第1章 わが国と各国との諸問題
第1節 アジア地域
(1)わが国とアジア
アジアに位置するわが国は安全を確保し,経済的繁栄を計る上からも,世界の平和,特にアジアの平和と安定を強く希求する立場にあり,この観点から,アジア諸国の動向に対しては深い関心を寄せている。
アジアの情勢を概観すると,最近大部分のアジア諸国は,独立後の国家建設の歩みを通じ,徐々に国内基盤強化の成果を挙げてきている。その背景としては,かつての偏狭なナショナリズムに代わり,自らの国内建設を地道に築き上げようとする健全なナショナリズムがアジア諸国に定着しつつあることを指摘することができよう。また,韓国,中華民国,タイの例に代表的に見られるように,アジア諸国の経済も着実に成長しつつあり,このような経済成長を背景としたアジア諸国の自主性への指向はASPAC,ASEAN等地域協力を通じての地域連帯促進の気運に如実に反映されている。
しかし他面,アジア諸国は人種,言語,宗教等の面で社会的,文化的に複雑,多様な構造をもっており,右に起因するアジア諸国相互間の地域的紛争の存在,更には分裂国家をめぐる対立などの不安定要因も依然として存在する事実も見逃すことはできない。アジアの情勢は安定要因と不安定要因が互に交錯しつつ,アジア全体をとりまく国際情勢の変化ともからみあって推移するであろうが,今後長期的にみて,アジアを緊張緩和の方向に向わしめ,より安定した地域として確立してゆくためには,アジア諸国が自らの力により国内建設を地道に築き上げる努力をつづけるとともに,他方今や現実に促進されつつある地域協力の傾向を更にいっそう多角的に結びつけ,これを効果的たらしめる努力がつづけられねばならない。
わが国は,アジア諸国に対しては,わが国援助の大部分を供与するとともに,東南アジア経済開発閣僚会議を主唱し,ASPAC,アジア開発銀行,ECAFEの発展に努め,かつメコン流域4カ国からなるメコン委員会に対する協力を行なうなど,アジア諸国間の地域協力の促進に積極的な役割を果している。
(2)アジア諸国との貿易経済関係
アジア地域は,共産圏を除いても,わが国にとって総輸出のほぼ3割を占める大きな輸出市場である。1969年(1月~12月)の対アジア貿易実績(共産圏を除く)は,通関ベースで輸出44億6,249万ドル,輸入23億8,097万ドルであった。輸出は,前年に比べ23.5%の増加で,わが国総輸出に占める割合は27.8%であり前年と同じであった。国別にみると,1967年には4億ドルを超えて米国に次ぐ第2位の輸出市場となった韓国への輸出は,1968年には6億ドル,更に1969年には7億ドルをそれぞれ超えたほか,香港(6億1,846万ドルで第3位)中華民国(6億843万ドルで第4位),フィリピン(4億7,630万ドルで第7位),タイ(4億3,542万ドルで第8位)など,アジア地域にはわが国にとってきわめて重要な輸出市場が含まれている。他方,1969年におけるアジア地域からの輸入は,同年のわが国の総輸入の対前年比伸び率が15.7%であるのに対して,20%伸び,この結果アジアからの輸入がわが国の総輸入に占める比重は,前年より0.6%伸びて15.9%となった。更に国別にみると,フィリピン(4億6,803万ドルで第5位),マレイシア(4億673万ドルで第9位),インドネシア(3億9,732万ドルで第10位)などが目立っている。
以上のように,1969年には,わが国の対外貿易におけるアジアの輸出市場および輸入市場としての相対的地位に大きな変化はなかったが,アジア地域に対する大幅出超の傾向は依然として拡大しつつあり,貿易のアンバランスは,前年の1対1.8から1対1.87となった。アジア諸国の中にはマレイシア,インド,インドネシアのようにわが国の方が入超になっている国もあるが,ほとんどの国に対しては恒常的出超となっている。1969年においては,韓国(出超額6億3,414万ドル,バランス1対5.7)を筆頭に香港(5億5,032万ドル,1対9),タイ(2億6,801万ドル,1対2.5),シンガポール(2億4,749万ドル,1対4.8)などがある。以上のようなアンバランスは,主としてわが国の対アジア輸出が発展途上国の必要とする工業製品であるのに対し,アジア諸国の産品は原材料,食料,飼料等が大部分であり,これらは,品質,価格の面で必ずしも十分な競争力をもたなかったり,わが国の国内産業保護の立場から無制限に輸入しえない場合も多いことなどに起因している。従って,この貿易不均衡の問題は,わが国とアジア諸国との経済発展段階が著しく異なる現状のもとではある程度やむを得ない現象であるといえよう。しかし,アジアの各国においてアンバランス是正を求める声が次第に高まりつつある現在,わが国としては,アジア諸国に対する友好関係の維持促進の見地からも単に通商上の考慮を越えた,幅の広い観点に立って,この問題に対処してゆく必要がある。
かかる観点から,わが国の産業政策についても,工業面における重化学工業化とか,農業部門の構造改革の方向や農業保護のあり方に関して,更に合理的な考え方をすすめ,これを特恵関税等の具体的政策樹立に反映してゆく必要もあると考えられる。また,資源に乏しいわが国として,原燃料資源の確保という面からも,アジアの資源開発に寄与しつつ,その成果を輸入する開発輸入方式を今後とも積極化して,アジア諸国からの輸入促進を図る方向に進むべきであろう。
わが国は,アジア地域の安定と繁栄のため,以下に述べる各種の地域協力をすすめている。
(あ)第4回閣僚会議
ASPAC第4回閣僚会議は,1969年6月9日から3日間,わが国の静岡県「川奈」において開催され,加盟9カ国(日本,韓国,中華民国,フィリピン,マレイシア,タイ,ヴィエトナム,オーストラリアおよびニュージランド)の外相またはこれに代わる閣僚が出席したほか,ラオスからオブザーバーが参加した。また,インドネシアは,わが国政府の賓客として会議開会式に出席した。この会議では,アジアをめぐる世界情勢や,地域内の諸問題について討議が行なわれ,愛知外務大臣は,「ASPACの諸国は,域内の経済的社会的建設にあらゆる努力を集中するとともに,国際緊張の緩和に常に意を用い,そのためになし得べきあらゆる努力を払うべきである。この『建設のための戦い』と『平和へのイニシアティヴ』は,太平洋アジア地域の諸国の将来を律する指導理念であるとともに,地域内諸国に課せられた課題でもある」旨述べた。
このあと会議は「域内のすべての国が国際緊張を緩和すると同時に経済的社会的基盤を強化するため建設と開発を促進する最善の努力を払うことを確認した」旨の共同コミュニケを発表し(資料3の(3)参照),3日間にわたる会議を終了したが,ASPACがこれまでの活動を通じ,平和と建設のための協力機構であるとの性格がますます定着してきたことが注目される。
なお,第5回閣僚会議は,1970年にニュージランドにおいて開催することに合意をみた。
(い)ASPACプロジェクト
1969年6月第4回閣僚会議において,中華民国が提案した食糧肥料技術センターの協定が署名されたほか,タイの提案による経済協力センター設立の大綱が承認された。また,わが国は,海難救助と海上交通環境整備を骨子とする海洋協力計画を提案した。食糧肥料技術センターは,加盟各国の食糧増産のための調査,研究,技術交流等を行なうもので,1970年4月台北に同センターが開所される運びとなった。また,経済協力センターは,加盟各国の間の経済協力,貿易,投資等を助長するための調査・研究を行なうもので,12月には加盟各国の代表がバンコックに集まり,協定案の審議を行なった。
これにより,ASPACプロジェクトは,すでに設置された文化社会センター(韓国),科学技術サービス登録機関(オーストラリア)を合せ5つのプロジェクトが推進されることとなった。
(あ)第4回東南アジア開発閣僚会議
第4回東南アジア開発閣僚会議は,1969年4月3日から5日までバンコックにおいて開催された。今回の会議には,前回同様,わが国のほか,インドネシア,ラオス,マレイシア,フィリピン,シンガポール,ヴィエトナムおよび主催国タイの代表が参加し,またオブザーヴァーとしてカンボディア代表が参加した。また,アジア開発銀行,東南アジア漁業開発センター,ECAFE,FAO,UNDP等の国際機関からオブザーヴァーが出席した。
会議において,愛知外務大臣は,閣僚会議が今後とも域内各国に共通する基礎的な経済開発の問題,具体的には,農業開発,インフラストラクテュア開発,人的資源の開発,国内資源の活用などの分野における地域協力が今後ますます重要になってくると考えられる旨述べるとともに,わが国経済が今後かりに過去数年間と同様に急速な成長を続けうるとするならば,1980年頃には国民総生産が5,000億ドル台の規模にも達しうるであろうとの試算があり,その場合には,わが国の東南アジアヘの経済協力もきわめて大きな規模に達しうるであろうが,わが国をはじめとする先進国からの積極的な努力と東南アジア諸国の計画的,総合的な開発の努力とが70年代を真に東南アジアの平和と開発への10年と呼ぶにふさわしいものとしようと呼びかけた。
さらに,東南アジア漁業開発センター,アジア開発銀行農業特別基金,東南アジア運輸通信会議について報告が行なわれたほか,今後の地域協力促進の方策についても活発な意見交換が行なわれた。すなわち,経済開発促進センター,公衆衛生に関する地域協力,東南アジア漁業開発センター養殖部局設置などのプロジェクトが前回会議に引続き討議された。
また,新たに70年代における東南アジア経済分析の必要が指摘された。
(い)第5回閣僚会議のための合同作業委員会
次回閣僚会議開催地はインドネシアと決定された。次回会議開催準備のためインドネシア政府主催による合同作業委員会の開催についても合意され,その第1回会合は1969年9月19日,ジャカルタにおいて,インドネシアのスマルジャン経済大臣特別補佐官を議長として,各国の在インドネシア大使により開催された。
(う)東南アジア開発のための援助計画
