―北米地域―

 

第3節 北 米 地 域

 

1. 概  観

 

 日米両国が友好と信頼の基礎の上に相互協力を行なうという両国の基本的関係は,1970年を通じていささかも変るところはなく,さらに佐藤総理の第4次訪米をはじめ両国要人の相互交流,沖繩返還協定交渉などを通じて,政治,経済,科学技術交流等においてあらたな進展がみられた。

 米国においても,わが国の国力の充実に伴い,日本をアジアにおける最大の盟邦として,ニクソン・ドクトリンの具体化との関連で,アジアにおける日本のより積極的な役割を期待する声が聞かれた。他方,繊維交渉の難航にみられるごとく,通商問題において両国間にあらたな問題が生ずるなど,日米両国が相互の協力関係を今後いつそう発展させるうえにおいて,両国が慎重に対処すべき新たな局面も生まれた。

 

2. 日米首脳会談

 

 国連25周年記念総会出席のため訪米した佐藤総理は,総会出席後ワシントンに赴き,10月24日,ホワイト・ハウスにおいてニクソン大統領と会談を行なつた。

 会談は約1時間半にわたったが,佐藤総理とニクソン大統領は,1969年11月の日米共同声明の精神と内容にしたがって沖繩返還交渉が円滑に進められていることを確認するとともに,日米両国がともに関心を有する多くの問題について意見を交換した。

 会談においては,一般国際情勢,東南アジア情勢,ニクソン・ドクトリン,中国問題,環境汚染問題および日米経済問題が討議された。

 なお,今次首脳会談においては共同声明は発表されず,会談終了後の愛知外務大臣および木村官房副長官による記者会見において,木村副長官より簡単な発表がなされた。(資料編参照)

 

3. 沖 繩 問 題

 

(1) 施政権返還問題

 1969年11月の佐藤総理大臣とニクソン大統領との会談の結果,沖繩の「核抜き,本土並み,1972年中」返還という,沖繩の施政権返還の基本的大綱について日米間の合意が成立した。(「わが外交の近況」第14号125頁参照。)

 沖繩返還協定交渉については,1970年6月5日の愛知外務大臣とマイヤー駐日米国大使との会談を起点として,その後原則として毎月1回上記会談を行なうほか,日米双方の事務当局において,鋭意かつ密接に協議を進めてきた。

 その結果(1971年1月末現在),返還協定交渉はかなり進捗し,沖繩返還のための作業は順調に進んでいる。

 具体的日程としては,明1972年中のできるだけ早い時期に沖繩返還を実現するとの基本方針にのっとり,本1971年春より夏にかけて協定に署名のうえ,同年中に国会の承認手続を完了することを目標としている。

(2) 復 帰 準 備

 (イ) 復帰準備委員会

 沖繩の復帰のための日米協力及び復帰準備委員会設置につき合意した1969年11月の日米共同声明第10項に基づき,1970年3月3日,愛知外務大臣とマイヤー駐日米国大使は,沖繩の復帰準備に関する書簡を交換したが,その中で,東京にある日米協議委員会の機能の拡大並びに復帰準備委員会の組織及び任務につき取決められた。

 準備委員会は,大使級の日本国代表と高等弁務官による米国代表とによつて構成されているが,沖繩県民の意思が十分に反映されるよう琉球政府行政主席が顧問として,これに参加している。委員会の主な任務は,(イ)復帰準備のための原則及び指針にしたがい,現地でとられるべき措置及び実施計画の確定,(ロ)必要な調査及び研究の実施,(ハ)復帰準備についての日米両国政府に対する必要な勧告の作成及び委員会の活動につき,随時報告すること等とされており,同委員会の代表会議は,1970年3月24日の第1回委員会以来現在まですでに8回の会合が開催されている。

 (ロ) 民政諸権限の一部移行

 上記復帰準備委員会は,これまで沖繩住民の福祉と利益を念願しつつ,復帰のための必要な諸準備を進めてきているが,1970年11月9日の第7回準備委員会においては,施政権返還が円滑に実施されるための措置として「返還時におけるアメリカ合衆国の民政の諸権限の日本国への移行を容易にするための合意,」が採択され,今年11月19日開催の第20回日米協議委員会で右合意が承認されるにいたつた。これにより,日本政府は,1970年12月1日より,琉球政府の農村,文教,法務,通商産業等各局の行なう諸機能に関し,同政府に対し,沖繩・北方対策庁沖繩事務局を通じて助言と援助を与えていくこととなつた。

(3) 対沖繩財政援助

 1971年1月19日の沖繩に関する日米協議委員会第21回会合において,日本政府の昭和46年度における沖繩復帰対策計画が承認された。

 同年度の沖繩復帰対策計画は,1972年中に実現する沖繩の本土復帰にそなえ,従来の沖繩援助費を「沖繩復帰対策費」に改め,豊かな沖繩県づくりを目標に施政権の移転及び沖繩県への移行等諸般の措置を円滑に行なうとともに,沖繩の経済社会の開発発展を促進するために所要の財政措置が講ぜられたものである。

 その結果,一般会計において427億円,財政投融資において140億円,合計567億円となり,昭和45年度の援助額を237億円以上上回ることとなつた。またこれに本土産米穀の売渡代金の沖繩における積立金運用予定額33億円を加えると総額600億円に達し,45年度の援助額に比べ,実に171パーセント程度の大幅な伸びを示している。

