-欧州の情勢-

第10節 欧州の情勢

 

1. 欧州における東西関係

 

1971年9月,ベルリン問題に関する規制の大枠を定める米英仏ソ4カ国協定が調印され,その後12月には両独間および西ベルリン・東独間のベルリン「細目協定」に調印が行なわれる等欧州における緊張緩和に大きな進展が見られた。ベルリンに関する最終議定書は,独ソ・独ポ条約批准と同時に行なわれるとされているので,西独議会が独ソ・独ポ条約を批准することになれば,欧州緊張緩和に多大の貢献を行うこととなる。その後の欧州東西関係においては,(あ)全欧安保会議開催,(い)相互兵力均衡兵力削減問題,(う)両独国連加盟ならびに東独承認問題が主なる懸案となつてこよう。

 (1) ベルリン問題に関する規制の大枠を定める4カ国協定調印

米英仏ソ4カ国大使は,9月3日,在西ベルリン旧連合国管理理事会において,8月23日の第33回会議において合意を見た4カ国協定に署名が行なわれた。1969年秋に成立したブラント政権が積極的な東方政策を展開した結果70年8月に独ソ条約,12月に独・ポーランド条約の調印にこぎつけ,欧州の東西関係に,現状の尊重と武力不行使を基盤とする新しい共存関係を成立せしめたものと評価された。しかしドイツが両条約批准の条件としているベルリン問題の解決はその後の4カ国会談でもなかなか進展をみせていなかつた経緯もあるので,本協定調印により欧州東西関係は大きな進展をみせたと言えよう。

 (2) ベルリン細目協定取決め調印

前述9月3日調印のベルリン4カ国協定は

(イ)通行問題に関し東西両独間

(ロ)東ベルリン・東独訪問(ベルリン市民の)に関し西ベルリン市・東独間においてそれぞれ細目取決交渉を行なうべきことを定めたが,4カ国協定署名後両会議とも直ちに細目交渉に入つた。途中両交渉とも難航が伝えられたが,10月末ブレジネフが訪仏の帰途東独に立寄つた頃より急速に進展をみせ,両独間および西ベルリン,東独間のベルリン細目協定に調印が行なわれるに至つた(12月17日および20日)。

 (3) 全欧安保会議

西欧諸国がこれまで全欧安保会議開催のための多角的準備交渉の前提条件として主張してきたベルリン問題に進展がみられたことにより,全欧安保会議開催は,実現の可能性を増大した。

本件に関して,東側諸国は,東欧首脳会議(ワルシャワ条約政治諮問委員会)を72年1月25日,26日プラハにて開催し意見の調整をはかつたとみられ,今後は,全欧会議早期実現のため積極的な態度を示してくるものと思われるが,議題に欧州相互兵力削減問題を含めるか否かを含め全欧安保会議で具体的に何が討議対象であるか未定であり,会議開催に対する関係各国の思惑の違いもあると伝えられており,他方,一部西欧諸国には,印パ戦争などを通じソ連の態度により警戒的になつた国もあり,本会議開催に至るまでには相当の困難が予想されよう。

 

2. ソ     連

 

 (1) 内      政

(イ) 現政権は71年4月に第24回党大会を終え,現在は,経済優先の方針を強く打ち出した同大会の諸決定の実施に取組んでいる。経済優先の方針は,経済面での成功がソ連だけでなく東欧諸国をも含めた社会主義体制の安定の基礎となるとの認識に基づくものであり,ブレジネフ政権の内政面におけるかかる基本路線は当分変更ないものとみられる。

ソ連経済は生産効率の向上,技術進歩の促進,全経済部門の高度成長確保,農業の物的,技術的基礎の強化,国民福祉の一層の向上,という課題をもって押し進められている。他方,新規投資の遅れ,設備稼動の遅れというソ連経済の従来からの傾向は依然存在している模様であり,工業生産面で自動化機器および乗用車生産の伸びが目立つものの,党大会において強調された消費者物資の増産については,未だ目立った変化は見られない。しかし最近ラジオ,テレビ等一連の電気製品の値下げ,また大衆用品の増産,品質の改良に関する党中央委員会の決定が出されるなど国民の消費水準の向上についてはかなり力が入れられてきている模様である。今後は重工業を依然重視しつつ,国民生活の向上の点にも併せて努力する方針がとられるものと思われるが,国民の消費水準の向上への努力が益々明確なかたちで進められてゆくものと考えられる。