東南アジア開発閣僚会議を通じて,この地域の諸国の間の経済開発のための協力関係はいっそう緊密化してきたが,具体的には次のような事項をあげることができる。
(イ)東南アジア漁業開発センター
東南アジア漁業開発センターは,東南アジア開発閣僚会議の最初の具体的地域協力プロジェクトとして1967年12月に設立協定が発効した政府間機関である。右センターは東南アジアにおける漁業開発の推進を目的として,そのための調査,訓練を各国が協力して行なうことになっている。わが国の拠出により建造された約400トンの訓練船および調査船が完成し,センターに回航され,またわが国は専門家の派遣,奨学金の拠出等の形で同センターの活動に協力している。センターの第2回理事会は1969年3月シンガポールで,また第3回理事会は1969年12月東京で開催された。今後センターの活動が軌道にのり本格化することが期待される。
(ロ)アジア開発銀行農業特別基金
アジア開発銀行農業特別基金は,1966年の東南アジア農業開発会議の討議を契機として,68年9月に設置された特別基金である。わが国百万ドル,デンマーク2百万ドル,オランダ1・1百万ドル等の拠出を得て,69年6月以降具体的な融資活動を開始している。
アジア開発銀行は,1966年12月,アジアと極東の地域の経済成長を助長し,地域の発展途上国の経済開発を促進することを目的として設立された。以来,業務は順調に推移し,69年末現在11ヵ国に対し26件1億4千万ドルの融資を,また,12ヵ国および国際機関に対し約4百万ドルの技術援助を承認している。とくに69年6月には,特別基金による融資も開始され,機能的には世銀グループ,全米開銀等の先発国際金融機関に劣らぬ多角的活動を展開することとなった。上記融資承諾のうち,6件2,200万ドルは緩和された条件による特別基金案件である。
アジア開銀は,また,地域の経済開発の基本となる諸問題の調査に取組んでいる。その主要なものは68年に完成したアジア農業調査,現在とり進められている地域運輸調査,70年代の東南アジア経済分析である。農業調査は,域内16ヵ国の農業の現状と問題点を鋭く指摘したものとして高く評価されており,また,68年末から開始された地域運輸調査は,東南アジア8ヵ国を含む地域の経済成長との関連で運輸問題を総合的に分析するものとして,その成果が注目されている。また,70年代の経済分析は,東南アジア開発閣僚会議の要請を受けて69年7月より着手されているもので,70年代において東南アジア諸国が当面すべき主要な経済問題を分析し,各国が個別にまたは協同してとるべき政策を明らかにしようとする画期的な試みである。
わが国は,域内の先進国として従来からアジア開銀に対し積極的な協力を行なっており,その資本金11億ドルのうち2億ドルを応募し,米国と並ぶ最大の出資国となっている。また,特別基金に対しても,68年度の農業特別基金に対する2,000万ドルの拠出に続いて,69年11月には多目的特別基金に対し2,000万ドルの拠出を行なった。わが国以外の拠出国は,カナダ2,500万ドル(5年間にわたって払込),デンマーク200万ドル,オランダ110万ドルであり,特別基金においてもわが国の拠出金のウエイトは極めて高い。なお,わが国は上記第2回目の拠出の際,拠出金の使用条件の大幅な緩和をはかっており,拠出金による調達を日本のみならず他の特別基金拠出国および加盟発展途上国においても認めることとしたほか,融資条件についても銀行の自主的判断に基づき極めて緩和された条件を適用しうることを認めた。これに伴い,69年12月には,期間30年(据置10年を含む),金利11/2%(手数料3/4%を含む)を適用した案件(西サモア空港プロジェクトに対する融資)も登場することとなった。
わが国は,また,銀行が主として贈与ベースにより行なっている技術援助に対しても協力を続けており,技術援助特別基金に対し68年に10万ドル,69年に20万ドルの拠出を行なっている。
アジア開銀は,既に地域の経済開発に重要な存在となっているが,70年代においては,地域唯一の国際金融機関として,いっそう多面にわたる充実した活動が期待されることとなろう。わが国としても,その強化育成をはかるべく積極的な協力を続けることが必要と思われる。
アジア生産性機構は,1961年5月,アジア諸国における生産性の向上を目的として設立された国際機関であり,わが国をはじめアジア地域13ヵ国および香港が加盟している。この機構は,セミナー,訓練コース等を開催するほか,視察団,専門家を派遣し,中小企業の経営改善,生産技術の向上などにつき,加盟国への協力,助言にあたっている。
わが国としては,1969年に11万9千ドルの分担金,13万ドルの特別拠出金を拠出し,また,わが国で実施される同機構の事業費の一部として約28万ドルを支出した。また訓練コースなどの実施については,わが国の企業が大きな貢献をしている。
本機構の事務局は,東京におかれている。
(あ)概説
朝鮮半島においては,国連が平和統一を実現すべく多年にわたり努力してきたにもかかわらず,北朝鮮が統一問題に関する国連の権威と権限を認めないため,不幸にしていまだ統一が実現せず南北対立の状態が続いている。わが国は,このような現状の下で,国連総会決議第195号
(III)に明らかに示されているとおりの朝鮮にある唯一の合法的な政府である韓国と1965年に国交を回復した。
以来わが国は,韓国の繁栄と安定がわが国を含むアジアの平和と安定にきわめて強い関係を有することにかんがみ,対韓協力を積極的に推進し,韓国の経済建設に対して支援を与えてきた。ここ2・3年の間における両国間の友好,協力関係の進展は急速であったが,ことに過去1年間における両国関係は諸般の分野において着実な発展を示し,両国友好関係の定着化というべき一段階を画したといえよう。
(い)韓国との関係
(イ)第3回日韓定期閣僚会議
第3回日韓定期閣僚会議は,1969年8月26日から28日まで3日間,東京で開催された。
会議には,日本側から,愛知外務,福田大蔵,長谷川農林,大平通産,原田運輸,菅野経企の6閣僚,韓国側から,金鶴烈副総理兼経済企画院長官,崔圭夏外務部,黄鍾律財務部,趙始衡農林部,金正濂商工部,姜瑞竜交通部の6閣僚が出席した。会議は,全体会議および個別会議において,国際情勢および両国関係,経済協力,財務,貿易,農林水産ならびに交通運輸の各問題について,卒直な意見の交換を行ない。共同コミュニケの採択を行なった。
今回の会議は,日韓協力関係の緊密化をいっそう推し進める上に大きな役割を果たすとともに,具体的問題についても,後述のとおり韓国がその国家建設を進めてゆく上に重要な意味を有するとして日本側の協力を強く要望した総合製鉄所建設問題の取り進め方について了解が成立し,租税条約の内容について実質的合意に達するなど顕著な成果をあげた。さらに,今回の会議が過去の会議とくらべて一段となごやかなふんい気のうちに極めて円滑に議事を運ぶことができたのは,日韓両国のアジアの平和と繁栄のための協調関係が一段と定着したことを意味する。
(ロ)日韓法相会談と法的地位問題
日韓法的地位協定に基づく永住権取得のための5年間の申請期間は,1971年1月16日に満了することになっている。韓国側は,在日韓国人の永住権取得を促進するために日本側に対して協定運用について種々要望を出してきた。1969年8月19日,20日の両日東京において開かれた西郷法務大臣と李濫韓国法務部長官との間の会談においては協定の運用に関じて意見の交換が行なわれ,そして協定の円滑かつ効果的な運用をはかるため,協定永住資格である居住歴の審査,戦後入国者に対する出入国管理令上の永住許可,協定永住者の再入国許可,協定永住者の家族の入国および在留などの事項に関する事務当局間の了解を確認した。
協定永住権取得者数は,1969年12月31日現在13万8,671人である。
(ハ)経済関係
1969年のわが国の対韓輸出額は7億6,700万ドルで,韓国はわが国にとりアメリカに次ぎ世界第2位の輸出市場となっているが,他方,同国からの輸入は1億3,400万ドルで,輸出入の比率は5.7対1と大きくひらいている。このような日韓貿易の不均衡を是正するため韓国側は,わが国に対し一次産品を始めとする韓国産品の輸入自由化ないし輸入枠の拡大,関税の引き下げ,加工貿易の促進などを要求している。わが国としてもできる限り貿易不均衡を是正できるよう努めてはいるが,韓国の急速な工業化による工業原材料の輸入需要が今後も増大する傾向が強いこと,対日輸出商品の国際競争力の問題および輸出商品にはわが国産品との競合性が強いものが多いことなどからみて,日韓貿易不均衡を短時日のうちに改善することは困難であり,両国の協力を前提とした長期にわたる努力を要するものと思われる。
(i)第2次日韓貿易合同委員会
第2次貿易合同委員会は,1969年4月23日から25日まで東京において開催された。この合同委員会においては,将来両国間貿易の拡大と均衡を図ることに資するため,中長期の視野から両国の経済情勢ならびに経済政策に関する意見の交換が行なわれた。
(ii)第6次日韓貿易会議
第6次貿易会議は,1969年8月19日から21日まで東京において開催された。この会議においては,両国間貿易の不均衡問題,韓国の一次産品輸出増進問題,加工貿易,開発輸出,関税問題,工業所有権相互保護問題などが討議された。
(iii)のりの貿易に関する会談
第6次貿易会議の一環として,のりの貿易に関する会談が,1969年4月15日から16日まで東京において開催された。
(iv)第2次日韓農林水産技術協力委員会
農林水産技術協力委員会の第2次会議は,1969年11月24日から27日までソウルにおいて開催された。この会議においては,農林水産分野における日韓両国間の技術協力を促進するための諸方策が討議された。
(v)第1回日韓海運協定案審議ワーキング・グループ会合
1968年11月にソウルで開催された第3回日韓海運会談において,海運協定案検討のための作業部会の設置が合意されたが,その第1回会合が1969年10月28日から30日まで東京において開催された。
