諸国を訪問し,調停工作を行ない,事実上の停戦が継続された。
(1) 概 況
1968年10月のペルー革命以降ナショナリズムの高まりが中南米の諸国にも大きな影響を及ぼしたが,1971年に入るとボリヴィアの政変(8月),ウルグアイの大統領選挙における左翼的な人民戦線の敗北等左翼が期待したような情勢の展開はなかつたといえよう。1971年の中南米諸国の対外関係全般について指摘しうる主要な動向としては,第一に米国の中南米地域に対する影響力の相対的低下,第二にキューバをめぐるラ米の世論の変化があげられよう。
第一の点は,中南米諸国が政治的な色合いを問わず共通して課題としているものが,インフレの克服等国内的な立直しおよび経済的独立である事情と大きく関連している。
1971年8月の米国ニクソン政権の新経済政策の発表は,(あ)輸入課徴金がラ米の対米輸出における永続的増加の可能性を持つ部門に大きな打撃を与え,ニクソン大統領の「援助より貿易」政策にかけていたラ米諸国の希望をなくしてしまったこと,(い)ラ米地域こそ米国が大きな貿易収支の黒字を得ている地域であつたこと,(う)今回の措置につき何の事前協議もなかつたことなどの諸事情により,ラ米諸国に不満を呼びおこした。12月の国際的通貨調整の実現により一応米国の輸入課徴金は撤廃されるに至つたものの,課徴金をめぐる米国とラ米諸国のやりとりは,前に述べたラ米諸国共通の課題と相まつて,ラ米諸国間に政治的,経済的な対米依存度を小さくしようとする雰囲気を更に強めたものとみられる。その結果,ラ米諸国は種々の問題を米州機構を通じて解決していくよりも,国連その他の場において解決せんとの動きを見せている。日本およびEECに対する積極的な働きかけも,このようなラ米の新しい動きと無関係ではなく,米国の影響力が相対的に低下していることと関連しているとみられる。
第二のキューバに関するラ米の世論の変化の点であるが,キューバを全米組織に再び迎え入れようとのラ米諸国の感情の高まりを裏付ける動きとして,OAS(米州機構)のガロ・プラザ事務総長のパナマにおける演説が注目される(9月18日)。同事務総長は演説において,7年前OASがキューバに対してとつた経済的措置および外交的措置の撤廃を求め,「私の考えでは,キューバ孤立化政策はもはや建設的でないし効果的でもない」と述べた。かかるラ米の一部諸国のキューバに対する態度の変化にもかかわらず,カストロ・キューバ首相は,そのチリー訪問(11月10日~12月4日)前後,キューバはOASには断じて復帰しないと宣言したため,一部ラ米諸国の前記期待は裏切られた。他方米国は,その対キューバ政策になんら変化はない旨正式声明を行い,一部の予想に反しキューバをめぐる国際的潮流の変化はついに見られなかった。
なおラ米の対外関係におけるその他の動向としては,73年の国際海洋法会議を目前に控え,ブラジルの200浬領海宣言,カリブ諸国のPATRIMONIAL SEA という新しい専管水域に関する理念などラ米のこの問題に対する従来の立場を予め固めておこうとする動きが目立っている。
(2) 各 国 の 動 向
1971年を通じて起つたラ米各国の国内動向のうち主要なものは次のとおりである。
(イ)チリにおける銅山の国有化
チリの特別国会において銅山国有化を目的とした憲法一部修正案が満場一致で可決された(7月11日)。この結果,チリ政府は産銅5企業の即時取得を行ないその経営を引き受けることとなつた。この国有化に際する最大の問題は企業に対する補償問題である。チリ政府は補償金額を決定した(10月)が,これに対し米国側関係企業は可能なあらゆる提訴を行なう旨を表明した他,ロジャーズ米国務長官は,同決定を深い失望をもつて受け取り,「国際慣習」に対する「深刻な違反」はチリのみならずすべての発展途上国に損害をもたらし得る旨指摘した(10月13日)。これに対しアルメイダ・チリ外相は同日反論し,「憲法に基づく主権の行使によつて補償額の決定が行なわれたことを認めようとしないのは驚くべきことだ」と述べ,「国有化と同時に7億ドルに上る各社の負債についてもチリ政府が責任を持つ事を忘れるべきでない」点を指摘した。今後は,チリ憲法の定める特別法廷において,チリ政府側,産銅各社側の主張が明らかにされていくものとみられる。
(ロ)ボリヴィアの政変
トーレス政権の急速なる左傾化に対しては国民一般の間に危機感が生じており,MNR(国民革命運動党)FSB(社会主義ファランヘ党)の二大政党勢力が反政府共闘姿勢をとるに至つた。これらを背景に,反トーレス軍人グループが蹶起した結果,8月21日トーレス政権は崩壊するに至つた。
代つて8月22日には,バンセル新政権が成立したが,同政権は反共を基盤とする穏健左派路線を標傍し,政策面においては自由主義諸国との協調,外資の導入による国内開発を進めている。同政権については,MNRとFSB両党の共闘体制および両党と軍との協調関係をめぐる調整,その他急進左翼勢力の抵抗運動への対処等が今後の課題とされており,政局はこれらをめぐつて動いてゆくであろう。
(ハ)エクアドルの政変
ベラスコ大統領の第5次独裁政権は1972年2月15日夜半軍の手でベラスコ大統領が逮捕され直ちにパナマに軍用機で追放された結果崩壊した。
代つて2月16日三軍代表が陸海空各軍総司令官により構成される執政評議会を組織し,全国に戒厳令をしくと共にロズリゲス陸軍少将を新大統領に任命した。次いで新大統領の名により新大統領の就任,1972年6月の大統領選挙の中止,現憲法停止と1945年憲法の復活施行等に関する政令を施行するなど,国内的な諸措置を次々と実施した。
今次政変より約1ヶ月半を経過した3月末の情勢は,国内的には一応平静が保たれており,又新政権の対外政治路線にも特に目立つた変更は見られない。