(ロ)党大会では,グリシン,クナエフ,シチエビッキーが政治局員候補から政治局員にまた,クラコフが書記兼任のまま新たに政治局員に選任され,更に7月には,ヴォロノフ政治局員がロシア共和国首相を解任され後任にサロメンツエフ党書記が任命されるなどブレジネフ色の濃い人事異動がみられた。なお新しい中央委員および同候補の選任に際して党専従職員の比重が大幅に増大され政府機関関係者の比重が大きく減少したことは,党の指導力を強化しようとする現指導部の方針を裏付けるものであろう。

党大会以後ブレジネフ政権は当然のことながら同大会で採択された諸決定,特に経済目標の達成を国内政策の最大の課題とし,その重要性を強調する一方,国民の福祉および文化的生活水準の向上に取組むとの積極的姿勢を示している。また社会規律の強化の必要性をも絶えず強調し種々の機会を利用し要人およびマスコミは生産に従事する幹部職員の指導力の強化と責任の重大性を説くと同時に相変らず西側の反社会主義宣伝に対する警戒心の必要性と社会主義的道徳心の高揚を説いている。

(ハ) いわゆる反体制分子については,当局による種々の形での取締りにもかかわらず根強く活動が続けられている模様であるが,現政権はこれら反体制分子に対する取締り強化の態度を変えていない。1972年1月に行なわれたブコフスキー裁判はその一例と言えよう。文芸界においては,概ね平穏で,1971年6月の作家同盟大会も特に大きな波乱なく終了した。当局は進歩的作家の活動については充分に注意を払いつつも,これら作家に対する行き過ぎた非難を避け,建前として,中道的立場をとっているものとみられる。1970年2月,トワルドスキーがノーヴィ・ミール誌の編集長を解任されたが,翌1971年11月国家賞を受けたのも当局のかかる立場の現れと思われる。しかしながらソルジェニツインに対しては,同人がノーベル賞受賞の際,西側が同賞を政治的目的の為に利用していると非難して以来,当局は厳しい態度でのぞんでおり,同人の新らしい作品「1914年8月」が西側で出版されたことに対し,1972年1月の文学新聞は激しい非難を行なつている。

 (2) 外      交

(イ)1971年は,ソ連が種々活発な外交活動を展開した年であつた。1971年4月の党大会以後,5月にはシューマン仏外相,トリユード・カナダ首相の訪ソ,9月には,ブラント西独首相の訪ソがあり,また,ソ連・エジプト友好・協力条約の締結(5月)ソ連・インド平和・友好・協力条約(8月)の締結などの動きがあつた。特に米中関係の進展が目立つてきた夏以降はソ連もブレジネフ,コスイギン,ポドゴルヌイの三首脳による訪問外交を活発に展開した。

(ロ)かかる外交活動活発化の裏には,全欧安保会議の早期開催による「欧州の現状固定化」と欧州の緊張緩和を達成せんとの狙いがあるといわれているが,最近著るしく目立つてきた中華人民共和国の外交攻勢,その国際的地位の向上がソ連の外交活動の活発化を促進した側面も指摘されている。

1972年1月プラハで開かれたワルシャワ条約機構政治諮問委員会でも示された如く,ソ連の当面の関心事は全欧安保会議の開催にあるとみられるが,それと同時に,東欧に対してはワルシャワ条約機構,コメコン体制を通じて,東欧諸国との関係の緊密化にも努力してゆくものと思われる。

(ハ)ソ連外交における対米関係の重要性には依然変化はみられず,1971年を通じては,SALT交渉など軍事面における諸交渉が続けられている他,両国経済関係技術協力関係において交渉の動きが活発化するなど,両国関係の協調面が目立つた。

また,ソ連の対西欧外交活発化と同時に,中近東,アジアに対しても活発な外交攻勢を行なつている。前述のエジプトとの友好協力条約調印(5月),コスイギンのアルジェリア,モロッコ訪問(10月),インドとの平和友好協力条約の調印(8月),ポドゴルヌイのハノイ訪問(10月)があり12月の印パ戦争の勃発に際してはインドを支持し,民族解放闘争支援の立場からバングラデシュ独立を支援する立場をとった。1972年1月ソ連はバングラデシュを承認しソ連のインド亜大陸における影響力は大幅に伸長したといえよう。