(4) 沖繩現地の情勢

 明年に予定されている沖繩の本土復帰を控え,沖繩においては,コザ事件,毒ガス兵器の撤去,米軍基地雇用者の解雇等をめぐる諸問題が起っている。

 (イ) コ ザ 事 件

 1970年12月20日夜半,コザ市(沖繩本島中部の市)において,一米兵の運転する車が沖繩住民に接触し,全治1週間の傷を負わせる事故が発生し,さらに,付近で沖繩住民の車に米人運転の車が追突するという事故が相次いで発生した。事故現場に集った群集は次第に数を増し(約2千人に達したと言われている),投石等をくり返したが,これに対し米軍憲兵の行った威嚇射撃を契機に群集は激化し,付近に駐車中の米人の車に火を放ち,約千名は嘉手納空軍基地に向い同基地第2ゲート入口を約200人が突破,同ゲート脇の通行証発行所,基地内の米人小学校用建物に放火した。

 この事態に際し琉球警察及び米軍関係者が鎮圧に当つた結果,同日(12月20日)午前7時頃までに事態は鎮静化した。

 同夜の逮捕者は21名(24日までに全員釈放),負傷者は米側61,沖繩民間人14,琉球警察官6,計81名(いずれも軽傷)に達した。(その後琉球警察は1970年1月8日,28日の2度にわたり本事件容疑者各々11名,9名を逮捕した。)

 その後日本政府は米側に対し,復帰を控えかかる事件が発生したことは残念であつたが,沖繩住民の感情にも十分留意しつつ,将来類似事件の再発を防止すべく今回の事件の原因の究明に努むべきこと,そして沖繩の円滑な本土復帰という日米双方の共通の目標達成のために相互に建設的な方向で協力してゆきたい旨の申し入れを行なつた。

 その結果,1971年1月5日,米民政府より,米軍法会議に琉球政府代表がオブザーバーとして出席することを認める旨の発表が行なわれた。

 さらに,交通の安全を確保することを目的とする米琉合同交通委員会の早急な設置が検討されている。

 (ロ) 毒ガス兵器の撤去

 1969年7月米国防総省の発表により沖繩に貯蔵されていることが明らかにされた毒ガス兵器については,日本政府は機会ある毎に早期安全撤去を米国政府に要請してきたが,1970年12月4日レアード国防長官は, (イ)沖繩に貯蔵されている毒ガス兵器をすべて太平洋上のジョンストン島へ移送する,(ロ)まずはマスタード・ガス150米トンを早急に移送し,残余については同島の貯蔵施設の拡張工事の完了をまって移送する,(ハ)いずれにせよ沖繩返繩前に沖繩の毒ガスを全部同島へ移送する旨の発表を行なった。

 前記発表に基づき第1回移送分のマスタード・ガス兵器(容器を含め総量150トン)は,1971年1月13日(当初1月11日に予定されていたが,現地事情の進展により2日遅れた。)知花弾薬庫から天願港へ陸上輸送のうえ,輸送船ロビンソン号に船積みされ同船は同14日朝ジョンストン島へ出航した。

 政府は本件毒ガス兵器第一次分の移送に際し,移送作業の安全性確認のため調査団(団長田辺沖繩北方対策庁調整部長,以下団員4名)を派遣し,毒ガス兵器の貯蔵庫内の実地点検をはじめ,輸送経路,船積作業の諸面にわたつて実地調査を行なつた。また,琉球政府も別途独自に日本本土より調査団を招へいした。

 なお,残余の毒ガス兵器の移送については,2月5日米国防総省は第一次移送の際に使用されたと同一搬送ルートを使用することを前提とし,他の搬送ルートが選定された場合に起りうべき遅延もしくはジョンストン島における予期しない工事の遅延その他予期しない事態が生じないとすれば,1971年盛夏ないし晩夏までには完了する予定と発表した。

 (ハ) 軍基地雇用者の解雇

 1970年12月21日,在沖繩米軍はニクソン・ドクトリンに沿い,極東の安全保障体制を慎重に考慮した結果,日本本土及び在沖繩米軍塞地の縮小及び兵力の再編成を行ない,沖繩については1971年6月30日までに1,000エーカー以上の軍用地が解放され沖繩の米軍雇用者約3,000人を解雇すると発表した。右発表によるとその内訳は空軍関係1,350人(3月5日解雇650人,5月15日解雇予定700人),海兵隊1,200人(6月30日解雇予定),陸軍170人(4月1日解雇予定),海軍115人,PX130人(何れも6月30日解雇予定)とされているが,1971年2月19日米軍当局は,当初解雇予定数3,000人から550人(空軍350人,海兵隊130,陸軍60人,ORE10人)を整理の対象から除外することを明らかにした。

 沖繩のように雇用機会の少ない所では,離職者はもとより沖繩住民全体に与える影響も大きく,とくに復帰をひかえ沖繩住民の福祉をいつそう促進し,また,離職者の生活保障を可能な限り確保するとの観点からも,政府としては大きな関心を寄せ,米側ともその実現のために語し合いを続けている。

 

4. 日米安全保障条約の自動継続

 