(vi)日本米の貸与
わが国は,韓国に対し1969年に33万3,000トンの米の貸与を行なっているが,1970年に入って,韓国は国内の米穀需給事情の逼迫に対する緊急措置として,再びわが国に対し米の貸与を求めてきた。わが国としては,国内の米の需給状況および両国間の友好関係を考慮して,玄米30万トンを韓国政府に貸与することになった。
(vii)租税問題
長年の重要懸案であった租税条約交渉は,1969年3月以来ようやく軌道に乗り,以来同年8月までに5回にわたる交渉を行なった結果,8月の第3回日韓定期閣僚会議の際に条約の内容につき実質的合意に達した。その後も同年12月までに細目について折衝が行なわれていたが,最終的合意に達し,1970年3月3日東京においてわが方愛知外務大臣と先方李厚洛駐日大使との間に条約および附属文書の署名が行なわれた。
なお,船舶,航空機所得については,1969年4月1日にソウルにおいて相互免税のための取決めが作成された。この取決めは,租税条約の適用開始に伴い,同条約中の規定により置き替えられることになっている。
(ニ)経済協力関係
(i)無償経済協力
韓国に対するわが国の無償経済協力は,両国の間の請求権・経済協力協定(1965年6月22日署名)により,1965年12月18日より10年間にわたり総額1,080億円(3億ドル)にあたる日本の生産物または役務が供与されることになっている。1970年1月末現在,援助供与額は,契約認証額で396億4,400万円(約1億1,000万ドル),支払額では清算勘定残高相殺の82億3,100万円を含めて444億0,250万円(約1億2,300万ドル)である。なお,主な供与品目は,農水産開発機材,漁船および関係機材,肥料,繊維品,建設資材,機械類などである。
(ii)有償経済協力
韓国に対するわが国の有償経済協力(海外経済協力基金による長期低利貸付け)は,請求権・経済協力協定により,10年間にわたり総額720億円(2億ドル)が供与されることになっている。
これまでに,29件の事業計画について合意が成立し,このうち24件に対し貸付契約が締結され,1969年12月17日に終了した第4年度現在で7,506万ドルを供与し,すでに8件が供与を完了している。援助の対象となった主たる事業は,中小企業育成3,000万ドル,鉄道設備改良2,100万ドル,昭陽江ダム2,100万ドル,海運振興900万ドル,高速道路800万ドルなどである。
(iii)民間信用供与
民間信用の供与状況は,1969年12月末現在の承認実績で,一般プラント3億3,607万ドル,漁業協力1,944万ドル,船舶輸出2,547万ドルで,総額3億8,000万ドル余りとなっている。
(iv)総合製鉄所建設計画に関する協力
1969年8月の第3回日韓定期閣僚会議において,韓国側は,総合製鉄所の建設をわが国の対韓経済協力における最優先計画として協力するよう日本側に要請してきた。
これに対し日本側は,韓国側要請に協力の意向を表明し,9月韓国に鉄鋼調査団を派遣した。この調査団の報告に基づき,11月両国の事務当局間で技術的,資金的問題について協議が行なわれた。その結果, 製鉄所の規模,設備内容,建設工程等については,基本的には,調査団報告書の線に沿って実施されること,また,日本側の資金協力は,7,370万ドルと見積られる日韓請求権・経済協力協定に基づく有償,無償の資金,および5,000万ドルを限度とする輸銀ベースの輸出延払融資により行なわれることが確認された。
(v)直接投資
韓国の外資導入は,借款形態によるものが圧倒的比重を占めているが,近年韓国政府は,借款の元利償還問題を考慮して直接投資による外資の受入れを重視するようになり,外国企業の誘致に努めている。 このような背景もあって最近わが国の企業の間に対韓投資の気運がたかまり,1968年末より1969年末までの間に18件,総額640万ドルの案件に許可が与えられ,今後その数はますます増加することが予想される。
(vi)技術協力
韓国に対するわが国の技術協力のうち研修員受入れ,専門家派遣人 数は1969年12月末までの累計でそれぞれ977名および52名に達している。また,1969年度1年間についていえば工業技術訓練センターに対し4,500万円の機材供与を行なったのを始め,医療協力として,寄生虫対策,成人病対策のための医療機材を供与した。更に,海水恒温水槽装置の供与を約束している。このほか,韓国における水資源開発計画および酪農振興計画のフィージビリティ調査を行なった。
(う)北朝鮮との関係
わが国は,北朝鮮と国交を有していないが,過去の歴史と地理的近接性に基づく事実上の接触は存在している。
(イ)貿 易
わが国と北朝鮮との貿易は,1965年までは輸出入のバランスがほぼ保たれていたが,1966年以降は,わが国の入超が続いている。1969年の貿易額は,通関統計で,総額5,635万ドル,そのうちわが国の輸出が2,416万ドル,輸入が3,219万ドルとなっている。
(ロ)北朝鮮帰還問題
1959年12月に始められた北朝鮮帰還事業は,約8万8,000人の帰還を実施して1967年11月に終了した。
その後コロンボにおいて帰還協定有効期間中に申請を行った帰還未了者約1万7千人の取扱いなどを協議するため,日朝両赤十字の会談が行なわれ,これらの人々の帰還については,従来の帰還方法と同様の内容のいわゆる暫定措置によって行なうことで事実上合意に達したが,その終了後,北朝鮮向け出国を希望することあるべき人々の取扱いについて,日赤側が一般外国人と同様(ただし帰還希望者が交通手段の不足のため相当数たまる場合北朝鮮側の配船を認める)とするのに対し,朝赤側が帰還協定の実質的延長を終始主張したため,交渉は1968年1月に決裂した。
その後1968年9月日赤は朝赤に対し,コロンボ会談の際明らかにした考え方にもとづき申請済み帰還未了者のための暫定措置およびその後の北朝鮮向け出国希望者の取扱いについて再提案を行ない,11回にわたり電報のやりとりを行なったが,1969年3月朝赤側が日赤提案を全面的に拒否してきたため日朝両赤十字の交渉は中断した。
(あ)概 説
わが国は,中華民国との間に1952年に平和条約を締結し,これと外交関係を維持しつつ,他方約7億5,000万の人口を有する中国大陸の北京政府との間において,貿易,文化,人の交流をはじめとする各種の接触を促進し,特に抑留邦人の釈放問題については,政府間の接触をはかってきた。このようなわが国の対中国政策は,国民政府および北京政府の双方がいずれも中国全体の主権者であるとの立場を主張している現実を前提として打ち出されたものである。
政府としては,今後,もし,北京政府において,極東の緊張緩和と日中関係改善のため適当な第3国において,例えば外交機関等を通ずる政府間の接触を希望するならば,これを歓迎し,前向きで検討したい考えである。もしも政府レベルの対話の道が開かれるならば,少くとも日中問に存在する不必要な警戒心ないし誤解は解消するものと期待される。
このような政府の考え方は,わが国の国民政府に対する基本的態度を変更するものではなく,わが国としては,従来どおり,中華民国との友好協力関係を保持していく考えである。
(い)中華民国との関係
(イ)1969年のわが国の対華貿易の総額は7億8,900万ドル,うち輸出 6億800万ドル,輸入1億8,100万ドルで,それぞれ前年度比29.0%, 19.8%増と大幅に増大した。
(ロ)第3回日華貿易経済会議は,1968年6月18日から3日間台北において開催され,両国間の貿易不均衡問題,りんご輸出の拡大,ポンカンの輸入解禁等について率直かつ実質的な話し合いが行われた。ポンカンは本会議における合意に基づき輸入解禁が実現し,12月,戦后初めての入荷が行われた。
(ハ)政府ベースの資金協力については,1965年4月日本政府は1億5,000万ドル相当の円借款供与を約し,1969年12月末現在,上記金額のうち7,900万ドルが支払われている。また第5次(最終)実施取決めは,一部大型プロジェクトの変更および計画来定等のためおくれていたが,70年3月に至り,日華双方で話し合いが行なわれている。
民間ベースの資金協力については民間投資(証券投資)が1969年12月末現在295件約4,900万ドル,延払い輸出が1961年度から1968年度末まで約2億1,500万ドルとなっている。
(ニ)中華民国に対する技術協力の面については研修員の受入れ,専門家の派遣,開発調査(立霧渓水力発電計画および,台中新港建設のためのフィージビリティ調査)等を行なった。また,同国に職業訓練センターを設置するための協定が1969年12月5日台北で調印せられ,わが国は1億円相当の機材供与および指導専門家の派遣を約した。
(ホ)二重課税防止のための日華租税協定の締結については,わが方よりすでに協定草案を中華民国側に手交しているが,先方よりいまだ回答がない。
(ヘ)日華航空暫定取決めの改訂
日華航空暫定取決め(1955年)の改訂に関する日華両国政府間の協議は,1969年3月11日から台北において行なわれ,22日合意に達した。本改訂は第1次(1960年),第2次(1964年)の改訂に次ぐものである。同年4月23日,日華両国政府間で右同意に関する書簡の交換を了した。
(う)中共との関係
(イ)1969年におけるわが国の対中共貿易は,総額6億2,500万ドル(前年比13.8%増)に達し,日中貿易の史上最大を記録した。とくに, 輸出は3億9,100万ドルで,前年比20.2%と大幅に増加する一方,輸入は中共国内の文革の混乱による生産活動の不振およびその後の備蓄傾向等から2億3,450万ドル(4.6%増)と伸び悩んだため,わが国対中共貿易の出超は1.5億ドル余に拡大した。
なお日中貿易には,覚書貿易と「友好」商社を通ずる貿易の2つの方式があるが,最近は「友好」貿易の比重が一段と強くなってきており, 1969年には90%にも達している。