(ニ)全ソ労働組合第15回大会におけるブレジネフ演説は,(1972年3月20日)党大会以後の国際情勢の変化に対処し,当面の外交政策を内外に示したものとして注目された。特に,時期的には,ニクソン大統領の訪中後であり,同大統領の5月訪ソを控えていること,また,西方緊張緩和外交の基礎ともなつている独ソ,独ポ条約批准が西独議会で難航していることから,現時点において,ソ連の対外政策を明らかにしようとした意図があつたものと思われる。同演説では,対EEC関係,独ソ関係,米ソ関係,中ソ関係,日ソ関係及びアジア集団安保構想等につきその立場が具体的に表明された。

 

3. 東      欧

 (1) 概      況

東欧諸国の1971年は,各国固有の国内問題と国際政治の流れ(特にソ連の対西欧政策-東西緊張緩和政策-と対東欧諸国に対する政策-欧州社会主義諸国の協調と団結-)の両面に於て,注目すべき現象がいくつかみられた。

東欧諸国の主要な国内動向としては,「チトー以後」の問題が表面化したユーゴスラヴィア,「ゲーレツク体制」確立に全力を尽したポーランド,党大会,総選挙を安定裡に乗りきり「正常化」を果したチェコスロヴァキアなどがあげられよう。

-方,国際政治面の動きとしては,「自主外交」を推進するルーマニア,中華人民共和国の国連加入に重大な役割りを果してきたアルバニア,ブレジネフをむかえたユーゴスラヴィア,ソ連の代弁的言動を行なつてきたハンガリー,欧州戦後体制終結への礎石ともいえるベルリン問題に関する合意に重大な役割りを果した東独などの動きが注目される。

 (2) 東      独

ウルブリヒト第一書記退陣(5月),党大会開催(6月),ベルリン大枠取決成立(9月),人民議会選挙(11月)両独間ベルリン細目交渉終結(12月)などの出来事があった1971年は,1949年の建国以来,最も重要な年の一つであったと言えよう。22年にわたり東独を支配してきたウルブリヒトの退陣に象徴されるものは,「社会主義的人間共同体」(究極的には共産主義社会に至る現段階の社会主義社会には固有の社会構成が存在するという共同体理論で,ソ連および他の東欧諸国のいう「社会主義的共同体」という社会主義諸国間の連帯性を強調する概念とは異る)の如き東独独自の理論構成が後退を強いられ,他の東欧諸国と同一歩調をとることになつたことを意味しよう。欧州の戦後体制終結への礎石ともいえるベルリン問題に関する東西間の原則的合意の成立は,東独がソ連の欧州政策に忠実な外交を展開していることを示しているとの見方がなされた。

一方,国内的にみれば,新5カ年計画にみられる様に,消費財の供給増加と質の向上,住宅建築の増大などを通して国民の要望に応えんとする計画を示し,11月の総選挙とその準備期間を通じて国民各階層と直接の話し合いを行うなどポーランド12月事件の直接間接の影響もみられ,「国民との対話」というポーランドのゲーレツク流のやりかたと共通性のある傾向がみられてきた。イデオロギー・思想の統制強化が他の東欧諸国と同様に社会のあらゆる分野に於てみられたが,統制強化の必要性の中に他の諸国ではみられない対西独考慮という要素が認められよう。西独に対してゆるぎないイデオロギー,一貫した政策を党・国民が保持している限り,東欧内に於てはその経済的実力の裏付けもあつて,東独は相対的安定を保つていける事情があるため西独に対しては出来うる限り独自性を維持せんとして国連等国際機関への早期加盟を行なわんとし,他方ポーランド,チェコスロヴァキアの東欧諸国に対しては身分証明書の提示だけで東独市民が入国できるという自由化措置を1972年1月から実施しえたといえよう。又,6年ぶりにベルリンの壁を復活祭期間ひらき,西ベルリン市民を東ベルリンおよび他の東独領に入国を許可した事は,危ぶまれているブラント政権の東方政策の基柱たる独ソ独ポ条約批准に側面から援助を与えんとするソ連の意図にも合致したものとみられる。