 1960年に締結された日米安全保障条約は,「日本区域における国際の平和と安全の維持のための国際連合の十分な措置」が効力を生じたと両国政府が認める時まで効力を有することとされているが,他方,その第10条第2項では,当初の10年が経過したあとは,いずれの締結国も条約の終了を他の締約国に通告することができるとされており,この場合には,その通告後1年で条約が終了することとなつている。

 しかしながら,日米両国とも,極東情勢の現状と見とおしにかんがみ,安全保障条約が今後とも必要であるとの共通の認識を有し,1969年11月の佐藤総理とニクソン大統領の間の共同声明第5項において,この条約を堅持するとの両国政府の意図を明らかにした。

 政府は,安全保障条約のいわゆる固定期間が終了する6月22日,声明を発してこの条約を引き続き堅持することを明らかにするとともに,わが国の安全保障に関する政府の考えを示した。(資料「昭和45年6月22日政府声明」参照)

 

5. 日米経済関係

 

(1) 米国の対外経済通商政策の動向

(あ) 米国経済は1969年以降の景気引締めにより,超過需要が除去され,企業の投資意欲も消費者心理も鎮静化した。これに伴い失業率も上昇しているが,物価上昇は依然として持続しており,目下米国経済は景気停滞のもとでのインフレーションという困難な事態に直面している。実質GNPの伸びは1970年第2・四半期からゆるやかながら変つて景気底入れ観が強まつたが,第4・四半期になるとGMストとそれに伴う景気先行き不安感により再びマイナスに転じ結局通年実施はマイナス0.4%と,1958年以来12年ぶりにマイナスを記録した。一方,物価はGNPデフレーターで5.3%と前年を上回る上昇を示し,かくて1970年の米国経済は経済成長の回復という点でも物価の安定という点においても政府の期待を下回わることとなつた。

(い) 1970年の米国の国際収支(流動性ベース)は38.7億ドルの赤字であり,前年(70.1億ドルの赤字)に比べて著しく改善した。しかしながら,1969年の大幅赤字は短資移動の攪乱的影響に依るところが大きく,見かけほどの顕著な改善が見られたわけではない。

 貿易収支については,1970年に入り米国の経済成長が鈍化したのに対し,他の主要工業国で需要が堅調を保つたため予想を上回る回復振りを示し,年間では27億ドルの黒字を記録した。

(う) このような国際収支の悪化および米国経済におけるインフレの進行等に伴う米国産業の国際競争力の相対的低下等の要因を背景として,米国内では保護主義的な動きが強まつた。特に米国は欧州諸国およびわが国において相互主義に基づき当然与えられるべき十分なアクセスが与えられていないとの不満があり,わが国の貿易および資本に関する諸制限,EECの共通農業政策や地中海諸国およびアフリカ諸国に対する特恵取決等について米国行政府が厳しい態度をとるよう求める声が強まつている。

(え) かかる状況の中で米国政府は今後とも自由貿易の原則を堅持するとの方針を示してきたが,ただこのためには繊維問題についてのみは輸出国の自主規制によつて問題の解決を図る必要があるとして協力を要請してきた。

 1970年6月,繊維問題に関する日米間の話合いが中断されたことを契機として,米国議会においては1970年通商法案の審議が進められた。同法案は8月13日,下院歳入委員会を通過し,11月19日には下院本会議で可決され上院に回付された。他方上院では10月13日財政委員会において,同法案は社会保障法案のライダー(付帯条項)として可決された。

 この法案は繊維および履物の輸入制限条項やエスケープ,クローズの強化等,保護主義的条項を含むもので,このような法案が成立する場合,世界の自由貿易体制に多大の悪影響を及ぼすことになるとして各国より米国の自重を促す趣旨の対米申入れが行なわれた。わが国も1970年11月16日,牛場駐米大使よりジョンソン国務次官に対し,覚書をもつて,かかる法案が成立する場合,世界中に保護主義の連鎖反応を惹起する危険性のあること等を指摘して,法案成立阻止に出来る限りの努力をされたい旨申入れた。

 結局,通商法案は,自由貿易派の反対や,あるいは本法案が国内諸産業の雑多な利害を反映するオムニバス法案という性格であることから各議員の利害の調整に多大の日時を要したことなど,各種の要因から,結局,上院本会議を通過するに至らず,時間切れで廃案となつた。

(お) なお,米国政府は急速に変貌しつつある世界経済の状況に適合した新しい対外経済政策を検討すべく,1970年5月には国際貿易および投資政策に関する委員会(通称ウィリアムズ委員会)を設置し今後米国のとるべき新しい貿易および投資政策について1971年中旬までに大統領に勧告するよう求めている。(1971年1月,牛場駐米大使は本委員会で講演を行なつた。)また,1971年1月には貿易,投資,国際収支,国際金融等の諸問題につき最高レベルでの検討を行ない,国内経済政策と対外経済政策との間で首尾一貫性を保つことを目的として,大統領府に国際経済政策会議(事務局長はピーターソン前ベル・アンド・ハウエル社長)が設置されている。

(2) 日米経済関係

(あ) 1970年の往復の日米貿易は約25%伸び,105億ドル(対米輸出58.8億ドル,輸入46.5億ドル,米国商務省統計)という大きな規模に達した。わが国の対米輸出は米国の景気停滞にもかかわらず機械機器,とくに自動車,オートバイ輸出の著増を中心に大方の予想を上回る底固い動きを見せた。他方輸入は米国の港湾ストによる落込みの反動,ジャンボ・ジェットの引渡し開始,鉄鋼関係原燃料の大幅な輸入増等により大幅な増加を記録し,貿易収支黒字は1969年の14億ドルから11億ドル程度に縮小した。