(ロ)日中間の人事交流は,やゝ増加の傾向にあるが,なお文化革命以前の状態には回復していない。また文革期に中共地区において逮捕,拘留あるいは行くえ不明となった13名の邦人については,政府としては,あらゆる手段をつくして本件解決に努力してきたところ,1969年11月,このうちの第一通商社員5名が釈放されたのにつづいて,12月には邦人記者1名も釈放された。現在抑留中の邦人は7名(職業別内訳は,いわゆる友好商社関係者6名,通訳1名)となっている。
(ハ)日中民間漁業協定は過去2年間にわたり,1年間暫定延長の形で,継続されてきたところ,今次延長(1969年末)に際しては,中共側より6か月間の条件づきで同意する旨通告があった。1970年6月には,再度本協定の延長が問題となる。また,1969年度の「日中覚書貿易」は4月4日1年間の期限で調印されたが,69年末に至るも新協定はできず,(70年3月)北京において日中双方の代表者間で協定交渉が目下おこなわれている。
(あ)1960年7月10日から7月14日まで,桂木鉄夫議員を団長とする一行6名から成る超党派の日本国会議員代表団は,モンゴル平和友好機関連合執行委員会の招待で,モンゴル革命48周年記念式典に参列のためモンゴルを訪問し,ツェデンバル首相,トイブ外務大臣らの要人と日本・モンゴル関係正常化の問題等につき意見交換を行なった。
(い)1969年10月から11月にかけ,ゴトブ通信大臣等一行4名は,東京で開かれたUPU第16回大会出席のため来日した。
(あ)南ヴィエトナムとの関係
(イ)概 説
ゴー・ディン・ジェム政権を倒した1963年11月革命のあと,クーデター,仏教徒等による反政府闘争などが繰り返えされ南ヴィエトナムの政情は波欄を極めたが,1967年4月新憲法の公布をみ,その後同憲法に基づく正副大統領・国会議員(上下両院)の選挙,そして同年10月グェン・ヴァン・チュウ・グェン・カオ・キィ正副大統領の就任をみて,ここに南ヴィエトナムは民政体制の第二共和国として新発足した。最初のグェン・ヴァン・ロック内閣は,1968年5月チャン・ヴァン・フォン内閣へと交替し,フォン内閣は約15ヵ月続いたものの経済政策の蹉跌,与党勢力からの突き上げ等から1969年8月退陣し,9月チャン・ティエン・キィエム現内閣が成立した。キィエム内閣は経済自立化の一環として10月下旬奢移税の引き上げ等緊縮措置をとったところ 急激な物価上昇を招き,これに対する国内の反発から政情は一時緊張を示したが,経済情勢の鎮静化とともに緊張も緩和した。一方,1969年5月与党としての国家民主社会戦線が結成されたが,他に政治勢力の大きな動きはなく,急進派仏教徒を中心とするいわゆる平和グループも積極的な活動は示さなかった。しかしながら,1970年9月には上院議員の半数が改選されるこどとなっており,また1971年は正副大統領,下院議員の改選期であるので,今後政治,宗教の各勢力は,次第にその動きを活発化して行くものと思われる。
共産主義者の侵略に対してはあくまで戦うとの固い決意を示しつつも,南ヴィエトナム政府は拡大パリ会談への参加を通じ,あるいは北ヴィエトナム,NLF(民族解放戦線)へ直接話し合いを呼びかけるなど,紛争の平和的解決への努力を払っている。しかしながら,共産主義者との連立政権には絶対反対との建前はくずさず,国内の容共,中立主義分子に対してきびしい態度で臨んでいる。
ヴィエトナム紛争が一日も早く解決して平和が回復されることを念願しているわが国としては,当面当事者間で行われているパリ会談の進展を見守りつつ,戦禍をこうむったヴィエトナム民衆に対し,民生安定,難民救済,医療等の面で援助,協力をつづけている。
(ロ)経 済 関 係
わが国と南ヴィエトナムとの通商関係は1966年後半から,南ヴィエトナム政府がインフレ収拾を理由に平価切り下げと一連の輸入自由化政策を実施したため,同年を境にわが国の輸出が急激に伸び,それ以降年々わが国の大幅な出超という状態が続いている。このようなわが国の対南ヴィエトナム輸出の伸張は,1968年初頭の共産側テツト(旧 正月)攻勢とこれにつづく戦闘の激化によって,一時的に減少したものの,戦闘が鎮静化の方向に進むにしたがって,再び南ヴィエトナムでの消費需要が高まって,わが国の対南ヴィエトナム輸出の増大は,1969年に入っても依然として続いた。しかしながら,南ヴィエトナム政府が1969年半ばに入って外貨不足と戦争による財政収支の悪化を理由に,輸入税率の引き上げ,輸入ライセンスの発給停止,自動車・モ ーターバイクの輸入禁止等一連の輸入抑制政策を講じたため,日本側関心品目(機械類,電気製品,繊維製品,食料品,モーターバイク,自動車等)の輸出は一時減少した。
しかし,こうした一連の輸入規制にもかかわらず,一般大衆の消費需要がおとろえなかったこともあって,最終的には1969年のわが国の南ヴィエトナム向け輸出は2億2,500万ドルとなり,前年に比較して13%増となった(南ヴィエトナム手持の外貨輸入の52%)。
他方,わが国の南ヴィエトナムからの輸入は,従来より極めて小額にとどまっている。
1969年におけるわが国の対南ヴィエトナム輸入は,通関ベースで3,310万ドル(南ヴィエトナムの輸出総額の約20%,フランスに次いで第2位),また同年のわが国の対南ヴィエトナム輸出との比率は1対68(前年1対73)であった。主要輸入品目は,生ゴム,冷凍えび,鉄鋼くず,非鉄金属くず等である。
なお,1969年はポスト・ヴィエトナム復興計画とも関連して,わが国の経済団体,民間会社が市場調査を兼ねた産業コンサルタントの派遣,技術調査団の派遣などを行ない,日本と南ヴィエトナムとの経済交流がはかられた。
(ハ)南ヴィエトナムに対する経済協力
わが国の南ヴィトナムに対する経済技術協力は,従来より物資の供与,技術援助を主体とする無償援助の形で行なわれているが,1966年以降は,このうち特に医療協力に力が注がれている。1969年度および同年までの実績は次のとおりである。
(i)無 償 協 力
1969年度予算で難民用住宅をサイゴン市に建設するための無償援助費2億6,000万円が計上され,近く建設が開始される予定で ある。
(ii)技 術 協 力
1969年12月末までに75名の専門家が日本から派遣され,各種の分野で技術指導を行なってきたが,1969年度(4月~12月)は,専門家15名を派遣し,1969年12月末現在,日本語教育および医療の分野で合計6名の専門家がヴィエトナムに滞在している。他方,日本における研修のため,毎年ヴィエトナム人技術研修員を約20名,給費留学生を約10名受入れている。
(iii)医 療 協 力
1967年6月,日本と南ヴィエトナムの医療協力に関する取決めが締結され,この分野で両国が協力することが決定された。サイゴン市チョウライ病院の脳外科病棟・専門家宿舎は,1966年日本の手で建設が開始されていたが,1969年11月完了した。その経費は,約2億7,000万円であった。1966年以降,サイゴン病院,チョウライ病院に医師,医療技師等が派遣されており(1969年12月末現在5名滞在中),また,これら2病院に対し約1億1,000万円相当の医薬品,医療器材等が供与され,あるいは研修のための看護婦などが日本に招かれた。
(い)北越との関係
わが国と北越とは,現在国交関係はないが,民間ベースによる人的,文化的,経済的な交流は行なわれている。
(イ)人的および文化的交流
本邦人の北越訪問は,こゝ数年漸増傾向を示し,1969年中に50名(1968年は37名)が渡航した。
また,北越人の入国については,1968年の北越文化代表団,北越歌舞団の入国に続き,1969年には北越法律家代表団,映画「ヴィエトナム」製作関係者が入国した。これら人的交流を通じて,その規模はあまり大きくないが,事実上の文化交流も行なわれている。
(ロ)経 済 関 係
わが国と北越との貿易は1961年に1,728万3,000ドルの最高を記録して以来,ホンゲイ炭輸入の減少,ヴィエトナム情勢の悪化により減少傾向をたどった。1969年については,輸入が491万4,000ドル(1月~11月末)と1960年以降の最低を記録した一方,輸出は尿素輸出の増加により613万3,000ドル(1月一11月末)と1960年以降の最高を記録し,この結果,輸出入総額で,1億ドルを超えた。
(あ)概 説
1965年のいわゆる「9月30日事件」後スハルト将軍を中心とした現政権が樹立された。同政権はスカルノ政権時代の容共政策に大幅の修正を加え,近隣諸国との国交関係を調整するとともに,国連その他の国際機関に復帰し,自由陣営との関係も緊密化して,壊滅に頻した国家財政の建て直しや経済の復興に努力を集中している。
このようなスハルト政権の努力に対し,わが国は他の欧米諸国とともに積極的な経済援助をおこない,同国の政治および経済の安定ひいては東南アジアの安定に貢献しようとしている。わが国のインドネシアに対する経済援助は,1969年よりの同国経済開発5ヵ年計画の実施には不可欠の要因であり,このためわが国とインドネシアとの関係は,ますます緊密化しつつある。他方わが国の民間においても,インドネシア市場の潜在的重要性にかんがみ,同国への積極的な投資意欲を示している。
(い)経 済 関 係
(イ)近年(1966年以降)におけるわが国とインドネシアとの貿易は,輸出入とも増加傾向にあるが,特にわが国のインドネシアよりの輸入は,開発輸入などの促進により輸出の伸びを上まわる増加を示しており,この結果,両国の貿易収支は,わが国の入超となっている。1969年のわが国のインドネシア向け輸出額は2億3,589万ドルで,対前年比60%増加しており,また,輸入は3億9,732万ドルで,対前年比58%の増加であった。
(ロ)日本商社に対する課税問題 インドネシア政府は1968年7月同国にあるわが国主要商社の駐在員事務所に対し,これらの事務所が事実上商業活動をおこなっていることを理由に,とりあえず同年7月以降総取引高の0.5%を納付するよう申し渡した。これに関連し,日本商社代表とインドネシア側税務当局との間で話し合いがおこなわれた結果,取引高の0.1%を予納するとともに,年度末に本邦商社の対イ輸出額に,全世界を対象とした税引前公表総利益率を乗じたものをインドネシアにおける利益と見なしこれにイ国における規定の法人税率を乗じたものを法人税確定申告額として前記の予納額との調整をおこなうとの合意をみた。