 (3) ユーゴスラヴィア

ユーゴの国家機構に関する最大の出来事は,憲法改正(6月30日公布,施行)であつた。連邦幹部会(集団大統領制)の創設,地方分権化(各共和国自治権拡大)を2大骨子としたこの憲法改正は,勿論「チトー以後」への布石の意味をもつものであつた。しかしこの改正論議の過程における利害対立,就中クロアチアとセルビア両共和国の民族的反目を含む経済的対立,党内主導権争いなどが表面化し,11月下旬にはクロアチア共和国のザグレブ大学における政治ストにも発展した。学生ストに続く逮捕事件,チトー大統領によるクロアチア党指導者の責任追求,トリパロ(連邦幹部会員,ユーゴ党執行委員)の辞任を頂点とする主要幹部の一斉辞職などが次々に起つた。1972年1月末に党の年次協議会が開かれ,チトー大統領の権威と声望によつて漸く事態を収拾したものの,「チトー以後」の問題は依然として確たる見通しは得られていないものとみられる。ソ連との関係については,9月にブレジネフを迎え,ソ連・ユーゴ関係は一応の小康状態を得たが,今後の国内状況の展開次第では,目下事態の推移を見守るかの姿勢をとつているソ連も,何らかの対ユーゴ特別政策をバルカン政策の一環としてうち出してくることも考えられよう。

 (4) その他の東欧諸国

(イ)ポーランドは1971年12月に党大会を開催し,大会までの準備期間中,現体制に対立するともみられるゴムルカ派,モチャール派を党,国家機関の主要ポストから除外し,又,国民の声を政治に反映させることによつて責任と義務を国民にも負わせるかたちをとり,無事党大会を終え,1972年3月に総選挙を行つて,党,国家機関,両方において完全にゲーレツクを中心とする体制を確立したとみられる。

(ロ)チェコスロヴァキアにおいては党大会(5月),党創立50周年記念(10月),総選挙(11月)など大衆を動員する行事が相次ぎ,全てが大過なく行われ,フサーク指導部の「正常化」路線が定着化してきたといえよう。但し知識人対策に限れば,11月頃から大量逮捕が行われており,「正常化」は順調には進捗しておらず,依然として長期的な課題であることを示している。

(ハ)ルーマニアにおいては国内面では,産業の近代化に伴う社会構造の変化に対応させるため国民の意識水準の向上が必要であるとの見地から,特に1971年7月以降大々的なイデオロギーの強化キャンペーンが行なわれた。国内に於けるチャウシェスク第一書記の地位は増々ゆるぎのないものになつてきている。対外関係においては,いわゆる「自主外交」の頂点としてチャウセスク元首の訪中(6月)が行なわれたが,その後クリミヤに於けるソ連,東欧首脳会議にボイコットされるなどルーマニアに対する圧力が強まるにつれ,ルーマニアはソ連を必要以上に刺激しないよう「自主外交」はより慎重になつてきているといえよう。一方,経済的自立なきどころ政治的自立なしとの基本認識よりコメコンからの自立を達成するために積極的な努力も行つている。又1972年3月中旬から長期にわたつてアフリカ8ヶ国訪問外交を行つたが,これもルーマニア「自主外交」の一環とみれらる。

(ニ)ハンガリーにおいては4月の総選挙で複数立候補制が実施され,他方,地方自治制の改正も行なわれて中央に属していた権限を大幅に地方に移譲するとの改革が行われた。社会主義計画経済の大枠を守り,その大枠内で出来る限りの自由を国民に与えんとする姿勢を保つているカーダル第一書記の地位は,極めて安定している。この国内の安定性を基礎として,外交面においては,ソ連外交に同調することが有利とみれば進んで代弁者的発言を行うなどのゆとりを示しており,ワルシャワ条約機構諸国との団結を外交の中心課題としつつも,他面,社会制度を異にする他の諸国とも平和共存を基調とした外交を展開している。ハンガリー動乱以来,在ブダペストの米国大使館に亡命していたミンゼンティ枢機卿を1971年9月に国外に出国させたのも,その一例であろう。

(ホ)ブルガリアにおいては4月に党大会,6月に総選挙が行なわれ,7月の新国会に於て,国家評議会初代議長(元首)にジフコフ第一書記が選ばれ,名実共にブルガリアの第一人者となつた。外交面においては,ソ連に対し「ソ連はブルガリアにとつて太陽であり空気である」(党大会に於けるジフコフ演説)との讃辞を呈し,4月,9月の二度にわたつて来訪したブレジネフ書記長が党と国民をあげての大歓迎をうけた事実からみても,ブルガリアはソ連にとつて難のない優等国であろう。