 また,日米間の資本技術の交流もますます増加しており,日米経済関係は順調に拡大している。

 このような日米経済関係は日米両国の利益となつているのみならず,世界の平和と繁栄のためにも大きな重要性を持つもので,この点は1971年2月25日に発表されたニクソン大統領の外交教書においても強調されたところである。

(い) しかしながら,上記(1)に述べた通り,近来米国では保護貿易主義が強まつており,この動きを背景として,米国各方面において,わが国がその経済力に相応する十分な自由化を行なつていない,また,「集中豪雨的」な輸出を行なつている,との厳しい批判が行なわれている。例えば,残存輸入制限の削減にしても,一応わが国の努力を評価しつつも,関税引上げや行政指導により自由化の効果を削減しているといつた批判が行なわれている。かかる状況の中で,繊維や電気製品等わが国主要輸出品に対する輸入制限やダンピング提訴の動きが生じている。

(う) 1970年10月の佐藤総理とニクソン大統領との会談においては,両者は現在日米経済関係には幾つかの問題は生じているが,今後とも自由貿易の増進と国際貿易体制を強化するために相互信頼の精神に立つて,これらの問題の解決を図る意図を表明し,また,1971年の適当な時期に第8回の日米貿易経済合同委員会を開催することが合意された。

 円滑な日米経済関係の維持はわが国経済にとつて不可欠であり,まま発生する問題は,この日米首脳会談の合意に基づき,一つ一つ話合いによつて解決するよう努めることが重要である。また,かかる努力と並行して,米国が自由貿易体制の維持に今後とも指導的な役割を果すよう要請するとともに,他方においてわが国自身が貿易,資本の自由化を促進し,また,秩序ある輸出に努める等,世界経済により一層貢献していく姿勢を示すことも肝要となつている。

(3) ダンピング問題

(あ) 1970年5月,米国財務省は,議会等における反ダンピング法令の従来の運用振りに対する強い批判を背景として,保証状の受理によりダンピング調査を打切る場合を限定する方針を明らかにした。すなわち,従来,わが国の対米輸出商品についてダンピング調査が行なわれる場合,わが国業者より,今後は当該商品の対米輸出は行なわない,ないしは今後はダンピング価格での輸出は行なわない旨の保証状を財務省に提出することにより,ダンピング調査が打切られてきた事例が多いが,かかる運用をもつてしては,ダンピング防止効果は期待できないとの批判が強く,財務省は保証状の受理を「当該案件の販売総量との関連においてダンピング・マージンが僅少である場合」に限定することとしたものである。

 さらに,財務省は,従来ややもすると長期間にわたつてダンピング調査の迅速化を図つてきている。

(い) この間にあつて,1968年6月以降わが国の対米主要輸出品目の一つであるテレビ・セット(1969年輸出額約2億6,300万ドル)に係るダンピング調査が行なわれてきた。本件については,わが国業界がダンピングの事実がない旨の立証に努め,また,政府としても,下田および牛場両駐米大使を通じ,数回にわたり,調査が国際ダンピング・コードに沿つて公正に行なわれるよう国務省および財務省に申入れてきた。

 しかしながら,上記の財務省による方針の変更もあつてわが国業界の試みた保証状の提出による解決も実現せず,財務省は1970年9月4日関税評価を停止した後,同年12月4日,ダンピングの事実ありとの最終決定を行なつた。その後関税委員会において被害調査の結果,1971年3月4日被害ありとの結論が出され,ここに関税評価の停止の時に遡って通常の関税に加えてダンピング税を徴収されることとなつた。

(う) 1967年以来,現在までダンピング税の賦課が確定したものは上記のテレビのほかチューナーおよびフエライト・コアーの合計3件,財務省によりダンピングの認定が行なわれ,現在関税委員会で調査中のものは,普通板ガラスおよび磨き板ガラスの合計2件,現在財務省で調査中のものはすでに関税評価停止措置がとられているものを含め合計8件となつている。

(4) 金属洋食器問題

(あ) 近年,米国の金属洋食器の輸入が急速に増大したことを背景として1969年10月,米国政府はガット第28条1項(関税譲許の修正ないし撤回)に基づいて金属洋食器の輸入を制限する意向を明らかにし,1970年8月,わが国に対し年間のグローバル枠を700万ダースとするタリフ・クオータ制の新設を提案した。この問題はわが国関係業界が特定地域に集中しており,経済的,社会的な影響が大きいこともあって,政府はこの問題で米政府と協議のため渡米した関係議員,業界代表等の協力をも得て,米政府とタリフ・クオータの拡大等について鋭意交渉を行なった。その結果,当初の米国案に比し大幅に改善された内容で合意が成立し,1971年2月,ワシントンにおいて日米政府間の書簡交換が行なわれた。