(う)経済協力関係
(イ)日本政府は,1966年以来インドネシア経済の安定と復興のため経済援助をおこなってきたが,1969年7月,1969年度援助として,商品援助5,500万ドル,プロジェクト援助1,000万ドル,食糧援助1,000万ドルの援助を約した。この他輸出振興プロジェクトまたは日本米の供与のため2,000万ドル,世銀リストに掲載されているプロジェクトのため2,500万ドルの援助を将来供与する意図を有する旨表明するとともに,1968年度の取決めにおいて協力意図を表明したプロジェクト援助4,000万ドルの継続分として1,000万ドルを供与することとした。またわが国政府は,1969年中に期限の到来するわが国の対イ債権6,600万ドルにつき再融資を行なった。
民間経済協力では,従来PS方式(生産分与方式)により,1960年4月以来10件(うち1件廃業)の企業が進出し協力を行なってきたが,1967年1月の外資導入法の制定により,外国人の投資が認められることになり,同法に基づくわが国からの企業進出(証券取得)は,1969年9月現在14件に達している。
(ロ)また,わが国政府は,1969年度の技術協力として,同年12月末までに107名の研修員の受け入れと38名の専門家の派遣を行なったほか,医療器具,農機具および漁具などの機材供与,漁業技術協力,医療協力に関する調査団の派遣を行なった。
(ハ)インドネシアに対する賠償は,1958年4月より12年間にわたり,総額2億2,308万ドル(最初の11年間は年平均2,000万ドル,12年目は308万ドル)の生産物および役務の供与をおこなうことになっている。1969年は賠償支払いの11年目にあたり同年12月末現在の賠償支払義務履行率は98.3%になっている。本件賠償は1970年4月をもって完了の予定である。
(あ)概 説
(イ)1965年12月発足したマルコス政権は,経済社会開発4ヵ年計画を策定し,産業基盤の整備,食糧の増産,工業化の推進に努め,米については自給を達成(1968年)したほか,その他の面においてもかなりの実績をあげた。この実績の下に,マルコス大統領は1969年11月の大統領選挙においてフィリピン憲政史上初めて再選され,今後4ヵ年引き続き政権を担当することとなった。
(ロ)フィリピン外交は,米国と密接不可分な関係を保ち,米国を中心とする自由主義陣営に積極的に協力することを基本としてきた。しかしながら,最近ではナショナリズムの高揚に伴い,従来のような米比特殊関係を終了させ,極度の対米依存から脱した新しい相互尊重の関係を樹立しようという動きがみられる。また,かかる動きに応じ,米国のみを向いていた感のあるフィリピン外交も,最近はアジアの一員として近隣アジア諸国との親善を強化し,かつ,ASEAN(東南アジア諸国連合)ASPAC(アジア太平洋協議会)等を中心とする東南アジアの地域協力に積極的に取り組む政策をとっており,1969年12月マレイシアとの国交が再開されたことは,その一つの具体的成果といえる。
更に,マルコス政権はこれまでのきびしい対共産圏外交を改め,中共を除く,ソ連および東欧共産圏諸国と,政経分離の原則のもとに,貿易,文化の面での交流をはかっている。
(ハ)フィリピンの対日感情は,平和条約および賠償協定の発効(1956年7月)を契機に逐年好転しているが,1960年調印された日比友好通商航海条約は,わが国においては1961年国会の承認を得たにもかかわらず,比側が国内事情から批准手続きを終了していない。
(い)経 済 関 係
日比間の経済関係は年々緊密の度を加え,貿易規模も1969年には往復で約9億4,400万ドル(日本の輸出4億7,600万ドル,日本の輸入4億6,800万ドル)に達し,フィリピンにとってわが国は米国と並ぶ主要貿易相手国となっている。わが国がフィリピンから輸入する品目は,木材をはじめ,銅鉱石,鉄鉱石などの原料品が大部分であり,フィリピンのわが国から輸入する品目は,機械類を筆頭に金属品化学品などのいわゆる重化学工業製品が中心である。
(う)経済協力関係
わが国のフィリピンに対する経済協力には次のようなものがある。
(イ)賠 償
対フィリピン賠償(期間1956年から20年間)は,現在14年度に入っているが,1969年12月末までに1,258億8,520万円相当のわが国生産物および役務が供与された。賠償総額が1,980億円(5億5,000万ドル)であるから12月末で総額の63.6%が実施済みということになる。
(ロ)賠償担保借款
1959年テレコミ計画(電信電話拡張および改良計画)に対し1,230万ドル並びにマリキナ多目的ダム計画に対し3,550万ドルの賠償を担保として供与すべき旨の合意が日比両国政府の間で行なわれた。前者については,580万ドルがカガヤン鉄道計画に振替え使用され,残額650万ドルは,マニラ市およびその周辺の電話設備の拡張改善のため使用されたので,全額実施ずみであるが,後者については,比側の国内事情からいまだ使用されていない。
(ハ)道 路 借 款
フィリピン群島を南北に縦貫する幹線道路計画に対し,わが国より1962年2月108億円(3,000万ドル)の円借款を供与した。本借款は,フィリピンのルソン島アリヤカパンからミンダナオ島ダバオ市までの道路のうち,約1,400キロ・メートルの道路建設ならびに橋梁の架設に必要な機材をわが国より調達するために使用される。
(ニ)延払輸出信用供与および民間投資
わが国のフィリピン向け延べ払い輸出は,概して増加の傾向にあり,1968年度には船舶,産業機械などを中心に1億3,500万ドルに達している。従来,フィリピンは,わが国の経済活動についてきびしい態度をとっていたため,わが国企業の投資は債権取得による鉱物おび木材の開発輸入がほとんどであったが,1967年3月楽器製造の合弁会社がはじめて設立されて以来,合弁方式による証券取得の形による投資も逐次増加している。その結果1969年10月末現在,日本による証券取得は23件(約880万ドル),債権取得は8件(約400万ドル)となっている。
(ホ)技 術 協 力
政府べースの技術協力としては,コロンボ・プランにより,1969年末までに農水産,鉱工業,医療等の分野に専門家84名を派遣した。医療関係では,専門家の派遣,機材供与によりコレラ対策および小児まひ対策の面でフィリピン保健行政に協力している。
他方,コロンボ・プラン等による研修生の受け入れは,延べ869名に達し今後も増加のすう勢にある。また,1966年合意された協定にもとづき,わが国は,マリキナ市の小規模家内工業技術開発センターに対し,機械約5,800万円を供与し,技術専門家10名を派遣している。フィリピン側の都合で開所がやや遅れていたが,1969年10月7日開所し訓練を行なっている。また,フィリピンの稲作生産の向上を援助するため,1969年6月,フィリピン国内にパイロット農場2ヵ所を設置し,8名の専門家を派遣し,また約1億円の機材供与を行ない協力している。このほか,日本青年海外協力隊隊員は,1966年2月以来延べ109名が派遣されている。
(え)そ の 他
(イ)日比航空協定
現在,日比両国の航空業務は,それぞれ相手国政府の行政許可による相互乗り入れという形で行なわれているが,かかる国際航空事業を安定した法的基礎の上に置くとともに,これをさらに発展させるため航空協定を締結することが望ましいとの観点より,わが国は1968年12月東京において,次いで69年8月マニラにおいて交渉を行なった。その結果合意が成立し,8月23日仮署名を,次いで本年1月20日東京において署名を行なった。この協定は日本・フィリピン両国が,それぞ れ憲法上の手続に従って承認したのち発効する。
(ロ)日本庭園寄贈
1967年1月フィリピン公園開発委員会(マルコス大統領夫人が会長)より,マニラ市のルネタ公園の空地(約1万1,000平方米)に日本庭園を寄贈して欲しい旨の要請があった。同公園の寄贈は日比親善の増進に寄与するところ少なくないとの配慮から,財団法人フィリピン協会が同公園の寄贈を引き受け,工費約5,000万円を投じて同公園を完工,1969年6月比側に引き渡した。
(あ)概 説
カンボディアは,シハヌーク殿下の指導の下で,比較的安定した政情を保持してきたが,1968年から1969年にかけて天候不順による大凶作にみまわれて,同国の主要輸出農産物である米が大きな被害を受け,同国の政治・経済に深刻な影響を与えた。同国は,ここ数年来毎年のように農業不作に悩まされてきており,また経済の国営化政策が行き詰ってきたため,同国の経済財政事情は累積的に悪化していた。1969年なか頃にはこれがいっそう深刻なものとなったために,カンボディアは8月ロン・ノル新内閣を成立させこれに対処することとなった。この新内閣は,リエル貨の平価切り下げを断行するとともに,従来の国営化中心の経済政策から経済自由化への政策転換を行ない,またアジア開銀,I.M.F.等に加盟するなど国際協調の方向に進んでいる。
カンボディアは,従来より中立主義を標榜しつつ,同国に対する東西勢力のバランスをはかるとともに,1970年以来各国から「現在の国境内における領土保全」の承認宣言取りつけを外交上最大の目標としているが,1970年2月現在52カ国からこの宣言を取りつけることに成功している。米国は,1969年4月国境承認を行ない,その結果両国関係は好転し,7月には1965年以来3年ぶりに両国の国交が再開された。共産圏に対しては,1967年9月頃より冷却化した中共との関係を旧に復し,南越臨時革命政府および東独とは在外公館をそれぞれ大使館級に昇格させることとしたが,この間に東独との関係から西独はカンボディアとの国交を断絶した。カンボディアには1954年のジュネーブ協定に基づいて,インド,カナダおよびポーランドの代表から構成されるI.C.C(国際監視委員会)が設置されているが,カンボディアは財政的理由により,この使命を1969年12月31日までに停止することを関係各国に要請し,結局I.C.C は10数年にわたるその活動を停止することになった。