(ヘ)アルバニアに関しては,「中華人民共和国の真意を知るにはチラナ放送を聞けばよい」と言われた程,国際社会に於てアルバニアは中華人民共和国のスポークスマンとして活躍し,その頂点は国連における中国参加に関する「アルバニア案」可決の時であつた。1961年以来対中国一辺倒の外交路線をとり,1971年11月に開かれた党大会に於ても「中国との友好路線の強化,帝国主義,修正主義との闘いの強化」とをうたつた。しかしながら中華人民共和国が国際社会に復帰した後,アルバニアとしては,相対的な価値の低下はまぬがれ得ないとみられ,より広く,より多くの国との関係をもつとの政策を進めてきている傾向がある。ニクソン訪中に関するアルバニアの沈黙は困惑と不快ぶりを示すものであり,中華人民共和国との今後の関係は,アルバニアの対ソ連関係とからんで注目に値しよう。

 

4. 西      欧

 (1) 概       況

1971年及び1972年前半は,西欧諸国においては,英国の北アイルランド問題が深刻化し,英軍に対するテロ行為が兇悪化したこと,またイタリア大統領選挙にて戦後最大の投票回数を重ね,左右政党に深いしこりを残したことの他,各国にスタグフレーションの傾向が現われたことなどの動きが生じたが,概して各国の国内情勢は平穏に推移したと言えよう。この1年を通じて西欧においてむしろ注目すべきは本節1.に述べたような東西関係の動きと,欧州統合をめぐる動きであつたと言うことが出来る。

 (2) 英       国

内政面で,(あ)1971年当初ストライキの嵐が吹き,賃金上昇とこれに伴う物価上昇が起った。政府の対策は相当の成功を収めたものの,失業率は戦後最高水準に達したこと,(い)北アイルランドにおいて,英軍に対するテロが兇悪化してきたことなど暗い面が見られたが,外政面において,英仏関係改善の動きがみられ,EC加盟交渉が妥結するなど,欧州政策が前進をみせた。

 (3) ド   イ   ツ

1971年前半,2年目を迎えたプラント政権が西ベルリン等に3州議会選挙を無難に乗り越え,外交面での東方政策の成功もあり,SPD/FDP連立内閣の安定性を増大させた。しかし経済面においては,景気後退傾向の中で,消費者物価の上昇,賃金上昇が続き,今後さらにこうしたスタグフレーション的傾向が続けば,政府批判に容易に転化する情況にあるといわれている。

 (4) フ ラ ン ス

内政面では比較的平穏に終始したと言えよう。ポンピドウ政権は,計算の行届いた現実的施策を行なつていることもあり,安定性を増大させたと言えよう。

フランス経済は1969年以来政府の推進してきた強力な再建政策のもとに着々回復し,1971年は,国際通貨不安という外的要因があつたにもかかわらず,国内生産・輸出面等で波瀾もなく,比較的好調かつ安定した1年であつたと言えよう。

 (5) イ タ リ ア

1971年は政治的不安定,経済的には停滞の年であり,特に年末における大統領選挙に於て投票回数23回16日間という戦後最大の回数を重ね,左右両派に深いシコリを残した。経済面においては,実質成長率は大きく落ち込み,コスト・インフレの懸念も強く,改善は必ずしも容易でない状態にあるとみられる。

 (6) 西欧諸国間の関係

金融問題をめぐり,対立もみられたが,欧州共同体,NATOなどの場において各国間の連帯の強化拡大の動きがかなり顕著にみられた。特に欧州共同体に関しては,1971年に大きな前進を見せた。1970年7月以来,英国のEEC加盟交渉は71年6月に合意成立を目途として進められてきたが,第6回ブラッセル閣僚理事会(5月11日~13日)にて英国の財政負担問題などに関し合意が成立し,その後英仏首脳会談(5月20,21日)において欧州政策全般につき両首脳の意見が大筋において一致し,英のEEC加盟についての最終的障害が除去された。その後英国内で,EEC加盟が承認され(10月末)72年1月22日,仏,独,伊,オランダ,ベルギー,ルクセンブルグのこれまでの欧州共同体メンバーと,新たに加盟を申請していた英国,アイルランド,デンマーク,ノルウエーの4ヵ国はブリュッセルにて欧州共同体加盟の条約に調印した。今後新規加盟国は批准のための国内手続きを行ない,73年1月1日拡大EECは正式発足することとなるがかかる欧州統合の進展は,今後の国際政治に多大の影響を与えていくものと思われる。

 

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