(い) 合意の概要は次の通りである。

 タリフ・クオータのグローバル枠は年間1,600万ダースとし,うち対日枠は1,100万ダースとする。

 関税率は枠を超える輸入に対し,ナイフ,フォークは1本当り2セントプラス従価45%(現行税率の約3倍),スプーンは従価40%(現行税率の約2.5倍)とする。

 タリフ・クオータ実施期間は原則として5年間,増枠は対前年比6%増以内でこれを行なうこととし,また,枠の運用は4半期ベースとする。

(う) なお,米政府は英(香港),韓国およびEEC等との協議を行なっているが,未だ合意に達していない。

(5) 石炭の輸出規制問題

(あ) 1970年9月頃より,米国においてはエネルギー資源の需給が逼迫するにともない,石炭の価格上昇とストック減に悩む電力業界を中心に石炭の輸出規制を求める声が生じた。(米国は伝統的に電力エネルギー源として石炭使用率が高く,1968年には全電力の53%が石炭を原料とする火力発電であり,このため,約3億トンの石炭が電力に消費された)電力業界は政府において早急な対策がとられない場合,1970年の冬には停電の恐れがあると警告した。また9月にはゴア上院議員(民主党,テネシー州)が石炭及び電力不足の緩和のため石炭の輸出を1964~68年の水準に規制する法案を提出するという動きも見られた。

(い) 米国の石炭輸出は生産量の10%内外で推移しており,(1969年において生産量は5.6億トン,うち輸出向けが0.6億トン弱,うち日本向けが1/3以上)近年とくに輸出の増勢が著しいわけではないが,わが国への輸出は近年増加の傾向が著しい。

(う) わが国は鉄鋼生産用に大量の原料炭を輸入しているが,その量は年々増大しており,1969年は約0.4億トン(6.7億ドル)に達した。このうち対米輸入量がほぼ半分の0.2億トン弱(3.6億ドル)を占め,同年の原料炭総需要量(0.54億トン)の約35%をまかなうに至つている。

 米国炭は数量において多いばかりでなく,品質も高いので,わが国鉄鋼生産において果している役割はきわめて大きい。

 したがつて,米国において輸出規制が行なわれ,対日輸出数量が相当に低い線で抑えられるようなことがあると,わが国鉄鋼業の成長に大きな障害となることが憂慮された。

(え) 米国政府はつとに,エネルギーの一般的不足傾向にかんがみ,マクラッケン経済諮問委員長を長とする委員会に,1970年冬及び長期にわたる燃料供給確保のための措置を検討せしめており,上記の事情もあつてその結論が注目されていたが,1970年9月29日に発表された同委員会の報告書は,石炭輸送の改善など国内措置を勧告したのみで,輸出規制措置には言及しなかつた。

(お) その後,70年秋以降のわが国の急速な景気鎮静化とともに対米石炭輸入の増勢は鈍化し,また米国内においても石炭需要はやや緩和しており,さしあたつて輸出規制措置の可能性は減少している。

(6) 消費者保護問題

(あ) 1970年は,ニクソン政権が環境問題に本格的に取組み始めた年で,環境問題諮問委員会および環境庁が設置されるなど積極的な施策が打出されている。

 このような環境対策の進展に伴って,残留農薬の規制,食品の重金属汚染の防止,食器,玩具の着色に使用された色素の毒性や可燃性繊維の危険性の摘発等消費者保護のための規制がますます強化される情勢にある。このような消費者保護のための措置が結果的に輸入規制的効果を生じ,わが国の対米輸出にも影響を与える例が生じている。

(い) その顕著な事例に水銀を含有するまぐろの規制問題がある。

 すなわち,1970年12月15日FDA(食品医薬品局)はそれまでの調査結果に基づき,水銀含有量0.5ppmを越えるまぐろ缶詰は人体に有害であるとして回収と輸入の拒否を行なうとの中間的な発表を行ない,さらに12月23日には冷凍めかじきについても0.5ppmを越える輸入品は押収すると発表した。

 その後1971年2月4日,FDAは全まぐろ缶詰のうち水銀含有量0.5ppmを上回つたものは3.6%にすぎず,特に日本製品はおおむね安全であるがめかじきは87%が0.5ppmを越えているとの最終結果を発表した。

(う) 上記の一連のFDAの措置により,わが国のまぐろ缶詰(1969年対米輸出実績3,600万ドル)及びめかじき(同800万ドル)の対米輸出は一時,打撃を受けたが,まぐろ缶詰については水銀含有量が少ないという最終結果の発表もあつて回復する見込みである。

 本件については,わが国として,水銀中毒に関する専門学者を派米し,1970年2月10日から3日間,FDA側と専門的な意見の交換を行なわしめるなどの努力を行なつた。

 

6. 日米繊維交渉

 

(あ) 1969年5月に来日したスタンス商務長官が,わが国の毛および化合繊製品の対米輸出自主規制を要請して以来,この繊維問題は日米経済関係において最も重要な懸案となつてきた。

 この問題については,1969年から1970年にかけて,日米貿易経済合同委員会(1969年7月),日米繊維専門家会議(同9月),2回にわたるジュネーブ予備会談(同11月および12月)および外交ルートを通じ,累次の日米両政府間の話合いが行なわれてきた。