1968年9月わが国が,カンボディアの要望する同国の「現在の国境内における領土保全承認」を行なってからは,わが国とカンボディアの友好協力関係は一段と促進されている。
(い)シハヌーク元首の解任
シハヌーク殿下がフランスヘ外遊中であった1970年3月11日,プノンペンでは2,3万人のデモ隊による北ヴィエトナムおよび南ヴィエトナム臨時革命政府大使館への襲撃事件が起った。このため,シハヌーク元首は旅程を大幅に短縮し,中ソ両国に立寄って帰国することとし,13日にパリを発ってモスクワに到着したが,カンボディア本国では,18日に国民議会および王国議会の合同会議が,シハヌーク殿下から国家元首の職務を剥奪することを全会一致で可決し,さらに21日にはチェン・ヘン国民議会議長(国家元首代行)が国家元首就任の宣誓式を行なった。ロン・ノル政府は,シハヌーク元首解任後もカンボディアが,その中立政 策を維持し,各国および国際機関と締結した諸条約を遵守し,その対外政策に変更のないことを明らかにした。
他方,19日に北京入りしたシハヌーク殿下は,連日ロン・ノル政府非難の声明を発表し,23日には民族連合政府および民族解放軍の結成を提唱し,北ヴィエトナム,南ヴィエトナム臨時革命政府,中共等はこれを支持する旨の声明を発表した。
(う)経 済 関 係
1970年1月14日に,日本・カンボディア間貿易取決めの有効期間は,更に一年間(1971年2月14日まで)延長されたが,同国との貿易アンバランスは年々拡大しており(1969年10月現在わが国輸出,17万3,100ドル,輸入,6万2,100ドル),このことが毎年の両国間貿易取決め延長交渉を難行させる一因となっている。
(え)経済,技術協力関係
(イ)プレク・トノット計画
メコン河の支流プレク・トノット河に発電灌漑用の多目的ダムを建設する計画(経費総額約1,900万ドル)は,カンボディア政府,国連のメコン河下流域調査調整委員会および日本,豪,カナダなど11の拠出国により推進されており,わが国はカンボディアとの間で1969年3月21日,本計画に諸外国中最大の843万ドルを拠出する旨の取決めを行なった。わが国は1969年度に約162万ドルの拠出を完了している。
(ロ)農・畜・医3センターに対する協力
1959年の日本・カンボディア経済技術協力協定に基づいて,わが国は同国に農業,畜産,医療の3センターを設置し,各分野で技術協力を行なってきた。各センターの設置運営の取決めは,1969年9月で終了することとなっていたが,わが国はカンボディア政府の要請にこたえ,上記取決めを更に2年間延長することとし,1969年9月30日交換公文によって両国政府はこの旨合意した。
(あ)概 説
ラオス国内は,依然として右派・中立派対パテト・ラオ(左派)の2派に分れて対立のまま膠着状態にあり,三派連合政府の原状復帰には多難が予想される。プーマ首相は3派連合政府の建前を堅持して,パテト・ラオ閣僚が同政府へ復帰すれば,和解が可能であると強調するとともに,北越軍がラオスから撤退することを要求しているが,パテト・ラオは,ラオス問題解決のためには,まず米軍によるラオス解放区に対する爆撃の停止が先決であるとの態度をとって対立している。
ラオス問題は,隣国ヴィエトナムの情勢と密接に関連しており,その解決も,ヴィエトナム問題と同時に,ないしはその一環として行われることとなろう。なお,ラオス領内には現在約5万の北越軍が駐留しているといわれ,パテト・ラオに対する支援ならびにホー・チ・ミン・ルートの確保に当っているとみられる。
わが国とラオスとは伝統的に極めて良好な関係にあり,このような両国間の友好関係は,わが国よりの経済協力等を通じ,今後とも一そう緊密化されるものと期待される。
(い)経 済 関 係
わが国とラオスとの貿易関係は,従来よりあまり活発ではないが,わが方からの輸出は,年々漸増している。1969年におけるわが国の対ラオス輸出は約730万ドル,輸入は4,000ドルで,わが国の一方的な出超となっている。
(う)経済協力関係
(イ)ラオス外国為替安定基金(FEOF)への拠出
ラオスの為替安定,国内インフレ防止等を目的として設立されたラオス外国為替安定基金に対し,わが国は1965年に50万ドル,66年,67年,68年,69年にそれぞれ170万ドルを拠出した。拠出国は,わが国のほか,米国,英国,フランス,オーストラリアである。
(ロ)ケネディ・ラウンド食糧援助
ラオスは年間約6万トンの米を輸入しているが,打ち続く内戦,ヴィエトナム戦争の影響により50万人と見積られる避難民が生じたためわが国に対し食糧援助を要請してきた。これに対し,わが国は,1967年の国際穀物協定の食糧援助規約に基づき,米および農業物資の供与がラオス経済の安定と開発に大きく寄与することを認め,ラオス政府との間に1968年12月には食糧(米,30万ドル)および農業物資(20万ドル),1969年12月には農業物資(70万ドル),70年1月には食糧(米,50万ドル)の援助に関する書簡の交換を行なった。
(ハ)ナムグム・ダム開発計画への参加
この計画は,かねてよりメコン河開発の最重点プロジェクトとして,メコン河下流域調査調整委員会(メコン委員会)により推進されてきたものである。わが国は予備調査の段階から技術協力により右計画に協力し,さらに建設資金についても400万ドル拠出することになっており,この拠出額は,米国の1,206万ドルについで第2番目である。ダム本体の工事は,68年5月わが国の建設業者が926万ドルで落札し,同年11月より工事が開始された。一時工事場付近の治安悪化により工事の進捗は若干遅れたが,本年2月末にはダム本体の定礎が行われる予定となっている。なお,ダムの完工は1973年に予定されている。
(ニ)ヴイエンチャン空港滑走路拡張工事
この計画は,ヴイエンチャンのワツタイ空港滑走路を現在の2,000 メートルから3,000メートルに延長するとともに,付帯施設を整備し,大型民間ジェット機の発着可能な国際空港とするものである。右計画についてはかねてよりラオス政府がわが国に援助を要請していたが,1969年12月5日ヴィエンチャンにおいて,この計画に対する援助のための書簡交換が行なわれ,わが国から,この工事のために2億5,000万円の贈与を行うことになった。この工事は,70年夏の完成を期し,わが国の建設業者が請負っている。
(ホ)専門家および日本青年海外協力隊員の派遣,研修員の受入れ
わが国は,コロンボ・プランにより,1969年末までに農水産,公益事業,医療等の各分野の専門家29名をラオスに派遣した。また,ラオスヘの日本青年海外協力隊員派遣は1965年12月より実施されているが,これまで30業種にわたり計134名が派遣され,現在60名が各分野で活躍している。他方,コロンボ・プラン等によるラオスからの研修生の受け入れは延べ114名に達している。このほか,わが国は1969年度も引きつづき医療器具の供与を行なった。
(ヘ)開発調査等
わが国は,1969年において,タゴン地区パイロット・ファーム・センター設立のため諸調査および準備を進めており,またヴイエンチャン・ノンカイ間架橋計画,ヴイエンチャン・ノンカイ間鉄道建設計画に関する調査も引き続き行なっている。
(あ)概 説
タイでは1968年6月の新憲法公布後初の下院議員総選挙が,1969年2月10日に実施されたが,タイム首相の率いる政府与党は定員219議席のうち75議席を獲得し,第1党の地位を占めた。次いで3月11日にはタノム第3次内閣が成立し,長年続いた軍政より民政への移管が行なわれた。新政権はタノム,プラパート両実力者の連繋を中心として,国家の安全保障の確保と国内経済開発の促進という従来の二大政策路線を踏襲している。
国内治安の面においては,東北タイにおける共産ゲリラ活動が全般的に後退し,また,1968年末以来活発化した北部タイにおけるメオ族によるゲリラ活動も,こう着状態に終始した反面,1969年9月頃より南タイにおけるゲリラ活動が活発化したのが注目された。
対外的には,前年同様ASPAC,ASEAN等の地域協力に積極的な態勢を示したが,対米関係においては,従来からの緊密関係のなかにあって在タイ米軍の一部撤退が1969年9月30日決定され,また,ヴィエトナム派遣タイ部隊の撤退につき検討される等の動きがあった。一方,中共に対しては,前年と同様話し合いおよび貿易交渉を示唆する弾力的な動きを示した。また1969年5月,タイはソ連および東欧諸国に貿易使節団を派遣し,同年6月には,ソ連より文化使節が訪タイするなど,タイとこれらの諸国との間に従来にない交流がみられた。
わが国との関係においては,両国要人の往来,貿易および経済協力の増大等を通じ,友好と協力の基盤がいっそう強化された。わが国は1969年11月南部タイの洪水に際し,見舞金4万バーツ(2,000米ドル)をタイ政府に寄贈している。
なお,タイ政府は1970年2月27日わが国に対し,1937年の日タイ友好通商航海条約を廃棄し,新しい条約を締結したいと通告してきた。これにより本条約は1年後に失効することになる。
(い)経 済 関 係
日タイ貿易は,1956年以降,わが方の大幅な出超を続けており(1969年実績では,2億6,600万ドルの出超),かねてよりタイ側はわが国に対しこれの是正を要請している。1968年5月,タイム首相訪日の際,佐藤総理との会談において,貿易不均衡是正の一環として,日タイ貿易合同委員会を設立することにつき合意がみられ,1968年10月の第1回合同委員会に引き続き,1969年11月,東京において第2回合同委員会が開かれた。
1969年9月,佐藤喜一郎氏を団長とする政府派遣経済使節団がタイを訪問し,タイ側官民と意見の交換を行なった。また,同使節団の訪タイを契機として,経団連内に日タイ協力委員会が設置された。
