-時代の特徴-
第 1 部 |
総 説 |
1. (変動の年)
1971年は戦後の歴史の中で最も変化の激しい年であつた。戦後四半世紀にわたつて維持されて来た東西の対立という国際政治の基本枠ぐみは,少くとも現象面において大きく変貌し,新しい国際秩序の建設に向つての具体的一歩が踏み出されたのである。変化は国際政治面のみならず国際経済の面においても生じ,戦後一貫して維持されて来た世界経済秩序は少からざる動揺に見舞われた。当然のことながらわが国も政治,経済の両面におけるこのような変化の影響を免れ得なかつた。
2. (多極化に向かう世界)
国際政治面での変化の一つは,国際関係の多極化傾向が明確になつたことである。中華人民共和国は文化革命収束後,国内体制の整備を進めるとともに,外交活動を活発化し,カナダ,イタリア等をはじめ逐次各国との関係の調整を進めるなど,国際政治面における影響力を次第に高めつつあつたが,1971年7月15日,ニクソン米国大統領が北京訪問の計画を発表するに及び,国際政治における同国の重要性が新たな観点より認識され,次いで10月25日,国連総会における中国代表権問題の議決を経て,同国の国連参加が決定した。1972年2月下旬にニクソン大統領の中国訪問が実現されたが,その結果発表された米中共同コミュニケは,両国が立場を異にすることを確認しつつも,米中両国は従来の「対決」に色どられた関係から「対話」を含む共存の関係に入ることを明らかにしており,国際政治はかつての米ソ二大国の拮抗の時代から,米・中・ソ三国間の競争と共存,対立と対話の関係を軸として動く時代へと移行することが明らかとなつた。
中国をめぐるこのような変動とともに,わが国の国際的地位の向上もますます明確になつた。過去数年間くすぶり続けて来た国際通貨問題は世界の重要課題の一つであつたが,1971年末の多角的通貨調整を通じ,わが国はこの課題の一応の解決に重要な役割を果し,世界経済に大きな影響力をもつていることが実証された。経済力を中心として増大しつつあるわが国の国力は,ますます世界の関心と注目を集めており,この事実を背景としてわが国は,国際政治面においても影響力を高めつつあると言えよう。
欧州においては,西欧諸国の経済力の伸長と相俟つて,欧州経済共同体の進展と拡大が顕著である。特に長年の懸案であつた英国等の加盟問題が解決をみ,六ヵ国から十ヵ国へと拡大する共同体が,やがては米ソにも比肩しうべき大きな経済統合体に成長することも期待される。これと同時に,欧州は政治的にも次第に共同歩調をとるよう相互の立場を調整しつつあり,世界政治における欧州の比重の高まりがみられる。
1971年においてはこのようにして米ソのほか,日本,中華人民共和国,欧州等の諸国,諸地域の立場が高まりつつあることが看取された。もとより,これら各国各地域の国際的立場が米ソという超大国のそれと同様のものでないことは言うまでもないが,従来の米ソ二国を中心とした世界は大きく変貌し,今や米ソ両国とともに多数の国々が多様の選択をもち,さまざまの影響力を行使し合う多極化の時代が到来しつつあるといえよう。
3. (緊張緩和への模索)
上記のごとく国際関係が多極化するに伴い各国相互関係は流動化の様相をみせ,その間には緊張緩和を促進する動きや,逆に緊張を持続ないし激化する動きが交錯し,また大国の相克する利害関係から離れて自立を求める小国の動きなどが現われた。
元来,ニクソン米大統領の訪中は,多年にわたる米中間の対立関係に対話の途を開き,もつてアジアにおける緊張の激化を防止しようとする意図を含むものであり,同大統領の訪ソ計画もまた,他の諸目的とあわせて,米ソ間の共存関係を確認しようとする意向に発するものとみることができる。しかしながら,政治理念,社会体制,ないし国家目標の面で,米中間にはなお幾多の超え難い溝が残つているし,就中,米ソ関係については,ソ連の核戦力の増強,印度洋,太平洋方面におけるソ連海軍の進出等,緊張要因の増大という現象もみられた。
中ソ関係は従来,イデオロギーや党関係の分野では対立しつつも国家関係の悪化を避けるという二面を持つて推移して来たが,印パ戦争の前後を通じて,対立の様相を深めた観もあり,国家関係の面でも近く大きな進展は期待し難くなつている。