 これら一連の話合いを通じて,わが方は自主規制を検討する場合にも,まずガットの原則に沿つて,米国の繊維産業の中で輸入により重大な被害またはその惧れが生じているか否かを品目毎に検討し,かかる被害の存在が立証された品目に限り自主規制を考慮するとのいわゆるセレクティブ・アプローチを主張してきた。また,わが方は,そもそも輸出国の自主規制を求められている以上,その実施のためには関係業界の納得と協力を得ることが不可欠であることを指摘して,そのためにも,まず被害の存在の検討が先行すべきことを主張してきた。これに対し,米側は,かかるわが方の被害の究明を前提とする立場に強い難色を示し,米国業界のかかえる困難に対処するためには,特定の品目ではなく,全品目を対象とするいわゆるコンプリヘンシブな規制を必要とする旨を主張しつつ,わが方が具体的な規制案を提示することを求めてきた。

 わが方は,その基本的立場に立脚しつつ,他方において緊密な日米友好関係にも配慮しつつ,可及的速やかに問題の解決を図るため,最大限の努力を行なつてきたが,規制はコンプリヘンシブかセレクティブかの問題を中心として,日米双方の基本的考え方の対立はついに解けるに至らず,1970年3月頃以降,話合いは行き詰りの様相を呈するに至つた。(日米両政府間の話合いとは別に,1970年3月中旬来日したケンドールECAT(米国貿易のための緊急委員会という民間団体)会長がわが方一部関係者に対し,1年間に限り日本が暫定的に包括規制(但し個別枠を設けない)を行なうことを骨子とする一つの解決案を提示した経緯があるが,実を緒ぶに至らなかつた。)

(い) 日米間の話合いが遅々として進展を見せないことから米国内の情勢は次第に厳しさを増し,1970年3月19日のサーモンド上院議員による繊維の輸入制限法案の提出に続き4月13日にはミルズ下院才入委員長により繊維および履物の輸入制限条項を含む法案が提出されるに至つた。

 ヨーロッパ諸国や韓国,中国,台湾のアジアの主要繊維輸出国をはじめ,各国とも日米間の折衝の成行きに多大の関心を示してきたが,特に日米間の話合いが行き詰りの様相を呈し,これに伴いミルズ法案の脅威が現実のものとなるに及んで本問題についての国際的な関心の高まりを見た。

 例えば1970年5月18日,中国のイニシアティブに基づきジュネーブにおいて,日本,中国,香港の代表者により本問題に関する情報交換を目的とした会談が行なわれた。また,ロング・ガット事務局長は日米間の話合いがまとまらないことからミルズ法案が成立する場合にガットの自由貿易体制に及ぼす影響に多大の懸念を表明しつつ,世界貿易に悪影響を及ぼさないような合理的な形で日米間で本問題が解決されるよう希望してきた。

(う) しかしながら,何らかの打開策を図る場合にも,問題が自主規制である以上,わが方としては業界の納得を得る必要があつたが,わが国繊維業界は当初から繊維規制に強く反対し,また何らかの規制を実施する場合にも,「筋を通す」べきことを強く主張してきた。また,本問題は,1969年来,国会においても大きな問題となり,累次の決議を通じて,対米折衝上,政府として遵守すべき原則が打出されてきた。

 かかる困難を国内情勢にもかかわらず,本問題が話合いによつて解決されず,ミルズ法案が成立する場合には,単に繊維貿易にとどまらず,戦後の自由な貿易体制へ悪影響を及ぼすことになり,また日米経済関係あるいは日米友好関係にとっても好ましくないとの判断に基づき愛知外務大臣および宮沢通産大臣がワシントンを訪れ,6月22日から24日まで米側と協議にあたることになつた。

(え) 米側との具体的な規制案についての折衝は宮沢大臣とスタンス長官との会談において行なわれたが,このワシントン協議において,愛知大臣からロジャーズ長官に対し,わが方の立場等につきとりまとめて説明したメモランダムを手交し,また,この問題についてニクソン大統領の理解を求める趣旨の佐藤総理の親書を手交して伝達方を依頼した。

 宮沢・スタンス会談においてわが方が示した案の骨子は,1年間に限り,米側提案の規制対象品目から,日本からの輸入が被害を与えている可能性がないと考えられるものを除外したものの総体を毛と化合繊の二つのグループに分けて規制するというものであつた。

 しかしながら,かねて5年間の規制期間を主張してきた米側は,わが方の案の1年という期間の点に最も強い難色を示し,また,その他の要素について話を煮つめるとの努力も結局実を結ぶに至らず,6月24日,宮沢大臣,スタンス長官共同声明および愛知大臣,ロジャーズ長官共同声明を発表して,本協議を終了した。本協議が不調に終ったことについて,政府は6月25日,官房長官談話を発表した。(右の共同声明および談話は資料編を参照)

(お) 繊維問題に関する日米交渉が中断されたことを契機として,米国議会では,繊維の輸入制限条項など,保護主議的な条項を含む1970年通商法案の審議が進められた。

 このように,世界貿易にとつて極めて困難な事態に当面して,EECや英国は,4ヵ国会議(7月31日および8月1日の両日,ジュネーブにおいてロング・ガット事務局長の主宰の下に日本,米国,EEC,英国の代表者が参加して開催された。)等の場を通じて繊維問題が日米間で解決されることを希望し,また,ロング事務局長も日米双方に働きかけを行なつてきた。