(う)経済協力関係
経済協力の分野では,1968年1月12日に成立した6,000万ドルの円借款協定に基づき,輸銀分は1969年12月現在,3計画につき貸付契約が成立,約546万ドルの支払実績がある。また海外経済協力基金分としては,1969年12月18日初めて1計画372万ドルにつき貸付契約が成立したが,現在までのところ支払実績はない。また1962年の特別円新協定により,わが国はタイに対し総額96億円を8年間に支払うことになっていたところ,1969年5月最終年度分の22億円を支払った結果,本件特別協定に基づく支払義務はすべて完了した。
一方,技術協力の分野では1969年4月より同年12月末までに,コロンボ・プランに基づき193名の研修員を受け入れ,主として農業,行政,医療等の技術訓練を行なったほか,38名の日本人技術専門家を派遣し,医療,通信,水産等の技術指導を行なった。
(あ)概 説
複合民族国家マレイシアは,1969年5月に実施した総選挙を契機として発生したマレイ系と中国系の人種対立に根ざした騒擾事件を経験し,同国の内包する複雑な種族問題が表面化した。この潜在的な種族間の反目対立には宗教,食習慣上等の相違,憲法上のマレイ人の特別の地位の規定に対する双方からの不満など,根深い問題がからんでおり,解決は容易でないとされている。総選挙が野党の進出に終った結果,ラーマン政権は従来からの対中国融和政策をとりつつも,他方教育および就業面などでマレイ系優遇をねらいとした施策を講じ,一応安定性をみせている。しかし1971年末までに実施される英軍撤退との関係で,マレイシアは新たな国防体制確立の必要性に迫られている。
対外関係では,サバ請求権問題をめぐり,1968年10月以降停止状態にあったフィリピンとの国交関係が,1969年12月クアラ・ルンプールで開かれたASEAN外相会議を機会に,サバ問題に触れることなく回復された。また1969年には,ブルガリア,ルーマニア,ハンガリーの共産圏諸国と国交を樹立し,貿易拡大の観点から,ソ連を含む東欧諸国と接近をはかっている。
経済情勢はゴム,すずの価格上昇,木材の輸出増大などによって,1969年の国際収支は1億8,000万米ドルの黒字を記録し,きわめて良好であったが,政府は引き続き一次産品への偏重を改めるため,工業開発に力を入れており,外資導入を積極的に推進している。
わが国とマレイシアとの関係は,従来とも友好関係にあり,1969年には特に顕著な動きは見られなかったが,両国間の経済関係は更に増大した。なお,皇太子および同妃両殿下は,1970年2月マレイシアを公式訪問され,両国間の友好関係の促進に貢献された。
(い)経 済 関 係
1969年のわが国の対マ貿易は,引き続きわが国の大幅入超となり,輸出1億3,427万米ドル(前年の28.5%増)輸入4億0673万米ドル(前年 の18.5%増)で,輸出入とも更に前年より増加を見た。わが国のマレイシアからの主要輸入品は木材,すず,ゴム,鉄鉱石などであるが,ことに木材の輸入が前年に続いて著しい増加を示した。また主要輸出品は機械,鉄鋼,合繊織物などである。わが国のマレイシア進出企業は,1969年末現在約50に達し,今後とも増加の傾向にある。
(う)経済協力関係
経済協力については,5,000万米ドルの円借款供与は,1969年末現在で11計画約1,118万米ドルの貸付契約が成立し,支払実績が約733万米ドルとなっており,また9.21協定(2,500万マレイシア・ドルの援助)に より,わが国が供与する2隻の貨物船は現在建造されている。技術協力では,クチンおよびクアンタン漁港建設計画に関する調査団が派遣されたほか,村落開発信託公団に対し木工機械を供与した。また,わが国はマレイシアに対し1969年末までに研修員469名の受入れ,専門家71名,青年協力隊71名などの派遣を行なった。
(あ)概 説
1969年のシンガポールにおける政治社会情勢は極めて安定していた。特に69年5月13日,マレイシアで発生した同国最大の人種衝突事件がシンガポールに波及しなかったことは,従来の例からみて注目すべきことであった。かかる政情安定の背景としては,68年度の総選挙において,人民行動党が58全議席を獲得したこと,ならびに最大の反対政党であるバリサン・ソシアリス党が弱体化したことなどが挙げられる。
経済面においては貿易の順調な伸び,工業化の進展などに支えられ,69年度の名目経済成長率は約13.5%で,東南アジアの発展途上国としては驚異的な成長を示した。
他方,シンガポールは,71年末に予定されているシ駐留英軍の完全撤退という大きな問題をかかえており,少くとも71年までにはある程度の自国軍の建設が必要であるとして,69年度はとりあえず国家予算の約4 分の1を国防費に当てた。国防費支出は,今後更に増加して行くものと予想され,シンガポールにとり1つの新しい問題を提起するものといえよう。
対外関係については,隣国マレイシアおよびインドネシアとの関係に細心の配慮を払い協調的態度を維持した。また,新しい動きとしては,シンガポールの安全を維持するためには,英,米,日,ソなどの諸大国が,いずれもシンガポール方面の安全に積極的に関心をもち,諸大国がお互いに牽制しあうことにより,同方面の安全につき多角的保障を得たい旨の構想を打ち出し注目を集めた。
日・シ関係においては,70年2月皇太子および同妃両殿下がシンガポールを訪問されたことや,活発な人事往来により,両国友好関係は緊密化の度を深めている。
(い)経 済 関 係
1969年の日・シ貿易は,わが国からの輸出3億1,346万米ドル,輸入, 6,598万米ドルで,毎年わが国の出超となっている。輸出品の主なものは機械,鉄鋼などであり,輸入の主なものは石油製品となっている。
(う)経済協力関係
わが国はシンガポールに対し,1969年末までに累計52名のコロンボ・プラン専門家を派遣し,164名の研修員を受入れた。また,わが国民間よる合弁企業も多く,1969年末現在で45社,証券取得数1,249万2,000米ドルにおよんでいる。
(あ)概 説
1968年末旧政治家など33名を構成員として設置された国内統一諮問委員会は,1969年5月ネ・ウィン議長に対し,議会制民主主義の復活と経済統制の緩和を骨子とする勧告を提出したが,同議長は同年11月右勧告を正式に否定し,従来のビルマ式社会主義路線を今後とも推進強化する旨の意向を明らかにした。これよりさき,1969年4月仏跡巡拝と持病治療のため出国したウ・ヌ元首相は,同年8月末ロンドンにおいて現ネ・ウィン政権の打倒と議会制民主主義の復活を唱え,そのためには武力行使をも辞さない旨宣言し内外の注目を浴びた。ウ・ヌはその後米国,日本,香港,カンボディアを経て11月タイ国に政治亡命した。
外交面においては,1969年11月ネ・ウィン議長が,中緬友好関係改善の意図を表明したこと,および同年12月タイに亡命中のウ・ヌ元首相の現政権打倒運動に関して,ビルマ政府がタイ政府に対し抗議したことが注目されるが,外交の基本路線である中立政策には何ら変った動きはみられなかった。
ビルマ経済は,米の輸出不振に伴う輸入制限に加え,国営流通機構の非能率化による流通の渋滞のため,生活物資の不足,闇物価の高騰,原材料供給不足による操業率低下など,依然として停滞状況にあり改善のきざしはみられなかった。
日緬関係においては特筆すべき事項はなかったが,経済技術協力協定に基づく実施も順調に行なわれ,終始友好裡に推移した。
(い)経 済 関 係
わが国とビルマとの貿易関係は,ビルマ貿易の全般的縮小に伴って縮小しているが,対ビルマ貿易に占める日本のシエアは,輸出において20パーセント程度で第一位,輸入は5パーセント程度で6~8位を占めて いる。対ビルマ輸出は重化学工業品が中心となっており,輸入は大部分が豆類である。両国間の貿易は,日本の大幅出超となっているが(1969年1~12月輸出3,716万ドル,輸入1,293万ドル)ビルマは目ぼしい輸出産品を持っていないため早急改善は困難な状況にある。1953年に締結されその後毎年延長されてきた日緬貿易取決めは,ビルマ側の要請により,1966年以降は延長されず現在新取決め締結の交渉を続行中である。
(う)経済協力関係
1969年2月に書簡交換された3,000万ドルの円借款協定は,目下実施細目に関し両国間で協議中であり,右に関する合意が成立し次第実施に移されることとなっている。1965年4月1日から実施されたビルマとの経済技術協力協定に基づき,わが国はビルマに対し総額504億円にのぼる生産物または役務を供与することとなっているが,1969年12月末現在の契約認証額は201億4,478万円,支払済額は168億3,140万円で,その義務履行率は33.4パーセントである。また技術協力の分野では,1954年から 1969年末までの間に,石油および医療関係の機材供与のほか,わが国より合計55名の専門家を派遣するとともに,ビルマ側から鉱工業,農水産その他関係の研修員223名を受入れている。
(あ)概 説
1969年5月死去したフセイン大統領の後を継ぐべき新大統領選挙の候補をめぐって生じたコングレス党内長老派(党内右派)とガンジー首相派(党内左派)の確執は,ガンジー首相によるデサイ副首相兼蔵相の解任,銀行国有化等の事件をはさみつつ,12月には両派がそれぞれの党年次大会を開く事態を迎え,両派は事実上も形式上も完全に分裂した。このため,1967年2月の第4次総選挙以来のコングレス党退潮の傾向に更に複雑化の様相が加わり,内政はいっそう多党化の傾向を強めることとなった。
対外関係においては,印パ関係は1969年も膠着状態のまま推移し,カシミール問題に加えてファラッカ・ダム建設をめぐり印パの対立が強まっている。中印関係にもほとんど関係改善に見るべききざしはない。対ソ関係においては従来の緊密な両国関係は依然として持続されている。
コングレス党の分裂により,ガンジー派コングレス党は,中央議会において過半数を割ることとなったため,今後,場合によっては,中央議会の解散が行なわれることもありうるであろう。