欧州においては,昨年にひきつづき東西の緊張緩和に向つての努力が一層精力的に進められ,ベルリン問題の解決に大幅の進展がみられた。このほか,全欧安全保障会議の開催問題や,均衡的相互兵力削減計画などをめぐり注目すべき動きがみられた。
このような諸大国間の動きは当然他の諸地域に各種の影響を与えたが,その影響がとりわけ強く現われたのはアジアにおいてである。
朝鮮半島においては,南北双方ともアジアにおける緊張緩和の動きに直ちには呼応し難い事情にあるものの,家族探しを目的とする赤十字会談が開始されるなど,対話に向つての模索もうかがわれる。
ヴィエトナム戦争は,1971年2月の南ヴィエトナム軍のラオス進攻,11月の共産軍のジャール平原における攻勢等,一時的に戦闘の激化がみられたものの,全般的には小康状態を続けてきたが,1972年3月後半より軍事情勢の緊迫化がみられる。また,和平提案が双方から行なわれるなど,緊張緩和へ向つての努力が行なわれたが,米中関係の改善も当面の和平促進には大きく資することなく,1972年3月以来パリ会談は長期にわたり中断されている。
かねてより緊張状態に推移して来た印度・パキスタン関係は,1971年末武力衝突に入り,結局バングラデシュの誕生となつて一応終結した。この紛争は国際関係の多極化によつて直接触発されたものでないにしても,その経過の中にも,米,中,ソ三国の影響が色濃く反映されていたことは否定し難い。
他方,東南アジアにおいては1971年11月フィリピン,マレイシア,タイ,シンガポール,インドネシアのアセアン5ヵ国が「中立化」を宣言し,この立場が各国より尊重されることを求めた。このような動きは,米中ソ等大国の影響力が交錯し合う多極化世界の中で自らの位置を定め,自主・自立の立場を確保せんとする希望を反映したものといえよう。
中近東,アフリカ,中南米に対し多極化と緊張緩和の傾向がいかなる影響を及ぼしつつあるかは,今なお必ずしも明らかでない。中近東においては,1967年の中東紛争の処理をめぐつて今なおアラブ諸国とイスラエルとの対立と緊張が続いており,米ソ等各国の和平への努力は何ら実を結んでいない。アフリカにおいては,人種問題を中心とするアフリカ内部の相克が続いており,この間中華人民共和国は平和五原則の柔軟路線に従い,対アフリカ外交を積極化し,過去1ヵ年内にエティオピア,ナイジェリア等の諸国と国交を
開いている。又,中南米においては1970年選挙で社会主義政権を樹立したチリにつづき,各国で左翼革命運動の進展が予想されたが,これは一進一退をくりかえすに止まつた。ただ,この地域におけるナショナリズムの昂揚は著しく,特に米国の影響力から離脱し,経済的自立を求める傾向がますます強まりつつあることが注目に価する。
4.(国際経済面の変貌)
1971年において国際経済もまた大きな激動にみまわれた。
過去数年来,米国経済は不況下における物価の上昇といういわゆるスタグフレーションに見舞われ,またドルの信認は更に低下を来していたが,1970年に入つてからその国際収支はいちじるしく悪化し,遂に1971年8月米国政府はドルと金との兌換停止と輸入課徴金の導入を含む新経済政策を発表した。この措置は直ちに国際通貨体制に大きな影響を及ぼし,結局主要国の通貨は変動相場制へと移行し,若干の紆余曲折を経た後,年末の10ヵ国蔵相会議において,円を含む主要国諸通貨の一斉切上げ・切下げという世界的規模の通貨調整が行なわれた。
米国のこの新経済政策発表の結果,従来一貫して維持されて来たIMF,GATTを中心とする戦後の世界経済秩序が手直しを余儀なくされることとなつた。
通貨面とともに国際貿易面においても重要な動きがみとめられた。かねてから自由・無差別の世界貿易体制は,保護主義・地域主義の台頭によつて試練に見舞れつつあつたが,1971年8月の米国の新経済政策は,広い分野にわたつての輸入課徴金制度を創設するものであつたため,改めて重大な危機に見舞われた。この課徴金制度は前記通貨調整措置の一環として1971年末撤廃されたが,これをもつて自由貿易体制が完全に立ち直つたとは言い難く,今後とも米国内における保護主義の傾向が残存することが懸念される。他方,欧州では欧州経済共同体が統合を進め,また英国等を加えることによりその影響力を世界的に拡大しつつあるが,これが地域主義的傾向を強めるか,あるいは開放的世界経済秩序の強化の方向に寄与する要因となるかは注目を要するところである。