 一方,わが国内では,9月から10月にかけて,対米輸出テレビのダンピング問題や米国における石炭の輸出制限の動き等を契機として,財界を中心に,この際日米経済関係のガンとなつている繊維問題を解決し,日米経済関係の円滑化を図る要があるとの気運の高まりを見た。かかる背景において,日米首脳会談(10月24日)をひかえ,10月17日,植村経団連会長が渡米し,米国財界要人や米国政府首脳と会談し,本問題を互譲の精神により解決すべきことを訴えた。

(か) 10月24日,国連25周年記念総会に出席のため渡米された佐藤総理は,ワシントンでニクソン大統領と会談されたが,この会談では,繊維問題を放置することは世界の自由貿易体制にとつても日米友好にとつても好ましくなく,互譲の精神により問題の解決を図るべきであるとの大局的観点から,合意に達することを目途として交渉を再開することで両者の意見が一致した。また,この交渉の担当者として,わが方は牛場駐米大使,米側はフラニガン大統領補佐官が指名された。

(き) この日米両首脳の合意に基づき,1970年11月はじめ以降,牛場大使とフラニガン補佐官の間で,鋭意交渉が行なわれてきた。

 わが方としても,わが国業界の事前の納得が得られないまま,敢えて具体的提案を行なうなど,交渉妥結のため出来る限りの努力を行なつてきた。しかしながら,規制品目,規制方式,伸び率など種々の点について日米双方の立場の隔りは大きく,特に,わが方は規制品目および規制方式については,米側より被害またはその惧れの存在について納得のいく説明が得られていない以上,限定された数の品目をグループに分けて規制する(いわゆるアグリゲート規制)ことが譲り得るギリギリの線であることを主張したのに対し, 米側は個々の品目毎に規制枠を設けるいわゆるカテゴリー規制を主張した。このようなことから,交渉は1970年12月中旬以降停頓した。

(く) 以上の政府間交渉とは別に,わが国業界は一方的自主規制方式を検討してきたが,1971年2月はじめ,米議会筋より一方的規制の示唆がもたらされたことを契機として,この検討は急速に本格化し,3月8日,日本繊維産業連盟は一方的自主規制宣言を行なつた。規制の内容は,本年7月1日より3年間,綿,毛,化合繊製の繊維品の対米輸出の総量を初年度は本年3月末に終る1年間の実績(数量ベース)の5%増,2,3年度はそれぞれ前年度枠の6%増の枠内に押えるというものであり,第三国も類似の規制を行なう(いわゆる同時発車),米国は輸入制限立法を行なわないことなどを前提としている。

 同じ3月8日,政府は官房長官談話(資料編参照)において,業界の宣言により問題が解決することを期待する旨および政府間交渉は続ける要がなくなったと考える旨を明らかにした。

 わが方は直ちに業界の宣言および官房長官談話の内容を牛場大使を通じフラニガン補佐官およびジョンソン国務次官に伝達し,米側の理解と協力を求めた。

 しかし,米側は3月11日,大統領声明(資料編参照)を発表し,わが国業界の一方的規制宣言では特定品目への輸出の集中の可能性を排除し得ないこと等を指摘しつつ,米国政府としてこの業界の一方的規制は受諾できないとの立場を明らかにした。またこの声明で米国政府は繊維の輸入制限立法を強く支持し,また繊維の対日輸入動向を監視することを述べている。

(け) 以上の通り,今回の業界宣言により,繊維問題は一段落し,事態はなお複雑であるが政府としては静観している。

 

7. 日米科学委員会,日米医学協力委員会

 

(1) 日米科学委員会

 日米両国間の平和目的のための科学上の協力をよりいつそう円滑ならしめる方途を探究することを目的として1961年の池田総理大臣・ケネディ大統領共同声明に基づき設置された日米科学委員会の第10回年次会合は,1970年7月7日より4日間ワシントンにおいて開催され,実施機関の報告書をもとに過去1年間の協力事業の成果を検討し,将来の事業の改善および拡大のための方途を検討した。

(2) 日米医学協力委員会

 アジアにまんえんしている疾病について効果的な措置をとる上に必要な基礎的医学研究を行なうことを目的として1965年の佐藤総理大臣・ジョンソン大統領共同声明に基づき設置された日米医学協力委員会の第6回年次会合は,1970年9月3日および4日東京において開催され,過去1年間の研究活動の進捗状況について検討したほか,5カ年報告書の採択,環境汚染問題を新たに研究対象にとりあげるべきかを中心として現行研究活動の再検討を行なつた。

 

8. 日米航空問題

 

 日米航空問題をリヴィューするため1969年11月の合意(「わが外交の近況」第14号,139頁参照)にもとづき,1970年9月に東京において,主として米側不定期航空業務(「補助航空企業」の行なう業務)について,その長期的問題ならびに1971年のみの便数問題が討議されたが,日米間にかかる業務の必要性に関する認識の相違から,具体的結論に達せず,今後引き続き検討を続けることとなつた。

 さらに,1970年12月,ワシントンにおいて,1969年の交渉において解決をみるに至らなかつた日本側協定路線の修正問題,とくに大圏コース・ニューヨーク線にシカゴを追加する問題につき交渉が行なわれたが,両者の主張の懸隔が大きく,結論に達しなかつたため1971年中に東京において再協議することに合意した。

 

9. 漁船だ捕問題

 