日印両国関係においては,1969年6月23日から28日までガンジー首相が国賓としてわが国を訪問し,両国友好関係がいっそう強化されたが,その際ヴィシャカパトナムの外港建設およびキャンベイ湾の石油採掘の両プロジェクトに対する資金協力について声明が発表された。また,1969年10月ニューデリーにおいて,事務レベルによる第5回日印定期協議が開催された。
(い)経 済 関 係
わが国の対印貿易は,1966年インドの外貨事情の悪化による輸入の抑制およびわが方信用供与の抑制並びにわが国のインドからの鉄鉱石銑鉄等の輸入の急増等を反映して入超に転じた。この入超傾向は,1969年度においても輸出9,600万ドル(対前年比31%減)輸入3億2,100万ドル(対前年比9.6%増)と,輸出入比1対3と更に拡大し,同国のきびしい輸入代替政策を反映して,入超傾向はますます大きくなる傾向にある。
なお,わが国は1969年1月5日から2月1日までインドにおける一次産品輸出の可能性等を検討することを目的とする一次産品調査団を,また3月には産業生産性使節団をそれぞれ派遣したほか,1969年12月9日から13日までボンベイにおいて第3回日印経済合同委員会が開催されわが国経済界の代表団が出席した。
(う)経済技術協力関係
わが国は経済協力,技術協力の面において,1958年世銀主催のもとに結成された対印債権国会議に参加して以来,1968年までに8次にわたり,総額約4億7,200万ドルの円借款を供与してきた。1969年度には新規に総額4,500万ドルの借款を供与したが,そのうち債務繰延べ分1,956万ドルが含まれる。
また,政府は農業面における技術協力に重点をおき,1968年模範農場を改組して設置した農業普及センター(4カ所)を通じ,日本式稲作技術の普及につとめるとともに,農業技術の改善指導に協力している。
そのほか,わが国は1969年度に農業,軽工業を中心として,専門家2名,日本青年海外協力隊40名の派遣,および研修員62名の受入れを行なっている。
(あ)概 説
ネパールは,1960年12月の政変によりマヘンドラ国王による親政体制が確立したが,同国王は漸次ネパール独自の民主主義体制たるパンチャーヤット制度の国内普及につとめてきた。
1969年におけるネパールの政情は,おおむね安定を見たが,同年4月ターパ内閣にかわって成立したビスタ内閣は,国王の政策に従いつつ,現在実施中の第三次5カ年計画(1965-70年)において,農業・観光・ 運輸の分野の開発に力を注いでいる。
対外関係においては,従来の非同盟中立主義が維持されており,ネ・中関係にも変化は見られない。ネ・印関係についても「インド・ネパール間の貿易および通過に関する協定」改訂問題や国境画定問題が懸案となっているが,基本的には従来の友好関係が維持されている。
日・ネ両国関係については,1970年2月のビレンドラ皇太子殿下成婚式への常陸宮,同妃両殿下のご参列および3月のマヘンドラ国王・同妃両陛下の万国博のための訪日等を通じ,両国間の友好関係は引き続き増進を見た。
(い)経 済 関 係
従来,ネパールの貿易構造は,輸出入とも大部分インドとの貿易で占められてきたため,わが国とネパールとの貿易規模は絶対額としてはいまだ低い水準にある。しかしながら,近年における対第三国貿易の漸増傾向に呼応して,わが国との貿易も増大の一途をたどっている。輸出入比は1969年(1月~10月)では約2.2:1でわが国の出超となっている。
なお,わが国の対ネパール主要輸出品は,鉄鋼板,織物用繊維糸・織物・電気機器・機械類等であり,主要輸入品は黄麻をはじめ,じゃ香・合金くず等である。
(う)経済技術協力関係
経済協力の面においては,わが国とネパールとの間で1970年3月22日100万ドルの円借款供与に関する書簡を交換した。他方,技術協力の面においては,現在わが国からコロンボ・プランにより,農業・和紙・竹藤細工・植物分類・柔道の専門家が派遣されている。一方,ネパールに対する日本青年海外協力隊の派遣取決めが,1970年2月2日カトマンズにおいて署名されたほか,同年3月に農業協力調査団が派遣された。
(あ)概 説
政局の混乱を収拾できずに辞任したアユーブ前大統領から政治の全権を委譲されたヤヒヤ大統領は,パキスタン全土を戒厳令下に置き軍政を布いた結果,1969年4月以降パキスタンの政情は,一応の安定を取り戻している。ヤヒヤ大統領は,当初よりヤヒヤ政権の暫定性を強調し,政局混乱期に提起された国民各層の諸要求に,ある程度こたえる政策を打ち出すことにより民心を収らんし,選挙を経て民政に移行しうる情勢を作り出すことに努力している。
1970年10月5日に普通成人選挙による国会議員選挙の実施が予定されているので,同年初頭より政党各派の活動が活発化しつつある。
対外関係については,ヤヒヤ大統領はアユーブ前政権の外交政策を踏襲し,米国,ソ連,中共という3大国のそれぞれと個別に友好関係を維持しようとする,いわゆる「バイラテラリズム」外交を着実に推進して いる。対インド関係は依然停頓状態が続き,最近では印パ間の懸案としてファラッカ・ダム問題が大きくクローズ・アップされるに至っており,その打開をますます困難にしている。
日パ両国関係においては,1970年1月,イスラマバードにおいて,両国間の事務レベル協議が開催され,国際情勢および日パ両国間の諸問題につき意見交換が行なわれた。また,日本政府は,東パキスタンにおける深刻な食糧不足にかんがみ,日本より米を入手したいというパキスタン政府の要請に応じ,日本産米10万トンを貸付方式(返済期間10年据置後10年,さらに貸付料として米2万トンを10年間に各年均等割で受取る)でパキスタンに供与することとし,1969年11月15日,両国政府代表の間で本件契約書の署名が行なわれた。さらに,1969年4月東パキスタンで風害が発生した際に,日本政府はパキスタン政府に対し見舞金米貨 5,000ドルを寄贈した。
(い)経 済 関 係
わが国の対パキスタン貿易は依然わが国の出超傾向が続いた。1969年には輸出1億656万ドル(対前年比8%減),輸入3,755万ドル(対前年比34%減)となり,67年に一時好転した貿易の不均衡は再び悪化の傾向にある。主要な輸出品目としては,化学肥料,金属製品および機械類があり,また輸入品としては,棉花,ジュート,魚介類があげられる。1969年における輸出の減少は,パキスタン国内の経済活動停滞の余波を受け,主として機械類,輸送用機器の輸出減少によるものであり,他方輸入の減少は,伝統的輸入品である原棉,綿糸およびジュート買付の減退が大きくひびいたものである。
パキスタンにおいては近年日本経済の評価が高まっているが,日本の民間投資は今なお極めて低い水準にある。
(う)経済技術協力関係
わが国は世銀による対パキスタン債権国会議参加国として,パキスタンに対しこれまで8次にわたり円借款を供与してきた。1970年2月7日第9次円借款3,000万ドル供与に関する取決めが成立したので,対パキスタン円借款供与総額は合計2億5,500万ドルとなった。なお,第9次円借款における供与条件は,第8次と同様の返済期間18年(5年据置),金利年5.25%であった。
また,政府は,パキスタンに対するわが国の経済技術協力が,同国の経済開発にいかなる貢献をなしているかを把握することを目的として,1969年1月および同年12月に経済協力調査団を西パキスタンおよび東パキスタンにそれぞれ派遣した。
技術協力は,1969年度においても,主として海外技術協力事業団によるコロンボ・プラン技術専門家の派遣および研修員の受入れ,電気通信研究センターおよび農業機械化訓練センターに対する協力および投資前基礎調査の実施等を通じ着実に行なわれた。
(あ)概 説
現セナナヤケ内閣は,1969年4月,地方自治問題をきっかけに,タミル人政党たる連邦党が同政権との提携を取止めた結果,下院において過半数をやや上廻る議席を確保するにすぎなくなった。その後野党側が政府不信任案上程の動きをみせるなど,政局は一時不安となったが,1969年秋には安定を取りもどした。
現セナナヤケ首相が政権を担当して5年目に当る1970年3月25日,下院が解散され,現在各政党は5月27日の投票日を前に選挙の準備を進めている。
セイロン経済は,1969年には,68年のGNPで8.3%の成長率には及ばないまでも,67年の4.4%を上廻り,5.7%を示した。セイロン経済は徐々にではあるが改善の方向に向っているものと思われる。
しかしながら,同国経済が大きく依存する紅茶,ゴム,ココナツの国際価格の変動は,今後も依然続くものと思われ,セイロン経済の前途は楽観を許さない。
外交面では,従来の非同盟中立政策が依然とられており,印セ関係にも特に変化は見られない。
わが国との関係については,1969年末から1970年初頭にかけセイロン南東部の風水害に際し,日本政府はセイロン貨5万ルピーの見舞金を贈るなど1969年度を通じ日セ両国間の友好関係は引き続き増進を見た。
(い)経 済 関 係
わが国からセイロンヘの主要な輸出品は,繊維,機械,化学肥料,鉄鋼などであり,輸入品は紅茶,天然ゴム,コイヤ(ヤシ繊維)である。一方,わが国の対セイロン貿易は伝統的にわが国の大幅な出超となっており,1969年についても輸出3,150万ドル,輸入760万ドルとなっている。
セイロン政府は1969年6月18日外貨取得権証明書制度を一部改訂するなど,輸出振興,輸入抑制,一部原材料の輸入自由化を目的とした政策をいっそう推しすすめている。
(う)経済技術協力関係
経済協力の面においては,世銀主催の援助国会議の要請に基づき,1969年10月24日第5次円借款500万ドルの供与に関する取決めが成立した。さらに,1969年11月2日,KR食糧援助計画による50万ドルの農業物資贈与に関する書簡が両国の間で交換された。また,わが国は1968年の那須皓博士を団長とする農業開発基礎調査団の派遣に引き続き,1969年には2次,3次調査団を派遣し,デワフワ地区の農業開発に対する協力をさらに推進することとなった。