 1970年に米国による日本漁船のだ補事件が4件発生したが,いずれもアラスカ州沖合で,かつ,米国漁業専管水域侵犯容疑であつた。

 だ補漁船は,日魯漁業の第11曙丸,東海漁業の第18加喜丸,第一漁業水産組合の第51喜代丸,室蘭漁業協同組合の翹洋丸で,いずれも1万ドルの罰金(このほか船体,漁具没収の代りに2万ドルから3万5,000ドルの示談金)を支払つて釈放された。

 これらの事件を通じ,日本側は米側に対し,米国距岸3海里以遠の水域におけるわが国船舶に対する裁判管轄権はわが方にあり,米側が行なつた上記裁判の結果については,日本政府の法律的立場および権利を留保するとの主張を行なつた。

 

10. 日米安全保障協議委員会

 

(1) 第11回会合

 日米安全保障条約に基づき日米間の安全保障上の連絡協議の一機関として設けられている日米安全保障協議委員会の第11回会合は,1970年5月19日外務省で開催され,日本側からは愛知外務大臣と中曾根防衛庁長官,米国側からはマイヤー駐日大使,マッケィン太平洋軍司令官が出席した。

 会議においては,インドシナ半島の最近の事態を中心に,極東における日本と米国の共通の安全上の利害に関連する国際情勢につき検討が行なわれ,また,在日米軍施設・区域に関連する諸問題も討議された。

 委員会は,また,沖繩返還に備えて,日本が負うべき沖繩の局地防衛の責務の実施準備につき,日米間で検討を開始することに合意した。

(2) 第12回会合

 日米安全保障協議委員会の第12回会合は,前回と同じ出席者により,12月21日外務省で開催された。

 この会合では,もっぱら在日米軍施設,区域の整理,統合について討議が行なわれ,三沢飛行場,横田飛行場,板付飛行場,厚木飛行場,横須賀海軍基地等に関する整理,統合計画が了承された。(資料「日米安全保障協議委員会第12回会合について」(情報文化局発表)参照)

 なお,上記了承のうち横須賀基地関係についてはその後若干の再調整が行なわれることとなり,3月30日この旨発表された。(資料「在日米軍施設,区域の整理・統合計画の一部再調整について(情報文化局発表)参照)

 

11. 安全保障問題に関する日米事務レベル非公式会談の開催

 

 7月27・28の両日,相互に関心のある安全保障上の諸問題について非公式な討議を行なうため,日米両国政府事務当局間の会談がワシントンで開催された。

 この会談には,日本側から下田駐米大使,小幡防衛次官,安川外務審議官,板谷統幕議長等,米国側からブラウン大使(国務省),マイヤー駐日大使,ナッター国防次官補,マッケイン太平洋軍司令官等が参加し,極東における最近の軍事情勢,在日米軍施設,区域に関連する諸問題等について意見を交換した。

 

12. 日加経済関係

 

(1) 日加経済関係

 1970年におけるわが国の対加貿易は,輸出入会計で14.9億ドル(通関統計)に達した。輸出は,カナダにおける景気後退にもかかわらず,自動車・鉄鋼・金属製品等の伸びを中心に前年比,7%増という底固い動きを示し,5.6億ドルを記録した。また輸入は,わが国経済の活況を反映して64年,69年の横這いから一転して39%という高い伸びを示し,9.3億ドルに達した。非鉄金属鉱・木材・石炭等の原燃料と食料品が伸びの中心となつている。貿易収支は3.6億ドルの赤字となり,入超幅は前年の倍近くになつた。

 以上の如き対加貿易の発展に加えて,わが国の対加投融資も石炭,銅,パルプ等天然資源の開発輸入を中心として活発に行なわれており,昨年は柳田海外金属資源開発懇談会委員長及び高林日本鉱業協会会長をそれぞれ名誉団長及び団長とする鉱業使節団の訪加,グリーン・エネルギー鉱山資源相を団長とするカナダ側視察団の来日を通じて資源問題に関する日加間の協力について話合いが深められた。

(2) 日加経済関係上の諸問題

 わが国は,カナダの輸入制限措置の発動の可能性を念頭において,秩序ある対加輸出を図るため,繊維品を中心とする若干の品目について輸出自主規制を行なってきており,自主規制の内容について毎年カナダ政府と交渉している。1970年,カナダ政府は,カナダの繊維産業のあり方について全面的な見直しを行なった結果としていわゆる「新繊維政策」を発表したため,対加自主規制交渉におけるカナダ側の出方が注目されたが,11月にシュワルツマン通商工業次官補を団長とする交渉団の来日を得て種々折衝の結果,規制対象はほぼ1969年と同じとし,規制枠はそれぞれ若干増大せしめるということで妥結した。

 わが国の対加輸出上の今ひとつの問題点としてはアンチダンピングが制度の運用活発化が挙げられ,1970年から1971年はじめにかけてわが国の変圧器,テレビ,ローラーベアリング等についてカナダ側はダンピング調査を行なつた。

 他方,わが国の対加輸入ないし投融資との関連で注目される点は,最近カナダにおいて部分的にあらわれている外資規制の動きと,カナダの対日輸出構造の高度化を求める動きである。後者はカナダの工業化を一層促進することを意図したものであるが,具体的には,一定の場合鉱石の現地加工を義務づける州法がブリティシュ・コロンビア州において成立し注目を集めた。

 

北米地域要人来往訪一覧表    (1970,4~1971,3)

 

(1) 来 訪 者

 

(2) 往 訪 者

 

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